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巻き戻りの人生と呪いの行きつく先は

作者: みそ

初投稿のため、至らない点が多々あるかとおもいます。

温かい目でご覧いただけましたら幸いです

目が覚めた。

自分の手を見る。小さな手だ。子供の手。両親に愛され、庇護されて、まだどんな重責も知らなければ、どんな理不尽も知らない、柔らかな皮膚。

小さく息をつく。これで何度目だろうか。

肌触りの良いシーツから這い出し、部屋に設られた姿見の前に立つ。

そこには小さな女の子が立っていた。齢8つの女の子。見慣れた自分の姿がそこにある。いや、かつて見慣れていた姿、と言うのが正しいだろう。

先程目を覚ます直前に、彼女は22歳で死んだはずだった。22年分の人生を過ごし、年相応の姿となって、そして死んだ。

彼女は小さな手のひらを目の前にかざす。そして指折り数え始めた。

(1、2、3…)

彼女は何度も死に、そして8歳からの人生を繰り返している。


一度目の人生で、彼女はこの国の王子と婚約し、結婚した。そして22歳で死んだ。死んだ理由は分からない。重責を背負いつつも、特段問題なく生活していたはずだ。国に大きな混乱はなく、政略ではあったが夫婦仲も良好だった。恋心がお互いにあったかと言われれば、定かと肯定することはできないが、情はあった。共に責を担い、国のために身を粉にして働いていた王子とは、良好な関係を築いていたように思っていたが、最後に覚えている記憶は就寝前に紅茶を飲んでいたことだったから、初めて人生を繰り返した二回目の彼女は、一度目の死因として、毒殺をわずかに疑った。だが疑っただけだ。犯人については心当たりがなかったし、苦しんだ記憶もなかった。


二度目の人生で、彼女は薬師になった。

二度目の人生をこの部屋で目覚めた彼女は、わずかな混乱ののち、次の人生をどう生きるかを決めた。一度目に自分が死んだ理由が知りたかった。それは、復讐心や恐怖の感情からではなく、ただ単にそうせねばならない、という意志の力によるものだった。単なる好奇心、と言うには自分でも切実すぎると感じる気持ちを持て余しながら、自分が毒物で死んだ可能性を考え、薬学を学ぶことにしたのだった。

彼女はその人生で、薬師としてさまざまな薬を栽培・調合し、学んだが、結局一度目の自分がなぜ死んだのかはわからなかった。苦しみの記憶もなく、ただ死んだだけの彼女には、自分が摂取したかもしれない毒物を特定することすらできなかった。そうして、再び22歳で彼女は死んだ。


三度目。彼女は医師になった。二度目の死も、その原因はわからない。ただ、一度目も二度目も、しんと静まり返る夜が最後の記憶だった。全く異なる人生を生きて、詳細な日付までは覚えていないものの、同時期に死んだ。その事実に、自分に何か、今の医学では気づけない持病があるのではないかと考えたのが医師になった理由だった。

薬師だった頃の知識をフルに活用して、彼女は国でもとびきり優秀な医師に弟子入りし、貪欲に知識と技術を取り込んでいった。その中で自身の身についても詳細に診察・検査したが、どこにも異常は見つけられなかった。突然死の可能性がゼロだとは言えないが(何事も100%、と言うものは存在しないよ、と言うのは師匠の口癖だ)、そのリスクは限りなく低い、と言うのが師匠と己の共通する見立てだった。そして、充実した日々を送りながら、彼女はまたしても己の死因に辿り着くことはできなかった。そうして、22歳で再び死んだ。秋の、月のない静かな夜のことだった。


四度目に目が覚めた時、彼女は自分が死ぬのがいつも同じ日であると言うことを悟った。秋の月のない夜。二度目・三度目は間違いなく同じ日で、同時期だと言うことだけは確実な一度目も、おそらく同じ日だろうと思われた。毒殺ではなく、己の体にもなんら問題ない。では、死因は?少しの間ベッドの中で考えを巡らせた四度目の彼女は、次は呪術師になることにした。この国では薬学と呪術が密接に繋がっている。薬学単体では成せない苦しまない死を、呪術でなら果たせるのではないか、と考えたのが呪術師という職業を選んだ理由だった。それに、それなら、健康なものを殺すことだってできるだろう。

そう考えていたのだが、その予想は早々に崩された。呪術を学ぶまで知らなかったのだが、呪術とは人を呪う技術ではないらしい。呪いと言うものはちょっとした悪意を発端にして始まり、それに超常的な何かが加わることで偶然発生するもので、人間の手で作り出すことはできない物なのだった。呪術師が呪いを作り出し、健康な人間を呪って殺すなど、出来ようはずもないのだ。

呪術師とは、発生してしまった呪いに対処する者のことをさす。呪いの本質を知り、なぜそれが育ってしまったのかを探り、育った呪いを少しずつ小さくしていく地道な作業を行う者だ。呪術師として過ごす内に、彼女はそのことを知り、呪術師としての術を身につけていった。

