影武者姫と敵国の王子
わたしはフレイ。ベルン王国の隠密でありフリア姫の影武者であり、双子の、妹。
普段は軽く変装して姫付きの侍女として働いている。なので彼女の一挙一動はしっかりと把握していて、完璧な影武者として振舞える。双子ならではの見た目も都合が良かった。
妻――わたしの実母――を亡くした陛下は、薄紅が混じる金の髪を持ち生き写しであるフリア姫を猫可愛がりし甘やかして育てた。そのため彼女は我儘放題に過ごし、下の者を虐げ、好みの男を侍らせ、気に入らない者は罰するという、まるで子供が持つ無邪気さ残酷さを有したまま大人になった。
そのツケが国全体に回ってくる事になる。
姫が隣国アーデルドの使者を独断で処刑した事に端を発して紛争が起こったためである。
何でも、若く端正な使者殿に色目を使ったが見向きもされなかったのに腹を立て、彼に暴行されたのだと嘘を引っさげ陛下に泣きついたらしい。
牢に入れられた使者は裁判にかけられる筈だったが、その前に姫の取り巻きたちが私刑を遂行してしまった。
当然これに隣国アーデルドは怒り心頭で、同盟破棄からの宣戦布告。混乱する国内からも王族に不満が溜まっていた平民や、不当な扱いをされてきた城勤めの官僚たちが反旗を翻す。
外から、内から、じわじわと力を削がれたベルン王国はやがて隣国に呑み込まれ、消えた。
その時の混乱で陛下と腐った上層部は殺され、姫殿下は。
「あたくしを誰だと思ってるの! 離しなさい! 今なら許してあげるから!」
と、命乞いどころか、一体何が悪いのか分からずに癇癪を起こす子供のような態度のまま、首を落とされた。
王と姫を殺したのは隠密部隊の上層部。王の遺体はそのまま放っておかれたが、姫の遺体は塵も残さず消したらしい。
と、ここまでは部隊の諜報部から聞いた話。
わたしは丁度長期休暇という名目で海を渡った隣国に情報収集に行っていたため、この一連の事件の発端――使者の私刑――は帰国後に知った。
そして姫の影武者であるわたしがなぜ今、無事なのか。
城に雪崩れ込んだ隣国の兵と国内の反乱軍が入り乱れる中、隠密部隊のトップである養父に匿われたからだ。
部隊所属の侍女たちに磨かれ『フリア姫』となったわたしは、城の一番奥で養父と共に敵を待ち構えた。
「フレイ。生きろよ。何としても、何があっても生き延びろ。お前は幸せになる権利がある」
随分歳をとってしまった養父・リカルドは目じりの皺を濃くして笑い、わたしを抱きしめた。
「どうして自分はいなくなるみたいな言い方なのよ……お父さん」
「久しぶりだな、お前に父と呼ばれるのは」
頭を撫でる手が心地良い反面、わたしの心中は酷く荒れた。もうすぐ、ここに敵が来る。
大勢の乱れた足音、大きく扉を叩きつけるような音に、わたしは気を引き締めた。隠密であり影武者であるわたしの、恐らく最後の仕事だ。
兵たちの先頭に立った青年は毅然とした態度ながらも、その切れ長の赤は憎悪に燃えていた。
「フリア姫だな。貴様を捕虜とし我が国へ連行する」
押し殺した静かな声が部屋に響く。リカルド――お父さん――はわたしの前に歩み出て、目の前の青年に貴族の礼をした。
「こちらに御座すはフリア姫に相違ございません」
青年はお父さんを見て目を細める。敵か味方か判別しているのだろうか。
「貴殿は?」
「私はフリア様付きのロンウェイと申します」
わたしは、予定していたお父さんの言葉にそれでも体が冷えていく。
ロンウェイ。フリア姫の従者にして彼女の恋人であり、隣国の使者に嫉妬し私刑に喜々として参加したという男だ。
その名を聞いた青年は、もはや表情を取り繕う事もせず憎悪で顔を歪ませた。そして腰に下げた長剣をすらりと抜く。
ひやりと冷えた心臓は次の瞬間爆音を叩きだす。泣き叫びたい気持ちを押し込んでお父さんの背中を凝視した。
風を切る音と、何かがごとりと落ちる音。
横に倒れた『ロンウェイ』の首からは血が吹き出し、その上にあった筈の頭は、倒れた体の反対からわたしを見ていた。
(おとうさん)
