港町
東北地方の太平洋沿岸に「久鳴港」という小さな港町がある。
漁業で栄えた時代もあったが、今は人口も減り、観光客もまばらだ。
しかし地元では昔から、満ち潮の夜にだけ現れる「渡し船」の噂が囁かれていた。
港の外れに沈んだ岬がある。
そこにはかつて「潮宮神社」という海の神を祀る社があったが、昭和初期の大津波で流され、そのまま海底に沈んだという。
それ以来、年に数度、満ち潮の夜になると、港の外れに白い渡し船が現れ、乗った者は二度と戻らない……と古老たちは語る。
新聞記者の篠田は、この噂を取材するために港を訪れた。
夜の港は静かで、波止場の灯がぼんやりと海面を照らしている。
地元の漁師に話を聞くと、皆一様に渋い顔をした。
「潮宮様が呼んでるんだ。あの船は生きてる人間を迎えに来る」
笑い飛ばすような雰囲気ではなく、本気で信じているのがわかる。
篠田は民宿に泊まり、取材を続けた。
二日目の夜、外から舟板を叩く音がした。
時計を見ると午前一時過ぎ。
窓から港を覗くと、沖合に小さな白い船影が見えた。
揺れているのに波を立てず、音もなく近づいてくる。
目を凝らすと、船の上に人影が立っていた。
それは漁師の作業着のような姿だが、顔は月光に照らされず、闇のままだ。
その人影が、港の方に向かって手を挙げた。
まるで「乗れ」と合図しているかのように。
翌朝、港でその話をすると、若い漁師が青ざめた。
「昨日の夜だろ……? あれ、誰もいねぇよ」
聞けば、昨晩、海に出た船は一隻もなかったという。
さらに、かつてその渡し船を見た者は、数日以内に行方不明になっていると教えられた。
篠田は怖気を覚えつつも、記事にするため、三日目の夜も港に向かった。
今度は防波堤の先まで行き、海を見張る。
満ち潮が近づくと、またあの白い船影が現れた。
船は防波堤の外側に静かに停まり、甲板の人影がこちらを見つめている。
そして、海面を隔てた距離から声が届いた。
「……こちらへ……」
声は奇妙に柔らかく、抵抗できない感覚が胸に広がった。
気づけば防波堤の端まで歩き、片足を海へ伸ばしかけていた。
その瞬間、背後から誰かが腕をつかんだ。
振り返ると、あの若い漁師だった。
「行くな!」
強く引き戻され、船影を見たときにはもう霧に包まれて消えていた。
翌朝、漁師は篠田に話した。
「昔、潮宮様の祭りで神輿を担いだ若い衆が海に落ちてな……見つかったのは、顔も体も海草だらけのまま、白い船に乗ってたって言うんだ」
そして最後にこう付け加えた。
「……もし三度呼ばれたら、もう助からねぇ」
篠田は笑い、取材を終えて港を後にした。
だが、その帰り道の夜行列車で、眠りに落ちた耳元に、あの柔らかい声がした。
「……こちらへ……」
二度目だった。
それから数日後、篠田が帰らなかったという知らせが港町に届いた。
港では噂になった。
満ち潮の夜、防波堤の沖に、白い渡し船がひとり分の影を乗せて漂っていた、と。