勇者を殺した罪で処刑される俺、本人が傍聴席に座っているんだが
勇者を殺した罪で、俺は死刑を求刑されている。
それだけでも十分に絶望的な状況だというのに、三日前に俺が殺したはずの勇者レオン・アルヴェインは、今まさに王立最高法院の傍聴席、その最前列に腰を下ろしていた。
銀糸を束ねたような髪に、冬の湖面を思わせる青い瞳。白銀の鎧には魔王との最終決戦で負った深い傷が残り、その端整な顔立ちは王都中央広場に建てられた英雄像と寸分違わない。十年に及ぶ魔王戦争を終結させ、数百万の民を滅亡の淵から救い出した男が、あろうことか自分の殺害事件を傍聴しているのである。
しかも俺と目が合うなり、奴は片手を上げ、旧友にでも挨拶するような気安さで笑いかけてきた。
ふざけるな、と叫びたかった。
お前を殺したせいで俺は死刑になるというのに、どうして当の本人が、そんな暢気な顔をしていられるのか。
だが、俺の両手首には重い鉄鎖が嵌められ、左右には王国騎士団の兵士が控えている。誰もいない傍聴席に向かって怒鳴り散らせば、勇者殺しの罪に加えて狂人の烙印まで押されかねない。
実際、俺以外の誰にも、あの男は見えていなかった。
隣に座る神官ミリアは、かつての仲間がすぐそばにいることにも気づかず、膝の上で両手を固く握りしめている。その顔は青ざめ、伏せられた睫毛の下には涙の跡が残っていた。魔王討伐の旅では、誰よりも命を尊び、傷ついた者を敵味方の区別なく救おうとした女性である。そんな彼女にとって、仲間同士が殺し合ったという事実は、どれほど残酷なものだっただろう。
「被告人、カイル・フェルド。起立せよ」
裁判長の声が、大法廷の高い天井に反響した。
王立最高法院は、建国以前の神殿を改築した荘厳な建物だった。白大理石の柱が左右に並び、天井近くの色硝子から差し込む陽光が、磨き上げられた石床に淡い色彩を落としている。正面には剣と天秤を携えた正義の女神が彫られ、その足元には古い王国語で一節が刻まれていた。
――法は王冠より重く、命は法より重い。
かつて俺は、立派な言葉だと思ったことがある。
今は、その言葉が自分に何を要求するのか、考えるだけで恐ろしかった。
「お前は王国暦七百四十二年、秋の第二十日、王都中央広場において、勇者レオン・アルヴェインの胸部を聖剣アルカディアで貫き、死亡させたとされている。この事実に相違ないか」
俺は答える前に、もう一度だけ傍聴席へ視線を向けた。
勇者は笑うのをやめ、静かにこちらを見つめていた。
「……聖剣で刺したことは認めます。ただ、殺した相手が本当に勇者だったのか、それはわかりません」
法廷がざわめいた。
検察官が勢いよく立ち上がり、手元の書類を机に叩きつける。
「被害者の身元は王国騎士団、王宮医術院、そして神殿の三機関によって確認されている。数百人の目撃者も存在するのだぞ!」
「それは知っています。俺自身、あの男を勇者だと思っていましたから」
「では、何を疑っているというのだ!」
俺は言葉に詰まった。
死んだはずの本人がそこに座っている。そんな説明をしたところで、信じてもらえるはずがない。逮捕されてから何度も同じことを話したが、取り調べの騎士たちは俺の精神状態を疑うばかりだった。
裁判長はしばらく俺を見つめた後、問いを変えた。
「殺害の動機を述べよ」
「……本人に頼まれたからです」
今度こそ、大法廷が静まり返った。
「勇者レオンは事件の前日、俺の工房を訪れ、自分を殺してほしいと依頼しました。王都中央広場で、大勢の人間が見ている前で聖剣を使うようにと。そして、逮捕されたら逃げずに裁判を受けろと、そう言ったんです」
沈黙は長く続かなかった。
人殺し。嘘つき。英雄の名を汚すな。
傍聴席から浴びせられる罵声には、悲しみと怒りが入り交じっていた。この国にとって勇者レオンは、単なる一人の人間ではない。滅亡の淵から人々を救い出した救世主であり、国民が失いかけていた希望そのものだった。その男を殺した平民が、よりにもよって本人から頼まれたなどと主張しているのだから、彼らの怒りも理解できる。
だが、俺は嘘をついていない。
