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犬耳少女と、恋人。

 



「えっへへへー。ご主人様ー。ご主人様―」


 こうしてチカが、俺の事を呼ぶのは今日で何度目だろう。

 ふとそんなことを考えた。


「……なんだ」


「えへへー。呼んでみただけですー」


 チカは上機嫌で、にへらっと笑う。何がそんなに嬉しいというのか。

 だいたい呼んでみただけなど、なんて非生産的かつ不毛極まりない台詞だ。理解に苦しむ。


「……」


 そのたびに反応するのも、もう面倒になってきた。

 しかし無視をすると余計うるさいので、どうしたらいいかと考えを巡らせる。

 最終的に、実力行使が一番手っ取り早く確実だという結論に至って、


 やめた。


「ご主人様―。ご主人様―」

「……なんだ」

「えへへー。ご主人様ー。だいすきですよー」


 チカは俺の腕を取って、すりすりと頬ずりをする。


「……」


 まあその、なんだ。

 チカがこうなった原因は、俺にある訳だからな。


 俺の都合で、実力をもってチカをどうこうするというのはいささか道義に反するというものではないだろうか。


「ご主人様ー。ご主人様はチカのこと、好きですか―?」

「そうだな。まあ好きだが」


 頬ずりをしてくるチカの頭を、軽く撫でてやる。

 やはり撫で心地は最高だな。


「えっへへ。そんな、照れるのですよぉ。まあ? 知ってましたけど? ご主人様はなんだかんだ言って、私にメロメロですからねー。見ず知らずの私をお家に置いてくれましたし。お料理もお洗濯もお掃除もしてくれますし。意外と優しいですし」


「意外ととはなんだ。俺は何時でも優しいだろう」


 厳しさも、優しさのうちだ。

 俺は、二十四時間いつでも誰にでも優しい。そんな男を心がけているからな。

 チカに対しては、もういっそ母親的な優しさを与えていると言えるだろう。


 だがしかし……これからは、その方向性を変えるべきだろう。いつまでも俺達の関係が、親と子のようではいけない。

 チカには、一人立ちしてもらわなくてはいけない。いずれは、俺の伴侶となる可能性もあるのだからな。


「えへへー、ご主人様ご主人様……あ、そーだご主人様! 冷蔵庫にケーキ、買ってきてありましたよね!」

「そうだな」

「食べましょうか! 一緒に!」

「……そうだな」


 チカがとてとてと台所に向かう。

 それを俺は、リビングのソファーから見送った。窓の外を見やると、もうどっぷりと日が暮れて、というかもう、そろそろ夜が更けそうだった。


 あまり夜食はよくないと……いやしかし……どうしたものか。

 俺が悩んでいると、チカがケーキの箱と小皿、フォークを持って戻ってきた。パカッと紙製の箱を開けて、中からイチゴのショートケーキを取りだす。


「はい、それじゃあご主人様。あーん」

「うむ?」

「いやいや、あーん、ですよぅ。いいじゃないですかー、私とご主人様の仲なのです!」


「……まあ、いいか。ほれ、あーん」


「えへへー。はいです! ……。ど、どうですか? おいしいですか?」

「そうだな。美味い」

「えへへへー、良かったのです!」


 ニコニコと喜ぶチカだが、別にそのケーキはお前が作ったものではないだろう。


 何か釈然としないものを感じながら、俺も箱からケーキを取り出す。真っ黒なチョコレートケーキだ。


「にゅー、なんか苦そうなケーキなのです」

「そうでもないぞ? ほれ、あーん」


 ひと欠けすくって、チカの口許にはこぶ。


「はわっ! あ、ありがとうございますご主人様ー。えっへへへ……なんか……こういうの、恋人同士って感じですね……なんちゃって」


 恋人という言葉に、何か特別で、大切な響きを含ませて、チカは言う。


 そしてチカはぱくっとケーキを食べた。やけに豪快にかぶりついたのは、照れ隠しの意味合いもあったのだろうか。

 今更照れられても、といったところだが。


「あ、美味しいのですー! 流石ご主人様なのれす!」

「俺が作ったのではないけどな」


 俺も一口食べる。

 上品に香るブランデーと、ビターなチョコレートの甘過ぎないコクが嗅覚と味覚を楽しませる。

 ケーキを見れば、艶のある黒いソースの上にちょこんと赤いラズベリーが乗っており、添えられたミントと共に目に鮮やかさを焼き付けた。味覚にも楽しい、逸品である。


 ケーキを味わって、傍と気付いた。

 そういえば、ブランデーはアルコールだ。アルコール……



 嫌な予感がして、チカを見る。



「えっへへへー。ご主人様ー。ご主人様ー」

「……しまった」




 ああ、これは不覚だ。




 まさか今の状態のチカに、アルコールを与えてしまうとは。




 チカはアルコールに極端に弱い。そう知ったばかりだったのに。




 俺はダイニングのテーブルに目をやる。

 そこには、空っぽになったワイン瓶が、転がっていた。




「えへへへー。ご主人様ー」


 チカがまた、俺を呼ぶ。そんなに人のことを呼びたいか。


「なんだ」

「よんでみた、だけ、なのれす……」


 チカの言葉が徐々に小さくなっていって、消えた。


 見れば、テーブルにつっぷして寝息を立てていた。


「……やっと寝たか……」



 俺は小さく、ため息をついた。



 ……ことの始まりは、俺が知り合いからワインなんぞを貰ってきてしまったことにある。


 どうするか処分に困って、テーブルの上に置いておいたら、チカがジュースと勘違いして飲んでしまったのだ。そして、酔った。


 今日が休日だったのが幸いした。昼過ぎから延々「ご主人様ー」とすり寄ってきたチカは、結局こんな時間まで中途半端に酔っぱらっていたのだ。


「……風邪引くぞ」

「んむにゃあ……ご主人様―……」

「仕方のないやつだな」


 よいしょと抱えて、自室まで運ぶ。

 ベッドにチカを寝かせて、上から毛布を被せた。


「おやすみ、チカ」

「…………すー……」


 一階に降りて、後片づけをする。

 そういえば風呂に入っていないことに気が付いて、シャワーだけでも浴びようと風呂場に向かう。


 シャワーの蛇口を捻ると、冷たい水が噴き出してきた。

 仕方が無いので、熱して温かくしてから浴びる。


「……ふぅ」


 さー、という水音を聞くともなしに、俺はしばし放心する。これだけでも大分疲れが癒えるものだ。


「しかし……恋人か」


 先ほどの、チカの言葉を思い出す。

 ごはんを食べさせあったりするのは、恋人っぽいのだという。


「恋人、ねぇ……」


 俺には、良く分からなかった。

 そもそも恋人というのは、どういう状態を指すのか。


 伴侶の前段階だろうというのは、なんとなく分かるが……


 シャワーを浴びながら、考えるともなしに考える。


 ……いや、待てよ。つまり、そういうことなのか。


 キュ、と蛇口を捻ってシャワーを止める。


 風呂から上がった俺は、明日チカに言う台詞を考えていた。


 チカは将来、俺の伴侶になるかもしれない、大切なペットだからな。


 だからまずは、


「恋人になろう」


 多分、これで合っているはずだ。

 チカの驚く顔が目に浮かぶ。


「さて、寝るか」


 明日を楽しみにしている自分に少しだけ驚きながら、俺は自室に戻るのだった。




と、そんな訳で完結です。

この二人がどうやって結婚までこぎ着けるのかは、皆さんのご想像にお任せします。きっと長く苦しい道のりになることでしょう(主にチカ)


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