第4話 トイレという最大の試練
——レイナが多目的トイレに入ってから、ちょうど三分後。
「——ひゃあああああああああああ!!!」
園内に響く、わりと本気の悲鳴。
「お、おい!? 大丈夫か!?」
俺は慌ててドアの前まで駆け寄り、ノックをガンガン連打した。
「だ、大丈夫じゃないわよ!! でも入ってこないで!!」
ドア越しから必死に声を張るレイナ。
その声色は、恐怖と羞恥と若干の怒りがごちゃまぜになった複雑なものだった。
「な、なにがあったんだよ!? まさか転んだとか……水浸しになったとか……」
「違う!! 違うけど違わない!! あぁもう説明できない!!」
説明できないってなんだよ。ますます気になるじゃねぇか。
俺はドアノブを引きそうになる手をぐっと抑えた。
ここで開けたら間違いなく殺される。だが開けなきゃ大惨事を堰き止められないような気がした。
「……あのな、もしどうしても無理なら呼べよ? タオルとか、着替えとか……」
「うるさい! 放っておきなさい!!」
…くそッ、頑なだな。
どうせ鍵がかかってるしこっちからは何もできない。
ただ、放っておくのもなんか違う気がした。
思った以上に大変なことが起こっているんじゃないかとつい思い描いてしまう自分がいた。
女の立場になって考えたことはないが、…なんつーかその、きちんと用を足すにはアレをああしてああする必要があって………
——想像し得る大惨事が、頭の中で勝手に再生されていく。
まさか……便器の前で、立つべきか座るべきかで混乱してるとか?
いや、立つっていう選択肢はないか……
女子はいつも座ってやるんだろうし、今頃ズボンを下ろして人生未体験ゾーンへと突入している頃合いだろう。
そりゃあ混乱もするわな……。
……って待てよ。
つまり今、俺の体の、その……秘蔵の“重要パーツ”を、女子高生がガン見してるわけだよな!?
氷の女王とか呼ばれてる天城グループの令嬢に、今まで誰にも見られることがなかった領域を直視されてるってことだよな!?
うわああああ……死にてぇ……!
羞恥ってこういうことを言うんだな。顔から火どころじゃなく、魂ごと焼却炉行きだわ。
「男子の生態観察☆」みたいな日記ページに書き込まれてたらどうしよう。いや、むしろ冷静に品評とかされてたら立ち直れねぇ……!
でも、「違うけど違わない」ってなんだよ。つまり、トイレの事故だけど事故じゃない?それとも、勢いがありすぎて外に飛び出しちまったとか…?
うーん、やっぱそれだ。
この状況、下手にアドバイスしようにも、下ネタっぽくなるから口に出せない。かといって放置すれば、床一面が惨劇に……!
タオル? いや、それじゃ根本解決にならん。
説明書? あるわけない。
スマホで検索? いやいや、男子トイレの使い方を検索してる俺の体とか、想像したくない。
……詰んでる。完全に詰みだ。
仕方なくドアの横で腕を組み、ただ待つことにした。
——しかし。
三分待っても出てこない。
五分経っても音沙汰なし。
八分経過、俺はだんだんと「中で何かあったんじゃないか」という不安に襲われ始めた。
「おい……ほんとに大丈夫か?」
「だいっ……じょうぶよ……」
返ってきた声が妙に弱々しい。
しかも途中で息が上がっていたような……?
十数分が過ぎたころ、ようやく「カチャ」と鍵の開く音がした。
そして――。
………………………………………………
………………………………………………
………………………
………………………
………
……
ドアの向こうから現れたレイナは、異様なほど無言だった。
顔は真っ赤。いや、耳まで真っ赤。
そして視線は地面に固定されたまま、俺と一切目を合わせない。
「……な、なんだよ。どしたんだよその顔」
「……なにもなかったわ」
「いや、明らかに何かあった顔だろそれ。むしろ“なにもなかった”って言われる方が怖いんだけど」
「……聞かないで」
低く、短く、そしてなぜか背筋がぞくっとする言い方だった。
俺は反射的に口をつぐむ。
だが、好奇心というやつは厄介だ。
沈黙が三秒も続けば、勝手に脳内で“何が起きたか”を推理し始める。
「……まさか……的を外したとか?」
「言ったら殺すわよ」
「すいませんでした」
即土下座の勢いで謝る俺。
だって、その目がマジなんだもん。冗談で済む雰囲気じゃない。
レイナは俺の横を通り過ぎ、公園のベンチにどかっと腰を下ろす。
肩は小刻みに上下していて、なんとなく疲弊しているのがわかる。
「……そんなに大変だったのか?」
「大変とかそういうレベルじゃないわ。あれは……人類未体験ゾーンよ……」
「お、おう……」
「だって……! あんな……! しかも勝手に……!」
そこで言葉を詰まらせ、両手で顔を覆うレイナ。
ああ、これはもう完全にトラウマ案件だな。
「ま、まあ……おつかれ……?」
「軽く言わないで!! これは一生の傷よ!!」
「……とりあえず、今は落ち着け。次からはもうちょっと、な……」
「次なんてないわ!! 二度としない!!」
「いや、それは無理だろ。生理現象なんだから」
「……ぐぅ……っ!」
言い返せず、歯ぎしりするレイナ。
俺は心の中で「これからが地獄の本番だぞ」と小さくつぶやいた。
――と、その時。
遠くから子供たちの笑い声が聞こえてきた。
公園の噴水が陽光を反射し、キラキラと水飛沫を散らしている。
平和な光景だ。だが、このベンチの上だけは、妙に張り詰めた空気が漂っていた。
「……で、本当に聞かない方がいいんだな?」
「聞いた瞬間にあなたの人生終わらせるわ」
「了解です」
こうして俺たちは、謎とモヤモヤを抱えたまま、再び“どうやって元に戻るか”という現実的かつ絶望的な話題へと戻っていくのだった。




