サブカルチャー業界の聖書への誤解と実際の聖書の内容について
※特に天使や悪魔に対してのサブカルチャー業界での描写やキリスト教を普及するつもりで書いているわけでもないので、別にそこまで気にしたくなければ気にしなくても大丈夫だと思います。
サブカルチャー業界全般で見られる傾向がありますが、聖書からモチーフを取ったとされる天使や悪魔が良く登場します。
しかしサブカルチャー業界で言及される天使や悪魔の話だけを聞くと、それがあたかも聖書全体を囲む世界観や主な解説と言った風に考えがちだと思います。多分このような考え方は聖書のあまりにも長さと、読んでみるとわかりますが、特に市販されている日本語版の聖書はわかりやすい現代語訳がされているわけじゃない。最近ではネットで現代語訳された聖書を見れますので、気になるのでしたら実際に読んでみると、想像していた天使や悪魔の登場する聖書ではないことがわかると思います。
意図的なのかどうかまでは定かではありませんが、聖書はそんなに大変な話をしているわけじゃないので、おさらいとして聖書がどのような構造になっているか、見てみようと思います。
I. 聖書での天使と悪魔の言及と聖書の構造
第一に聖書は旧約聖書と新約聖書とで別れていることはご存知と思いますが、じゃあ旧約聖書に具体的に何が書かれているのかに対して、そこまで詳しくない人は少なくないと思います。創世記から始まり、様々な物語が中に詰め込まれている聖書ですが、実は聖書は一つの本ではありません。何十冊の本を一くくりにしており、例えるなら日本書紀と古事記を一つの本に纏めているようなものです。なので文章のトーンも一定ではなく、書かれたとされる年代もバラバラで、特に旧約聖書はその傾向が顕著で、神話的な要素が強い創世記に比べ、続く出エジプト記では創世記での出来事に対する言及そのものが殆どない。
創世記はまさに神話から始まることに対して、出エジプト記ではもう創世の話は放っておいてモーセの話にすぐに移行します。そもそも創世記でも創世そのものに対する話は3ページくらいで完結しており、続けて書かれているのはアダムとイブの直系子孫とされる人物たちの話が殆どで、聖書が持つ神話的要素は、創世記からしてそこまで大きく描写されていることがないことが、読んでみるとわかります。例えば創世記の第 5 章がその区切りで、アダムとイブが誰を産んで、続けての子孫たちが誰を産んだのかがずっと続けて書かれています。
じゃあ聖書の神話的な部分、天使や悪魔に対する具体的な描写はどこに出て来るのかというと、実のところ、聖書そのものにはそこまで詳しく書かれているわけではありません。有名な明けの明星、ルシファーなどに関する記述なども、実際の聖書に間接的に言及されるだけで、直接的にルシファーが現れて何をしました、ルシファーの権能はこのようなものです、などと書かれているわけではありません。しかもルシファーはルシファーという名前ではなく、サタンという名前で書かれており、
例えば『ヨハネの黙示録』を見るとこのような言及がされています。
────見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
そして『ローマの信徒への手紙』ではこのように言及されています。
────平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
ちなみに『ヨハネの黙示録』も、『ローマの信徒への手紙』も、新約聖書です。じゃあ旧約聖書はどうなのか。旧約聖書では天使の話が出ます。ただ、一般的に想像しているように、人の形をしている天使ではありません。
『エゼキエル書』、第 1 章の話です。
────またその中から四つの生きものの形が出てきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもっていた。 おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。 その足はまっすぐで、足のうらは子牛の足のうらのようであり、みがいた青銅のように光っていた。 その四方に、そのおのおのの翼の下に人の手があった。この四つの者はみな顔と翼をもち、 翼は互に連なり、行く時は回らずに、おのおの顔の向かうところにまっすぐに進んだ。 顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。
