第三話:その時はいつも突然 その五
ナイフは、みはるが梅雨乃さんの悩みを解決した時に僕が渡したものだ。使われることはない。そう思いつつ、でも万が一、億が一の可能性を無視できず、みはるに渡しておいた。いつか、本当に復讐に走った時は、これを使うようにって。それが、今、生きた。
僕がナイフを取り上げると、みはるはポシェットからカッターナイフを取り出した。いつもみはるの手元にあったそれを、僕はじっと見つめる。これだけは、僕が取り上げることはできないだろう。
「池口さん、見えるよね」
「……はい」
「みはるがどう思っているか、分かる?」
「……少し、表面上なら」
「じゃぁ、大丈夫だよね」
笑いかけると、池口さんは必死の表情で頷いた。そして、全身を震わせながら立ち上がり、みはるの前に立つ。
「美春……よね」
「……なんですか」
「ずっと、ずっと謝りたくて……ごめんなさい」
みはるは、半眼になって池口さんを睨み上げた。みはるが全身から発する殺気は、今にもこの部屋をめちゃくちゃにしてしまいそうなほど恐ろしい。
「そんな言葉で、片づくと本気で思ってますか」
「…………」
「文化祭の日にあなたを見かけて、わたしの中で燻ってたメリーさんの本心が顔をのぞかせましたよ。あなたはわたしを捨てたんです。美春さんがとっても大切にしていたわたしを。骨壺に一緒に入れてくれてもよかったのに、美春さんの念が籠った私を供養するだけでよかったのに、ゴミ捨て場にポイ捨てです。それをごめんなさい一言で有耶無耶にしろってんですか? 冗談じゃないですよ。ふざけんじゃないですよ。わたしを捨てるってことは、あなたが美春さんを捨てるのと同義なんですよ。それをどうして――」
「ごめんなさい!」
みはるから吐き出される呪詛のようなどす黒い感情。それを、池口さんの謝罪が一瞬掻き消す。いや、やっぱり消せていない。
「だから、それで終わりにできる訳が――」
「だとしても、私は言わないといけないのよね。美春が大切にしていたあなたを、美春のためにわたしを探し続けていたあなたを捨ててしまったことを、謝らないと、出ないと……わたしはあなたの思ってる通り、いつまでも美春に囚われたまま」
「思ってる……?」
みはるがひっかかりを覚えたように不審がる。
「みはる、池口さんは、みはるが考えていることを、全部わかってるよ」
「どういうことです?」
『オイラだよ』
そう言って池口さんの横に現れたのは、覚だった。
『オイラをこの女子に取り憑かせて、ちぃと怪異への反応を高めさせたんだよ。後はオイラの特徴、表層意識くらいなら読めるようになってらぁ。まぁ、秋雨は自分たちがこの女子を襲うことがないってのを証明させるためってのもあるらしいし――』
「覚、今真面目なとこだから黙って。君の相談もこれで解決なんだから」
余計なことまでペラペラ話し始める覚に釘を刺しておく。
取り憑かせるという案は、出来れば使いたくなかった。怪異が発するのは、生物にとってはよくないもの――マイナスのエネルギーだ。生物が持っているプラスのエネルギーとは逆で、慣れていない人に取り憑かせるのはかなり危険な行為なんだ。怪異に普段からふれている僕らも、メリットだけを引き出すのは難しい。一般に良いイメージの背後霊を憑かせることとはわけが違う。覚みたいな怪異を憑かせることは、不幸に直結する可能性が高いのだ。
幸い、今回は協力的な覚と池口さんの意識が同じ方向を向いたからこそ、取り憑かせることに成功できたんだ。
「ごめんなさい。美春。それに、人形のみはるも」
みはるは、持っていたカッターナイフをその場に落とした。投げやりなその仕草で、カッターの刃が地面に突き刺さる。
「美春さん、死んだ直後から心配してたんですよ。自分の不注意で起きた事故だったけど、小冬お姉さんが思いつめていないかって。一人の時、いつも言ってました。自分は、学校ではちっとも馴染めない。わたしと話してばかりの自分をいつも気にかけてくれる小冬お姉さんが、いつか孤独にならないかって。あなたがわたしを捨てた時――わたしはあなたを殺そうかと思いました。美春さんの想いを無駄にしたあなたを許せませんでした。まぁ、どっかのヘンタイさんに拾われた所為で、計画どころかわたしというメリーさんもグチャグチャになりましたけど」
軽く愚痴るみはるは、少しいつもの様子を覗かせた。僕がちらりと東海林に責めるような視線をやると、東海林は全く気付いた様子もなく「なんだよ」と言いたげに見返してくる。見えないってのは、幸か不幸かさっぱりだね。
「美春さんはずっとあなたを想ってた。わたしが不完全な怪異だった所為でその想いも秘められたままでしたけど、ずっと後悔し続けていたあなたを見たおかげで、ようやく伝えられます。まぁ、覚さんのおかげで御見通しなんですよね」
