004_スマホの向こうの文学―漱石が見る現代の物語
会社帰り、スマホに通知が届く。
ブックマークを付けている小説のランキング更新だ。
ここ数年、上位を占めるのは「異世界」「恋愛」「令嬢」定型化されたタイトルが並ぶ。
もう見飽きた、と思いつつも、気がつけば指がスクロールしている。
流れる文字を追いながら、ふと考える。
もしこの光景を、百年前の文豪に見せたらどう思うだろう。
明治の文士たちは、言葉の力で世界を切り開こうとしていた。
けれど、いまの物語たちは、読者を世界から切り離し、
“安全な夢”の中に導こうとしているようにも思える。
この時代を批評できるのは誰だろう。
太宰か、三島か、あるいは谷崎か。
だが、彼らでは少し違う気がした。
社会と個人の軋みを見抜き、
近代の病を『こころ』という形で描いた男。
やはり、夏目漱石こそふさわしいと思う。
もし漱石が現代に生き、私のスマホを手に取り、
ランキングを眺めるとしたら。
彼はまず眉をひそめるだろう。
「人間は、なぜこれほどまでに同じ夢を繰り返すのか」と、静かに問いを発する。
漱石にとって、文学は人間の精神の鏡である。
その鏡を通じて、文明の光と闇、社会の矛盾と個人の苦悩を映し出す。
しかしいま目にするネット小説のランキングは、まるで鏡ではなく、回転する万華鏡だ。
華やかな光が瞬き、色と形は変わるが、深みはない。
読者はその美しい光に酔うだけで、己の影を見ようとはしない。
漱石はページを開き、最初の数行を目で追う。
「異世界に転生した少女が令嬢として王都を歩む」
彼の脳裏には、文明開化期の街並みと、モダンガールの姿が重なる。
当時の彼は、外来の文化と伝統の狭間で人間の欲望を観察した。
現代の小説は、異世界という舞台装置を使い、現実世界の矛盾をすっぽり覆い隠している。
「安全な逃避」と漱石は呼ぶだろう。
だが彼は、ただ批判するだけの人ではない。
ページをめくる指を止め、ある作品の一節に目を留める。
「王子に呼ばれ、庭園で花を摘む令嬢。桜の香りが彼女の頬を染める」
漱石は眉をひそめる。
「花の香り、頬の紅――感覚の描写だけで物語は動くのか」と。
しかし同時に、彼はこうも思う。
「この描写に、確かに快楽がある。読者は一瞬の幸福に浸る」
ここで彼の思考は深まる。
快楽、幸福、満足――これらは文学の一側面に過ぎない。
漱石が描いた明治・大正期の小説では、人間の孤独、葛藤、絶望、虚無が核であり、
幸福や快楽はむしろ対比として現れるものだった。
現代のネット小説は、その逆である。
快楽が主役であり、葛藤は軽く、解決は迅速だ。
「読む者に救済を与える設計」と漱石は言うだろう。
彼の文学観からすれば、それは文学の目的を変えてしまったようにも見える。
漱石はさらにランキングを上から下まで眺める。
どの作品も、似たパターン、似た感情、似た結末。
それに対して、彼は静かに苦笑する。
「人は、何度でも同じ夢を欲するのか」
その眼差しは哀れみとも、観察ともつかない。
だが、漱石はここで手を止める。
一つの作品に、細やかな描写と少しの矛盾を見つける。
キャラクターがほんの一瞬、自らの感情に迷う瞬間。
主人公の小さな失敗、友人との微妙なすれ違い。
「ああ、これは文学の名残だな」
彼はつぶやく。
無意識のうちに、現代の大量生産文学の中に、かつての文学の影を見出したのだ。
安全な幸福の裏に、かすかな孤独と不安が残っている。
それを見逃さない漱石の目は、まるで砂漠にわずかな水を見つける旅人のようだ。
漱石は立ち上がり、カフェの窓の外を眺める。
街のネオン、歩く若者、スマホを手に笑う群衆。
「人はいつの時代も、自らの欲望に素直である」と彼は思う。
快楽の形は変われど、追い求める心は変わらない。
文学はその心を映す鏡であるべきだ。
そして彼は静かに結論するだろう。
「文学が人を慰めるのは悪くない。
だが、慰めばかりでは魂は育たぬ。
少しの孤独、少しの迷いがあれば、人はより深く生きることができる」
漱石の眼差しはスマホの画面に戻る。
ランキングの上位の作品に、彼はもう一度目を走らせる。
軽やかで、明るく、快楽に満ちた文字の中に、
ほんの一行だけ、消え入りそうな孤独を見つけた。
その瞬間、漱石は微笑む。
「現代の文学も、決して空っぽではない」と。
快楽の中に潜む、かすかな人間性の残響。
それを見つけた者だけが、文学の可能性を感じ取ることができるのだ。
漱石はページを閉じる。
そして、カフェを出る前に小さくつぶやく。
「文学とは、人を慰めると同時に、目覚めさせるものである」
スマホを手にした若者たちの笑顔を見ながら、彼は静かに歩き出す。
現代のネット小説の光と影を胸に抱え、百年前の眼差しをそのまま現代に置き換えたまま。
文学の目的は変わらぬ。
快楽も幸福も、孤独も不安も、すべては鏡の中の自分を映すためにあるのだ、と。




