第二話:梅雨の日、初めての相談 その二
瞼を開けると、電灯の無機質な明かりが目に突き刺さります。ぎゅっと目を閉じて、少しずつ目を慣らすことで、ようやくわたしの視界はまともになりました。
「目覚めたか」
しわがれたお爺さんの声が頭の上から轟きます。思わず視界をそちらにやると、大きなおでこで神社の僧侶さんが来ているような服のお爺さんが座っていました。
「……え? えっと、あなたは?」
「なんだ、日下部から聞いとらんのか。ワシは、ここの大家、ぬらりひょんだ」
ぬらりひょん――いえ、大家さんは不機嫌そうに額の皺を深めます。わたしが怒られているのでしょうか。いや、教えてくれなかった秋雨さんがひゃくぱー悪いですね。
「大丈夫か?」
もう一つ、大家さんの明らかに年寄りぶった声音とは正反対の女の子の声が届きました。そちらを向くと、真っ白な髪を肩辺りまで流した、わたしよりも年上の女の子が居ます。前髪から覗く大きな目。ぱっと見、可愛らしい小顔が印象的です。でも、こんな人居ましたっけ?
「さっきは驚かせた……。すまない、自分の風貌をすっかり忘れてた」
「驚かせた?」
驚いたのは、化け物みたいな女性です。でもその人はここに居ません。
「みはる、だったな。お主が気絶する原因だった女人は、こやつだ」
「え? えぇ!?」
不思議に思っていると大家さんが代わりに答えてくれました。この人が、さっきの化け物ですか? とてもそうには見えませんよ。
「起きて早々気絶されると困るのでな。ワシが散髪をしてやった」
大家さんは片手の先で鋏をクルクルさせながら言います。ふと見れば、彼女の下には新聞紙が敷いてあって、その上には山のような真っ白い髪がありました。
畳には、たしかに彼女が引き摺っていた肉塊が……ってこれ、よく見れば人じゃなくて鹿の肉塊ですね。不気味なのは変わりありませんが。
「それで、相談役の人はどこにいるんだ?」
「秋雨さんですか? 今日は学校って言ってましたよ」
「学校? 中学校か?」
「いえ、高校って言ってました」
「……そっか」
彼女は、どこか安堵したようにほっと呟きます。
「あのーところで、あなたも怪異なんですよね」
「うん、私は『ひきこさん』という怪異の筈だ」
「『ひきこさん』、ですか?」
聞いたこともない怪異です。名前やシカの肉塊を引き摺っていたことから、何かを引き摺ることが生業の怪異、でしょうか。
「ふむ、おぬしは知らんのか。『ひきこさん』は、最近生まれた怪異でな、儂も詳しくは知らん。以前日下部がねっとを駆使して調べていたがな。怪異の中で分類するなら都市伝説だな。『メリーさん』と同じだ。さいととやらに載っていた内容では……――」
『ひきこさん』
ある学校で、いじめがあった。
いじめの対象になった女の子は背が高く、成績も優秀なとてもいい子だったそうだ。しかし、それが元でいじめの対象にされたのだ。
「先生にひいきばっかりされやがって! そんなに引っ張られたいのかよ!」
「ひいきされて引っ張られたくて。だからお前はひきこだ! ひいきのひきこ!」
女の子は手を縛られ、いじめっ子たちに足を掴まれて学校中を引き回された。あちこちに顔をぶつけ、机の角で顔を傷つけられ、その顔は見る見るうちに化け物のように歪んでしまった。
それから、女の子は学校に行くのを嫌がる様になりました。しかし、それでいじめがなくなる訳でも、女の子の苦難が無くなる訳でもなかった。女の子は、両親からも虐待を受けていたのだ。
不登校になったことで、虐待はエスカレートした。家でも引きずり回され、ついに女の子は自室にこもってしまう。
女の子は、雨の日が好きだった。雨が好きなヒキガエルも好きだった。それは、ヒキガエルの醜い顔が自分の醜くなった顔の事を忘れさせてくれるからだ。
やがて、女の子は雨の日になると引き籠っている部屋を抜け出すようになった。