22歳となった秋、月のない夜。彼女は呪術師としての知識を総動員して己の体を調べたが、どんな呪いの痕跡も見つけられなかった。そしてその日に、彼女は四度目の死を迎えた。

死ぬ直前、彼女は呪いが世界を覆ったことを知った。

そして気づく。

この日、この時に。死ぬのは自分だけではないのだと。

この世界そのもの。

自分を含めたすべての人間、全ての生き物、この世界そのものが消失しているのだ。

ーーーー呪いによって。


(…5。)

カウントと共に、小さな小指が折り込まれる。

五度目の今、彼女はちいさな手のひらを見つめている。

次に己は何をすべきだろうか。なぜ自分が人生を繰り返しているのかは不明だが、どうせならこの世界と、この世界に生きる全てを、できる限り生かしてやりたい。

そう思ったのはきっと、王太子妃として生きた一度目の人生が己の指針になっているためだろう。最大多数の最大幸福を追い求めることが骨の髄まで染み付いている。

そして。


彼女は目を閉じる。

握り込んだ右手を胸に引き寄せ、左手で包み込んだ。


呪術師だった自分が死ぬ寸前に感じた、身を切るような淋しさのせいだと思う。本来、呪いは悪意が発端になるものだ。だが、死ぬ寸前に触れた世界を覆う呪いの核は、血反吐を吐くような淋しさに満ちていた。そこに悪意は感じられず、迫り来る呪いの靄に身を包まれた時、呪いに肌を焦がし、呪いに侵食されながら、彼女はただ涙を流した。それは自分の感情故ではなく、呪いのなかに存在した、一途に他者の温度を求める、切ないまでの淋しさのせいだった。


この後、自分にできることはなんだろうか。

この国の次代を担う王太子妃として生き、薬師としてこの世のありとあらゆる薬草を学び、医者としてさまざまな病気と相対し、呪術師として世界を覆う呪いを知った。

あれほどの呪いが、一日二日でなる訳がない。きっと、あの呪いはすでにこの世に存在している。そして少しずつ膨れ上がり、14年後の秋、月の無いあの夜に溢れて世界を覆うのだ。


ひときわ強く目をつむり、そして彼女は目を開けた。

あの淋しさを、その原因を。

癒してやらなければならない。

なぜ自分なのかはわからない。人生を繰り返している理由も。

だが、きっと自分にしかできない。


彼女の名前はアイル・ディズナリー。侯爵家の令嬢だ。父はこの国の王に侍る重臣だった。


五度目の人生が始まり、アイルはこれまでの人生で関わりの深かった人たちに会うことにした。今世ではまだどんな繋がりもないけれど、だからと言って切実な願いを持って会いにくる人間を無下にするような人たちは一人としていない。信じてもらえるかどうかはさておき、追い返されたりはしないだろう。それは彼らを知るからこその甘えで、彼らへの信頼の深さの表れだった。そう考え、一番最初に会いに行ったのは、この国の王子。かつて一度目の人生でアイルの伴侶であった人だ。

彼に会うにあたり、なるだけ華美なところの無い、落ち着いたドレスを選んだ。縁組などではなく、協力を申し込みにいく顔合わせだ。この対面をセッティングした両親や王たちがどのように考えているかは知らないが、アイルにとってはこの顔合わせはこの後の世界の結末を決めると言っても過言ではない。今、己の目的を達成するために必要なものは、華美な服装ではなかった。


城の庭園は美しかった。

青い空の下、青々と繁る緑の中に彼は立っていた。懐かしい後ろ姿だ。

なぜだろうか。その背中を見つめてると、アイルの胸が少し軋んだ。

風景に溶け込む彼の姿が雫に揺れる。己の瞳に水膜が張っていることに、彼の影が揺れたことで気づいた。瞬きで水膜を払い、呼吸を整える。

アイルを案内したメイドが彼にアイルの来訪を告げる。

音もなく、彼がこちらを振り返った。

まだ子供特有のまろさをわずかに残した頬。

理知的な瞳。静かなその視線。


(懐かしい・・・)


アイルは面を伏せた。

美しいカーテシーで彼の視線を迎えた。

見つめられているのを感じる。互いに不快感はないようだった。一瞬の空白の後、空気が緩む。


「ディズナリー侯爵令嬢、よく来てくれた」


記憶にあるよりも幼い声。懐かしい声。

そうだ。彼は幼い頃、こんな声をしていた。

楽にしてくれ、の声にアイルが顔を上げる。

懐かしい笑顔がそこにあった。思わず、頬が緩む。


「お久しゅうこざいます」


そう挨拶したアイルに、王子は怪訝な顔をした。


王子とはそれから何度か顔を合わせた。

それは縁組を進めるためのものではなく、ひたすらにアイルの目的を果たすためのものだった。城の庭園で対面を果たしたあの日、アイルは言葉を尽くして14年後に訪れるこの世界の終わりについて語って見せた。

