アイスティーを飲み終えるまで
「先輩、アイスティーです」
「砂糖は入ってない?」
「ばっちしです」
屋上の壁にもたれ掛かった先輩にそれを渡すと、私は兵隊のように敬礼をする。もうすぐ冬になるだけあって、風が吹くと、そこは少し肌寒かった。だから、私は先輩の隣で、先輩にくっついて、同じように壁にもたれ掛かる。
先輩は、遠くに沈む夕日を見つめたままで、その横顔は何か考えているみたいで、とても、綺麗だった。
先輩は時折、そういう少し憂鬱めいた表情をみせる。その理由を、私はまだ知らなかった。
「やっと先輩の好み、覚えましたからね」
「物覚えの悪い後輩を持つと苦労するよ」
「覚えたら一生忘れませんよ?」
「使い勝手の悪い記憶力だこと」
軽口の押収をしながら、私はアイスティーを口に含んだ。先輩のとは違って、シロップたっぷりの甘いやつ。その氷をガリガリとカジりながら、私は肌寒さをいいわけに先輩の腕をとる。
「へへへ、それほどでも」
「誉めてるつもりはないんだけど?」
「先輩が言えばなんだって嬉しいものなのですよ、後輩は」
「最後の年にこんなに慕ってくれる後輩ができて私は嬉しいよ」
「先輩の後輩は私一人だけですからね、そのぶん濃度も倍ですよー」
そう、先輩の後輩は私一人だけだった。なにぶん、去年は部員勧誘をろくにしていないらしかった。そして今年になってようやく重い腰を上げ、少しだけ勧誘をし、そこにまんまと釣れたのが、私だったのだ。
先輩目当てで入ったんだもんなぁ。そりゃあ、濃度も愛も十分すぎるほどにありますよー。放課後にしか、先輩に会えないから先輩成分の摂取は日常生活において必要不可欠だし。
なんてこと考えながら、私は今日の活動についてふれる。
「ところで先輩」
「どうかしたかい、後輩」
「今日はどうして屋上なんですか?」
「先代の先輩とここで過ごしたことを思い出したからだよ、後輩」
先輩はあんまり自分の話をしなかった。だから、私は単純にそれが嬉しくて、犬のように食いついた。
「先輩の先輩……、どんな人だったんですか?」
「そうだね、綺麗な人だった。 とても、ね」
「先輩だってすごく綺麗じゃないですか!」
「そこに対抗心を勝手に燃やさないで」
先輩はけらけらと笑ってみせるけど、やっぱり表情は明るくない。たぶん、その先輩の先輩と何かあったんだろうな、と勝手に邪推した。
その邪推を感じてか、先輩は重くなったであろう口を開いて、話を続けようとする。
「君と同じでね、私が一年の時に三年生の先輩だったんだ。そのときの私は優しくしてくれたその先輩に憧れてね、それは凄かったんだよ」
「憧れ……、今もですか?」
「どうかな」
そうやって含みを持たせる先輩は、ずるい。知りたくないわけがないのに。だけど、知りたくない気持ちも、私の中にあったりするのだ。
「今もだったら、私、その話聞きたくないですよ?」
でも、こうやって逃げ道を作る私が一番ずるいのだ。
怖いから、核心に触れないようにしている私が一番ずるいのだ。
「それは困ったな、せっかくの夕日の美しさが半減してしまう」
「先輩が話さなくても夕日は夕日のままです」
「そんなことないさ、思い出話は美しく思えるときにに話した方が良い、できればほかに美しいものがある時にね。 だから、アイスティーを飲み終わるまでってのはどうだい?」
「アイスティーを飲み終わるまで?」
「そうさ、飲み終わったら一緒に帰ろう。 だから、それまでは話させてくれないか? 今は、彼女の話をしたいんだ」
正直、私のコップの中のそれは半分を切っていたし、まぁ、それぐらいなら聞いて上げるかッて気分にもなる。でも、ちょっとだけ私は思うのだ。
イタズラめいた話し方をする先輩はやっぱりずるいって。
「先輩の先輩は、先輩にとってもう思い出で、過去なんですね」
「そうだよ、だから、今を向こうって思ったんだ。だから、ちょっとだけ付き合ってくれる?」
先輩の黒くて大きい瞳が私を捉えていた。先輩に見つめられると、胸の奥が熱くなる。それで、なんでも言うことを聞きそうになるのだ。
だから、私は胸を張って言う。
「わかりました、嫌です」
そして、アイスティーを一気に飲み干した。ちょっとだけ苦くなっていた胸のすぐそばに、甘くて冷たいのが通り抜ける。
過去の話は聞きたくない。だって、先輩はきっと、その人のことが好きなんだ。今も好きで、仕方ないんだって思ってしまったから。
だから、私は先輩の方を向いて、えいっと心に力を込める。言ってしまおう。先輩が今を向きたくなった今、言ってしまおう。
「ちょ、ちょっと……」
「私は、今、今の話がしたくなったんです」
「それって」
先輩は言葉に困ってしまったのか、すっかり自分の紙コップに口をつっけた。その時間の隙間に、私はなんて伝えるかを考える。必死に必死に考える。だけども、全く浮かび上がらないのだ。気持ちを伝える言葉がどれも違って見えて、すとんと当てはまらないのだ。
だから、私は先輩の顔に近づくために背伸びをする。背伸びをして、ゆっくりと自分の顔を近づけていく。
先輩は目をまん丸にして驚いていたけれども、逃げなかった。嫌がらなかった。単に、そのスペースがなかっただけかもしれないけど。
それでもよかったのだ、なんでもよかったのだ。たぶん、これで、きっと、気持ちは伝わるから。
「……これが私の、今の気持ちです」
「……そ、そう」
先輩の唇は苦い紅茶の味がした。たぶん、私の唇は甘い紅茶の味がしたのだろう。
唇と唇、マウストゥマウスで気持ちを伝えてしまって、なんだか照れくさい。二人とも黙ってしまって、何を話していいのかわからない。目を合わせることすら恥ずかしくなって、目を逸らすけれども、目の前に映し出されていた夕日は、やけにまぶしくて仕方なかった。
たぶん、私は先輩の答えを待てばよかったんだろう。ただ、見つめてその唇から何が飛び出すかと待てばよかったんだろう。
だけど、それができないのが私だったのだ。
「……先輩、一つ、ダジャレを思いついたんですけど」
先輩は夕日に照らされた頬を抑えていた。オレンジになった顔色で私に向かって言う。
「これが本当のアイスティーって?」
なんだか、よくわからないことを先輩が言う。たぶん、私がダジャレと言ったから、先輩なりに答えてみたのだろうか。
「どういうことですか」
「愛するティーってこと。 とても、甘かったから」
まじめな顔でそういうので私は思わず吹き出してしまう。
「ダジャレの才能は壊滅的ですね」
「あなたはキスの才能はあるみたいね」
「先輩は、先輩の先輩にキスを教えてもらわなかったんですか?」
先輩はちょっとだけ複雑そうな顔になった。それで、ちょっとだけ考えてから私の頭をなでてみせる。
「それはもしかして、嫉妬してたの? 過去に」
彼女の手の感触を味わいながら、私は笑って答えるのだ。
「もしかしなくても嫉妬ですよ」
先輩は飲みかけのアイスティーをいっきに煽ると、備え付けのゴミ箱に捨てた。それから、私の腕を取ってこう言うのだ。
「今の話をしてもいいかい?」
だから、私は答える。
「はい、もちろん!」