少なくとも、俺の記憶にある限りでは。
そのとき、傍聴席の勇者がゆっくりと立ち上がった。誰にも気づかれないまま俺のほうへ歩いてくる。石床を踏む音はせず、白銀の鎧も物音一つ立てなかった。
『悪いな、カイル。だが、ここまで来れば、もう少しだ』
耳元で囁かれた声に、俺は奥歯を噛みしめた。
何がもう少しだ。
お前は死んでいる。俺は処刑される。
それで一体、何が終わるというのだ。
勇者レオン・アルヴェインと初めて出会ったのは、三年前の冬だった。
当時の俺は、王都の外れにある小さな修理工房で、鍋や農具、古時計などを直して暮らしていた。父から受け継いだ工房は決して繁盛しているとは言えず、雨が続けば屋根から水が漏れ、冬になれば暖炉の薪代にも事欠くような有様だったが、それでも俺は自分の仕事が嫌いではなかった。
壊れた道具には、それぞれ持ち主の生活が染み込んでいる。長年使い込まれた包丁の柄には料理人の指の形が刻まれ、農具の刃には幾度となく土を起こした痕跡が残る。どれほど安物の道具であっても、それを必要としている人間がいる限り、簡単に捨ててよいものではない。
父はよく、壊れたものを直すというのは、その持ち主の明日を少しだけ取り戻すことなのだと言っていた。
俺が王宮へ呼び出されたのは、そんなある雪の日だった。
王国が誇る聖剣アルカディアに、原因不明の不具合が生じていたのである。
聖剣は魔王の瘴気を斬り裂く唯一の武器とされていたが、その内部には極めて繊細な魔法回路が組み込まれており、強大な力を解放するたびに回路を保護する金属製の導路が損耗した。導路の交換や調整を怠れば魔力が逆流し、最悪の場合は刀身そのものが崩壊する。
問題は、その修理に魔法を使えないことだった。
聖剣の回路は外部から流入する魔力に過敏に反応するため、一般的な魔導鍛冶師が触れれば、修理どころか損傷を拡大させてしまう。必要なのは、魔力を一切持たず、なおかつ精密な金属加工を行える職人だった。
俺には、生まれつき魔力がなかった。
王宮の魔術師たちは俺の技術を見て驚いたが、俺にしてみれば、やっていることは精密時計の修理と大して変わらなかった。歪んだ導路を取り外し、摩耗した部品を削り直し、魔力が通るべき道を整える。ただ、それだけのことだった。
三日間の作業を終えた朝、勇者レオンが聖剣を握ると、刀身に青白い光が満ちた。
王宮の魔術師たちが歓声を上げる中、レオンは誰よりも嬉しそうに笑い、油と煤にまみれた俺の手を両手で握った。
「ありがとう、カイル。これで、また戦える。聖剣がなければ俺はただの剣士だし、お前がいなければ聖剣はただの鉄屑だ。案外、俺たちは似た者同士なのかもしれないな」
その言葉は、今でも覚えている。
勇者はその場で俺を遠征隊へ加えるよう王宮に進言した。聖剣の整備は一度きりでは済まない。魔王の瘴気が濃い地域へ踏み込めば、導路の損耗はさらに激しくなる。戦場で修理できる職人が同行しなければ、遠征の途中で聖剣が使い物にならなくなる危険があった。
もちろん、俺が前線に立つことはなかった。移動中は聖騎士の護衛を受け、戦闘が始まれば神官の結界内に退避する。聖剣の整備が必要になれば、魔術師が周囲の瘴気を払い、俺が導路を調整した。魔王城への道は長く、聖剣を修理するためだけに王都へ戻る余裕などなかったのである。
こうして俺は、勇者パーティーの五人目となった。
勇者レオン、聖騎士ガレス、宮廷魔術師セリス、神官ミリア。そして、聖剣修復師カイル・フェルド。
ガレスは寡黙な男だったが、俺が危険に晒されれば誰よりも早く盾を構えた。セリスは修理に時間がかかるたびに文句を言いながらも、必要な部品を探すためなら徹夜を厭わなかった。ミリアは傷ついた俺を何度も治療し、レオンはいつも笑って、お前がいなければ魔王城に辿り着く前に全滅していただろうと言っていた。
俺たちは、確かに仲間だった。
だからこそ、魔王討伐から帰還した後、レオンが俺の工房を訪れたとき、その様子がおかしいことにはすぐ気づいた。
彼は以前よりも痩せていた。目の下には濃い隈が浮かび、かつての快活さは影を潜めていた。何より、その青い瞳には、何かを恐れるような色が宿っていた。