後略
まさに化け物で、じゃあこの天使が何をしているのかというと、予言を伝えるように司祭の卵であるエゼキエルに言います。「人の子よ、立ちあがれ、わたしはあなたに語ろう」から始まり、このような話を残します。
─────しかし、もしあなたが悪人を戒めても、彼がその悪をも、またその悪い道をも離れないなら、彼はその悪のために死ぬ。しかしあなたは自分の命を救う。また義人がその義にそむき、不義を行うなら、わたしは彼の前に、つまずきを置き、彼は死ぬ。あなたが彼を戒めなかったゆえ、彼はその罪のために死に、その行った義は覚えられない。しかしその血をわたしはあなたの手から求める。 けれども、もしあなたが義人を戒めて、罪を犯さないように語り、そして彼が罪を犯さないなら、彼は戒めを受けいれたゆえに、その命を保ち、あなたは自分の命を救う。
後略
つまるところ、義人は生きて、悪人は死ぬという神からのメッセージです。天使はこのように神からのメッセージを司祭、予言者に伝える役割を果たすために人の前に現れ、様々な話を残して去ります。そしてその姿は総じて謎めいていたり、実際に見ると信じがたい恐怖を掻き立てるような形をしているのが大半で、背中に白い羽が人型の何かなどというような描写はされていません。かの有名な天使長ミカエルですらもこのように間接的な言及がされている。
────ペルシャの国の君が、二十一日の間わたしの前に立ちふさがったが、天使の長のひとりであるミカエルがきて、わたしを助けたので、わたしは、彼をペルシャの国の君と共に、そこに残しておき、 末の日に、あなたの民に臨まんとする事を、あなたに悟らせるためにきたのです。この幻は、なおきたるべき日にかかわるものです」。 彼がこれらの言葉を、わたしに述べていたとき、わたしは、地にひれ伏して黙っていたが、 見よ、人の子のような者が、わたしのくちびるにさわったので、わたしは口を開き、わが前に立っている者に語って言った、「わが主よ、この幻によって、苦しみがわたしに臨み、全く力を失いました。 わが主のしもべは、どうしてわが主と語ることができましょう。わたしは全く力を失い、息も止まるばかりです」。 人の形をした者は、再びわたしにさわり、わたしを力づけて、 言った。
「大いに愛せられる人よ、恐れるには及ばない。安心しなさい。心を強くし、勇気を出しなさい」。彼がこう言ったとき、わたしは力づいて言った、「わが主よ、語ってください。あなたは、わたしに力をつけてくださったから」。 そこで彼は言った、「あなたは、わたしがなんのためにきたかを知っていますか。わたしは、今帰っていって、ペルシャの君と戦おうとしているのです。彼との戦いがすむと、ギリシヤの君があらわれるでしょう。 しかしわたしは、まず真理の書にしるされている事を、あなたに告げよう。わたしを助けて、彼らと戦う者は、あなたがたの君ミカエルのほかにはありません。
───『ダニエル書』第 10 章からの抜粋
ここまで読めばわかると思いますが、聖書はサブカルチャー業界で言うような天使や悪魔の神話的対決などは殆ど書かれておらず、旧約聖書ではイスラエル人の起源と、イスラエル人の古代での歴史が神話的な要素がほんの少し混ざっただけの、歴史書と物語が混ぜ合った形になっております。要するに、天使や悪魔の出る神話の話ではなく、イスラエル人が主人公のイスラエル人の話ということです。
旧約聖書は受難と苦悩の中で人がどのようにして自分を奮い立たせるかという教訓的な要素が半分ほど、当時の国際情勢や民間で伝わる風習、一般人の生活や司祭の話などが残り半分ほどで、他にも当時の法律などの話も書かれていて、物語としての側面だけを楽しむには事前に知っておくべきことが多く、読んでてそこまで楽しいわけではないため、実際に有史以来のベストセラーにも拘らず、実際に読んで、何かを感じたり考えるようになるまでに至る人はそこまで多くありません。特にカトリック教会では聖書を表面的に読むように暗に信者たちに言っているようなもので、祈りの儀式であるミサの時間ではイスラエル人の苦難などはまるで語られず、イエスキリストの話ばかりされており、むしろ旧約聖書はイエスキリストが誕生するきっかけを与えた引き立てとしてしか扱ってない。