わかっていた。父が死に急いでいたことは。
でも何故、こんな断罪されるようなやり方で殺されなければならないのか。父が一体何をしたと言うのか。
ぼんやりと父の顔を見ていたわたしに、靴音を鳴らしながら青年が近づき、寝台の縁に腰掛けていたわたしを影が覆う。
ゆっくりと見上げると、冷たいような燃え上がるような赤い瞳に『フリア姫』が映っていた。
「愛人が死んだというのに何の感想もなしか。噂に聞いていた通り性根の腐った女だ」
姉の性根が腐っていたのは認めるが、さすがにロンウェイが死んだら取り乱すと思う。
わたしは上手く思考を回す事ができずに明後日の方向に物事を考え、まだぼんやりと彼を見上げていた。
「楽に死ねると思うな。兄の無念を晴らすため我が一族の裁きを受けよ」
(兄……使者はアーデルド第一王子だったのね……確か病弱で廃太子となったという……)
従者ひとりのために戦争を起こした隣国。目の前の、恐らく王子であろう青年が自ら兵を率いて乗り込んできた理由。合点がいく。
「っぐ……!」
急に喉が圧迫された。青年がわたしの喉を片手で掴み寝台に叩きつけたのだ。彼はわたしに馬乗りになり、手の甲で頬を打った。その反動で顔を向けた先には転がった父の頭。
楽に死ねると思うな。推定王子はそう言った。
しかしわたしの目の前で首を切られた父は、おそらく一瞬だった。
楽に、逝けたのだろうか。痛みなど感じずに。せめてそうであって欲しい。今のわたしが思うのはただそれだけだった。
(お父さん、ありがとう……わたしを育ててくれて、強くしてくれて。愛してくれて)
程よく首を絞められながらわたしは父に安らかな祈りを捧げていたら、青年は息を呑んだ。
「っ……毒婦が」
地を這うような声が聞こえたと思ったら、胸元がひやりとした。
わたしが今着ている姉の物だったであろうドレスを青年が思いっきり引き裂いていたのだ。
「え……」
喉を引きつらせて叫び身動ぎするわたしをもう一度引っぱたいた青年は、後ろにいた騎士に何かを指示した。
はっとした。ここにはまだ数人の兵と、彼の補佐らしき眼鏡の青年が扉の前で待機していたのだ。
沢山の男の前で、わたしを……。
ひりつく頬、熱く焼ける苦痛を伴う首、体。
思わず顔を背けると、そこには真っ白になって転がる父が、いた。
縮む心臓と、混乱する頭と、噛まれ跡の熱を持った痛みがぐちゃぐちゃになり。唯一自由に動く頭を振り、父の『視界』から逃れる。
(嫌、いやだ! お父さんの前で、こんな、お父さん……)
体が引き裂かれる程の痛みに、叫ぶ声が引っかかって、ひくついた。
「く……っ……無理、だろ、これ」
わたしを見下ろす王子がそんな事を呟いているのをわたしはよく分からない心境で聞いていた。
(無理……? むりって、なに……)
下腹部は痛みで既に感覚が無い。わたしはもう叫ぶ気力もなく、ずっと父を呼んでいた。
※
優しかった兄を謂れ無き罪で嵌め、私刑に処した悪女。一見するとあどけなく美しい女のそれは被りものである。
自分の意のままにならない人間は誰であろうと虐げ殺し、気に入った男がいたならばその美貌と体を使って無理矢理手に入れる。
ベルン王国の姫、フリアの調査報告だ。
俺が虐待紛いに貫いたこの少女が、そうなのだろうか。
あの一瞬見せた全てを諦めたような、慈愛に満ちた微笑みに惹き込まれそうになったのに気を引き締め、見目のいい男ならば誰でも媚を売るという女だという事を思い出す。
手酷く残虐に凌辱するつもりで、まるで生娘のようだと戸惑いながらも解さぬままに猛りを納めるが……。
おとうさん。と何度もうわ言のように呟き、その目は何も映ってはいなかった。
気絶した姫の体にシーツを被せ、俺は身の回りを整え直した。
「クロード殿下……」
俺の側近である騎士・ルイの顔は血の気が引いていて茫然としていた。押さえていた姫の両手をそろりとシーツが被さる胸へ持っていく。
扉の前で事を静観していた補佐のマルクはすでに兵を下がらせており、部屋には俺たち三人、いや、姫と四人しかいない。マルクは眼鏡を外し眉間を揉みながらこちらへ来る。
