007_読者との距離と作家の葛藤_太宰治の場合
自分が投稿した小説に、さっそく感想が追加された。誤字脱字の報告が届くこともあれば、キャラクターや展開を褒める短いコメントもある。リアクションは絵文字で表現されることもある。手厳しいものから、楽しんでいる旨の報告まで、多種多様だ。反応がダイレクトに伝わってくる。楽しくもあり、時に心にさざ波を立てるものもある。
読者との距離が近いのは、もちろん嬉しい。以前の紙の時代には考えられなかったほど、私の文字は読者の目の前に直接届く。だからこそ、私は没入感の高い文章を書きたいと思う。読み手の意識を、私の小説の世界に引きずり込むように。ページをめくるたび、スクロールするたび、現実と虚構の境界が曖昧になってほしい。読者がその世界で息をする瞬間を想像するだけで、書く意欲は胸の奥で膨れ上がる。
だが、ふと疑問が頭をもたげる。ことなったアプローチをとった過去の作家は、この現象をどう思うだろうか、と。太宰のような作家ならば、どう批評するだろうか。いや、きっとこう言うだろう──「なんと滑稽なことか。読者を意識して距離を縮めようと必死になる姿は、己の孤独を隠すための偽善に過ぎぬ」と。
太宰の目には、私の文章は、計算された親密さに満ちている。画面越しに届くコメントやリアクションを想定し、読者が心地よく没入できるように、私が言葉を選び、行間を調整していることなど、すぐに見抜かれるだろう。太宰に言わせれば、それは「作家の承認欲求の透けた表れ」であり、読者を巻き込むことによって自己を慰めようとする哀れな試みに見えるのだろう。
確かに、読者の反応を気にしながら書くことには、危うさがある。手厳しいコメントが届くと、心は微かに揺れるし、誉め言葉には一瞬の誇りと同時に、どこか空虚な感覚が混じる。文章に没入してもらうことの快感と、自己の虚無が交錯する瞬間だ。太宰なら、この感情の揺れをすぐに嗅ぎ取り、「その揺れを楽しんでいるのは自分自身に他ならぬ」と、冷ややかに指摘するだろう。
しかし私は、それでも読者との距離を縮めたいと思う。没入感を高めるために文章の細部に神経を配り、感情の起伏や描写のリズムを整える。登場人物の思考や行動の心理的背景を丁寧に描くことで、読者がその人物に「寄り添える」瞬間を作る。誤字脱字を直すことすら、読者体験を妨げないための細やかな配慮である。
だが、太宰なら再び嘲笑するだろう。「寄り添わせる? 何という傲慢な表現か。読者はお前の文章に寄り添うのではなく、ただ流されるだけだ」と。なるほど、その通りかもしれない。私が意図して作り出す没入感は、確かに読者自身の体験ではなく、作家によって設計された幻のようなものだ。読者は文字に触れ、感情を揺さぶられるが、それはあくまで私が敷いた道を歩んでいるに過ぎない。
それでも、読者が文字を追い、笑い、涙する瞬間は確かに存在する。デジタル空間で瞬時に反応が届くことで、私は文字が生きている感覚を持つ。誤字脱字の指摘も、絵文字の共感も、厳しい批判も、すべて私の文章と読者を繋ぐ橋であることには変わりない。太宰が冷ややかに突き放すのも理解できるが、私はその橋を渡ってもらいたい。
この葛藤は、現代作家としての宿命だろう。過去の文豪たちは、読者との物理的距離があった時代に作品を書いた。手紙や出版物を介してしか読者と接触できず、感想の即時性も乏しかった。だからこそ、作品の完成度や世界観の一貫性により神経を使った。だが、現代の私は、読者との距離が極端に近く、反応が瞬時に返ってくる。そのため、文章はリアルタイムで読者にさらされ、評価される。
太宰なら、この状況を「作家にとって過酷な舞台」と見なすだろう。「自分の孤独を晒す覚悟もなく、読者の反応を計算して書く者の哀れ」と評するに違いない。なるほど、確かに読者の目を意識しすぎることは、作家自身の自己欺瞞を助長する危険がある。しかし、私はそれでも、読者の心に触れ、没入体験を届けたいのだ。
私は再び文字に向かう。読者が画面の向こうで息をしていることを想像し、行間に心を込める。キャラクターの仕草や心情の描写を丁寧に選び、文章にリズムを与える。コメントや絵文字の反応が届くたびに、微かな緊張を覚えるが、それもまた創作の醍醐味だ。
太宰の視点を借りると、私の努力は滑稽に映るかもしれない。だが、滑稽であろうとなかろうと、読者との距離を意識し、没入感を追求する過程に意味がある。読者が文字の海に身を委ねる瞬間、私は確かに作家として存在している実感を得る。
こうして、私は過去と現在の文豪の視点を交錯させながら、現代の創作と読者体験の距離感を考え続ける。太宰は私を突き放すだろう。しかし、その突き放す目線すら、文章を書く上での試金石となる。読者との距離を縮め、没入感を追求する私は、過去の文豪たちが経験し得なかったデジタル時代の創作の最前線に立っているのだ、と自らを納得させるのだった。