旧約聖書でイスラエル人を救ってくれる救世主がいつか現れるであろう、という話が書かれていることが、新約聖書の約束された救世主、イエスキリストの出現へと繋がることで、キリスト教は成り立っています。しかし、イエスキリストはイスラエル人のためだけの救世主ではなく、すべての地上の人々を救うために創造主である神に送られた、肉体を持って神が具現しているとされています。
最終的にイエスキリストはユダヤ人の謀略により、十字架に貼り付けにされて死に、復活、昇天すると新約聖書では書かれています。この一連の流れは、長々と書かれた旧約聖書をただの前座として扱ってないという点。
そしてユダヤ教では旧約聖書までもを聖書として扱っていて、逆に新約聖書はユダヤ教の中には入っていません。このような伝統があるため、キリスト教が広く普及された欧州では、ユダヤ教を信じるユダヤ人はキリスト教が成立した時期で古代ローマ帝国の時代から迫害の対象となっていたわけです。
聖書の半分以上を埋めているのが旧約聖書であるにもかかわらず、語られているのは旧約聖書ではなくイエスキリストの話だけだと言うのは、カトリック教会の起源とも繋がっています。これらに対しての解説をしてみようと思います。
II. 旧約聖書の歴史的解析とユダヤ教の起源について
聖書は、他の神話と違って、具体的な物語が、特に旧約聖書はただの一般人の物語までもが書かれているという点からして特殊性を持ってはいますが、だからと聖書が語っていることが全て事実というわけではありません。
そもそも世界中の民族が何かしらのきっかけで、必要性に駆られるなどと言った理由で形成されているに過ぎない事実から、イスラエルだって例外ではないことは容易に想像がつくと思います。
民族主義は国民国家の形成と繋がっているという、近代的な民族主義の話ではなく、人類学的にみた大きな集団の形成原理にまつわる話です。古代世界は部族や氏族でまとまっており、時代が進むにつれ、部族や氏族がより大きな規模になって発展し、やがて国を形成するように変じます。こうやって古代世界で国家となることには様々なきっかけが絡んでいて、例えばエジプト文明はナイル川の氾濫から肥沃になる土地で共同作業を続けることの効率性が広まり、部族たちが連合する形で共同作業を管理することにより、最終的に国として成立するにまで至っている。
古代メソポタミアも同じく、ティグリス川とユーフラテス川の間の肥沃な土地をいくつかの部族たちが共有することで形成されています。古代文明が一列にほぼ例外なく多神教であることは、一つの部族が一つの神を信じるとして、その部族たちが統合することで、様々な神々が崇拝されるようになった結果です。神話が交わることで、部族は古代国家に発展するということです。現代のそれとは大違いですが、とにかくそのような仕組みになっていたと。
ではイスラエルの場合はどうだったのか。これには遊牧民と農耕民族の違いから考える必要があります。遊牧民は、決められた、定められた場所がなく、部族単位で、或いは一つの家が牧草地と水を探しながら移動する生活をしていて、農耕民族と違って最初から大きな集団を形成する理由がありません。
しかし、そうも言ってられなくなるとどうでしょう。例えば農耕民族が形成した国々の規模が大きくなりすぎて、こちらを引き込もうとしていたり、捕まって奴隷や被差別集団にしたりという話です。地形のせいで農耕民族と狩猟民族だけが住んでいた日本では馴染みのない話だと思いますが、農耕民族と遊牧民との争いは、人類にとって有史以来絶えない事象でした。
ここで遊牧民の文化と生態について見てみましょう。遊牧民は移動範囲に殆ど制限がなく、土地がそのまま広がっていればそこを移動しながら必要なものを交易したり、他の遊牧民や農耕民族とも時に交易をします。ただ農耕民族からしたら遊牧民は部外者として扱われ、蛮族のように映ることもしばしば。不当な扱いをされる側からしたら溜まったものではありませんよね。それは遊牧民とて例が出なく、膨大なユーラシア大陸では数多くの遊牧民が川を挟んで成立した文明からのそのような扱いに反発し、時に大規模な集団として発展し、農耕民族を蹂躙するようになるのもまた常でした。
特にメソポタミア文明はその傾向が顕著で、一度そうやって蹂躙してしまえば、農耕民族が貯めていた様々なものを我が物にし、以前にそこにいた農耕民族を被支配階級として置いて、侵略をした側は支配階級となる。それが何百年も続いて、遊牧民がやがて農耕民族と同化し、定住する文化が定着していずれかの時点で、また他の遊牧民からの侵略を受けて滅びまた別の文明が形成されるという流れがずっと続いたわけですね。