三人共、頭の中にある確信に近い予想を誰も口に出来ないまま、刻々と時間が経過する。
「影武者、でしょうかね」
マルクは痛々しげに姫を一瞬視界に入れてから、胴と首が離れた死体にも視線を移す。
「王女がもうすぐこちらに来られます。僕の予想だと、恐らく……」
「この男も偽物、か」
震えて叫びだしたい衝動に駆られるが、二人の臣下の手前そんなみっともない事は出来ない。しっかりと現実を見なければならない。
「ルイ、すまない。忘れろ。この件は全て俺のせいにしろ」
真っ白な顔で泣きそうになっているルイ。
幼い頃から兄上と仲が良く、彼の推薦で俺の側近になった清廉潔白な騎士。誰よりも兄の死を悲しみ、憤った。
その思いだけで動いていたルイが、憎い姫の……影武者であるとはいえ、乙女の純潔を無残に奪う事に加担したのだ。腹を切りかねない。
ゆっくりと扉が開く音に俺たちはぴくりと体を跳ねさせた。
僅かに開いた両開きの扉を縫うようにして、ローブを着た姉上が入室した。深くフードを被った彼女は大分憔悴しているようだ。
ちらりとベッドの上の存在を認識し、唇を噛んで顔を歪ませた。それは憎い相手を見るそれというよりも悲壮感が溢れていた。
「……遅かったみたいね」
ぼそりと放った言葉の意味を問う者はここにはいない。
「姉上。彼女の治療を」
「ええ。わかってると思うけど……」
姉上が告げた事実は、俺たちを生涯蝕むものであった。
「心の傷はあたしでは治せないわよ?」
姉上は治療が終わったと俺たちに入室を促した。何人かの侍女が俺たちと入れ替わりに退室していく。
ベッドのシーツは取り替えられ、そこで少女は真新しい簡易なドレスに身を包み眠っていた。姉上たちが着せたのだろう。
首筋や頬、見える範囲ではすっかり傷は癒えたようで少し、安堵する。自分が付けたものだというのに。
「城内の時を見た結果を報告するわ」
時見の魔女である彼女によると、我らの仇であるフリア姫と従者のロンウェイは既に国の内部敵が殺し、死体は完全に消滅したという。
死ぬ間際まで反省の色は見えなかったらしい。
「この子の名はフレイ。フリアの双子の……片割れだけれど公にはされてない。この件は姫本人も知らなかったみたいね。フリアはたった一人の王の娘として、フレイは影武者として二人が産まれた時に隔離させた。王は国の隠密部隊にフレイを任せ、一切顧みる事は無かったみたいよ」
案の定この少女は影武者。しかも双子か。
俺は一度だけ見た姫の肖像画を思い浮かべた。通りでそっくりなわけだ。
産まれた時から父王に捨てられた少女。姫の捨て駒。
姉上は目を閉じ、時を遡り見た記憶を探っているようだ。
「この男の人はその隠密部隊の頭。フレイを引き取って隠密の仕事から一人で生きていくための処世術やらを教えた養父。優しく時に厳しく、本当の親子みたいだったわ」
ああ、この少女――フレイという名か――。彼女がずっと口にしていた父とは、俺が目の前で首を刎ねたこの男の事だったのだ。
俺は何という、残虐な事をしたのだろうか。
一閃の元に首を刎ね、その死体の前で娘を犯した。これではあの腐った姫と同類ではないか。
床に力なく座り込んで俯くルイも、ずっと黙ったまま眼鏡を拭いているマルクも同じ自責の念に駆られている。
「どうして……自分たちは影武者だと言わなかったのでしょうか……」
俯いたままのルイの掠れた声に姉上が重ねる。
「貴方たちを責めるつもりはないけど、真実が『見える』あたしと違ってあの時の貴方達には逆効果だったんじゃない? 見苦しく命乞いするようにしか見えないわねきっと」
復讐に目を曇らせていた。そう言うのは簡単だ。感情を優先させ真実が見えなくなるのは為政者として、次期王として、あってはならない事。こんな体たらくで一国の王が務まるとはとても思えない。
「それに、彼らはどこまでも影武者だったのよ。あたしたちの憎しみを一身に受けて守らなければならない者たちがいた。この国の王家じゃない……守りたかったのは、国民と罪のない城の者たち」
