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現代恋愛

Be in love

作者: 尋道あさな


「見るなっ……!あっち行け!」




――壊れてしまいそうだと思った。

 今すぐに引き止めないと、この人は消えてしまう。自分の前から、この世から、綺麗に跡形もなく消えてしまうと思った。

 行かないで、どこにも、行かないで。

 そんな気持ちを伝えたくて、子供ながらに精一杯の力を込めて私はその人を抱き締めた。


「見るな……頼むから、頼むからどっか行ってくれっ……」


 首筋に腕を回して、自分の持てる最大限の力を込めて離されないようにしがみつく。だけど、それでも足りない気がして。自分の胸元にその人の頭を強引に抱え込んで、私は何度も同じことを言った。


「大丈夫、りぃがいるよ。ずっと、ずっといるよ」


 その時の私は、何をどう言ったらいいか分からなくて、真っ赤な目をして涙を溢れさせるその人をただ安心させたくて。その一心で大丈夫だとひたすら何度も言い続けた。


 くしゃくしゃに皺が寄ってしまったスーツで身体を小さく折り込んで泣いたその人は、当時二十歳になったばかりだった。


 麻子(あさこ)さんが死んでしまったあの日から、私はずっと忘れられずにいる。

 真っ赤な目をした大人の男の人が、身体中で寂しさと悲しさを叫んでいた姿を。

 意地悪ばかりを言っていた樹兄ちゃんの、めちゃくちゃになった泣き顔を。


 そして、私を抱き締めた腕に込められていた痛いくらいの力を。


 自分の生まれて来た意味を知った気になっていた、八歳の夏。

 幼い子供だった私は、樹兄ちゃんを守るために自分は生まれて来たのだと本当に思っていた。




***




「……相当バカな話だよね」


 高校三年、夏休み真っ只中の八月上旬。

 母さんの妹だった麻子(あさこ)さんは、叔母さんとは言えない位に若くて綺麗な人だった。その麻子さんの恋人だった(いつき)兄ちゃんは、来月に結婚を控えている。


 麻子さんが亡くなって十年、随分長い時が過ぎた。樹兄ちゃんは二年間交際した彼女と来月結婚する。


梨子(りこ)、降りてきなさい!」


 母さんがヒステリックに私を呼んだ。

 自分の事を“りぃ”と呼んでいたのは八歳の夏までだった。今は自分の事をちゃんと“わたし”と呼ぶようになった。大人になるってこういうことなのだろうか。ひねくれた考えばかりが浮かぶ。


 梨子りこと言う名前はどこにでもあるありふれた名前だけれど、なしこと呼び間違えられる事も少なくない。現に、学校でのあだ名は先生が呼び間違えたせいで「なしこ」になっている。


「お腹が痛いから無理!」


 二階にある私の部屋は縫いぐるみで溢れていた。その中の一つを手に取り、腹痛を理由に下に降りる事を拒否した。


――だって、樹兄ちゃんに会いたくない。


目を瞑って手のひらよりも少し大きい縫いぐるみを胸に抱き締める。会いたく、ないの。そんな思いを抱えながら胸に走る痛みに耐えた。


「……梨子。開けるぞ?」


 すっかり低くなってしまった樹兄ちゃんの声は、私の耳にじんわりと浸透する。

 前はもっと覇気があって明るかった。いつから落ち着いた雰囲気を醸し出すような声になったのだろう。


 返事をしない私に痺れを切らしたのか、樹兄ちゃんは勝手に部屋のドアを開けた。


「腹痛、大丈夫か」

「……うん、平気」

「久しぶりだな」

「……うん」


縫いぐるみで顔を隠して喋る私に、樹兄ちゃんは深い溜め息を吐いた。


「もう二年か」

「……うん」


 会話が続かないのは、きっと私のせいだ。話したくないから、続かせる気なんてものが全くない。おざなりな返事しかしていない私は、身体を起こそうかと少し考えたけれど、やっぱり樹兄ちゃんの顔が見たくなくてそうすることを諦めた。