「カイル。頼みがある。魔王との最後の戦いで、俺は呪いを受けた。このままでは王都に災厄をもたらすことになる。だから、手遅れになる前に俺を殺してほしい」
俺はしばらく言葉を失った。
冗談だと思いたかった。だが、彼の表情には冗談の欠片もなかった。
「だったら、ミリアに相談すればいい。セリスなら、呪いの解析だってできるだろう。何も死ぬ必要なんか――」
「もう相談した。だが、誰にも解けなかった」
レオンは静かに首を振り、一通の依頼書を差し出した。
王家の封蝋が押され、勇者本人の署名が記されている。
「俺を殺すのは、お前でなければならない。そして、必ず裁判を受けろ。そこで、お前自身の手で聖剣の記録を確かめてほしい」
「……意味がわからない。どうして俺なんだ。どうして裁判なんだよ」
彼は答えなかった。
ただ、作業台に置かれた古い懐中時計を見つめながら、ひどく寂しそうに笑った。
「今は、うまく説明できない。だが、約束する。お前を死なせるつもりはない」
俺は長い間、返事をしなかった。
それでも、最後には頷いた。
あの旅で、俺は何度もレオンに命を救われた。今度は、俺が彼を救う番なのだと思った。
それが、すべての始まりだった。
「被告人。勇者から殺害を依頼されたという証拠はあるのか」
裁判長の問いに、俺は顔を上げた。
「あります。勇者本人の署名が入った依頼書です。逮捕されたとき、騎士団に押収されました」
「そのような文書は、提出された押収品の目録に存在しない」
検察官が即座に答えた。
俺は言葉を失った。依頼書は確かにあった。勇者の署名も、王家の封蝋も、この目で確認している。それなのに、押収品の目録には存在しないという。
法廷が再びざわめき始めたとき、低い声が響いた。
「……その依頼書なら、俺も見た」
証人席に立ち上がったのは、聖騎士ガレスだった。
大柄な体に傷だらけの鎧をまとい、腰には長剣を下げている。魔王討伐の旅では、いつも先頭に立って仲間を守っていた男だ。
「事件の前日、レオンがカイルの工房を訪れるのを見た。俺は不審に思って後を追ったが、あいつは依頼書を見せて、これは自分の意思によるものだと告げた。そして、事件が起きるまでは誰にも話さないでほしいと頼んできた」
「なぜ、そのような頼みを聞き入れたのだ」
検察官の問いに、ガレスは拳を握りしめた。
「……あいつを信じていたからだ。魔王討伐の旅で、俺たちは何度もレオンの判断に命を預けた。だから今回も、何か理由があるのだと思った。だが、まさか自分を殺させるつもりだったとは……」
ガレスは俺を見た。その目には、怒りよりも深い後悔が浮かんでいた。
「カイル。俺は、お前があいつを殺した理由をずっと考えていた。だが、もし本当にレオンが頼んだのなら、俺たちは何かを見落としている」
その言葉に、俺の胸が痛んだ。
ガレスは俺を信じようとしてくれている。だが、彼も真実を知らない。
続いて証人席に立った宮廷魔術師セリスは、魔王討伐の直後から二人の魔力反応に異常があったことを証言した。
「正確には、魂の波長が肉体と一致していなかったの。だけど、魔王城の崩壊直後は瘴気が濃すぎて、測定そのものが不安定だった。しかも二人とも外見は変わらず、旅の記憶も持っていたから、王宮魔術院は一時的な呪いの後遺症だと判断したのよ」
「それで、疑問を持たなかったのか」
「持ったわ。だから何度も再検査を求めた。でも、魂の異常を調べるには王家の許可が必要だったし、許可が下りた頃には二人の反応がさらに複雑になっていた。私は、もっと早く気づくべきだったのかもしれない」
セリスは唇を噛んだ。
最後に証人席へ立ったミリアも、二人の魂が不安定になっていることを認めた。ただし、神官の治癒魔法では魂そのものに干渉できず、呪いの解除には至らなかったという。
三人とも、異変に気づいていた。
だが、誰も全体像を知らなかった。
それぞれが別の場所で、別の欠片を手にしていたにすぎない。そして、魔王討伐の直後という混乱の中で、互いの知識を突き合わせる機会を失っていたのだ。