抜け出し、街を徘徊し、同い年くらいの子供を見つけると襲うようになった。
「私は醜いかぁああああ!!!!」と叫び、小学生を追いかけるのだ。
追いつかれてしまうと、捕まった小学生の足を掴み、地面を引き摺るのだ。そして、捕まった子は絶対に離さない。変わり果てた肉の塊になるまで……。
「え……グロ過ぎません?」
「私も、そう思う」
あの、そのひきこさん本人に同意されても困るんですけど。
「昨今の都市伝説には恨みが強い悪霊のような者が多い。メリーもひきこも似たようなものだ」
そう言われれば、納得してしまうわたしが居ます。メリーさんは捨てられた恨みから、ひきこさんは学校でも自宅でも助けてもらえなかった恨みから。それがこの怪異、都市伝説となっているのですから。
「だが、おぬしは伝えられるひきことは別人のようだな」
「ああ、そうだと思う」
「念のために訊くが、おぬしの本名は森妃姫子ではないのだろう?」
「違う」
淡々とひきこさんは答えます。無表情に近い目は、どうも秋雨さんに似ている気がしますね。
「あの、森妃姫子って誰です?」
「伝えられる『ひきこさん』になった人間の名だ」
「そのまんまじゃないですか。捻りも何もない」
「……都市伝説は、所詮人間が考え出した怪談話が独り歩きした結果だからな」
大家さんはなぜか鎮痛そうに額を押さえ、目を閉じます。
「まぁよい。それで……ああ、おぬしのことはひきこでよいのか?」
「構わない」
大家さんの問いにひきこさんはあっさり答えました。淡々として、そっけない態度ですが、そこまで嫌味には感じません。ひきこさんが可愛いからでしょうか。あ、わたしほどではないですが。
「おぬしは、既存のひきこさんとは少々異なるようだな」
「やっぱりそうか」
「ああ、儂は一人『ひきこさん』と化した人間霊を見たが、完全に悪霊と化していた。哀れな童の骸を引き摺り、憎しみの怨嗟を吐きながら拝み屋どもに祓われていたからな。だが、お前は違う。『ひきこさん』でありながら悪霊でない。悪霊になりきっていない。不安定で、歪だ」
そう言い、大家さんはにやりと不気味に笑いました。
大家さんの言う悪霊については、以前あきさめさんから聞いたことがあります。
悪霊は、怪異の中の一種です。怪異は大きく分けると妖怪と霊体に分かれます。
妖怪は怪異の中でも現世に存在を固着させた存在。霊体は生物が死に、魂の状態となって現世とあの世の境界をふらつく存在です。
妖怪は、ほとんど無害な場合が多いのです。ただそこに存在しているだけ。生きている人たちといざこざになったり、結果的に命を奪ってしまう者もいますが、ほとんどの者はただそこにいるだけなのです。河童や天狗。有名な妖怪の多くも、これに属するのです。
霊体の場合は、少し違います。現世への想いが強く、現世の人たちへの恨みが強くなり過ぎると、霊体は悪霊となります。悪霊は、ただひたすらに生きている人たちに恨みや妬みをぶつける、怪異と生物の境界を踏みにじってしまう厄介者です。霊体が悪霊に転じてしまう原因は、先ほど言ったように恨みが強くなった場合ともう一つ、現世に長居し過ぎた場合があります。
そして、妖怪の中の悪霊に分類される者たちは、存在理由が恨みや妬みを晴らすことであり、存在そのものが悪霊なのです。
ちなみに、このことから悪霊も二つに分けれます。存在理由の上で生物といざこざを起こしてしまう者と、霊体から変質して生まれた悪霊です。
『ひきこさん』は悪霊の前者に当たります。存在自体が悪霊です。ところで、秋雨さん曰くメリーさんもひきこさんと同じ悪霊に分類されるのだとか。わたしが悪霊って、世界の認識はおかしすぎますよ。わたし差別されているみたいです。わたしは優しいメリーさんで、メリーさんは復讐するだけの存在ですよ。……あれ?