「梨子」


 ぎしり、とベッドのスプリングが鳴る。少し沈んだベッドは私と樹兄ちゃんの二人を乗せて、小さく悲鳴を上げた。


「……うん」


 樹兄ちゃんは切なそうに私の名前をいつも呼ぶ。今にも込み上げて来そうな何かを一生懸命我慢して、私は小さく返事をした。



「――りぃ」


 あの頃の愛称で私を呼んで、樹兄ちゃんは手を握った。それから、ゆっくりと私に覆い被さって顔の前の縫いぐるみを退ける。私は仕方なく何も言わずに腕を広げて、樹兄ちゃんを抱き締めた。



 その拍子に嗚咽が鳴り始める。

 部屋の中に小さく響く泣き声は、私のものではなく樹兄ちゃんのものだった。




***




 恋人の麻子さんが居なくなったあと、樹兄ちゃんは脱け殻のように無気力になった。虚ろな目をして、誰も寄せ付けないような薄暗い異様な空気を放つ。母さんも父さんも樹兄ちゃんを気に掛けてはいたけれど、全く改善は見られなかった。

 そして、朝から夜まで働いて、ついに過労で倒れた樹兄ちゃんを両親二人は無理矢理うちに住まわせた。

 私の隣の部屋、物置になっていた場所を空けて一緒に住み始めたけれど、樹兄ちゃんは休日になっても家から一切出ない。樹兄ちゃんが休みになると、私は一日中樹兄ちゃんの傍に居るようになった。


 目を離してしまったら、消えてしまう。私が守らなくちゃ。

 そんなことを思いながら、しつこいくらいに引っ付いていた私に樹兄ちゃんは何も言わなかった。


「明日はね、とび箱するよ」

「……」

「高いのはまだ飛べないけど、がんばってみるね」

「……」


 相槌さえ打たずに、樹兄ちゃんは部屋の隅に座って宙を睨んでいた。

 今思えば、あれは私への苛立ちを必死に隠していたのかも知れない。




***




 縫いぐるみが沢山ある私の部屋で、樹兄ちゃんは私にしがみついて涙を流していた。何度も何度もその頭を撫でて、安心させるように同じことを繰り返す。


「大丈夫、傍に居るよ」


 結婚を控えた三十路の樹兄ちゃんは、相も変わらず顔をくしゃくしゃにして泣いていた。婚約者の彼女とは二年前に交際を始め、両親いわく喧嘩一つしない穏やかなカップルらしい。


「ずっと、りぃがいるよ」


 この時だけは、自分のことを「りぃ」と呼んでいる。

 そうした方が樹兄ちゃんが落ち着いてくれるから。ほっとした顔をしてくれるから。




***




 二回目に樹兄ちゃんが泣いた時、正しくは私の前で泣いたとき、だけれど――私は十二歳になっていた。小学生になってからすぐに自分の部屋を与えられてはいたが、眠る時だけはまだ両親と一緒の部屋だった。

 そんな小学六年生の冬、夜中にトイレに行きたくなった私は両親の寝室を抜け出し廊下を歩いていた。唐突にがちゃりと回された玄関の鍵の音にビックリして慌てて回れ右をした瞬間、「りぃ」と囁くように私の名前が呼ばれた。


「いっちゃん……?」


 玄関まで恐る恐る向かった私は、だいぶ近付いてからようやく樹兄ちゃんの姿が見えるようになった。


「……りぃ」


 ふわり、と香った良い匂いにドキドキしながら顔を上げると、樹兄ちゃんは私を抱き締めて呟いた。


「駄目だった……!麻子じゃなきゃ、駄目なんだっ……」


 何が駄目だったのか、この良い匂いは何なのか、樹兄ちゃんはどうして泣いているのか、なに一つわからない私は、短い腕を樹兄ちゃんの背中に回して魔法の言葉を口にした。


「大丈夫、りぃがいるよ。いっちゃんが大丈夫になれるように、もっともっとがんばってみるね」




***




 そうして、樹兄ちゃんは二十四歳になった。私は自分の部屋で眠るようになって、思春期を迎えた。

 外で樹兄ちゃんが笑う事はまだ少なかったけれど、私と両親には段々と笑顔を見せてくれるようになった。


 中学生になって恋愛を知った私は、すぐに樹兄ちゃんを意識した。お風呂上がりの姿も、寝る前に私の額にキスをするのも、一ヶ月に一度くらいの頻度で私に縋り付いて泣くのも、全部が胸をときめかせて私をの顔を真っ赤にさせた。