もちろんすぐに信じられるものではない。それを理解していたアイルは、それまでの人生で得た知識を惜しげもなく披露してみせた。

僥倖だったのは、その知識の裏付け作業のために、かつての人生で師と仰いだ面々が招集された事だろう。

薬学、医学、呪術の分野で、これから発見される予定の事象を説明し、その検証を師たちが行う。そしてそれが事実であることが確認される。その繰り返しによって、アイルの話は妄想として切って捨てることのできるものではなくなった。

信じてもらえたのかは定かではないものの、検証する余地のある事象として、国の重鎮達に認知されたことは確かだ。それは、アイルの言葉をこの国にとって、ひいてはこの世界にとって有用なものである、と判断し、王へ話を通した王子の功績に他ならなかった。

彼もまた、最大多数の最大幸福を第一に考えて行動する、一度目の人生で共に歩んだあの頃のままの気質を持っていた。


だがどれほどアイルの語る未来の話が正しく思えようと、いや、思えるからこそ、14年後に訪れる世界の終わりの原因がはっきしりないことが、アイルと、その周辺にいる者達を疲弊させた。

アイルとかつての師たちは、日々をさまざまな推論と考察、新たな知識吸収のために費やした。呪術は対処療法だ。発現した呪いに対処するのが呪術であり、発生するまえに対処するものではない。だが、14年後に発現する呪いは発現と同時に世界を消し去るのだ。発現させるわけにはいかなかった。

アイルは疲弊し切って眠る度、四度目に己が死んだあの夜の夢を見るようになっていた。


月のない暗い夜。秋のことだ。

しんと静まり返った闇の中。

アイルは東から押し寄せる闇を見る。

呪術師として生きた人生の中で何度も見た、呪いの形だ。靄のような何か。闇よりなお深く蠢く闇。

何がしかの悪意に超常的な何かが作用することで生まれるとされるもの。人間には作り出せいないもの。だが、核になる感情は人間のものなのだ。意図的に発生させられないだけで、発生の源には常に人間がいる。人の感情が世界を覆う呪いに変じる。

夜を、大地を、この世界全体を。アイルごと飲み込んで、呪いが全てを食い尽くす。

肌にちりちりとした不快感。闇が己を侵食していく。

(淋しい)

一瞬、それを自分の感情と勘違いする。

(淋しい)

皮膚を越え、血の巡りにのって、呪いはアイルの奥深くへ潜り込んでゆくようだった。

(誰か…)

身を切るような切なさがアイルの中に広がっていく。

底なしの淋しさ。広く冷たい砂漠の夜を、永遠に1人置き去りにされるような。そんな淋しさだと思う。その砂漠には生き物がいない。その夜のどこにも、自分以外に何も存在しないことを知っている。どんな温もりもない。ただ、自分だけがそこにいて、永遠にその運命を享受し続ける。永遠に続く責め苦。

(…お母さん)

小さな子供がそう呼ぶ。掠れたそれは泣き声のようだった。

アイルは呪いに飲まれ、胸を焦がす切なさを抱えて意識を闇に溶かす。


そして朝日の中、目を覚ました。

背中にはじっとりと汗をかいていた。

息が荒い。

(…お母さん)

そう言って泣く子供の声が脳裏にこびりついて離れなかった。


なんの進展もないまま、アイルは16歳になっていた。

その頃には薬学、医学、呪術以外の専門家達も招聘され、日々対応策が議論される城の一室は、おそらく現在において世界最高水準の研究機関となっていた。アイルの夢の内容は共有され、この呪いの根源にある感情が、悪意ではなく淋しさからくるものなのではないか、また、その感情のもとになっているのは幼い子供なのではないか、という推察がなされるようになっていた。だが、それが分かったところで、東のどこにその子供がいて、彼がどういった状況なのかは不明なままだ。

依然として状況は悪い。


そんなある日、王子が一人の女性を城の一室へ伴ってきた。王子は公務の傍ら、国の至る所へ出向き、知識人や希少な書物、伝承を収集しては持ち帰るようになっていた。

黒いフードを目深に被ったその女性は、占い師だった。

さまざまな専門家が集められたこの部屋において、占い師の加入は初めてのことだった。

初老の占い師は、アイルの手を優しい仕草でとって、微笑んだ。後で聞いたところによれば、この頃のアイルはあまりにひどい顔をしていたらしい。進展しない事態と、夜毎の夢に疲れ切っていた。誰よりも深刻に事態を受け止め、対処しようと努力するアイルの姿があったからこそ、雲を掴むようなこの事態で、これほどまでの人材がその一室に集められ、倦むことなく働いていたのだった。

「大丈夫よ。まだ、時間はあるわ。ね、そうでしょう?」

占い師が春の陽気を思わせる声でそういった。皺々の手がアイルの手のひらを優しく撫でる。乾燥したその手の甲に、暖かな雫が落ちる。それはアイルの瞳からこぼれ落ちていた。