そのとき、大法廷の扉が開いた。
「裁判長。証拠の追加提出を申請します」
入ってきたのは、黒い法衣をまとった若い女性だった。
「王立記録院、法務書記官エリナ・クロフォードと申します。王太子殿下の特別許可により、聖剣アルカディアの封印記録を提出いたします」
検察官が顔色を変えた。
「証拠調べはすでに終了している!」
「死刑が求刑される事件では、重大な新証拠の提出を拒否できません。王国刑事訴訟法第七十二条です。それに、こちらをご覧ください」
エリナが差し出したのは、王家の封蝋が押された一通の書状だった。
俺は息を呑んだ。
間違いない。レオンが工房で俺に渡した、あの依頼書だった。
「これは被告人の逮捕時に押収された文書です。ただし、王家の封蝋が施されていたため、騎士団は通常の押収品目録へ記載せず、機密文書として王立記録院へ送付していました。私が内容を確認したのは昨日の夜です」
エリナは淡々と説明を続けた。
「書状には、勇者レオン・アルヴェインの署名と、王家の認証印が存在します。ただし、この書状が示すのは殺害への同意であって、殺害を正当化する根拠ではありません。真相を知るためには、聖剣の記録を調べる必要があります」
彼女の合図で、騎士たちが一本の剣を運び込んできた。
聖剣アルカディア。
三日前、俺が勇者を殺した剣だった。
「聖剣には、所有者の魂の波長と、刀身に流れ込んだ魔力の履歴を記録する機構があります。通常は王家の機密とされていますが、今回は死刑求刑事件であること、そして被告人の身元そのものに重大な疑義が生じていることから、特別に開示が認められました」
エリナは記録を読み上げた。
「魔王討伐の最終局面において、勇者レオン・アルヴェインと修復師カイル・フェルドの魂の波長が入れ替わっています。これは魔王が最後に放った禁呪『魂換』によるものです」
法廷が静まり返った。
魂換。
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の奥で何かが弾けた。
崩れ落ちる玉座。黒い炎に包まれた魔王。砕け散る天井。そして、俺の目の前で倒れた一人の青年。
茶色い髪に、そばかすのある顔。少し猫背で、手には細かな傷が無数に刻まれている。
俺は、その青年を知っていた。
いや。
俺は、その青年だったはずだ。
「……何だ、これ」
頭が割れるように痛んだ。
エリナの声が、遠くから聞こえてくる。
「魂換は二人の魂を入れ替えるだけではありません。肉体に残された記憶を優先して認識させることで、本人に魂の交換を自覚させない仕組みになっています。外部から正体を告げられても、呪いがその認識を妨げるため、解除には本人自身が矛盾を理解する必要があるのです」
俺は震える手を見つめた。
魔王との戦いの記憶が、鮮明に蘇ってくる。
聖剣を握り、仲間たちの先頭に立ち、魔王の胸を貫いた感触。勝利を確信した直後、黒い光が俺たちを包み込み、世界が反転した瞬間。
俺は、修理師カイルではない。
俺は――。
「……レオン」
自分の口から、その名前が零れた。
傍聴席の勇者が、静かに微笑んだ。
『思い出したか』
その姿が、少しずつ変わっていく。
白銀の鎧が消え、油染みの残る作業着に変わる。銀色の髪は茶色になり、端整な顔立ちは、どこにでもいそうな平凡な青年のものへと変わった。
俺が三日前まで、自分の姿だと思っていた男。
修理師カイル・フェルド。
その本人が、俺の前に立っていた。
『やっと思い出したな、勇者様。まったく、手間のかかる英雄だよ』
カイルは照れくさそうに笑った。
俺は言葉を失った。
魔王討伐の直後、俺の魂はカイルの肉体に移り、カイルの魂は俺の肉体に宿った。肉体に残された記憶に引きずられ、俺は自分を修理師だと思い込み、カイルは勇者の姿で王都へ帰還した。
だが、カイルはやがて真相に気づいたのだ。
聖剣を握っても、勇者の力を解放できなかったから。
聖剣の力を起動できるのは、勇者の魂だけだった。肉体がどれほど英雄の姿をしていようと、その内側に宿る魂が違えば、聖剣は応えない。
