第5話 鉄壁メイド、全力疾走で参上
レイナがトイレで地獄の儀式を終えてから、数十分後。
俺たちは再びベンチに腰を下ろし、“どうやって元に戻るか”会議を再開していた。
「……やっぱり、何かしら“きっかけ”が必要だと思うのよ」
「きっかけって……漫画やドラマじゃあるまいし。雷に打たれるとか?」
「それは嫌。髪がチリチリになるじゃない」
「いや、見た目の問題かよ」
と、そこでレイナがふいに「あっ」と何かを思い出したように顔を上げた。
「……一人、頼れる人がいるわ」
「頼れる人?」
「私の……まあ、ボディガード兼使用人ね。同じ学校に通ってるの。頭が良くて頼れるパートナーでね――しかも武闘派」
「武闘派!?」
「ええ。言っとくけど、喧嘩したらあなた三秒で沈むわよ」
「……なんで戦う前提なんだよ」
レイナは“俺”のポケットからスマホを取り出し、迷いなく発信ボタンを押す。
しばらくコール音が響いた後、スピーカーから落ち着いた、しかしどこか張り詰めた声が流れた。
『――お嬢様、いかがなさいました?』
「ああ、瑞希。今すぐ公園まで来て。場所は――」
言いかけたところで、受話口の向こうが一瞬静まり返った。
その沈黙は、電話が途切れたわけではないとすぐにわかる。
レイナの背筋に、じわりと冷たい汗がにじんだ。
(……しまった)
そうだ。今の自分の声は、蓮の低くてやや気だるげな男子の声。
日頃からお嬢様の声を何百回と聞いている瑞希にとって、この違いを聞き逃すはずがない。
『…………お嬢様? 誰だ貴様は……』
鋭く、そしてわずかに警戒を含んだ声音。
その瞬間、レイナの耳にピピッという小さな電子音が混じった。
レイナのスマホには天城家特注のセキュリティシステムが組み込まれており、通話相手が“危険”と判断すれば自動で位置情報を送信する機能がある。
(やば……完全に勘違いさせちゃったかも)
『……そこを動くな。今すぐに向かう』
短くそう告げたきり、通話はぷつりと切れた。
スピーカーから聞こえた最後の音は、足音でも息遣いでもなくほんのわずかな刃鳴りのような空気の震えだった。
レイナはスマホをポケットに戻し、ため息をつく。
「……まずいわね」
「え? 何が?」
「…まあでも、これで来てくれるわよ」
「……その“パートナー“って人がか?」
「ええ。たぶん二、三十分もあれば」
レイナの視線は少し泳ぎ気味だったが、どこか安堵を含んだ表情を浮かべていた。
彼女にとって“瑞希”と呼ばれる人物は、それほどまでに信頼がおける人物なのだろう。
ただ、勢いのままに電話をかけてしまったのは時期尚早だったかもしれない。
電話の様子を見ていた蓮ですら、さすがに電話するのは不味いんじゃないかと思っていたくらいだ。
代わりに俺(レイナの声)がするって言うんならまだしも、その声で“レイナです”っていうのは無理がある。
電話の内容が気になった蓮は、ちゃんと伝わっているのかどうかを心配そうに尋ねた。
「……大丈夫だったのか?」
「何が?」
「何がってそりゃ、今のお前は“俺”な訳だろ?絶対バレるじゃん」
「そうね。あなたの言う通りの結果だったわ」
「まじかよ!!…で、どんな反応だったんだ?」
「どうもこうも、完全に誤解を生んでしまってるわ。さっきの感じだと、瑞希はこの声の主を“お嬢様に近づく不審者”だと確信してる」
「……ま!!!??」
「だから、このままだとあなた――というか、あなたの体――が瑞希に制圧されるわ」
「制圧って……軽く捕まるとかじゃなくて?」
「去年、路上で暴走族三人を素手で制圧したわ。全員病院送りね」
「……やば。それ制圧じゃなくてもはや過剰防衛じゃね?!」
「だからいい? 瑞希が来たら、あなたは“私になりすます”の。言葉遣いも、姿勢も、全部」
「ええー……俺、女らしい喋り方とかできないぞ」
「やりなさい。でないと、あっという間にあなたの体が再起不能になるわよ」
「……それはまじでやめてほしいかな」
「だったら四の五の言わずに従いなさい」
レイナは真剣な眼差しで頷いた。
「まずは落ち着いて“お嬢様の雰囲気”を出す。変な言い訳はしないで、“何も問題ない”って態度を見せるの。とにかく瑞希に警戒されないように」
「……その間に、お前が説明するんだな?」
「そう。私の方から少しずつ解く。いきなり“実は入れ替わってます”なんて言ったら、余計ややこしくなるから」
「……わかったよ。でも俺が変な言葉遣いしたら、すぐフォローしろよな」
「任せて。あなたのフォローには慣れてるから」
「…なんかムカつくな、その言い方」
二人はそのまま、瑞希が現れたときの会話パターンや動き方を何度も確認した。
まるで格闘技の試合前に、どうやって初撃を避けるかを練習するかのように――。
そして本当に、二十五分後――。
公園の向こう側で、地面を蹴り裂くような足音が響いた。
砂煙を巻き上げながら現れたのは、長い黒髪を後ろで束ね、鋭い目つきの女子高生。
その走りはまるで陸上短距離選手、いや、それ以上。もはや地面との摩擦が存在しないかのようだ。
「……ちょちょちょっッ!!あれ、ほんとに人間か!!?」
「人間よ。たぶん」
ズザァァァァァァァァッ
数秒で距離を詰めた彼女は、俺たちの前にスライディング同然の勢いで立ち止まり、スカートの裾も乱さず直立した。
「お嬢様ッ! ご無事で……っ!?」
だがその視線が俺(中身は蓮)に向かうや否や、一瞬で剣呑な色に変わった。
「――何者だ、貴様ッ!!!」
その怒声と同時に、風が切り裂かれるような気配が走った。
次の瞬間、木刀の切っ先が俺(中身レイナ)の眼前ギリギリでピタリと止まる。
「……やば」
あまりに急な出来事に、間抜けな声が漏れた。
目の前の少女――いや、女子高生にしては異様に鋭い眼光を放つこの人物は、まるで漫画の護衛キャラそのものだ。
だが、その表情には明確な敵意が宿っている。
「お嬢様から離れろ、不審者」
「ち、ちょっと待って瑞希…!!私は不審者なんかじゃなくて…」
「なぜ私の名前を知っている!」
瑞希は木刀を構え、真っ直ぐに蓮(中身はレイナ)を睨みつけた。
その眼光は冷たく研ぎ澄まされ、まるで一瞬先に斬りかかると宣言しているようだった。
「お嬢様から離れろ、不審者め!!」
「ちょ、だから待って瑞希! 私は――」
「弁明は不要だ」
低い声が公園に響く。
地面を蹴る音とともに、彼女は一気に間合いを詰めてきた。
木刀の切っ先が喉元に迫り、わずかな風圧が頬を撫でる。
「話を聞いて瑞希ッ――!」
「話など不要だ!」
背後で、レイナ(中身は蓮)が「やばいやばいやばい!」と小声で騒いでいるが、瑞希は一切耳を貸さない。
彼女の世界には今、「お嬢様を守る」以外の目的が存在しなかった。