「大丈夫」

そこからの記憶はあまりない。

切々と夢で感じる淋しさについて語ったような気もする。あのこがたまらなく可哀想で仕方がなくて、なんとかしてやりたい、と言うようなことも言った気がする。それまで、明確に「あのこ」などという単語を出したことなどなかったのに、その時のアイルにとって、淋しさを湛えた子供の姿は、とても近くにあるもののように感じられた。青白い細い腕が膝を抱え、面を伏せている姿さえ見えた気がした。伸びるままに放置された頭髪。誰にも顧みられることなくただそこにあり、世界を守ろうとする姿。

そうだ。あのこは、世界を守ろうとしていたのだ。何十年、何百年もの間、あの淋しい場所で一人きり、あのこにとっての世界を守っている。そうして溜まりに溜まった淋しさが、あのこを覆い尽くして、溢れたそれが呪いとなるのだ。

泣き続けるアイルの頬を優しく撫でて、占い師はアイルの瞳を覗き込む。占い師の深く青い瞳に自分の姿が映り込む。その向こう側に子供がいた。

「    」

なんと呼びかけたのかわからない。呼びかけた自覚すらその時にはなかった。

子供の小さな肩が震える。細い腕から顔を上げて、そして。

淋しさに塗れた瞳がアイルを見た。


気づけばアイルは自室のベッドの上で眠っていた。

夢に見たのは、人身御供にされた小さな子供の姿だった。

今よりずっと昔のことだろう。飢饉に見舞われた村の中で、いるのかどうかさえ分からぬ何者かに捧げられた小さな体。後に残される親や兄弟、村人のために、必死に淋しさを堪え、村の安寧を祈り続けてうずくまり続ける彼の心が流れ込んでくるかのようだった。

死を迎え、肉体が滅んでもそこにありつづけて、淋しさを押し殺して皆の幸せのために祈り続ける小さな肩。彼から流れ込んでくる淋しさには底がなかった。彼の夜は、決して明けることなどない。死してなお祈りを捨てられなかった優しい彼に、朝は来ない。


涙を流しながらアイルは目覚めた。




その場所は王都の東に位置する深い森の中にあった。

遥か昔のいつかには、集落もあったのかもしれない。今は濃い緑に埋もれるばかりのその場所には、人の営みの痕跡は発見できなかった。ただ、滝壺を臨む崖上に鎮座する、苔むした巨石だけが人の気配を残すものとしてそこに存在していた。荒々しく削り出された当時には尖っていただろう角は、長い年月を風雨に晒されたためだろう、柔らかなラインを描いている。


東からやってくる呪い。

王子が各地で収集した伝承。

呪いの発生する原因。

古の儀式に使用された薬草。

現在に伝わるその群生地。

失せ物探しの魔法に占い。

さまざま情報をかけ合わせ、ピックアップされたいくつかの地域の一つにその森はあった。

医師・薬師・呪術師・占い師はもちろん、城の騎士・魔法使い・文官の面々など、10数名がそこにいる。いくつかの馬車に乗り込み、途中からは徒歩に切り替えて、ようやくこの場所にやってきた。

アイルは静かに進み出る。

ここで過去に何があったのかはわからない。そこがあたりだともわからない。けれど、何かに呼ばれるようにして、アイルは巨石にそっと手を伸ばした。周囲の人間の、驚きに満ちた声を、遠くに聞いた気がした。


気付くと、アイルは何もない場所にいた。

上も下も、右も左も何もない。

立ってはいるが、下を見たところで、本来立つべき地面さえ存在しない。暗くはないようだが、明るい、と言うのとも違う気がする。きっとここには闇さえ存在しないのだ。どこまでも白い。その白ささえも、白がある、と言うよりも、いかなるものも存在しない結果、白く見ている、と言うような雰囲気だった。

アイルは足を踏み出す。靴をどこへ脱いできたものか、見える爪先は裸足だった。頭がぼんやりと霞がかっている。取り止めもない思考が空転していく。粘性の高い液体の中を進んでいるかのようで、己の動きが緩慢に感じられた。どこか現実感が遠い。茫洋とした思考の中で、しかし迷うことなくアイルは進んだ。

そこにいるものの存在を、アイルは知っていた。


どれほど歩いただろう。わずかな時間にも思えたし、永遠を歩いてきたような気もした。

そして漸く、アイルは立ち止まる。

アイルのつま先の先に、アイルのものより随分小さなつま先が見えた。

アイルがたどり着いたその場所に、彼はいた。

小さな肩。細い腕が足を抱えてうずくまっている。足の間に伏せられて、顔は見えない。

音もなく、アイルはその子供の前にしゃがみ込む。何かを考えていた訳ではなかった。

ただ、そうあることが当然かのように、そっと手を伸ばした。

子供の剥き出しの肩に触れる、直前ーーーー…。


白昼夢を見た。

遠い遠い映像だ。

旱。枯れゆく作物。山火事。…そして疫病。

日毎村の中で会合が行われ、大人たちは暗い顔になっていく。彼らは疲れ果てていたのだ。いつ終わるともしれぬ、地獄が終わることを願い、その願いを小さな子供に託すことにした。おそらくは口減らしの意図もあったのだろう。無垢な子供を神様への贄として差し出すことと、労働力にならない幼児の食い扶持を減らすこと。その両方の意図があって、この子は小さな箱に入れられた。いくばくかの供物と共に。