反対に、魔力を持たないはずの修理師の肉体で、俺は聖剣を起動できた。
それこそが、何よりも確かな証拠だった。
そして、俺が見ていた幽霊の正体も、ようやく理解できた。
聖剣は最後の一撃でカイルの魂に触れ、その人格の残響を記録していた。魔王の呪いによって聖剣と結びついた俺の魂だけが、その残響を知覚できたのだろう。最初に勇者の姿に見えていたのは、俺自身がカイルを勇者だと思い込んでいたからだった。
カイルは最初から、俺のすぐそばにいた。
ただ、俺が気づかなかっただけなのだ。
俺は震える声で尋ねた。
「……どうして、そこまでした」
カイルは少しだけ考え込んだ後、困ったように肩をすくめた。
『あんたは世界を救った。だったら、今度は俺があんたを救ってもいいだろ。もっとも、こんなやり方しか思いつかなかったのは、ちょっと情けないけどな』
胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。
俺は世界を救った英雄だった。
だが、目の前の一人の青年を救うことすらできなかった。
そのとき、裁判長が木槌を打ち鳴らした。
「静粛に。審理は、まだ終わっていない」
その声には、それまで以上の厳しさがあった。
「被告人が勇者レオン本人であることは、提出された魂籍記録および聖剣の照合結果によって認められる。したがって、勇者レオン・アルヴェインを殺害したという当初の訴因は、その前提を失った。しかし、被告人が一人の人間の生命を奪ったという事実まで消えたわけではない」
俺は顔を上げた。
裁判長は真正面から俺を見据えていた。その眼差しには、英雄への敬意も、罪人への侮蔑もなかった。ただ、一つの命が失われたという事実を、法の下で見定めようとする者の厳格さだけがあった。
「死亡したのは、修復師カイル・フェルドである。検察官、訴因について意見を述べよ」
検察官はしばらく沈黙した後、ゆっくりと立ち上がった。
「……故意殺人の訴因への変更を求めます。被告人が誰であろうと、他人の胸に聖剣を突き立て、その生命を奪った事実は変わりません」
法廷が再びざわめいた。
勇者が生きていたのだから無罪だと考えていた人々にとって、それは予想外の展開だったのだろう。だが、俺には検察官の言葉が正しいように思えた。
俺はカイルを殺した。
彼が望んだからという理由だけで、その事実が許されるはずはない。
「……異議はありません」
俺がそう答えると、証人席にいたガレスが顔を上げた。
「レオン、お前は――」
「ガレス。いいんだ。俺がカイルを殺したことは事実だ。そこから逃げるつもりはない」
裁判長は俺の言葉を聞き届けると、弁護人に向かって確認した。弁護人は訴因変更に伴う準備期間を求め、裁判所は翌日の追加審理を決定した。
翌朝、再び開かれた法廷には、前日を上回る数の傍聴人が集まっていた。
その日の争点は、もはや俺が誰なのかということではなかった。
なぜカイルは、自分を殺すよう俺に依頼したのか。
そして、その依頼に従って命を奪った俺の行為は、犯罪として処罰されるべきものだったのか。
最初に証人席へ立ったのは、宮廷魔術師セリスだった。
彼女は魔王討伐の最終決戦以降、王宮魔術院に提出していた調査記録を持参していた。厚い羊皮紙の束には、呪いの構造、魔力反応の変化、解除術式の失敗結果が、几帳面な筆跡で書き込まれている。
「禁呪『魂換』は、単なる魂の交換術式ではありませんでした。二つの魂を入れ替えたうえで、その結びつきを利用し、魔王の魂を再構成するための術式だったのです」
彼女は記録の一頁を開いた。
「呪いが完成すれば、勇者の肉体に宿っていたカイルの魂は魔王の復活に利用され、同時にレオンの魂も失われる。そして、魔王の復活によって王都の封印結界が破壊される危険がありました」
検察官が尋ねた。
「その危険は、事件当時すでに差し迫っていたのか」
「はい。術式の進行は、王宮魔術院が三日間にわたって観測しています。事件が起きた日の夕刻には、最終段階へ到達すると予測されていました」
「解除する方法はなかったのか」