「いっちゃん、わたし……」

「樹で良い。そう呼べよ」

「樹ちゃん」

「ちゃんはいらない。樹って呼べ」

「……いつき。わたし、樹が好き」


 初めての告白だった。

 樹兄ちゃんは今までに見せた事のないような顔で笑って、また少し泣いた。

 だけど、母さんからは樹兄ちゃんと呼ぶように注意されて、樹兄ちゃんは悲しそうに笑った。麻子さんがいなくなってしまった時のような、苦しそうな痛い顔をして。


 告白を流されて、恋人にはなれなかったその年。――樹兄ちゃんは、私の家を出ていった。




***




「りぃが、好きだ」


 樹兄ちゃんは私の前で泣く度にそう言っている。以前と違って、高校三年にもなった私は、それを素直に信じるようなことは無くなった。

 これは樹兄ちゃんの口癖みたいなもので、まったく本気じゃない。


 さらさらの髪はダークブラウンに染められていて、指はするりと引っ掛かりなく流れていく。樹兄ちゃんが使っているシャンプーは、きっと高いやつだと思う。


「私も好きだよ」


 そう言って見つめる私に、樹兄ちゃんはキスをした。子供の頃みたいにした額へのキスではなくて、正真正銘唇へのキス。婚約者が知ったら、相当怒りそうな深くて熱いキス。




***




 私が初めてキスをしたのは、中学三年の春。男の子に告白されて浮かれていた私は樹兄ちゃんにそれを報告した。

 その直後、樹兄ちゃんは貪るような激しいキスを私にした。両親から届けるように言われていた肉じゃがを樹兄ちゃんの家の床に落として、逃げるように帰った私。


――嬉しかった。


 驚いて、怖くも思ったけれど、何よりも嬉しくて。


 次に会ったとき、樹兄ちゃんはまた私にキスをした。それからはずっと、会う度に口付けるのが習慣になっていった。


「樹兄ちゃんと私は恋人?」


 ずっと引っ掛かっていた質問は、キスを交わして四回目にようやく口に出来た。


「……そう、言えたら」

「え?」

「恋人じゃない。只の、知り合いだ」

「知り合い……」


 確かに、恋人じゃないなら、何だって言うんだろう。麻子さんが私の叔母で、樹兄ちゃんはその彼氏。従兄弟になる筈だったけれど、それも無くなってしまった。


 樹兄ちゃんは早くに家族を亡くして身寄りが居ないと母さんから聞いた。高卒で働き口を探してアルバイトをしていた樹兄ちゃんは、懸命に働いたのちに正社員として雇用される事が決まったらしい。


 麻子さんの恋人。私は知り合い以外に樹兄ちゃんの立ち位置が分からなかった。




***




 そして、中学三年生の三月。

 一生忘れる事の出来ない、しっかりと刻み付けられた傷痕。


「樹兄ちゃん……何で?」


 白いシーツが引かれたベッドの上で、樹兄ちゃんは煙草を吸っていた。

 何も身体に纏わない、まっさらな裸。慌てて出ていった女の人は最後に私を睨み付けた。


 卒業式を目前に控えた三月六日。

 樹兄ちゃんに届けに来たのは夕飯で、合鍵を使って中に入った私が目にしたのは裸の男女だった。


 樹兄ちゃんは無言で煙草に火をつける。女の人は服を着て出ていく。私は衝撃を受けて、頭が真っ白になっていた。

 けれど、すぐに頭に血が登り樹兄ちゃんに掴みかかった。そんな怒りに震える私を見て、樹兄ちゃんはただ笑った。


「……梨子、お前は俺の女でも何でもないだろ?」

「じゃあ何でキスするの。何で私に好きって言うの!」

「……信じる方が馬鹿なんだよ。お前、もう来んな」

「樹……!」

「その名前で呼ぶな」

「私、樹が好き。ずっと傍に居る。約束したよね?麻子さんがいなくなったときっ、」

「言うなっ!」


 樹兄ちゃんは、私の身体を押さえ付けた。聞きたくないと顔を歪めて、私を捩じ伏せた。だから私は、卑怯だと知りながら言った。


「麻子さんはいなくなったんだよ。でも、私は樹の傍にいるよ」

「……煽ってるつもりかよ」

「ずっと、私が樹を守ってあげる。その為に生まれて来たんだって、本気で思ってるよ」

「梨子!」

「だから、私が」

「もう良い、もう言うな」


 樹兄ちゃんは、また泣いた。私の腕をベッドに押さえつけて、私の上で泣いた。

 震える唇は私の鎖骨にゆっくり落ちる。それが正しいんだと、それが当たり前なんだとでも言うように私は受け入れた。


 そうして抱かれた私の中に、友達が言ったような幸福は生まれなかったけれど、それでも良かった。私は樹兄ちゃんを繋ぎ止めたくて必死で、その後の事なんて考えていなかった。


