貴方の心です!
通勤電車の車内は混雑していた。背広姿のリーマンや女性、制服姿の学生がスマホをいじったり、本を読んだりしている。運よく座れて居眠りをしている人など、様々だ。
大きな駅につくと人が沢山降りたが、代わりにまた大勢乗って来た。その中にひときわ目立つ男性がいた。
それも良い方に。
着ている服はどうみても高そうで、なのにその人物はそれをそつなく着こなしていて、だから当然スタイルよく、顔はモデルなのかと思うほど格好いい。
たまにこんな人間もいるものだ。
その男性に続いて、いかにも社会人一年生みたいな感じの女性が乗って来た。閉まる直前、まるでその男性を追いかけるようにしての駆け込み乗車だ。
ぷしゅー、とドアが閉まる。
電車がゆっくりと動き出した。
そのモデルばりに格好いい男性は吊革に手をかけ、羽織っていたコートのポケットから一冊の単行本を取り出した。
ページをパラパラめくり、少し眠そうな目で文字を追いかけ始める。
やがてその男性はするりとした仕草で電車の奥へと移動した。どこかでもたれて読みたくなったのだろうか?
その、新人みたいな女性も後を追うように奥へと移動する。
その途中で彼女は転倒してしまった。座っていた人の足に躓いたのだ。
「すみません、すみません」
女性は何度も何度もその相手に詫びた。相手は大人しそうな初老のリーマン風の男性だった。「いいですよ、ケガはないですか」と女性にいい、彼女の服を手で払った。
「ほんとにスミマセン」
女性は米つきバッタのように何度もお辞儀をし、慌ただしく移動した。それにしても落ち着きのない女性である。
やがてまた電車が止まった。あの男性がコートの裾をひるかえし、さっそうと降りていった。その様は本当にランウェイを歩くモデルだった。
かっこいいね、と誰かが言う声がする。
その新人さんみたいな女性も後に続いておりた。さっき女性が躓いてしまった初老の男性は、いつの間にか車内からいなくなっていた。
女性は、必死で歩いていた。きょろきょろとあたりを見回している。誰かを探しているようだった。
「やば」
女性は走り回った。どうやら探し人は見つからないようだ。
女性は風見鶏のようにぐるぐると体を回転させて周りを見ていたが、やがて懐から何かを探し出そうとする仕草を見せた。だんだん顔が青ざめていく。
「うそ、ない!」
「ない、ない、手帳がない」などと独り言を言いながら探していたその女性の目の前に、
ふわりと男もののコートの裾が広がった。それはまるで手品のようだった。
「うわ」と言って尻もちをつく女性。
そんな彼女に、男性は端正な顔に微笑を浮かべ、手を差し伸べた。
「大丈夫ですか?」
「あ、は、は、は、は、は、はい、だ、だ、だ」
女性は滅茶苦茶に取り乱していた。何故か分からないが。
目が泳いでいる。呼吸乱れまくっている。
何故であろうか。
そんな彼女に、男性は吹きだしそうなのをこらえているようだったが、やがて、
男性は女性の手を広げさせ、その上に何かを乗せた。それは警察手帳だった。
「お忘れ物ですよ」と言いながら。
「ほええっ?!」と、女性の口から変な叫びが上がる。
「はい、ついでにこれも」
と女性の手に乗せられたのは、ピンク色のスマホだった。
女性、口が酸素不足の金魚状態である。
「あ、あの、あの、あの、あの」
「あの」しか言えないようである。
そんな女性に、その男性はニヒルな笑みを見せた。
「なかなか、チャーミングな尾行でしたね」そう言って男は、何やら小さな紙きれを女性に見せた。
それは電車の切符だった。
男性はそれをひらひらさせながら言った。
「これが何か分かりますか?」
「切符です」
女性の返答に、男性は一瞬固まり、なぜかくすくす笑いながら話を続けた。
「これは、貴方が電車の中で躓いた男の切符です。彼はスリの指名手配犯ですよ」そう言って男は切符を女性に手渡した。「今頃、改札でもたついているでしょう。外に出られないから」
案の定、改札の手前で、あの初老の男性が何やら慌てていた。服を脱いで逆さにして振っている。
男性の言葉に、女性はそいつを見るとスマホで何やら照合していたか、やがて、
「ほんとだ、ありがとうございます!」と思い切り明るく朗らかに礼を言い、その場から走り去った。
途中何度か男性に頭まで下げつつ……。
「俺としたことが」
男はコートから煙草を引っ張り出し、苦笑しながら火を付けた。
今彼がいるところは、駅からそんなに離れていない路地裏だった。
あれから、「この男指名手配犯ですーっ! 私警察てす!」とあの女性が初老の男を取り押さえて叫び、駅員が駆け付け、何もかもひっくり返ったような騒ぎになった。
その騒ぎを利用させてもらった彼は、やすやすと尾行を撒くことに成功したのである。
ところで、彼はプロのスリだった。
しかも凄腕の。
そんな彼が尾行されているのに気づいたのは数日前。
彼は思った。アレで尾行してるつもりなんだろうか。
もろバレである。
下手くそだなぁと思った彼だったが、思うように仕事ができない。
真面目一直線も、時として手ごわい相手になるものだと思った。
そんな彼女が、手帖をすられるところを彼は見た。そいつは服の埃を払うふりをしながら、手帖とスマホを彼女から盗んでいたのだ。
どうしようか――。
ずっと付きまとわれているから、このままいなくなってくれたら好都合だと彼は最初考え――。
電車から降りる際、彼はそいつから手帖とスマホを取り返した。そいつの切符も一緒に。
何故こんなことをしたのだろう。彼は自問したが答えは出なかった。
尾行を撒くことに成功した形になったが、彼が意図したものではない。結果としてそうなっただけである。
――では何のために?
プロの自分の前で、不細工極まりないやり方を見せられたから?
あの指名手配犯の盗み方は、彼からすると不細工そのものだった。美しさのかけらもないと彼は思った。
だからなのか?
彼は煙草を深く吸い、ため息と一緒に煙を吐きだした。
まあいい。
財布の替わりに、ハートを盗んでも。
それも一興だと彼は思った。
それにしても。と彼は思った。
「ありがとうって、スリの現行犯だよ俺」
そうなのだ。彼は女性警察官の目の前で、初老の男の切符を見せたのだ。
つまりそれは、警察官の前で、スリしましたと自白してるようなものなのである。
混乱していたのもあるかも知れないがあまりにもドジすぎる。
しかも彼女は、「スリである自分を尾行していた」のではなかったか。
――ほんとだ、ありがとうございます!
あの時の、自分に向けられた純粋な笑顔を、男はもう一度思い出していた。
彼はそっと駅に近づき、構内を見た。大勢警官が来ている。その中であの女性警察官が上司に何やら張り切って報告しているのが見えた。
案の定、彼女はどやされていた。
おま、それ現行犯逮捕できただろうがぁそれを取り逃がすとは何考えとるんじゃあぁぁぁ!
と言われている。
――そりゃそうだ。
でもそれならおれ自身もそうだと彼は自嘲気味に呟いた。
警官相手にあんな危険をよくもまあと。
迂闊にもほどがある。仲間に知られたらどんな顔をされるだろうか。
――ハートを盗むのも悪くない。
さて。
盗まれたのは、どちらだろう。