「ええ、全部、伝わってる」
「ホント、面倒くさい怪異さんですね、覚さんって」
『オイコラ、オイラが不憫じゃぁねぇかい?』
「うるさいです」
『たくっ、大家に頼まれてわざわざ出て来てやったってぇのに、随分な言い草だぜ』
覚は心底苛立たしげにつぶやくと、自分から池口さんを離れた。年期のある怪異だ。人に取り憑くのも離れるのも、お手の物だ。
『相談役。オイラの相談は終わりだ。ありがとよ』
「……食べないでくださいよ」
『はっ、食わねぇよ。分かってんだろ。オイラは、大家に頼まれて手伝いに来ただけだっての』
そして、覚は霞のように消えた。静寂に包まれたその場で、今度はみはるが呟く。
「……でも、これだけは伝わってないと思うんですよね」
「え?」
「怪異に取り憑かれても、怪異の特徴全部をコピーは出来ません。ですよね?」
「うん」
みはるは僕に確認を取ると、にたりと笑った。池口さんに見せつけるようにして携帯電話を取り出し、電話をかける。すぐに池口さんの電話に着信があり、池口さんが応じた。
その瞬間、みはるの姿は消え失せ、池口さんの背後に回っていた。
『頑張ってね、お姉ちゃん』
「――美春!?」
電話口から部屋に響き渡った声は、みはるのものじゃない。僕には聞き覚えがなく、だけど、みはるが少し成長したような、そんな可愛らしい声。
そして、池口さんの擦れるような声が、滴と共に零れ落ちるのだった。
「なぁ日下部、終わったのか?」
「そうだね」
「でもさ、なーんか、まだ何かいるような気がするのよ、俺」
「なんかって、それは……」
東海林でさえ感じているんだ。僕が気づけない訳がない。今、この部屋の周りには、種々雑多な魑魅魍魎の気配がうようよと。だけど、それは悪意の塊ではなく、ただ……
「池口さんの妹の美春ってさ、けっこうな引っ込み思案だったんだろ?」
「らしいよ」
知り合いを想う、隣人意識の怪異たち。
「じゃあさ、このなんか大勢いるみたいな感覚はなんだよ」
「決まってるよ」
僕は視線を開け放たれた玄関に向ける。ずるずると何かを引き摺る音と、鹿の生足が確かに見えた。他にも、有象無象の怪異たちの気配。
「みはるの、愉快な怪異仲間たちだね」
怪異『メリーさん』の悩みは、これで解決だ。
***
「こんなに奥なんですか?」
「まぁね。大家さんに貰った家は、ずっとずっと奥だから」
翌日、薄暗くなった田舎の細道を歩くのは僕と池口さん、それからみはるだ。ちょっと相談事があって、さっそくで申し訳ないけど僕の家まで御足労願ったんだ。年頃の女の子を誘うとか、東海林に訊かれたら何と言われるだろう。
「秋雨さん、そんなに急ぎなんですか?」
「みはるの中から美春さんの魂が消えたのは昨日僕が見た通り。みはるを縛ってた要素が消えたんだから、みはるが消えるのも時間の問題さ」
みはるは近いうちに消える。怪異は永遠に存在しそうだけど、残念ながらこの世に永遠なんてものはない。怪異は人に忘れられたり、この世に留まる理由を失くせば消えてしまうんだ。
みはるはメリーさんとしての復讐を果たし、もうすぐ消えてしまう。ただ、せっかく会えた姉妹――というには少し違うんだけど――をあっさり引き離すのは少し憚られる。
池口さんが縛られないようにみはると離れた方が良いかもしれないけど、人間の精神はけっこう脆い。もう少し、意志が固まるまでは一緒に居させた方がいいのかもしれないと、僕は思ってる。
だから、みはるの存在をこれからどうするか、一緒に考えようというわけだ。
古民家にたどり着き、玄関を開けると、さっそく秋人が顔を出した。
少し、息を飲む。
「兄ちゃん、早くない? バイトは、クビ?」
「……バイト先には申し訳ないけど……休みいれたの。それと、秋人もみはるの毒舌がうつったの」
「知らない」
そう言いつつ、秋人は訝しげに僕の後ろを見やった。そう言えば、池口さんには一言も伝えてなかったな。池口さんは霊感があるから、秋人の事も見えるんだ。
「ああ、ゴメン。言ってなかったね。弟の秋人」
「秋人さん、正確悪いですよ。お姉ちゃんは気にしなくてもいいです」
みはるが続けて言うと、池口さんは少し呆気にとられたようにポカンと口を開け、やがて小さく苦笑した。
「なんだ、日下部先輩がやけに親身になってくれたのって、そういうことだったんですね」
「え?」
親身に? そこまで世話を焼いた覚えはない。強いて言うなら、面倒くさい覚の相談を解決するために頑張ったくらい。そう言えば、覚が何か気になるようなことを言ってたような……あれはなんだったっけ。
「そっか日下部先輩も……。人の事言えないじゃないですか。でもよかった。ちょっと、自分がメンタル弱いなぁって思ってたけど、日下部先輩もなんですね」
「どういうこと?」
「え、ですから……」
秋人さん。幽霊ですよね。