 ――樹兄ちゃんの部屋の鍵が変わったのは、それからすぐだった。

 そのことに気がついたのは、お使いではなくて私の意思で樹兄ちゃんに会いに行ったときだ。私は樹兄ちゃんに避けられるようになって、定番だった夕飯の配達もなくなった。


 数日後、「樹に彼女ができた」とそう母さんから聞いた私は、胸に重たい気持ちを残したまま立ち竦んで動けなくなった。




***




 ――それから、二年。こうして樹兄ちゃんは私の前に現れた。

 婚約者という存在が有りながら、以前と全く変わらない様子で私にキスをした。あの日から変わっていないとでも言いたげな態度は、躊躇いなく私の心を傷付ける。


「……婚約者、どんな人?」

「梨子とは正反対、だな」


 いつしか口調も態度も変わり、樹兄ちゃんは大人の男性になっていた。荒々しい若さが無くなって、すっかり落ち着いた雰囲気で私を見る。

 樹兄ちゃんの赤くなった目元に涙の粒が溜まっていて、私はそれを指で掬った。


「じゃあ、大人しい人?」


 会いたくなかった。会ってしまったら、私はまたこの人を守りたいと馬鹿な考えを抱いてしまう。


「……逆だろ」


 困った顔をして樹兄ちゃんは私の頭を引き寄せて肩に当てた。

――いつの間にか、私は私を忘れてしまっている。


「本当はとっくに気付いてた。……麻子みたいに、なろうとしてくれたこと」


 胸が締め付けられて、あの日をフラッシュバックさせる。


 私はひどく幼稚であの頃は必死だった。人の後ろに隠れてばかりで、家族にさえ一つも自分を主張しない引っ込み思案。それが、私だった。



「どうしても、守りたかった……!」

「知ってる」

「私が、この人を守るんだって、必死だった!」


 麻子さんはいつも豪快に笑う人だった。楽しそうに、幸せに溢れた笑顔で。みんなから好かれていて、朗らかに声を上げて笑うような楽しい人だった。私とは対照的で、似ているところなんて一つも無かった。


「俺は麻子に救われた。人生は笑って過ごすもんだって、教えてくれた。麻子は俺の全てで、希望みたいな存在だった」


 家族の居ない樹兄ちゃんは、麻子さんが笑う度に幸せそうにそれを見つめる。年上の麻子さんと年下の樹兄ちゃん、二人は確かに想い合っていた。


「夢に出てくる。今でも、ずっと。俺の背中を叩きながら、麻子が言うんだ。一人にしないでくれって」


 樹兄ちゃんは、麻子さんを思い出すといつも泣く。強くて、ちょっと意地悪で、他人には少し冷たい樹兄ちゃんが、麻子さんを思うときだけは子供みたいに泣いた。


「連れて行かないでって、梨子が麻子の写真に話し掛けてるのを見たとき、……もう駄目だと思った」



 樹兄ちゃんが出ていく少し前。満月が願いを叶えてくれると本で読んだ私は、眠らずに窓際で祈った。読んだ本は児童書でフィクションだったけれど、縋るような気持ちで満月に祈ったのは確かな記憶。


