第二話:梅雨の日、初めての相談 その一
探し人なら、あの古民家に行ってみるといい。きっとお前たちの、そして我らの悩みを解決してくれるだろう。
わたしに秋雨さんの家を教えてくれた怪異は、含み笑いを浮かべながらそう言いました。結局、解決した訳ではないのであの怪異の言うことも信用できません。
わたしは、秋雨さんに相談が終わっていないと言って居候することにしました。
わたしは生まれて一年も満たない新米の怪異です。目的である復讐を果たすには、色々と学ぶことがあります。怪異は生まれた時から一定の知識を持っているらしいのですが、わたしはとある事情で狂った怪異として誕生しました。だから、そういった前知識が乏しいのです。だから、いっぱいいっぱい学ばないとダメなんです。
わたしを捨てた持ち主に復讐を果たすために。わたしの存在理由である復讐を果たすために。
だけど、ふと思うことがあるのです。
わたしの目的は復讐です。復讐が、メリーさんとして生まれた私の全てです。
本当に、そうでしょうか?
思うところがあるのです。わたしは復讐のために生まれた人形の怨霊ですが、復讐相手が見つからない今、それに固執する必要があるのでしょうか。
メリーさんのわたしは、復讐することが全てなんでしょうか……?
秋雨さんの家に居候して、もう二ヶ月経ちます……。
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「……寝過ごした!」
「うぇ、どうかしたんです?」
慌ただしく襖を叩き開け、ばたばたと畳の上を小走りに抜け、秋雨さんは台所に向かいました。重い瞼を擦りながら外を見ると、朝のうららかな日差しが照り出しています。気持ちのいい、朝です。西の空に灰色の雲が漂っているのが気がかりですが。
「どうかしたですか?」
「寝過ごしたの! 今日の一限目の授業は遅刻に喧しい先生!」
もう一度問いかけると、秋雨さんは台所からパンを咥えながら寝室に駆け戻ります。
「昨日遅くまで相談の対応をしていたからじゃないですか? 帰ってきたのも日が変わってからですし」
昨日は居間で転寝していたのですが、深夜零時くらいに秋雨さんが帰ってきたのはぼんやりと記憶しています。かなり深刻そうな顔でした。
「ちょっと厄介な相談なんだよ。あの浮遊霊たちは末期だ。早くしないと悪霊になりかねない。かなりヤバい」
「悪霊ですか」
「でも遅刻したら僕がヤバい!」
示された時計の短い針は、九の少し下を指していました。短い針が射すのは、八のところ。
「ごめんみはる! お昼は冷蔵庫に昨日の残りが入ってるから、秋人と一緒に適当に食べといて。今日は学校の後にバイトだから遅くなる。あ、昼くらいに雨が降るらしいから洗濯物お願い! それじゃ!」
「あ、待ってください秋雨さん! わたしあの箱の使い方分からな――って、せめて最後まで聞けよ」
わたしの呟きは床に穴が開きそうな勢いで駆ける秋雨さんには届きません。そのまま乱暴に扉を閉めると、自転車を鳴らして秋雨さんは家の敷地から飛び出していきました。わたしを残して。
わたしが秋雨さんの家に居着いて、もう二ヶ月です。その間、わたしのような怪異からの頼みごとというのもいくつかありました。でも、どれも愚痴を聞くだけだったり他愛ない知り合い怪異の捜索だったり、緊急を要する物は少ないです。何件か、すでに消滅してしまった怪異というのに遭遇しましたが、手遅れだったのでどうしようもありませんでした。
面目上、日下部さんは『怪異相談役』というお役目を持っているらしいのですが、世間で言う探偵と同じで、そうしょっちゅう依頼が舞い込んでくる、という訳ではないそうです。むしろ、こうして何もない日の方が多いとか。日下部さんにそれを聞くと、『僕も高校生だからね。毎日来られると大変なんだよ。それに、これは趣味みたいなものだし』と、朗らかに笑いながら言っていました。
この『怪異相談役』という役柄ですが、わたしの居る国――日本というらしいです――のあちこちに相談役に任命された人がいるのだそうです。怪異は世界の各地に存在して、毎日生まれては消えていきます。怪異は世界の住人の一つなのですが、ほとんどの人はその存在を認識できません。同じ空間に居ながら、互いの領域は区別されている……だとか。
でも、同じ空間に同居しているので、気付かない内にお互いに迷惑をかけたりすることはあります。それを緩和するために、秋雨さんのように霊感の強い人が、名のある怪異に頼まれて『怪異相談役』をやっているのだそうです。