「『ひきこさん』は悪霊だ。発見次第祓ってやらねばならん。それが、怪異と生物の安定を図るために必要なのだ。端から説得など意味が無い。だが――」
大家さんの目がひきこさんに向きます。ぎょろりと蠢き、半眼で睨み上げる様は、誕生してからの日数が短いわたしに、大家さんがどれほどの怪異であるかを知らしめます。
じっと睨みつける大家さんに対し、ひきこさんは表情を変えずに見つめ返しました。すると大家さんの目から険が抜け落ちた様に優しく変化します。
「お前さんの悩みならば、そこのメリーが叶えてくれようぞ」
「て、何言ってるんですか大家さん!!!?」
大家さんの唐突な言葉に、わたしは素っ頓狂な声を上げてしまうのでした。
大家さんは「ではみはるよ、後は任せたぞ」と言って酒瓶を片手に出て行ってしまいました。どこに行くんでしょう。絶対お酒飲みに行きましたよね。マイ酒片手にどっかで飲んでくるつもりですよね。外は相変わらずのザザ降りですけど
「……なぁ、訊いていいか?」
と、わたしもわたしでひきこさんのことを忘れてました。ひきこさんは不安げな目でわたしを見つめています。
「あなたは、本当にメリーさんなのか?」
「そうですけど……なんでそれを訊くのです?」
「初めて本物を見るから、気になったんだ」
興味津々、ということでしょうか。おそらくこのひきこさんは怪異になってそれなりの月日が経っていると思うのですが……他のメリーさんに会わなかったのでしょうか。わたしは、やみくもに襲っていた時に何人かのメリーさんと会いましたよ。
「ひきこさんは『メリーさん』を知ってるんですか?」
「ああ。しばらく山にこもってたけど、やっぱり生前が忘れられなくてな。ウィキを漁ってた時に知ったんだ」
はぁ、わたしはひきこさんのことなんて全く知らなかったのに、ひきこさんの方はしっかりメリーさんも熟知しています。元人形と人間の差でしょうか。人形の時のわたしは、意識なんてほとんどなかったものですし。
「物知りなんですね」
「ウィキは伝家の宝刀さ。怪異になったからお金を払う必要はない。忍び込めば電波は使い放題だ。山籠もり中に気になったことがあれば、降りて調べてたんだ。怪異だから、普通の人には見えないからな」
「あの、さっきから気になっていたんですが、山籠もりって?」
「ん? ああ、私は生前引き籠りだったんだ。天気の良い日は部屋にこもってパソコン三昧だった。雨の日には外に出て散歩で……あのころから『ひきこさん』になる前兆はあったんだな」
ひきこさんはどこか遠くを見るように目を細めました。昔を懐かしんでいるのでしょうか……。ひきこさんは、一体何年過ごしてきたのでしょう。わたしは、生まれて一年もたたない新米の怪異です。
「『ひきこさん』になってからは、最初は伝えられている通り小学生を襲おうかとも思ったんだ。『ひきこさん』として、やらなきゃならない義務感に駆られたから」
ひきこさんの言う義務感というのは、分かる気がします。わたしも、メリーさんですから、持ち主に復讐を成し遂げたいのです。でも、それはわたし自身の意志であり、ひきこさんの言う義務感から来ているものでもあるのでしょう。
「でも、ダメだった。『ひきこさん』が襲うのは小学生。私が復讐したい相手は、もう中学生になってる。『ひきこさん』は関係の無い小学生を無差別に襲うけど、私はそれをする気になれなかった。復讐を出来ないから、私という『ひきこさん』は狂ってしまったのかな。それで、山に引き籠ることにしたんだ。生前は部屋に籠ってたから、死後は山に籠ろうって。もう、山に籠ってどれだけの月日が経ったのかも覚えていない」
ひきこさんは立ち上がり、足元に積もった自分の髪の毛を新聞紙に包み始めます。
ひきこさんの表情は変化に乏しいですが、何かを決意したように、精悍な表情です。
「風の噂、とでも言えばいいか。私が籠っていた山の中で、近くに新しい『怪異相談役』が現れたって訊いたんだ。……可愛らしい助手も出来たそうだし」
「そんなぁ可愛いだなんて……当たり前のことを」
「……相談役は年も私に近い。ひょっとしたら、昔の私のいじめっ子たちと同世代かもしれない。……怖かった。だけど、同世代かもしれない相談役なら、私の願いを叶えてくれるのかもしれないって思ったんだ。だから、何年振りか、山を下りた」
新聞紙を丸め、ゴミ箱にそれを落す。ひきこさんはわたしに目を向けます。大きな目、白い髪。腫れた、縫い目のような顔の傷。それが生前からだったとしたら、語られる『ひきこさん』とは別に、だけど悲惨な生活を送ってきたのでしょうか。
「メリーさん、相談役に伝えてほしい。私を、成仏させてほしいって」
表情の消えた顔でそう言ったひきこさん。その表情を見た瞬間、わたしはある感覚に突き動かされました。
わたしはまだまだ新米の怪異です。生まれて一年も満たない、若輩者です。自分の目的を果たすことに精いっぱいで、他のことに目を向けている理由なんてありません。
でも、思うのです。わたしは、同じ悪霊認識されているひきこさんを――復讐を果たすことを存在理由とする怪異のひきこさんが、それを捨てた理由を知りたいって。
だから、
「いえ、伝えません」
「え?」
初めて驚いたような表情を見せるひきこさん。彼女に、わたしは生まれて初めてあることを言います。
「あなたの相談は、わたしが聞きます。あなたは、わたしが成仏させてあげます」
これは、わたしがあきさめさんの所に居候して、初めてわたしだけで相談を受ける時なのです。