「俺はこんなチビに縋ってばっかりで、自分で立ち上がれない。そう思ったら情けなくて。……まだ小さい梨子を、麻子の代わりにしようとした自分が怖かった」

「だから、出ていったの?」

「それだけじゃない。大人しかった梨子が明るく振る舞うようになって、麻子の真似をするようになってから、惹かれそうになった」

「……私は、ずっと好きだった」


 樹兄ちゃんは片手で顔を覆った。見るな、そう言ったあの時と同じ仕草。


 麻子さんの口癖は、“頑張ってみるね”だった。

 麻子さんは、人をじっと見つめる癖があった。

 私は必死でそれを真似して、今も無意識に麻子さんの仕草を真似する。



「梨子と離れたら、眠れなくなった。会いたくて堪らなくなって、迎えに行こうとした事もあった」

「……合鍵は、なんでくれたの?」

「梨子が自分から来てくれる間は、梨子に触れても許される気がした。……馬鹿みたいだよな」


 断罪されるのを待つみたいに、樹兄ちゃんは私に背中を向けて床に座った。


 紐解かれて行く過去の事実は、私の胸にひんやり染み渡る。


「日に日に麻子に似てくる梨子を、いつの間にか好きになってた。でもそれが、麻子に似てるから好きなのか、梨子自身を好きなのか分からなくなった」

「どっちでも良いよ……!私は、私は樹兄ちゃんが好きになってくれるなら、そんなのどっちだって良かった!」


――苦しい。

 離れた二年で私は樹兄ちゃんとの出来事が、他の人のいう恋愛とは違うものだと知った。

 片想いでもなくて、恋人同士でもない。セフレとすら言えない、とても脆い関係は、どんな恋愛の話にも当て嵌まらなくて。あれは少しでも人に話したら霞んで消えてしまいそうなくらい、壊れかけの恋愛だと、密かに閉じ込めて頭の隅に追いやった。



「傷付けたら、また無くしてしまうと思ったんだよ!麻子も、あの日……」


――俺と喧嘩して落ち込んでた。

 樹兄ちゃんは震える声でそう言った。


「だから、事故にあったって言いたいの?そんなの勝手な思い込みだよ!麻子さんは被害者だった!」

「……正社員になれるかどうかの瀬戸際だった。今月の働き次第で社員として雇うって言われて必死になって、家に帰ってもろくに会話すらしなかったんだ」


樹兄ちゃんは前のめりになって、顔を覆う手のひらを更に強く食い込ませた。痛々しい姿に私の胸が「樹兄ちゃんを抱き締めたい」と悲痛に叫んだけれど、勘違いと思い込みで未だに麻子さんから抜け出せない樹兄ちゃんに無性に腹が立った。


「麻子さんは、分かってた」

「忙しい理由は言わなかった!まだガキで、正社員になれなかったら情けねぇと思って黙ってたんだ。それが、喧嘩の火種になって、俺は麻子に怒鳴った!」


 段々と口調が荒くなる樹兄ちゃんに、寄り添うことは出来た。けれど、そんな事はしたくなかった。

 私は、麻子さんの気持ちを知ってる。


「お前は能天気でいいよな……って、言ったんだ。麻子がいつも笑顔で居られるように頑張ってたのを知ってたのに、否定して傷付けたのは俺だ」

「……だから麻子さんは事故を起こして死んだって?」

「落ち込んだら、麻子は遠くを見つめてぼんやりする癖があった。反対斜線からはみ出した車に気が付かない訳ないだろ!」

「何で決め付けるの!」

「……それまで、事故を起こした事は無かったのに、どうやったらそんな事故が起きんだよ」

「――知ってたの!」

「……梨子?」


 私が怒鳴ったって、意味がない。冷静になって思い出す。


 ――八歳の夏休み、かかって来た電話。伝言と、最後の笑顔。

 全てがあの日から始まって、あの日に全て無くした。



「麻子さん、知ってた!」

「……梨子?」

「知ってたんだよ……」

「何を、知ってたんだ?」


 やっと顔を上げた樹兄ちゃんに、一度だけ頷いて。


「麻子さん、うちに居たの。私と一緒にお菓子を食べて、樹兄ちゃんの話をした。麻子さんの携帯に、電話が掛かって来たのをあたしは知ってる」


「電話……?」

「“確認し忘れたことがあるから、店に戻って来て欲しい”」

「…………」

「“電話が繋がらないので、こちらに掛けました。明日は休みになってるからなるべく今日中にインカンを持って来て欲しい。シャインになるのに必要なショルイだから、早めにお願いします”」


――今思えば、あの伝言は樹兄ちゃんの働く店からのものだった。電話に出た私が、託された伝言。

 だけど、当時八歳で意味が分からなかった私はすぐに麻子さんに変わった。


「麻子さんは、喜んでた。お祝いの準備をするって言って、だから最近忙しかったのねって笑ってた」


 麻子さんは事故を起こす前はうちにいて、事故を知らせたとき樹兄ちゃんは麻子さんと暮らしていたマンションで踞っていた。電話をかけたときの樹兄ちゃんの様子が可笑しいと両親は気づいてマンションに駆け付けて、樹兄ちゃんの部屋を覗くなり私に留守番をしているようにと行って慌ただしく家に帰った。