箱の中で、子供は神様に供えられた供物に手をつけることもなく、ただ残された村の人々が平和でいられることを願った。願って願って、己が死に、肉体が滅びても願うことをやめなかった。自分の中にある、地獄の劫火のように己を苛む淋しさを抑え込んで。


アイルの手が、剥き出しの細い肩にそっと触れた。

呪いが指先をちりちりと焦がす。

この小さな子供の中にある淋しさが、積もりに積もって呪いになったのだ。

アイルの頬を、雫がつたう。

「ダリ」

微笑みながら、アイルはそう呼びかけた。

子供が、緩慢な仕草で顔を上げる。まるで何かに怯えているようだ。

理知的な瞳が見開かれる。そこに人がいるのが信じられない、とでも言うようだ。茫然とした様子で、子供がアイルを見上げていた。

「だれ?」

長い空白ののち、発せられた子供の声は掠れていた。

話し方すら忘れてしまうほどの長い時を、ここで1人きりで過ごしてきたのだ。

アイルは子供の様子に微笑んで、その小さな頬を両手のひらで包み込んだ。

「あなたに会いにきたの。私はアイル。初めまして、ダリ」

先ほど、白昼夢の中で知った子供の名前を呼ぶ。

なるべく優しく響くように。

呆然としていた子供の瞳に、ゆるゆると水膜が張っていく。

光を集めて揺れる水が、見開かれた子供の瞳に揺蕩って、そして、ほろりとこぼれ落ちた。

とどまることを知らず、水滴が落ちてゆく。子供の頬に添えた手のひらを濡らし、何もない空間に消えていく。

アイルはもう一度微笑んで、そっと頬から手のひらを離した。子供が息をのみ、アイルの手を追おうとする。わずかにこわばった子供の体を、今度は両腕でしっかりと抱きしめた。

アイルの細い腕の中にさえ、すっぽりと収まってしまう小さな子供の体。その子供の体からは、溢れつつある呪いが漏れ出ていた。アイルの肌を黒い靄が舐める。そのたび、チリチリと焦げ付くような痛みがアイルの肌に走った。

しばらくされるがままにアイルに抱きしめられていた子供の小さな手のひらが、音もなく持ち上がる。恐る恐る、その手がアイルの背中に縋りついた。アイルの腕の中、小さくて暖かなものが、瞼を閉じて息を吸っては吐いてをくり返している。しばらくすると抱き込んだ小さな体から嗚咽が響いた。

子供から溢れる呪いがアイルの肌を焼いてゆく。呪いの刻印がアイルの肌に刻まれていく。

その上に、暖かな雫が降り注ぐ。

何も言うことができなかった。アイルにできるのは、ただ温もりを分け与えることだけだ。どんな慰めも、労わりの言葉も、ここで子供が過ごしてきた時間、感じた孤独と釣り合うものではない。ただ、今この時、この瞬間だけでいい。この子供が安堵と幸福を、少しでも感じられるのなら、アイルが何度も繰り返し、この場所にたどり着いた意味がある。

たとえ、この後、世界の全てが呪いに飲み込まれ、全てが息絶えたとしても。

呪いが溢れる。白く見えていた空間が、靄に覆い尽くされていく。アイルの肌に刻印された呪いの印から、呪いがアイルの身に潜り込んできた。四度にわたる、かつて経験した死が安らかであったことが信じられないほどの、強烈な苦痛が身の内で暴れている。子供を抱くアイルの腕に力がこもった。アイルの背中にある子供の手にも力が入ったことに気づいて、額に汗を流しながら、アイルは囁いた。

「ダリ、痛いの?」

アイルの腕の中で、子供が小さく首を振る。「お姉ちゃんは痛いの?」とこちらを案ずる声が返った。それに小さく微笑むことで返事をして、アイルは抱きしめた小さな体を撫でた。

空間が闇色に染まっていく。空気の流れる気配がした。遠くで、水滴が落ちる音。

「みんな、元気にしてるかな…?僕は、ちゃんと、みんなの役に立ててるのかな」

「うん」

「いつか、お役目が終わったら、またみんなに会えるかな…?」

アイルの中にダリの淋しさが流れ込んでくる。

脳裏によぎるさまざまな者の顔。それがだれだかわかる。

ダリの父、兄弟、友人、村の大人たち。ーーー…そして母親。

青い空の下、洗濯物を干す母親が笑う。ダリの口端についた米粒を取りさる優しい指先。夜中、かけ布もせず眠るダリに、ふわりと布がかけられる。甘い乳の匂い。

そして。

髪を振り乱し、ダリを抱く強い腕。

ああ。これはダリが生贄になることが決まった夜。

ついで脳裏に浮かんだのは、憔悴しきって、泣き腫らした顔。彼女はダリの前に跪き、これが最後と優しく抱きしめてくれた。長い時間、永遠にこの時が続けばいいとでも言うかのように。