俺たちが国に、城に容易く侵入できたのは内乱の隙に乗じてだった。
姉上が言うには、この首のない横たわる男こそが内乱の首謀者だったそうだ。国王一派を殺したのもこの男が率いる部隊。
「とにかく、あたしはこの子の目が覚めるまでここにいるわ。貴方達はもう帰りなさいな。後処理は皆に任せて」
俺たちを追い出すように片手を振ってみせる姉上。
そんな訳にはいかない。一言、いや、本当は何度でも謝り倒したい。例えそれが自己満足と言われようとも。
思惑通りに影武者に憎しみを最大限ぶつけて霧消させた愚か者だと思われても。
立ち去る気配のない俺たちにしびれを切らした姉上は仁王立ちした。
「この国に残るのは構わないけど、この部屋からさっさと出てけって言ってるの! 寝てる淑女をいつまで見てるつもり!?」
ならこの部屋に呼び出さなくてもよかったのでは。とは言えない。俺たちは慌てて部屋を出る。
「クロード。あまり思い詰めないのよ? この子は例え何をされても民を守るために影武者を演じ続ける覚悟があった」
背中に姉上の呟きが刺さる。
※
「さて、もういいわよ」
瞼を持ち上げる。
魔術師のフードを被った、波打つ黒髪が特徴的なおっとりとした風貌の美女が目に飛び込んでくる。わたしを治療して、何故か寝たふりを要求してきた女性。
わたしはゆっくりと上半身を起こす。感覚がなくなる程の激痛だったのに、すっかり治っているようだ。
「わざわざ治療して下さってありがとうございます」
「えぇ……お礼言っちゃうのね。そこは普通罵声を浴びせるところでしょうに」
「いえ……確かにこういう事をされるのは予想していませんでしたが、わたしはむしろ……感謝しています」
そういえばこの方、気になる事を言っていた。真実が見えるってどういう事だろう。
「わかってるわ。改めて、あたしはアーデルド第一王女ティナよ。時見の魔女の称号を持つ魔術師ね」
自己紹介はさっきしていただいたからそれには驚かないけど。それよりもその肩書きが気になる。
「時見の魔女?」
なんとなく想像はつくけど、そんな事が可能なのだろうか。
でもティナ王女がわたしの事情をまるで見てきたかのように知っていた事から、想像の通りの能力を持っているのだと思われる。
「おおよそ見当は付いてると思うけど、わたしはその場所の過去を見る事が出来る。状況再現をするかのように見る事も出来るし、早送り……加速したり飛ばし飛ばしに見る事も出来るの。便利だけど目的の時間を探すのが手間なのよね」
それならわたしと父がここで影武者をしていた理由を知っていた事にも納得する。すごい能力だけどかなり精神的に疲れそう。
「心配しなくても大丈夫よ。この国はなくなるけれど国民は全て受け入れるわ。罪無き人々には悪いようにはしない」
張りつめていた糸が切れたように力が抜けるのを感じた。安堵したのだ。これでこの『国』は本当の意味で救われた。
そして彼らが恨んでいるベルン王族はもういない。わたしを除いて、だけど。
「あの子……クロードの事、許してとは言えないわ。あたしも女として許せない事だと思うから」
クロード。わたしを暴行したあの青年だろう。案の定彼はアーデルドの王子だったようだ。
赤いのに涼しげな目。くせのある橙がかった金糸に、がっしりとした体躯。世の乙女たちが頬を染めるほどの美青年だというのに、わたしに向けられたのは激しいまでの憎悪。
思わず自嘲する。多分この先も、わたしはあの子の尻拭いをし続けなければならない。
「それと、あたしが『見た』貴女が産まれた時の事。貴女、実は双子の妹じゃなくて姉の方だったのよ。知ってたかしら?」
曰く、わたしたちが産まれた時、先に産まれた姉の方は予断を許さない程に衰弱していて、半ばもう駄目だと皆が諦めたそうだ。
その後出てきた妹の方は健康優良児だったため、妹の方を姉として王位継承権を与え、姉の方は妹の『予備』として治療を続けることになった。
