幕間 -光-
光あれ。その言葉は手帳の一番見るページに書いてある。私が聖書で感銘した言葉であると供に音がない世界に生まれ落ちた私の一生涯共にすることを決めた伴侶の名前だ。私の妻-光-の世界には音がない。先天性の難聴を抱える彼女には音がない代わりに眩いばかりの光が満ち溢れている。彼女の溢れんばかりの笑顔から照らされる光はどんなものよりも素晴らしい。私と光の間には子供がいない。それは私が罹った病気が原因だ。子供が好きな光に子供を与えてあげられないことが申し訳なかった。
「知世ちゃんは大丈夫?」それが最近の光の口癖だ。不夜城の麻生泰臣研究室の通り名で知られる研究室に今年から大学院修士一年として配属した椎名知世は私の教職人生において初めての女子学生だった。
椎名のことを女子だからと言って特別扱いはしなかった。性別で差別をしないのが私の信条だ。それは優秀であれば性別を問わずに評価されるのが研究者の世界ということから確立した事だ。研究を愛し、努力を惜しまない優秀な研究者の卵である椎名は私の信条通りの学生だった。毎年、脱落していく学生が多い中、椎名は大森と二人で実績を上げてきた。打てば響く椎名の教育に携われて楽しかった。
学会が近づき徒歩10分の自宅にも帰ることがなくなった私に光が身の回りのものと手作りの料理を研究室に持ってきてくれた。私が気づくことのなかった弱りきった椎名の存在を認めた時の彼女の怒りは今まで経験したことがないものだった。「泰臣さん。この子、顔が真っ青じゃないの。早く寝させてあげなさい!!」研究が佳境を迎える際には研究室が不夜城であることを知っている光がなぜそんなに怒っているのかが私にはわからなかった。反応が遅れた私に光は更に怒りを表す。PCに向かっていた椎名に「もう家に帰ってゆっくりとお風呂に入って、お布団でよく寝なさい。」としきりに話す。椎名も固まっている。光に手話で「彼女の論文は明後日が締め切りだし、帰ろうにも、もう電車がないから帰れない」と伝える。そうすると光は手話に慣れた私でも追いつくことができない速さで私に「論文よりも、体のほうが大切でしょ!この子は倒れてしまうわ!この子がもう自宅に帰れないなら我が家で寝させます。」と言い切り、「私の家でもう寝ましょう。」と怒りの表情から一転した優しい笑顔でゆっくりとした言葉を椎名にかける。そうして光は連日の徹夜で立ち上がることも困難になっていた椎名を我が家で寝させた。十分に睡眠を取って回復した椎名は翌日から追い上げて彼女の今までの論文の中でも一番良い論文を完成させた。
椎名の論文は賞を取った。そのことを光に告げると光の顔に久しぶりに、しかめっ面ではない名前の通りの光のような笑顔を表した。久しぶりの光の笑顔だった。光は学会の打ち上げの席で椎名に筆談で書き慣れたきれいな文字で記した手紙を渡した。「椎名知世さん。貴女を労れるのは貴女自身にしかできません。自分を大切にすることは貴女そして親御さんなどの大切な人の幸せにつながるのですよ。泰臣さんと私の間に貴女のような娘ができて嬉しいです。我が家にはいつ来ても歓迎します。遠慮せずに遊びに来てくださいね。麻生光」
椎名は大学院の修士課程を修了させ、博士課程でも博士号をストレートかつ主席で獲得し、海外でのポスドク、そして私の研究室の後継者になった。一度できた光と椎名の母娘のような関係は途切れることがなかった。結婚式で白無垢を着た椎名を見た光の眼には涙が溢れていた。私は実の子供を光に与えることはできなかった。しかし、研究を通じて光に子供を与えることができた。それはかけがいのない物だ。光と一緒に生きてきた証ができたことが何よりもない幸せだ。椎名、末永くお幸せに。FIN.
今回は幕間です。ラブコメから一転してシリアスな話になりました。
麻生教授と光はまた書いていきたいと思っております。
また、幕間を挟むこともあるかと思いますがお付き合いしていただけると幸いです。
BGMはGiovanni.AlleviのJOYでした。
空梅雨の夜。
2017年6月22日 長谷川真美