それはダリが生贄になった夜のことだ。秋の、月のない暗い夜。

本当に、その瞬間が永遠に続けばよかったのに。

「きっと会えるわ。みんな、あなたを待ってる」

ダリの記憶の中の、「みんな」。

ダリを生贄にさしだしたくせに、と思ってもいいはずだが、なぜかそうは思えなかった。今を生きるアイルには分からない秩序の中で、彼らは生きていた。天災は今よりもっと超常的で、恐ろしく、神様が近くに存在していた時代のことだ。誰の事も咎められない。

「でも、居たかったら、…ずっとここにいてもいいのよ。私もここにいるから」

「一緒にいてくれるの?」

「そうよ」

「どうして?」

「私がそうしたいから…」

「…どうして?」

「どうしてかしら。自分でも不思議」

最大多数の最大幸福のため?それが、己の中に根付いているから?

我知らず、アイルは微笑む。

アイルの顔のすぐそばにある、小さなつむじに口付ける。

ダリ以外の、誰の幸せもいらない。ただ、この子供を幸せにしたい。この子供に優しい時間と温度とを、与えてやりたかった。そうだ。自分は一度目に死んだあの時からずっと、呪いの中にある淋しさをどうにかしてやりたくて、何度も繰り返してきたのかもしれない。

アイルの中に呪いが侵食する。アイルの指先に、腕に、頬に。忌まわしい紋様が浮かび上がる。

呪いは人の感情を核として生じ、超常的な何かによって変貌する。

呪術師は、それを分析し、理解し、紐解いていくものだ。

アイルの中に積もっていく呪いを、アイルは紐解くことができるだろうか。どれほどの時間がアイルに与えられているだろう。アイルがここにきたことによって、何がどう変わるのだろう。何も分からない。

ふと、自分達の背後に何もかの気配を感じた。

目を瞑り、ただ子供の温度だけを感じているアイルの後ろに、たくさんの足が並んでいるのがわかる。空気が動く。優しい仕草で、誰かの手のひらがアイルの背を撫でた。

一つ、二つ、三つ、いくつもの手がアイルに触れる。そして、鼓舞するかのようにアイルを撫でた。その度、肌を刺し、腹の底を焦がしていた呪いの痛みが少しずつ弱まっていくかのようだった。

「…お母さん?」

ダリが、そう呟く。

背後にいた気配が一つ、アイルの前に回り込むのがわかった。

姿は見えない。闇が吹き荒れる空間の中で、もはやアイルは目を開けることも叶わない。だが、自分達のすぐそばに、暖かな気配がしゃがみ込むのがわかった。そして、アイルごと、子供の体を包み込む。優しい…優しい腕。その温もりを、アイルは知っている。やっとの事で開けた目の前に、微笑みが見えた。

その笑顔も知っている。その温もりは、先ほど走馬灯に見た、ダリの母親の。

(ああ、なんだ…)

アイルは微笑んだ。

何だ。ずっと、みんな、ここにいたのか。

ここで、この子をどうにかしてやりたくて、輪廻の流れに戻ることもなく、ずっと、ここにいたのか。それは一体、どんな気持ちだったろう。贄にした子供が、ひたすらに自分達のことを想って祈り続ける姿を、やがて子供の優しさが不運な偶然で呪いに変貌していく様を見続けるのは。

(今ここにいられて、よかった)

きっとそのために、自分はここにいる。

みんなを認識できなくなったダリと、みんなを繋ぐために。

「ダリ、ねえ、わかる?」

「うん」

涙声の子供の声がした。

「会えたわね」

「うん」

アイルは一際強く子供を抱いた。それに応えるように、ダリの、アイルに縋り付く手のひらが一層強く握り込まれた。

「またいつか、どこかで会いましょう。ここにこられてよかった。ダリに会えて、よかったわ」

「ありがとう、お姉ちゃん」

なぜだろう。永遠にこの時が続けばいいと思った。

たまらないほどの愛おしさが、呪いが暴れる腹の底から溢れてくる。呪いに身を焼かれながら、それで構わないと心の底から思っていた。この小さな子供をここから連れ出すことができるなら、もしできなかったとしても、ほんの少しでも、この子供の魂を癒すことができるのならば、その呪いを自分が受けても構わないと。

それは、大昔、贄になった夜のダリの気持ちと同じだったのかもしれない。生贄になり、淋しさの中に死してなお、村人の平穏を願い続けた子供の気持ちと。


荒れ狂っていた闇が収束する。アイルの中に凝っていた呪いの残滓は、幾つかに分かれ、持って行かれたようだった。アイルの背中を撫でていった、あの手の持ち主たちによって。