それに比べ、比較的に安定しているエジプト文明の間にも、当然遊牧民たちはいました。アラビア半島を転々としている遊牧民たちです。彼らは膨大なユーラシア大陸と比べ、当然規模的に小さい。しかしずっとこのまま遊牧民として、国家を形成せずにいると、エジプト文明とメソポタミア文明に挟まれ、両方から差別と搾取を受けるような生活をし続けないといけない。ただアラビア半島には幾つか、農耕生活ができる地域があって、その一つが現在のイスラエルです。
出エジプト記でモーセはファラオが拾った、イスラエル人の赤ん坊、支配されていたイスラエル人の奴隷を率いてイスラエルの建国に至ったイスラエル人の先祖として描かれていますが、そもそもの話、人類学的に考えてこの起源はあり得ません。実際に当時エジプトの歴史書を見ても、モーセに相当する人物や、イスラエル人の奴隷たちが大規模に解放されたという話は一切書かれておらず、イスラエル人が最初から存在していたという考古学的な証拠も存在しない。
つまるところ、旧約聖書は起源からして、神話パートを出たすぐのところから嘘っぱちの話で出来ているわけなんですね。じゃあ、なんでそんなことをしていたのか、当時、古代を生きていた人々の思考回路を想像してみましょう。
国家を形成するには正当性が必要で、神話体系を作る必要がある。実のところ、創世記に書かれていた短い神話パート、特にエデンの園の話は、当時のメソポタミア文明形成の話をおさらいしているようなものです。
無垢で戦争もなく平和な古代以前の部族だけが存在していた時代に、人々は争いなく自然と共に生きていました。敵は大自然に潜められているもので、他の人間ではない。これらは古生物学の研究で分かったことですが、今まで発見された遺骨は、国家が生成される時代の以前のものなら、人為的な傷で死亡したとされる遺骨は、実のところ、存在しません。
じゃあ殺人はいなかったのかというと、多分いなかったんじゃないかと。人類はそんな平和的だったのか、そう言う話じゃなく、現代と違い、人類が猿と共通の先祖から分立されていた時期、人類の祖先となる猿人たちは、気候変動により分かたれ、他の種、主にネコ科の捕食者たちを含む様々な種との競争を余儀なくされました。つまり、内輪揉めなんてことをしている場合ではなかったわけなんですね。進化を重ねた方向性も、互いに協力して知恵を絞るようにと、互いの表情から感情を読み取るように、表情の変化も豊かになるように、発声のパターンもより多様化され、言わば協力こそが生存と言った風に猿人たちは進化を重ねてきたわけなんですね。
余談ですが、シグルイという漫画で笑顔は本来攻撃的などという、進化の経路を辿る過程からした全く持って間違った話をよく見かけますが、歯を見せるのは、逆に自分は捕食者側ではない、肉食動物のように牙ではなく平たい歯をしているとか、そもそも何も食べてないから血のに匂いはしないとか、そう言った緊張の緩和を相手に伝えるようにしていていて、攻撃的などという話は間違っています。
サブカルチャー業界ではこのように間違った常識が広まることが多いですよね。
またまた余談ですが、重い物を身に着けて生活するより、単純に筋トレをして休む時は休んだ方が体にいいんです。重い物を常に身に着けていると関節に負担がかかって、擦り切れるようになる。少年漫画に度々登場するドラゴンボールからの恒例ですが、実際のプロの格闘技選手だってそんな自らの体を壊すような鍛錬はしていません。人間の筋肉は一度酷使してから休むことで効率よくなるようと調整される。体に負荷をかけ続ける状態は体を逆に壊してしまいます。
そもそもの話、サブカルチャー業界では、ハリウッドもそうですけど、事実の検証をしない。まあ、物語を書く人たちで、観客や読者を多く引くことが重要ですから、事実何て無視しちゃおうという発想になるというか、そもそもの話、シナリオライターや漫画家、小説家は、物語を描くことが職業であって、プロのアスリートでもなければ、特に事実を取材しなくても、例えば専門の大学の教授などに聞かなくても、それが売れる話なんだからそれでいいじゃないかという考え方になりがちで、出版社側でもそれらを間違っているからと指摘することはしない。