――多分、間違いはないと思う。

 何度も何度も思い返した記憶の欠片。

 私は泣いていた樹兄ちゃんを、初めてそこで抱き締めた。



「俺の自宅の番号を、ここにしてあったからか……!」


 樹兄ちゃんに身寄りが全くいないと知ってから、両親は樹兄ちゃんを家族のように扱った。自宅の番号はここで、緊急連絡先は麻子さん。麻子さんは何かあったら自分に連絡が来るとわずか八歳の私にのろけていた。もし麻子さんがその直後に亡くなっていなかったら、きっと忘れていたような話だと思う。


「樹兄ちゃんに電話が繋がらないから、先に買い物に行くって言ってた」


 行ってきます、と言った麻子さんは輝くような笑顔を見せて出ていった。

 落ち込んだりなんか、していない。喧嘩したことなんてきっと頭に無かった。


「じゃあ何で麻子は……」

「事故は樹兄ちゃんのせいじゃない。麻子さんは、樹兄ちゃんと喧嘩したから事故に合ったんじゃない」



――だから、背負わなくても良かった。麻子さんは本当に偶然、事故にあった。


 少しだけ沈黙が続いた。


「りぃ、俺は……十年も、」


 茫然とした樹兄ちゃんの首に、腕を回して抱き着く。樹兄ちゃんが苦しんでいた理由をもっと早くに知っていたなら、私はすぐにでも言ったのに、十年も麻子さんから逃げ続けてお互いにあの日の話をしなかった。


「もっと早くに樹兄ちゃんと話しておけば良かった」


 そしたら、きっとこの十年間は違うものになっていたのかも知れない。


「……俺は、」

「もう麻子さんのことで泣かないで。結婚するんでしょ」

「――そう、だな」

「私と、離れるんでしょ」

「梨子……!」



――薄々気付いていた。

 結婚を控えた樹兄ちゃんが、二年も経って私に会いに来た理由。

 それが、泣く為じゃなくて決別する為だとしたら。麻子さんの話を始めるんじゃないかと、そう思った。


「お別れを言いに来た癖に、キスなんかしちゃ駄目だよ。婚約者が居るのに、私を泣き場所にしちゃ駄目だよ」


 気を抜いたら、縋ってしまうから。

 声が震えないように、精一杯の虚勢を張って。


「もう、私に会いに来ちゃ駄目だよ」


 いつまで経っても私はあの日の樹兄ちゃんから抜け出せない。樹兄ちゃんが私を愛して、麻子さんよりも私を必要としてくれるまでは、私は抜け出せないと思う。


 だけど。

 きっと、そんな日は、永遠に来ないから。



「……私、麻子さんになるの止める。もう無理に笑わない。明るく振る舞ったり、しない」

「――梨子は梨子だ。麻子を真似してもそれが梨子に変わりはない」

「……うん。でも、ほんとは」


――泣くの、ずっと我慢してる。

 そう言うと樹兄ちゃんは、すっと青ざめた。


「……あの日、麻子がいなくなって、俺が梨子に縋ったあの日から、ずっと?」

「バカみたいなのは、私。樹兄ちゃんよりずっとバカ」


 生まれて来た意味を、見つけたような気になっていた。

 私は樹兄ちゃんの傍で、壊れそうなこの人の傍でその儚い姿を守るんだと、“自分の意思”で初めて思った。



「――梨子、結婚しよう。俺が、お前を縛ったんだ。まだ小さかったお前を俺が無理矢理っ!」

「……もう止めようよ。樹兄ちゃんは、麻子さんにも私にも、負い目を感じ過ぎだと思う」


――だから。


 言うな、絶対に口にするな。

 それは、パンドラの箱。

 私が絶対に言ってはいけない言葉。



「樹兄ちゃんは、もう幸せになっていいんだよ」



 堪えて、塞き止めて。私だけが、全てを持っていくから。

 樹兄ちゃんは守るから。だから、もう私に構わないでいて。


――これは私が持っていく。



「梨子、俺はお前が……」

「言わないで!」



――ねぇ、傍にいて。

 そう言えたら、どんなにいいだろう。


 言ってはいけない一言を、全身で私は我慢する。


 あの日、樹兄ちゃんが寂しさと悲しさに押し潰されてしまいそうになっていたとき、私は誓った。

 