同じ人間には知られることはないですが、怪異と人間の軋轢を生まないための大切なお役目なのだとか。
さて、それはさておき、わたしも朝ごはんなのです。朝ごはんはパンと牛乳。純和風住宅に住んでいるのに、秋雨さんは「朝はパン派」です。忙しい朝には、パッと食べられるパンが一番だと。わたしもそれには賛成です。むしろ、朝食べるパンの味が分からない人はおかしいのです。牛乳で流して食べるパンは至高。コーンフレークというのもありますが、わたしはもっぱらパンです。この二ヶ月。あきさめさんが忙しくなければ――要するに早起きしてくれれば――ちょっと凝った惣菜パンみたいなのを作ってくれますが。
まぁ、今日はトースト一枚ですね。
ただ、障害が一つあります。
「……これ、どうやって使うのでしょう……?」
目の前にあるのは窓がついた四角い箱。中には電灯のようなものが設置され、それが熱を発して中に入れた物を焼いてくれる――というキカイです。いつもなら日下部さんが焼いてくれるのですが、私にはよく分かりません。ここに来て二日目の朝、試しに焼いてみたら真っ黒コゲのナニカが出て来ました。……きちんと食べましたよ! 泣きたくなりましたけど。
「あのぉ……秋人さん? これなんですけど……」
僅かに開かれた襖から秋人さんが顔をのぞかせます。その睨みつけるような瞳は、この世の人間と思えないくらい怖いです。そこらの怪異よりよっぽど怪異なのではないかと思います。
「パンを入れて、撮みを捻るだけだよ。何度言わせるの」
めんどくさそうに、秋人さんはポツリと呟きます。言われたやり方は分かっているのですが、わたしがやると絶対真っ黒なナニカが出てくるのですよ。
「……あなたも食べるんですから、少しくらい手伝ってくれてもいいじゃないですか……。ってか手伝えよ、ニートのガキが」
わたしの愚痴にも反応する様子はありません。いえ、ほんのわずかに開かれた襖から覗く瞳に険が増した気がします。相変わらず、妖怪やもののけの類すら恐れ慄きそうな怖い目です。
結局、秋人さんからの協力を諦めてパンを四角い箱に突っ込み、撮みを目いっぱい捻ります。「ジジジ」という音と共に、食パンはゆっくりと、黄金色を通り越して黒く染まって行くのでした。
秋雨さんが学校に行っている間、わたしは家の中でのんびりするのが日課です。縁側から庭を眺めたり、居間に寝転んでテレビを見たり、後は秋人さんの持っている教科書なるものをパラパラとめくったり。ほとんど一人で生活しているようなものですね。あいにく、秋人さんは押入れに閉じこもったままです。一度その存在を意識から外してしまうと、一つ屋根の下にもう一人いるという認識が薄れてしまうほど、彼は存在感がありません。本当にそこにいるかどうかもあやふやになってしまいます。それでも、秋雨さんがいると出てくるのですから、不思議なモノです。
「今日も、何事もなく終わるのですかねぇ……」
ポツリと呟いた声に応えるものはいません。当然でしょう。だって、この場に居るのは私だけ。いちよう押入れの中に秋人さんが居ますが、ほとんどいないも同然です。
そして、一人だと眠くなってくるのです。
うららかな日差し。輝く日の光の中を漂う曇天の空気。視界には、天からの水分を今か今かと待ちわびる紫陽花の花が、風でゆらゆらと揺れます。そして、不安げに風に揺れる洗濯物たち。あれは、昨日の夜に干されたのでしたね。秋雨さんは……自分の寝坊を予知したのでしょうか。……えすぱー?
思考がとろけて気が抜ける、涼しくもあたたかい微妙な空気。春から夏への移り変わりという季節は、その全てが、わたしからやる気を抜いていきます。むしむしして寝づらい。けど、横になった体勢から起き上がれない。
五月病って言われるモノでしょうか。
コツンと頭に何かが当たりました。たぶん縁側の板です。でも、そんなことは気になりません。少しずつ曇りゆく空……どんよりとした空気は、わたしを起こしてくれません。そして、ゆっくりと意識はとろけていくのです。
「ざー」という音が、耳に木霊します。なんだろう。重い瞼を擦りながら開けると、冷たくなった空気が押し寄せてきました。
「え? あ、雨ですか」
そう、雨が降ってきました。どんよりとした空気を叩くように、大粒の水滴が何度も何度も、ひっきりなしに地面を叩くのです。やかましい雨音は、梅雨の空気に毒された私の眠気も洗い流します。記憶も洗い流してくれます。……いえ、こっちは寝てたからボケてるだけですね。さて、わたしは何かを忘れているような……あ!