だって、出版社やエンターテインメント業界で働いている人たちだって、別にその分野のプロフェッショナルじゃないですからね。これは言わば分業化が進みすぎた現代社会の文化が持つ弊害と言ったところでしょうか。聖書やキリスト教に対しての誤解もそれの一つです。実際の西洋から来て、聖書を何回も何回も読破したことのある本物のキリスト教の信者を前に、天使や悪魔の話をすると、そんな話、そこまで出てないと言われるはずです。実際そうですからね。
話が逸れましたので、本題に戻します。
出エジプト記は文字通りの話じゃなく、比喩的な意味として解釈できます。不安定で支配階級以外は住み心地のあまり良くないメソポタミア文明に比べ、エジプト文明は比較的に温和で穏やか。では、二つの文明に挟まれた状態にあったアラビア半島を転々とする遊牧民たちの考え方したらどうなるか、メソポタミア文明とはあまり関わらず、エジプト文明と関わった方がいい。彼らが信じている神々を信じよう、彼らが守っていることを自分たちも守ろう、彼らの言葉も使おう、などという風に考えるようになるのも自然な流れ。
それに、エジプト文明は気候的にもアラビア半島のそれに近い。結果、遊牧民たちはエジプト文明からの影響を強く受けるようになりました。その影響からの脱却を、出エジプトとして見れば、人類学的な観点と組み合せても整合性が取れる。
それで実際にエジプト文明からの影響から脱するために、これはあくまで推測ですが、モーセというエジプト文明と何らかの直接的な繋がりを持っていた人物がいて、彼がアラビア半島の遊牧民たちを集め、現在のイスラエルのある地域へ侵攻し、その土地を奪い、遊牧民たちが定住する土地として成り立たせるようにしたと。
そして集まった遊牧民は、イスラエル人としてのアイデンティティーを形成するようになったと。これは別に私の想像というわけでも、仮説というわけでもなく、言語学的な流れから実際にわかることでもあります。
西アジアやアラビア半島、アフリカ北東部などに住み、セム語系の言語を話す民族をセム人と言います。アラビア人やエチオピア人、ユダヤ人、アッシリア人、バビロニア人、フェニキア人などが含まれます。イスラエル人が最初から存在していた民族だったのなら、アラビア半島の言語とは違う独自の言語体系を最初から持っていたはずです。しかし彼らは同等の言語を使用し、遺伝子的にもセム人は完全にアラビア半島から来ている。
これらを踏まえると、イスラエル人の起源が最初から存在していた民族がイスラエルとして成り立ったというより、アラビア半島の部族が集まり、今のイスラエル地方の農耕民族を侵略し、彼らを被支配階級としておくことから発生したことがわかります。
ただこんなことをしたら、周りが黙っているわけがない。当然、当時のメソポタミア文明は継続的にちょっかいを描けるようになりました。実際に大規模に兵隊を派遣し、新たにできたイスラエルの属国化を目指しましたが、若いダビデが率いる軍に撃退され、彼はイスラエルの王として即位します。
これは世界的に見ても特殊な事例で、殆どの遊牧民はユーラシア大陸に住んでいて、農耕民族も大規模な文明を形成していましたからね。比較的に小さなアラビア半島で、強大な二つの農耕民族の文明に挟まれ、必要性にかられながらも、さすがにエジプトやメソポタミアを占領するまでの規模には至れず、小さなイスラエル地方を攻略して勝利し、そこに文明を立てて地中海貿易にも参加できるようになる。なんて話、まさに、世界的にも類を見ない物語です。
出エジプト記が半分は嘘っぱちであったとして、それどころの話じゃない。地球全体からして、一つしか事例が存在せず、そもそもイスラエルの規模が小さかったことから、緩く、まるでなろう系で見られる領地経営物のように、仲良くみんなで助け合いながら暮らしていることがわかります。
これは実際に書かれた話で、例えばソロモン王は王でありながら市民同士の争いを仲裁したりと、古代国家にしては随分と穏やかだった。これを、代々の司祭たちは教えられていて、この穏やかな精神を忘れずにいましょうと教育を施してきたのにも関わらず、地中海貿易などを通じて、貧富の格差は拡大し、私腹を肥やす風潮になりつつありました。
旧約聖書の序盤がイスラエル建国期、続けてメソポタミア文明から侵略を受けたイスラエルがその苦難に立ち向かう過程が描かれていて、ダビデ王が即位して、イスラエルの穏やかな黄金期の中での王の神へ捧げる祈祷が書かれている。旧約聖書の『詩編』はこのように黄金期を生きていた指導者たちの祈禱が書かれています。
