4話 懸念はあるがなるようになるしかない
誠が香美屋を後にしてから。
マスターは「ちょっと失礼」とさりげなく店の出入口を潜り、階段を登って地上に出るなり辺りを見回して、すぐにまた階段を降りて店に戻る。
戻ってきたマスターを見て、凪紗は少しは飲みやすい温度になってきたコーヒーを一口啜ってから、
「どうでした?」
何とは言わずに、"どう"だったのかを訊ねた。
「うん、店の周りで待ち伏せしてるようなことは無かったよ」
「……よかった」
ほっと胸を撫で下ろす凪紗。
「真面目そうな好青年だし、速水ちゃんにどうこうするような子には見えないがね」
「だったらいいんですけど」
はぁ、と凪紗は溜め息を溢す。
「もう名前忘れましたけど、前のバイトくん……もう来てませんよね?」
「出禁にしたからねぇ、さすがに店に踏み込んで来ることは無いだろうけど、やっぱり帰り道が心配になる」
実のところ。
渉が誠に話していた「前のバイトが急にやめた」と言うのは、業務を疎かにして凪紗に粘着していた挙げ句、彼女にストーカー同然の行為に及んだため、警察沙汰になったのだ。
そのバイトは当然解雇、出禁となったのだが、そうなるとせっかく確保出来そうだった人手を手放すことにもなる。
これに困ったマスターは渉に相談し、バイトが出来そうでなおかつ真面目に仕事をしてくれそうな人はいないかと募ってみたところ、誠に白羽の矢が立った、と言う事情があった。
「すみませんマスター、私の我が儘に付き合ってもらって」
先ほどマスターが一度店の外に出たのも、誠が店の近くで凪紗を待ち伏せしているのでは無いかと疑ったからだ。それも杞憂だったようだが。
「いいんだよ。速水ちゃんはウチの大事なお得意様だからね」
これくらい安い御用だよ、とマスターは笑った。
「まぁ、渉君……ウチの甥っ子が「こいつは出来るヤツだから信用していい、俺が保証します」って言ってたくらいだし、大丈夫だろう」
「マスターの言うことは、信じますけど」
凪紗もまた、道に迷っていた誠のことを最初は無視しようと思っていた。
ただ、無視しようとは思い切れなかったのは、
「(なんかこう、雰囲気が優しそうだったんだよね……)」
そんな人が本当に困ってそうだったから、出来るだけ平静――"不攻不落の速水城塞"を装いながら声をかけた。
加えて、他の男子と違って、隙あらばお近づきになろうとする虎視眈々とした視線を感じなかったのだ。
面接の時も、すぐ近くで見ていたにも関わらず、最初から最後までマスターと目を合わせて、質疑応答に集中していた。
いや、それは当然のことだろうが、今まで自分に言い寄ろうとしてきた男子は、大抵ロクでも無いのがほとんどだったから、椥辻誠と言う後輩男子が特別に見えたのか。
「(ま、余計なことをしなければ何でもいいか)」
過度な干渉はせず、従業員とお客様と言う体をきちんと守ってくれる分には文句は無いとして、凪紗はそう結論付けた。
誠が香美屋を後にしてから。
比較的学園からの距離が近いマンションに居を構えている誠は、帰宅してすぐに、渉に向けてRINEにメッセージを送った。
誠:お疲れさん。無事に採用されたから、明日から勤務に入るよ
近況報告を終えてから、夕食を作り始める。
やや間を置いてから着信音が聞こえ、手を止めても問題ないところでスマートフォンを取って更新を確認。
渉:こっちも部活動終わったわー。さすが誠、面接も余裕っしょ?
誠:余裕ってことは無いけど、優しそうなマスターさんだったし、渉からの推薦もあるから、大目に見てもらったところもあるだろうし
渉:相変わらず気持ちいいくらい謙虚なやっちゃなー、さっき叔父さんからもラインくれたけど、真面目そうな子で良かったって言ってた
誠:悪い、夕食作ってるから一旦ここで
最後に、渉の方から『お腹空いた』のスタンプを既読してから、スマートフォンを置いた。
夕食から入浴を流れるように終えてから、明日の授業の準備と、衣装ケースの奥の方からエプロンを引っ張り出す。
香美屋で勤務するに当たって、学園の制服そのままで働くわけにはいかないので、上着を脱いだYシャツの上からエプロンを着ける形を取ろうと、誠は考えていた。
以前の飲食店のバイトでも着用していた、それなりに使い込み、馴染んだエプロンだ。
丁寧に折り畳んでいたそれを広げて、問題ないことを確かめてから、また折り畳み、鞄の中へ入れる。
これで明日の準備は良しとしたところで。
「速水先輩……あの店に通ってるんだよな」
ふと思い出したのは、凪紗のことだった。
孤高の天才テニスプレーヤー、不攻不落の速水城塞と呼ばれ、身内以外に心を許さないストイックな美少女だと思えば、コーヒーを片手に緩やかな時を過ごしていた。
それも、小洒落たチェーン店ではない、穴場の喫茶店で。
まるで、身を隠すようにひっそりと。
加えて、今日はごく短い時間しか店内に居られなかったが、この時間帯の客層は中高年ばかり――学生や若者が集うような場所ではなかった。
「もしかしたら、悪いことしたかもな……」
学園では休まらないから、自宅以外だとああいった場所でしか休めないのかもしれない。
せっかくの心休まる憩いの場所に、同じ学園の男子がいては、休めるものも休まらないだろう。
だからと言って、渉の推薦や、面接でも好印象を見せた手前「やっぱりやめます」と言うわけにもいかない。
「(まぁ……なるようになるしかないか)」
結局のところ、そうする他に着地点が無い。
重要なのは、喫茶店の従業員としてあるべき姿勢であり、お客が誰であろうと関係ない、と誠は頭を振った。
とにもかくにも明日からだ。