セリスは苦しげに唇を結んだ。
「私たちは考えられる限りの方法を試しました。魂の分離術、魔力の遮断、呪いの核の封印。しかし、どれも成功しませんでした。呪いの核は勇者の肉体そのものに定着しており、肉体が生きている限り術式が進行する構造だったからです」
「つまり、勇者の肉体を破壊する以外に、呪いを止める方法はなかったと?」
「少なくとも、事件当時の私たちには見つけられませんでした」
彼女はそこで言葉を切り、俺を見た。
「……そして、カイルはそれを知っていたのです」
次に証人席へ立ったのは、神官ミリアだった。
彼女は一冊の薄い診療記録を差し出した。そこには事件の二日前、勇者の肉体に宿る魂がカイル本人のものであることを確認した結果と、魂の崩壊が始まっていることが記されていた。
「私は、カイルさんにすべてを説明しました。呪いが完成すれば、彼の魂が魔王の器として利用されること。そして、それを止めるには、彼が宿っている肉体を失わせるしかないことを」
ミリアの声が震えた。
「私は反対しました。最後まで別の方法を探そうと伝えました。けれど、カイルさんは……」
彼女は言葉を詰まらせた。
しばらくの沈黙の後、ようやく続きを口にした。
「『自分一人が怖いからって、みんなを巻き込むわけにはいかない』と、そう言ったんです」
俺は目を閉じた。
あいつらしい言葉だった。
どれほど壊れた道具でも、持ち主が必要としている限り、最後まで修理を諦めなかった男。自分の手で直せないものがあると知れば、何日でも方法を探し続けた男。
そんなカイルが、最後に直そうとしたものが、世界そのものだったのだ。
しかし、検察官はなおも追及を続けた。
「本人が死を望んでいたとしても、それだけで他人が殺害してよいことにはならない。被告人は、危険の内容を十分に理解していたのか。あるいは、別の方法を探す余地があったのではないか」
その問いは、俺自身が何度も胸の中で繰り返してきたものだった。
カイルは俺に呪いの詳細を説明しなかった。
俺は彼を勇者だと思い込んでいたし、彼の言葉を信じて聖剣を振るった。王都に危険が迫っていることは聞かされていたが、具体的に何が起きようとしているのか、どのような方法が試されたのかまでは知らなかった。
つまり、俺は完全な事情を知らないまま、人を殺したのだ。
その事実を口にすると、法廷には重苦しい沈黙が落ちた。
やがて、裁判長が尋ねた。
「被告人レオン・アルヴェイン。お前は、当時の自分の行為をどう考えている」
俺はしばらく答えられなかった。
正しかったと言い切ることはできない。
だが、間違っていたと断じることもできなかった。
カイルが死を選ばなければ、魔王は復活していたかもしれない。俺たちだけでなく、王都に暮らす無数の人々が命を落としていたかもしれない。
それでも、俺の手がカイルの命を奪ったことは変わらない。
「……俺は、カイルを殺しました」
静まり返った法廷に、自分の声が響いた。
「彼が望んだからです。王都を守るためだと信じたからです。でも、俺は彼が何を背負っていたのか、最後まで知りませんでした」
俺はゆっくりと顔を上げた。
「だから、俺が正しかったとは言えません。もし罪があるのなら、その責任から逃げるつもりもありません」
傍聴席の最前列に、カイルが立っていた。
茶色い髪に、そばかすのある顔。少し猫背で、どこにでもいそうな平凡な青年。
彼は俺を見つめ、困ったように笑っていた。
『……本当に、真面目な奴だな』
その声を聞いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
俺は何も言い返せなかった。
裁判長は長い沈黙の後、審理の終結を宣言した。
判決が言い渡されたのは、その日の夕刻だった。
「被告人レオン・アルヴェイン」
俺は立ち上がった。
「本件において、被告人がカイル・フェルドの生命を奪った事実は明白である。また、被害者本人の依頼があったとしても、それのみを理由として殺害が正当化されることはない」
裁判長は一度言葉を切った。