イスラエルの一般人たちの話と祈禱、風習の話が続いて、やがて貧富の格差が拡大し、農耕民族たちにもう差別は受けまいと、ヤハウェという嵐の神のもとに集った遊牧民たちは、バビロンの侵略で敗退するようになりました。これに対して、聖書ではイスラエル人に元の、建国をした頃の精神を引き戻すことを主張する話が続きます。
これらが予言者たちの話で、エレミヤ書やエゼキエル書などがそれにあたります。それからはバビロニアに捕虜として捕まった司祭たちの話や、イスラエル人であるユダヤ人たちに対して、君たちはそうではなかったじゃないか、過去の精神を取り戻さないかという話や、ユダヤ人として精神性を忘れずに生きていた人たちが信仰を維持していたことで報われるが続きます。
やがてバビロニアが滅び、ペルシャ帝国が成立したころ、イスラエルはペルシャ帝国の一地方として扱われるようになるも、その中でも自らの起源を忘れず、信仰心を維持することへの大事さ、正しいことを成すことの重要さなどが書かれていて、いずれきっと、イスラエルは解放され、彼らを導て解放するであろう救世主が現れるであろうという話で旧約聖書は終わりを迎えます。
III. 新約聖書とキリスト教、西洋文化の形成
新約聖書は実際のところ、イエスキリストが生まれたとされてる時期からは程遠い時期に書かれています。教会の神学者ですらも西暦1年をイエスキリストが誕生した日として数えてない。それはなぜかと言うと、年代表を見比べて、イエスキリストが誕生したのは紀元前30年前後と計算できるからなんですね。
問題は、このイエスキリストという人物が実在していた記録が、聖書以外にはキリスト教の成立を扱う二百年後の歴史書で登場したのが唯一の考古学的証拠であるという点。つまるところ、イエスキリストは存在しなかった⋯⋯。
なんていうのは、半分は正しく、半分は間違っています。モーセがエジプトの王子じゃなかったとて、イスラエルを成立させ、イスラム教でも聖人として扱われることから考えて、完全に創作の人物ではないでしょう。しかし、イエスキリストが実在したとして、彼が神の子であったか、はたまた彼自身が受肉した神であったか、などという話は、単純にまるで根拠のない、後付けの話です。
ただ、イエスキリストのモデルに相当する、同じ名前をもつ人物が生まれていて、予言者たちのように、堕落したユダヤ教の司祭たちを、私腹を肥やすことしか考えない、まさになろう系に良く登場する腐敗した聖職者たちがいて、イエスキリストは彼らを糾弾しながら、教会の外で貧民たちの施しをしたり、イスラエルの起源へと戻りましょうと言う、ユダヤ教の他の預言者たちの教えを自ら実行し、そうしているうちに反感を買って殺害されたという話は、多分事実だと思います。
なぜそれが事実なのかというと、そもそも普通にありえそうな話であると言うのもありますが、無から有を、完全なる創作としてイエスキリストという人物を一から作り出せるには、当時そのような人物を作るという創作の伝統なんぞ存在しなかったからです。
ユダヤ教の教会で洗礼のために貧民からも金をとって洗礼をする?そんなの関係ないと言わんばかりに、そもそもユダヤ教の根本となっていた、イスラエルの成立は、そのようなことはしていなかったし、皆貧しいながらも平等だったし、皆が家族のように親密で、穏やかに暮らしていたと。イエスキリストはその、急進的にも思える古き伝統から基づいて、人々に無料に洗礼を与え、当時の司祭たちと教会の権威を失墜させた。
それを繰り返した結果、やがて目を付けられ、謀略によって殺されたという話で終わるはずでしたけど。当時のローマ帝国にも似たような流れがあって、特に古代ギリシャや帝国になる前のローマは比較的に平等で、自由だった。それが今はどうかと言う嘆きの情緒がありましたが、それを口にすることは難しかった。
しかし、そんな人たちにある話を耳にする。イスラエルの成り立ちと、その成り立ちからして古い伝統を取り戻しましょうと言っていた若き青年が、私腹を肥やすことの邪魔をしてくれたと、司祭たちの謀略によってむごい死に方をされる。この話を聞いて共感していた当時のローマ帝国を生きていた人たちは、その人物を中心にあるでたらめの話を作り出す。どうせイスラエル地方なんてローマ帝国からしたら田舎でも田舎。確認するために向かうなんてこともできやしない。