「その病弱と診断された姉が貴女、フレイの事よ。でも、実は貴女の診断は誤診だった」
「誤診……? 別に命に別状はなかったという事ですか?」
ティナ王女は神妙に頷いて、この先を聞くかどうか聞いてきた。
「何も知らないのに聞くかどうかもないわよね。あたしとしては知っておいた方がいいと思うけれど」
自分の事だしね。と笑う王女は美しかった。
肉親を理不尽に殺されたのに、憎い王家の血を引くわたしに優しすぎると思う。
さっき狸寝入りしてる時に聞いた会話でも、彼らは自責の念にかられていたようだし、この優しい人たちならば確かに国民は安心だろうと思う。
悪者にしてしまった彼らには悪いけど、わたしは今は自分と国民の事しか考えられない。
「教えて、ください」
「当時産まれたばかりの貴女を診察した医師の名はリカルド。貴女の養父よ」
医学の心得があったお父さん。いつも健康に気を遣ってくれたお父さん。
やっぱりそうか。彼はずっと罪の意識に苛まれてきたのだ。誤診が無ければ本来王位に就くはずだった、わたしの境遇に。
「わたし、別に不幸でもなんでもなかったんだけどな……」
養父はちゃんと『お父さん』だった。部隊の皆は家族だった。
※
アーデルドに帰ってきた俺たちは、素性を隠し変装したフレイを保護している。フリアにそっくりな彼女がこの国で大っぴらに出歩けば間違いなく騒動が起こる。
彼女がこの国の住民としてやっていくための手回しをしている現在、その存在を知る者は少ないほうがいいと離れの塔で暮らしてもらっているのだ。
「窮屈な思いをさせて済まない」
「いえ。窮屈はしていません」
彼女を匿っている離れ塔の一室に様子を見に来る度、フレイは読んでいた本に栞を挟み読書を中断する。
最初に欲しい物の希望を聞いたら、退屈しのぎに本が欲しい。と遠くを見ながら呟いたその儚さに胸が締め付けられ、それから俺は毎日彼女の様子を見に塔へ登る。
「殿下。毎日来てくださいますけど、心配せずともわたしは逃げも隠れも、自傷行為もしません。それとも、これも罰ですか?」
「罰……とは?」
「あなた方の憎しみを利用したわたしへの罰。あの時の恐怖を忘れさせないためのわたしへの断罪なのでは?」
恐怖。そうか、俺はまた考えなしに彼女を責めていたのか。あんな事をされて恐怖を感じない訳がないではないか。
姉上曰く、反乱部隊は王族の犠牲者である民を守るために、復讐者の憎悪を無関係の人間に向けさせた。そうする事で罪の意識を強く持たせ民が敵国に虐げられないように。
自分たちのしてきた事を悪だと理解できていないフリア姫と取り巻きたちは、どんなに拷問しようともその性根が変わることは無いと踏んで、奴らの影武者となる事を選んだ。
「方、というのは、まさかここに来ているのは俺だけじゃないのか……」
「騎士の方と、眼鏡の方と、ティナ王女様が主にいらっしゃいますね」
俺は髪を掻きむしった。
姉上はともかく、あの二人は俺が顔を見せるから気にするなと言い聞かせておいたはずなのに。
「すまない。あの二人には強く言い聞かせる」
「罰ではないのなら、殿下もこちらには来ない方がよろしいかと。お互いのためにも。殿下も早くお忘れになって」
解決できるのは時間だけ。そう呟く彼女はついぞ俺と目が合う事はなかった。
「いっその事捕虜として貴方の嫁にしたら?」
姉上は心底面倒といった顔で俺の相談を切り捨てた。
「あの子もいつまでも拘らないだろうし、正直貴方達の方が辛気臭い顔してるわよ」
「そんな事出来る訳が……。彼女は俺を心の底から嫌って怖がっています」
「当たり前でしょ。自分が何したか忘れたの?」
うんざりしないでほしい。もう少し親身になって相談に乗ってほしいものだが。
「好きなんでしょ? 恨まれてるわけじゃないんだからどうとでもなるわよ」
俺の背中を思いっきり平手で叩いた姉上。魔術師のくせに何故ここまで力が強いのか。
彼女が好き。そうだろうか。罪悪感や、彼女の境遇への同情に近い気がする。
あれから毎日あの時の夢を見る。首を絞め、ドレスを剥いで、白い肌を傷付け。