目を覚ますと、自室の中にいた。

己の手を見る。子供の手ではない。


数週間の療養ののち、アイルは城へ招聘された。

そこには今まで共に、ことに当たっていた面々が勢揃いしていて、口々にアイルを労った。

アイルが巨石に触れた瞬間、巨石から呪いが溢れ出したらしい。それは外に漏れることなく、アイルの中に入り込んでいったのだそうだ。アイルの肌に痛々しい模様が刻まれ、呪いが侵食していく。その中で、彼らは事前に準備していた通り、その地方に伝わる鎮魂の儀式を行い、呪術師はアイルの身に入り込んだ呪いの解呪を行った。医師たちはアイルをはじめとした一行の体調管理や怪我の治療を行い、薬師たちはその治療用の薬はもちろん、今は失われた儀式に使用する数種類の薬のレシピを再現、煎じた。騎士たちが一行を森の脅威から守り、魔法使いは占い師と共に、巨石の周囲へ結界をはり、場の気の流れを整えた。

その全ての陣頭指揮を行った王子は、城に戻ってからも忙しかったらしい。目の下にクマを作ってアイルを出迎えた。

今はもう馴染んでしまった会議室に、緩んだ空気が流れている。

あの場で何を行い、何が起こっていたのか。その報告は、アイルが療養している間にほぼ終わっていたようだ。残るはアイルの話を聞くだけだったようだが、アイルのために、その場にいた全員が再度あの日、あの場所で何があったのかを教えてくれた。

アイル以外のだれも、ダリのことも、かつての村人のことも見ていなかった。

巨石から溢れ出し、アイルの中に流れ込んだ呪いは、呪術師たちの手によって解呪されたのではないらしい。呪いを小さくする手順はいつも通り行われたものの、呪いそれ自体が巨大すぎて、一体どれほどの時間がかかるものか、完全に解呪するまでにアイルの体が保つのか、そういった議論がなされたようだ。一刻を争うのに、作業は遅々として進まず、焦りが場を支配していた。

「唐突のことでした」

苦笑ながら、かつての師である呪術師が語る。

何の前触れもなく、アイルの中に凝っていた呪いがいくつかの塊にわかれ、それぞれが小さくなっていったらしい。

「なぜかはわかりませんが、私は、それを見て、『浄化されている』と感じました」

これなら何とかなる、と判断した呪術師たちの行動は早かった。アイルの負担をこれ以上ふさやないために、分散した呪いを一つずつ、それぞれで肩代わりすることにした。もはや小さな呪いだ。時間をかけてゆっくりと小さくしていけば、数ヶ月と経たずに消失させられる。呪術師たちの肩には、それぞれ、小さな呪いの痕跡が浮かんでいる。そして、アイルの肩にも。もはや肌を刺すほどの力もなく、呪いはただそこに存在していた。

もはや、こうしてさまざまな分野の重鎮が、こうして城の一室に集まる必要もない。

全ての報告を終えた会議の終わり。アイルはその場にいる全ての人間に深々を頭を下げた。

「私の話を聞いてくださってありがとうございました。力を貸してくださってありがとうございました。私ひとりでは、何もできませんでした。呪いの原因を突き止めることも、それを防ぐことも、何も…。皆様の献身に、最大限の感謝を。」

その場に居合わせた全員が破顔し、アイルの肩を労わるように撫でて部屋を出ていった。口々にかけられた言葉はどれも、アイルを労い、鼓舞するものだった。


だれもいなくなった会議室で、報告書の束を前に息をつく。

一度目に死んでから、今日この時まで、アイルの身を苛んだ焦燥感が消えていた。

消えて初めて、己が焦燥感に苛まれていたことを知った。


どれほどそうしていただろう。

気づけば、王子がアイルの目の前に立っていた。


「ディズナリー嬢」

呼びかけられて、アイルは顔を上げる。

静かな瞳がそこにあった。

凪いだ海のような。月の無い夜のような。静謐で、けれど暖かなもの。

まるで鏡写しのようだ。焦燥感を失った己のありように、彼の瞳が似ている気がした。

「君はこれからどうするんだ」

問いかけの意図がわからず、アイルは首を傾げる。

いつものアイルなら一も二もなく立ち上がって、王子に挨拶していただろうし、今も本来そうすべきだと、頭のどこかではわかっていた。でもできず、子供みたいに首を傾げている。

わずかの間そうして、立ちあがろうとしたアイルを制して、王子はアイルの向かいの椅子に腰掛ける。

「…どう、とは」

「君を苛み続けた呪いは収束しただろう。もはや、世界の終わりを憂うことはない」

「左様でございますね」

王子が体をソファへ沈め、目を伏せる。

何を考えているのだろうか。いつでも前を見据えて、毅然と行動する彼には珍しい仕草だった。

「君は、いつでも張り詰めていた。」

王子が深く息をつき、ゆっくりと瞬いた。

体が重そうだ。きっと、疲れきっているのだろう。

「初めて出会った8つの時、切々と呪いについて語る君を見て、なんて優秀な女の子なんだろうと思った。語る仕草も言葉も、思考さえもまるで大人のそれで、私は君に尊敬の念を覚えた」