だから復活にまつわる話をして、神の国はどのように出来ているのか、善良に暮らして、互いに愛し合う人生を、物質文化から離れ、敬虔な人生を生きることを書いて広める。その思想に共感した人たちが自分も自分もと、自分の意見や考えをさもキリストがその場で言ったことを自ら見てきたかのように書いて広めた。ローマ帝国は最初にこの教えを危険と見なしましたが、やがて手に負えない程にまで広まり、最終的にローマ帝国はキリスト教を受け入れるだけじゃなく、利用するようにまで至ります。
聖書は、前述したように旧約聖書から見てみると、遊牧民と農耕民族とのわだかまりから始まります。そして、ローマ帝国からして北方民族はすべて遊牧民で、当然わだかまりがある。違いがあると言うなら、ローマ帝国そのものが最初から遊牧民を抱きかかえながら生まれており、北方民族たちの規模が二つの大きな農耕文明に挟まれたイスラエルと比べて大規模だった点。
モチーフはそこにあるので、それを広めればいい。北方民族をただ弾圧して奴隷にするにも限界がある。だから、西ローマ帝国は解体されながらもカトリック教会として、北方民族へと強い影響力を持ち続けるようになります。
このような話に挿げ替えればいいだけなので。
「あのイスラエルの遊牧民たちも、神を信じることで定住してあんなに平和で穏やかに生きていたんだから、君たちだってできるんじゃないか。」
この挿げ替えは同時に、その古代世界から蓄積された記憶を受け継ぎ、北方の遊牧民たちを自分たちで教え導くというカトリック教会の思惑が絡んでおり、現代にもこの上から目線の、教え導くのは自分たちであるという考えは変わっていません。
ただこれは西洋でも西に関する話で、東はというと、西と違って支配階級から受け入れるということをしています。なぜかと言うと、東ヨーロッパでもウラル山脈には狩猟民族が住んでいて、現在のポーランドやウクライナに当たる地域ではウラル山脈の狩猟民族との争いが続いており、遊牧民を統合してその争いに終止符を打つ必要性を支配階級からして切実に感じていたからです。
実際に東ヨーロッパで聖人認定されている人の中では王や女王、当時の支配階級の名前が連なっていて、それは彼らが進んでキリスト教を普及するようにしていたのが原因です。
この伝統は近世にまで続き、かのヴラド・ツェペシュがイスラムに対しての過激な対応をしている時にも、元をただすとこのような流れと密接な繋がりを持っています。
最後に
サブカルチャー業界では文明が持つ実際の流れ、深みを一部だけ切り取って分かりやすいながら、FGOのように萌え文化と直接つながるなどという事をしていますが、私はそれらを特に悪いとは思っていません。実際のところ、このような流れがあったからなんだというのか、今を生きている我々に何の関係があるのかと、考えるのも別段間違ってはいませんからね。我々が生きている今現在の世界は、高度なテクノロジーでできた、グローバル経済を持つ世界です。
ただ、だからと言って、それこそが事実であった、聖書の悪魔や天使の話のように刺激的なものだけを目にして、それこそが人類の全てであったなどと言う風に考えるのは、ただの誤解でしかなく、もっと具体的に興味深い流れがあることを知らずに、表面的な部分だけみて、それ以上のことは考える余地すらないと、自らを教育させ、人生をより豊かにする機会を捨てるようなものだと思ったので。
それはとても勿体ないことなんじゃないかと。
というわけで、こういう話を書いてみましたが、別にキリスト教信者にどうこう言うつもりはありません。だってね、キリスト教はカルト宗教に比べたらずっとましな方なので、さびれた町とかに行くと、互いに交流するきっかけすらない場合が殆どで、田舎とか。そう言う時、宗教を何か持っていると、互いに話も進みます。親しくもなりますし、別に教会に日曜日の朝出て、他の人たちと顔も繋いで、話し合って、まあ、そう言うことは、別に悪いとは思いませんし、逆に私みたいな無神論者は、むしろ彼らより、地方に宗教もなくひっそり暮らしていたら寂しいという。
個人同士での繋がりが希薄になっていく現代社会で、キリスト教のこのような哀愁、悲嘆の気持ちは、普通に理解できるものですからね。だからこれを読んでいただいた皆さんにも、キリスト教はなぜ世界的な宗教で、彼らは一体何を信じているのかという話などをしてみたかったと言うのもあります。
まあ、お役に立てたなら幸いです。では。