夢の中の自分は黒い憎悪に染まっていて、俺はそんな自分を外から見ている事しかできない。何度もやめろと叫んでも聞く耳をもたず彼女が気を失うまで凌辱する。
そんな現実にしでかした出来事を何度も繰り返し夢で見るのだ。
あれがなければ、今頃は和解して彼女は心を開いてくれていただろうか。俺に笑顔を見せてくれただろうか。
俺の求婚に笑って応えてくれただろうか。
「そりゃ惚れてるな。ティナの言ったとおりだ」
姉上の婿、騎士隊長ワイアス殿に相談してもそんな答えが返ってくる。憮然とした俺に義兄は困ったように笑う。
「お前さんは罪悪感から彼女が気になるって思い込んでるけど、そうじゃないだろ。お前さんは彼女にこれからの日々を幸せに過ごしてほしいと思ってる。それは間違いないな?」
俺は頷く。当然だろう。だが、義兄は例えば、と言う。
例えば、俺以外の誰か。ルイやマルクが彼女に責任と銘打って娶ったとして、それで彼女が幸せになったとしたら。
心の底からよかったと喜べるか。俺も他の女性を妻に迎え、互いが別の幸せを掴み過去を徐々に忘れていく。そうしていつかお互いあんな事もあったと顔を向き合わせ他人として話をする。
例えば、彼女がこの国を出ていつかここに彼女がいた事実がなかった事になっていく。
彼女は知らない地で俺の知らない男と恋に落ち、俺には見せなかった笑顔を見せ、愛を育み子を――。
「おい、大丈夫か?」
義兄が俺の目の前で手をひらひら振っていた。気付かなかった。凝り固まった表情筋を元に戻す。
「あー、まあ、自覚したようでなにより」
ルイやマルクが……の辺りですでに腹がムカついていたが、つまりそういう事なのだ。
幸せになってほしいんじゃなく、俺が彼女を幸せにしたい。罪の意識など関係なく、彼女を俺の目の届かないところへやりたくない。
「彼女はお前さんに早く忘れろって言ったんだよな? それってつまり自分のした事じゃなく、彼女への罪の意識や負い目を早く消し去ってほしいって意味だったんじゃないのかね」
「それは……」
「まあ難しいよな。でもお前さんがいつまでもそうして罪悪感で接してたらお互いに身動き取れないままだ。今の状態で愛を告げて彼女はお前さんの気持ちを信じるか? 多分彼女はこう思う。『相手は本当に自分を愛していない』ってな」
俺は血の気が引いていく音を聞いた。
このまま求婚したとしても、彼女にとってはそれはただの命令であり、愛の無い結婚を強いられただけになる。心臓が早鐘を打つ。俺はまた間違うところだったのだ。
彼女の負担にならないよう顔を見に行くのは一日一回だと姉上に釘を刺されていたが、自覚したからにはもう知ったことではない。
俺は義兄に礼を言って、足早に彼女が住まう塔へ向かった。
※
クロード殿下が一日の内に二回も様子を見に来たのは初めてだった。わたしは思わぬ事に驚いて、彼の顔を直視してしまった。
いつも困ったような、こちらを気遣うような空気を纏わせていたその端正な顔には、今はただ優しい笑みが浮かんでいるのみ。
切れ長の力強い目は、わたしがこの国に来てから始めて見るものだった。そして、いつも本を持って来てくれるその手には白を基調とした花束。
いつものように本を閉じ立ち上がり殿下を迎えると、ゆっくりとその花束をわたしに差し出してきた。
「この塔の庭園に咲いている花だ。本もいいがこういうのもたまにはいいだろ?」
白い小さな花弁が連なって一つの花に見せるそれらを綺麗に纏めた花束を受け取ると、爽やかな花と風を孕んだ芳香に心地良くなる。
殿下自身も、腫物を扱うかのような態度では無くどことなく口調も砕けている。
「ありがとうございます」
すっと心が軽くなって素直に目を見て礼を言ったら、彼は唇を一文字に結んで、じわじわと頬を染めた。
そういえば、人ひとり分ほどに開いた近い距離で殿下に接したのは久しぶりだ。
最初は恐ろしくてしょうがなかった。