 この人は、私が絶対に守ってみせる。わずか、八歳の私が見つけた生きる意味。


「樹くーん!遥さんが来たわよ!」


 母さんが樹兄ちゃんを呼んで、私たちの時間が終わる。このまま時間が止まったなら、私はきっと幸せになれた。


「……梨子」

「樹兄ちゃん、結婚おめでとう」


 何も言わないで。もう充分だ。私は今にも告げてしまそうな言葉を飲み込んで、笑った。


「会いたくなったら、」

「会いには行かないよ」


 言われる前に、止める。

 ゆっくり立ち上がった樹兄ちゃんは前より老けたけれど、それでも愛しくて堪らなかった。

 歳の差なんてものを飛び越えて、私と樹兄ちゃんは始まった。



「――りぃ、ありがとう」



 ドアが閉まる直前の、樹兄ちゃんの言葉に私は答えられなかった。今までずっと、樹兄ちゃんが背負ってきた過去が砂のように消えてしまう。



 本当は言いたかった。出来る事なら話してしまって樹兄ちゃんを過去に縛り付けて、一生離れないようにしたかった。

 だけど、これだけは持っていく。


 ――麻子さんには、もう一つ癖がある。


 母さんからその話を聞いたのは、麻子さんが亡くなってから五年が過ぎたとき。


 中学三年の、夏。

 “あの子ね、嬉しい事があるとそればっかり考えて周りが見えなくなるのよね。普段はしっかりしてるのに、浮かれるとすーぐ飛んじゃうの”


 置き去りにされた眼鏡は、きっと浮かれた麻子さんが忘れていったもの。


 “最近ね、右目の視力がちょっと落ちたのよ。不便ねぇ、見えにくいって”


 その会話は、私と麻子さんしか知らない。


 対向車は右側、向かって来た車は線をはみ出して。


――私は、それが事故にあった理由だとは思わない。ただ、不運だっただけだと思う。

 それでも、樹兄ちゃんはきっとその言葉に一生囚われる。自分のせいだと思ってしまう。

 何より麻子さんが好きだから、何より責任感が強いから。


 結婚したら、婚約者の家の婿養子になると聞いた。我が子のように樹兄ちゃんを大切にする両親は、自分達と関わることで樹兄ちゃんの立場が悪くなるのを危惧している。


 今日、話すのはうちとの関係についてだと今朝方母さんは私に話した。


――関係がなくなる。私と、樹兄ちゃんは全くの他人になる。

 おかしな話しだ。最初からずっと、他人のままなのに。



「おかしな、話」



 やっと泣ける。もう麻子さんになる必要はなくて。

 でも自分がどんな人間だったか思い出せない。私はどんな子だっただろう。


 私は、一体なんだろう。

 自分を取り戻せなくなって、樹兄ちゃんという支えを失って、麻子さんの癖と置き去りにされた眼鏡を隠して、私は一人で荷物を背負う。


 それでも、それだけ重たくても。やっぱり私は樹兄ちゃんを見て、改めて実感する。

 こんなに辛くて、悲しいのに。もう望みも未来もないような壊れかけたものなのに。


 苦しみの中で、強く思う。

 抜け出せない檻の中、死ぬまでずっと変わらない。


 友達が言ったものとは違う、傷だらけで痛々しい気持ちだけれど。


 それでも。




 be in love――私は、恋をしている。




 目を閉じると、幸せそうに笑う樹兄ちゃんが見えた。


 私はきっと、抜け出せない。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 拝読いたしました。 梨子ちゃんの一途さと健気さに胸を打たれました。どれだけ苦しい想いをしたとしても、きっと、樹さんを好きになったことを後悔はしないのでしょう。 いつかまた、別の誰かを好きに…
[一言] こんにちは。 文月さんの小説はとても切ないんですね。胸が締め付けられます。 でも大好きです。 梨子はとても普通ではない恋愛をしてしまったけれど、彼女自身は普通の女の子で、だからこそ傷ついて…
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