「しかし、提出された魔術記録および証人らの証言によれば、事件当時、魔王の復活という重大かつ切迫した危険が存在し、これを回避するために可能な限りの手段が試みられていたことが認められる」
大法廷は静まり返っていた。
「さらに、被告人は呪いの詳細を十分に認識していなかったものの、王都に差し迫った危険が存在することを告げられ、長年にわたって信頼関係を築いてきた被害者の依頼に従って行動している。被告人が当時の状況において、他に有効な手段が存在すると認識し得たことを示す証拠もない」
裁判長は正面を見据えた。
「よって、本件行為については王国刑法第十八条の緊急避難が成立すると認める」
そして、木槌を打ち鳴らした。
「被告人レオン・アルヴェインを、無罪とする」
歓声が上がった。
しかし、俺はその場から動けなかった。
無罪。
法は、俺を罰しないと決めた。
それでも、カイルが死んだという事実は変わらない。
俺は傍聴席を見た。
カイルは静かに笑っていた。
『よかったな、レオン』
「……何が、よかったんだよ」
俺の声は、ほとんど囁きに近かった。
『あんたが生きてる。それで十分だろ』
彼はそう言って、少しだけ視線を逸らした。
『俺はさ、勇者みたいに世界を救うことなんてできないと思ってた。剣も使えないし、魔法も使えない。ただ、壊れたものを直すことしかできなかった』
俺は黙って聞いていた。
『でも、最後に一つくらい、ちゃんと直せたなら……悪くない人生だったと思うんだ』
その言葉を最後に、彼の姿が薄れ始めた。
俺は思わず手を伸ばした。
「待て、カイル! 俺はまだ、お前に何も返していない!」
彼は困ったように笑った。
『返さなくていいって。……ああ、でも、一つだけ頼みがある』
俺は息を呑んだ。
『店の裏に、修理途中の時計があるんだ。あれ、直しておいてくれないか』
それは、あまりにもささやかな願いだった。
世界を救った英雄が、命を懸けて守ろうとした男の最後の願い。
壊れた時計を、直してほしい。
俺は震える声で答えた。
「……ああ。必ず」
カイルは満足そうに頷いた。
『頼んだぜ、勇者様』
そして、消えた。
裁判が終わった翌朝、俺は王都の裏通りにある修理工房を訪れた。
そこは、かつてカイルが暮らしていた場所だった。木製の看板には『フェルド修理工房』と書かれており、軒先には修理待ちの鍋や農具が積まれている。窓ガラスには細かな傷があり、扉の蝶番は少しだけ歪んでいた。
俺は鍵を取り出し、扉を開けた。
工房の中には、油と鉄の匂いが満ちていた。
作業台の上には、修理途中の懐中時計が置かれていた。裏蓋を開くと、小さな歯車が一つ欠けている。俺は工具を手に取り、慎重に部品を取り付けた。
勇者としての記憶は戻っていた。
剣の振り方も、魔法の使い方も、魔王との戦いも、すべて思い出した。
だが、不思議なことに、修理師として過ごした日々の記憶も残っていた。
鍋を直したこと。農具を修理したこと。子供が壊した木馬を、夜遅くまでかかって直したこと。そして、カイルがどんな気持ちで毎日この店に立っていたのか。
俺は歯車を取り付け、時計の針を動かした。
カチリ。
小さな音がした。
秒針が動き始める。
俺はしばらく、その音を聞いていた。
世界を救ったとき、俺は何万人もの歓声を浴びた。だが、たった一人の命を救えなかった。その事実が、胸の奥に重く残っていた。
「……ありがとう、カイル」
誰もいない店の中で、俺は呟いた。
返事はなかった。
ただ、時計の秒針だけが、静かに時を刻み続けていた。
俺は完成した時計を布で包み、作業台の端に置いた。
それから、店の扉に掛けられていた『休業中』の札を裏返した。
そこには、少し歪んだ文字で『営業中』と書かれていた。
勇者レオン・アルヴェインは、世界を救った。
だが、修理師カイル・フェルドは、俺を救った。
ならば、今度は俺が、彼の残したものを守る番だ。
窓の外から、朝の陽光が差し込んでくる。
俺は作業台に向かい、次の修理品を手に取った。
壊れたものは、まだこの世界にいくらでもある。
そして、それを直すための時間も、俺にはまだ残されている。
――完。