自らの意思に反して体が震え逃げ出したい衝動に駆られ、なるべく顔を見ずに態度に出さないよう努めた。これ以上彼らに罪悪感を与える事は出来ない。
彼らもわたしを気遣って距離を離したまま近寄る事はしなかったから、気付かなかった。
時間が解決してくれると分かっていたけど、いつからこんな風に普通に面と向かって話せるようになったのだろうか。
安堵して、どことなく胸がざわついて落ち着かないわたしに。
「これからは謝罪のためにここを訪れる事はない。君に振り向いてもらうために会いに来る。俺は君が好きだ。この気持ちだけは疑わないでくれ」
真摯な熱の籠った赤い目がわたしを射抜いたと思ったら、殿下は颯爽と部屋を出た。
去り際に見えた彼の耳が赤く染まっていた事もわたしの胸を更にざわつかせた。
肩ほどまでにしかなかった髪の毛が背中を覆うほどになるくらいの月日が流れた。
殿下とは小さな丸いテーブルに向かい合って座り、お茶をしながら他愛ない話をする程度には親睦を深めている。
最初は一日一回様子を見に。わたしを好きだと言ったあの日以降は、毎日ではあるが回数も時間もまちまちで、でも必ず一回はわたしに真っ直ぐな気持ちを伝えてくるようになった。
そして、ある時。
「手に、触れてもいいか?」
頬を染めてこちらを窺うようにそんな事を言った。
時々、彼がわたしに触れそうになって自ら手を引っ込めるのに気付いて、気付かないふりをしていた。わたし自身今は殿下が恐ろしいものとは思えなくなっているけど、脳に刻まれた記憶というものは馬鹿にできない。自分の意思とは裏腹に、条件反射で彼を振り払ってしまったらどうなるか。
傷付けたくない。嫌われたくない。と嫌な風に脈拍が上がる。
殿下は焦りを見せずじっとわたしの返答を待っているようだ。わたしが怖がって迷っていると思っているのだろう。
策だったとはいえ、彼らに重い荷を負わせてしまったのはわたしだ。ちゃんと向き合わなければならない。
「わたしはもうあなたに恐怖を感じていません。それだけは確かです」
目を閉じ片手を差し出すと息を呑む気配がして、その手を熱い感触が包んだ。
反射で肩を揺らしてしまったけど、大丈夫。大丈夫だ。
ゆっくりと目を開くと、わたしの手をやんわりと包む両の手があった。すっぽりと包み隠してしまうほどに大きな手。
愛おしそうな目で真っ直ぐに見られ、わたしは胸が締め付けられて目の奥がつんと沁みた。
その一年後、わたしはクロード殿下に正式に求婚された。わたし自身は殿下をどう思っているのだろうかとしばらく悩んだけど、いつの間にか水面下で殿下の婚約者だとじわじわ広まっていた。今はすんなりと表に出されてお妃教育を受けている。
「返事……まだしてないけど」
与えられた王宮の一室で茫然としていると、侍女の一人が呆れたように溜息を吐いた。
「今さらじゃないですか? あんなにイチャイチャしておいて」
殿下は少しずつ慣らすようにわたしに触れてきた。でもそれは部屋に二人きりの時だけで、ティナ王女や世話をしてくれる侍女がいる時には適度な距離感で接してくれていたはずなのに。
「殿下がノロけますからね、結構みんな知ってます」
「そ、そんな」
わたしの事を周りが理解していたのはこのせいか。
多少の妬みや反発はあったものの、これはわたしの素性とは関係ない個人的なやっかみかもしれない。なんたって殿下は非常に人気がある。推して知るべし。
わたしは侍女を一人連れ、集合墓地に赴いた。
白い墓石には父の名前と、ベルンの英雄という肩書が彫られていた。
紛争中に被害を最小限に抑えるため、反乱を起こして命を懸けて腐敗した王族を断罪した英雄。養父に対する世間の見聞はこんな感じになっている。時見の魔女が公に伝えた事が大きい。
出来る事なら一緒に生きてほしかった。わたしの花嫁姿を見せたかった。産まれてから今までちゃんと幸せだったと伝えたかった。
「ありがとう、お父さん」
花束を供える。
「フレイ」
背後から夫となる人の優しい声がかかる。
「はい、クロード様」
振り返り笑顔でそう応えると、彼は目を細め嬉しそうに笑った。