「洗濯物!」
そう、秋雨さんに頼まれた洗濯物です! 主に秋雨さんの上着とか、ズボンとか、パンツとか……あとわたしの人形! わたしは怪異なので服の汚れとかありません。ですが、薄汚れてしまった本体の人形を干しています。それがまたびちゃびちゃのぐちゃぐちゃに。
「きゃー、急がなきゃー!」
雨にも負けず、風にも負けず。物干しまで駆け寄ると洗濯物は大量でした。数日分の汚れ物をまとめて洗濯したのでしょう。昨日の夜に返って直ぐ干した洗濯物は山の様。容姿十歳くらいの美少女の私には、とても一回では持ちきれない量です。
「というか、雨が降ると分かっててなんで今日に限って外干しなんですか! 縁側の天井にでもぶら下げればいいでしょう! 秋雨さんのばかぁ!」
愚痴を言ったって洗濯物が濡れることに変わりはありません。とりあえず一番大事な人形を真っ先に回収します。ワンピースの下に人形を入れて縁側に駆け込みましょう。
人形は、びっしょり濡れてしまってました。髪なんか水分を含んで水草の感触です。とりあえず一番大事な人形は確保しましたし、次は秋雨さんの服たちです。でも、量が多くて取りきれません。というか、物干しが高くて上の方に引っ掛けられているハンガーに届かないのです。
「うっ、このっ、このっ! もう、わたしまでびしょ濡れじゃないですかぁ!」
雨音に交じり、飛び跳ねる私の足音が響きます。それに混じって、何かを水たまりに打ち付けるような音も聞こえました。泥水が跳ね、洗濯物にも汚れが付着します。
「手伝おうか?」
「あ、お願いします!」
このまま洗濯物を台無しにするところだったけど、天の助けです。たぶん秋人さんでしょう。というか、ずっとここに居るんだからさっさと回収しに来ればいいんですよ。このニート中学生。
秋人さんが高い所の洗濯物を取ってわたしに渡してくれます。こうして見ると、秋人さんは腕が細いです。わたしくらい――とまではいかずとも、まるで女の子のような細腕です。
いえ、今秋人さんのことはどうでもいいのです。さっさと洗濯物を取り込んで秋雨さんの役に立たないと、わたしも居候ニートまっしぐらなのですから。秋人さんと洗濯物を分けて、二人で半分ずつ持つと縁側に駆け込みます。縁側の板に洗濯物を投げ出し、やっと一息です。
「ふぅ。あーびっくりしました。いきなり降って来るんですからね」
「すまない。私は雨女だから」
「あーそうなんですか。でも、それって巡り合わせ? が悪いだけですよ。わたしなんて、ここに来るまで雨の日もあれば風の日もある。雪の日もありました。そんな中でもけなげにメリーさんの活動を続けて来たんですよ。もっとみなさんに褒めてもらうべきなのです」
「そうか、苦労したんだな」
「とーぜんです。でも、まだ終わってないですよ。わたしを捨てた本当の持ち主を見つけ出して復讐するまで、わたしのメリーさん人生は終わっていないのです」
「メリーさん? すごいな。私には、そこまで頑張れる気がしない。嫌なことからは全部逃げて、引き籠って来たんだから」
「そこがダメなんですよ! 引き籠りなんていいことありません。負のサイクロンなのです。もっと表に出て、元気いっぱいにいきましょう。それで、学校にも行けばいいのです」
「ああ、元気になるのはありかもしれない。でも、学校は、嫌だな」
秋人さん、今日はやけにしゃべりますね。何か思うところでもあるのでしょうか。いつもは無口で、口を開けば嫌味ばっかり。でも今日はわたしの言うことを素直に受け入れてくれます。
「あ、忘れ物してた。取ってくる」
「回収忘れでもありましたっけ? お願いしますね」
雨の中を駆け戻る音が背後から響いてきます。そう言えば、秋人さんって自分を呼ぶときは「僕」だった気がしますね。あれ? ってことは。
すると、後から何かを引き摺る音が聞こえてきました。ずるずるずるずる。洗濯物を引き摺ってるのでしょうか。それはダメです。せっかくの洗濯物が台無しじゃぁないですか!
「秋人さん洗濯物は手で持って――」
そう言いながら振り返り、わたしはなぜ自分が疑問に思わなかったのか不思議になりました。
普段、わたしと二人っきりの時は押入れからちっとも出ない秋人さんが、なぜ出て来たのか。
わたしが洗濯物を取ろうとしていた時、何かを地面に落とす音がした。あれはいったいなんだったのか。
普段生意気な秋人さんが、なぜ今日に限ってわたしと素直にお話するのか。
その答えは、とても簡単です。
わたしと一緒に洗濯物を取り込んでくれたのは、秋人さんではないのです。
「どうした?」
小首を傾げながらわたしに訪ねるのは、女の子でした。ボロボロになった制服を着て、髪で表情は覆われています。左手で形容しがたいブヨブヨとした生々しい物体を握りしめ、それをずるずると引き摺っています。
その姿は、先日、秋雨さんにお礼と言ってやって来た貞子さんと一緒に見た『リング』という映画のDVDに出てたお化けによく似てて……。
私の意識は、急速に黒に覆われたのでした。