王子のその言葉に苦笑を返す。

「申し上げたではありませんか。22歳までの人生を何度も繰り返しているのだと。私の精神は8つの子のそれではございませんでした」

「その意味を、その時はそれほど考えていなかった」

王子がさらに苦笑を返す。疲れてはいるが晴れやかな、いい表情だった。

「長じるに従い、君はますます研ぎ澄まされていった。近づくのが躊躇われるほどに。君は、自分の荒唐無稽な話を、よくもこれだけの者たちが信じてくれたものだと言うが、それも道理というものだ。彼らを前にして臆することもなく、多角的に意見を述べ、検証を行い、推論を述べる君は、ただの子供ではなかった。薬師も医師も呪術師も、己の同類だと認めていたよ。つまり、自分達と同等のものだと。それだけの知識を持ち、訓練された思考力を持ち、今すぐにでも十分にそれぞれの職につける者だと。君と相対すれば相対するほど、我々は君を認めていった。君の言い分がどれほど荒唐無稽だろうと、君の言葉を疑う余地などなかった。たった8つの、それも令嬢が、あれほどの知識を有し、あれほどの覚悟を持って『呪いだ』と騒いだ、その胆力に感嘆する」

「あれほどの識者を集めたのは、殿下ではありませんか。私の力ではありません」

「君の言い分が学術的に正しいものかどうかを検証したかっただけだ。集めた者が全員、正しいと判断したから、今日まで会議が続いていただけで、君が一度でも学術的に正しくないことを言えば、それで終了になっていた可能性だってある。」

王子がアイルを見遣って笑った。

いつの間にこんなに大きくなったのだろう、大きな半身を持ち上げて、前屈みの姿勢になった男は、膝の上に肘を置き、体の前で手を組んだ。

「とんでもなく細い道を渡りきったのは、君だ。他の誰の力でもない。君が出会ったという少年…ダリを助けたのは、君だ」

よくやった。

その言葉を聞いた瞬間、アイルの瞳が濡れた。

溢れる暖かな雫。重力に負けて、アイルは下を向く。己の膝にこぼれ落ちていく雫が、布地の色を変えていく。

「俺と結婚してくれ。」

男の指が伸びてくる。優しい仕草でアイルの頬を拭う。

一度目の人生で伴侶だった。ともに、自分達の目指すべき平和な国を目指して切磋琢磨したパートナー。二度目以降の人生で、誰かのパートナーになったことは無い。誰かに惹かれたこともない。けれど、自分にこの手をとる資格があるとは思えなかった。

「…私は、あの子さえ幸せなら、その他はもはやどうなってもいい、と思ってしまったのです」

あの、何もない空間で、小さな体を抱きしめながら。

自分の背に回る手のひらの小ささを感じ取りながら。

国がどうなっても、世界が滅ぼうとも構わない、と思った。

この子が幸せなら、もう、それ以外に何もいらない。

一度目の人生を生きた頃の自分は、もはやどこにもいない。

「一つでも多くのものを、ではなく。たった一つを。そんな考え方をしてしまった私は、もはや王子妃の器ではありません」

「クソ真面目め」

その言葉に驚いて顔を上げる。口調に似合わず、穏やかな顔で、王子はアイルを見つめていた。こんな男だっただろうか。一度目の人生で共にあったこの男は。

「今の君がどういう思考だろうとたいして問題はない。必要とあれば君は君を変える。この数回の人生でそうしてきたように、その時大事な物のために、君は君を変えられる」

男がアイルを抱きしめる。

見知った温度。愛おしい、温度。一度目の人生で、幾度となく感じた温度だった。

たった一つを守れればそれでいい。あの暗闇の中で感じた気持ちは、簡単には消えないだろう。一生あの時の気持ちを引きずり続けるかもしれない。だが、今自分を抱きしめる、この力強い腕を愛おしいと思う気持ちも本物だった。この男を守っていきたい。

アイルを信じ、アイルのために力を尽くしてくれた。たとえそれが最大多数の最大幸福を達成するためのものだったとして、アイルはこの男に救われたのだ。

あのこも…ダリも、こんな風にしてみんなに抱きしめられているだろうか。凍えるような寂しさから抜け出して、待っていてくれたみんなの中で、笑っているだろうか。

体から力を抜いて、アイルはその身を男に預けた。そっと、男の背を抱きしめる。

優しい手のひらが、アイルの肩に残った呪いの残滓を優しく覆っていた。

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― 新着の感想 ―
良質な読み応えでした。 ループの中で学んだ事と、紡いだ人との縁が、ストレートに救済の役に立つのは、何やらホッコリした気分になるものです。 何故、逆行が何度も発生したのか、呪いでの滅びが世界全体の事なら…
いい!も、それだけです。 物語をありがとうございました。 そして。 私にとっては、この読後感は、ヒューマンドラマ一択ですね。 そのくらい、真摯な気持ちで読ませていただいた物語でした。 この世に出して…
優しいステキな物語でした。 巻き戻る生に倦まず弛まず、自身のできる最大限を重ねていくアイルはまさに王子妃の器だと思います。 支える王子もステキです。 ステキな物語をありがとうございました!
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