第三話:その時はいつも突然 その四
市街中心に位置する駅から歩いて五分。エレベーターで五階まで上がると、そこから廊下をまっすぐ進む。一番奥が、池口さんの部屋だ。
「どうぞ」
「うん、失礼します」
いちよう律儀に挨拶をしておく。池口さんには悪いと思いつつ、つい部屋の中を見渡してしまう。特に違和感はない。床は、投げ出されたプリントの束どころか塵の一つも見当たらない。小物や教科書がきれいに整頓されている。典型的な、女の子の部屋と言えるだろうか。……って、始めて入るんだけどね。
さて、部屋の中に違和感はない。少なくとも、表面上は。
そう、表面上だ。霊感が特に強い僕は、入った瞬間に感じ取ってしまった。使われている食器、部屋を構成する家具、勉強道具。その全てから、濃密な負の感情が溢れている。それも、一週間や一ヶ月で溜まったものではない。この一年、池口さんの妹である美春さんが亡くなった時から、彼女は自分を責めて来たのだろうか。そして、少しずつメリーさんの怨霊が彼女に集中してきたのだろう。溜まりに溜まった黒い感情は、僕でさえ長居するのをためらわせる。
「あの、大丈夫ですか?」
心配そうに窺ってくる池口さんに手で大丈夫と伝える。
「ごめん。ちょっと当てられたかも」
池口さんも僕が言わんとしていることは理解しているようだ。オカルト研究会の部室を出る前にある仕込みをしておいたのだが、それがうまく機能しているのだろう。池口さんは「すみません」と小さく謝罪の言葉を呟いた。
「へー、きれいな部屋じゃん。おい、日下部、お前失礼だろうが」
例外は東海林だ。霊感がほぼない。怪異の知識だけしかない東海林は、物珍しげに部屋を見回し、不躾に言った。
「鈍感な君が羨ましいよ」
「嫌味か? あいにく、俺には霊感がからっきしだからな。とりあえずさ、飯にしようぜ。メリーさんが来るのは二十時だろ。それまでに腹ごなしして、こっちも迎え撃つ準備を整えようじゃねぇの」
東海林は右手に提げたビニール袋を軽く持ち上げる。帰って来る前に、スーパーによってお惣菜を買い込んで来たんだ。今回は、下手をすれば徹夜になるかもしれない。物資は、多いに越したことはない。
ちなみに、東海林の左手にはお手製の御払い棒と手書きの御札が握られている。全て東海林が見よう見まねで作ったものだ。一見役立たずに見えるが、そうじゃない。怪異は人の妄想が生み出した存在だ。妄想とは、すなわち想像すること。そこにあると信じていることだ。手作りの御払い棒だろうと、使い手が効果があると固く信じていれば、多少なりとも効果を発揮する。気休め程度だが、無いよりマシだ。
「そうだね。お腹に入らないかもしれないけど、食べておかないと体力が保たない。池口さんには苦行かもだけど、いい?」
「はい」
この場で一番の恐怖を感じているのは池口さんだ。それもそのはず、彼女はメリーさんを呼び寄せてしまった原因で、今日危害を加えられて当然な人物だ。気持ちがそっちに向いていると、空腹は気にならないだろう。だけど、病は気からというように、少し気持ちを和らげ、調えることが大切だ。そのために、食事は必要だろう。
僕らは早速持ち込んだ惣菜のパックを開いた。お総菜コーナーにあったものを適当に取って来たから、巻寿司や揚げ物がほとんどだ。後は簡単に作れるスープのパックが各自二個ずつ。
紙コップにペットボトルのお茶を注ぎ、夕ご飯だ。
言葉は少ない。この後に生きるか死ぬかの怪異との戦い――のようなもの――が待っているのだ。緊張して口数が減るのも当然だろう。黙々と、夕食は続く。
「……池口さん、揚げ物とか好きなの?」
「はい。お腹周りとか心配ですけど、美味しいから」
「そう言うとこも姉妹なんだね」
ふと、いつもの夕食を思い出す。バイト帰りで作るのが面倒な時は、バイト先のコンビニで惣菜を買って帰るんだ。そうすると、みはるは喜んで揚げ物を食べてしまう。僕の作る料理より店のものかと落胆もするけど、楽しい夕食のひと時だ。
「美春――メリーさんも、食べるんですか」
「怪異は見えないけど存在するんだ。だから触ることもできるし、透けて通ることもできる。けっこう食べるよ」
「揚げ物とか?」
「うん。買ってきた惣菜とか、カップラーメンとか。店売りのものが好きだったの?」
「いえ、実家に居た時は、いつもお母さんの手作りでしたから。普段と違う味に驚いたんじゃないですか?」
「かもね。カップラーメンに感激するくらいだし」
初めてみはると一緒に食べた時のことを思い出す。から揚げやコロッケを問答無用で一気食いし、次の日にはキングサイズのカップラーメンをとてもおいしそうに食べていた。生前の美春さんは体調が悪く、病院の栄養を気にしたメニューとそれに倣った母親の手料理ばかりだったとすると、栄養価など頭から無視したカップラーメンの新しい――濃い――味付けにほれ込んでしまうのも少しは分かるような気がする。食の新しい道、ということかな。
それからは、東海林が自身の経験を交えて怪異対策を語るなど、穏やかな時間だった。怪異の話をするのは恐怖を煽るかもしれないけど、東海林も伊達にオカルト研究会として怪異に関わって来たわけじゃない。その辺りは面白おかしく、恐怖体験を滑稽に、砕けた喜談として話すから緊張もほぐせただろう。
「んでな、近くで有名な心霊スポットのホテルの廃墟に行った時なんだけど――」
調子に乗った東海林は饒舌になって続ける。その時だった。携帯電話のバイブレーションが、床を叩ように鳴り響いた。東海林も池口さんもピタリと口を閉じる。池口さんが恐る恐る画面を確かめると、そこには文字化けした奇妙な電話番号と呼べない文字の羅列が表示されている。
池口さんは恐怖を顔に張り付けながら僕を見た。僕が小さく頷くと。震える指で画面をタップする。スピーカーに切り替えると、幼い女の子の声が部屋に飛ぶ。
『わたしメリーさん。今、若木台のゴミ捨て場にイルノ』
プツリと切れる通話。東海林が「俺が拾った場所じゃん」と呟くのが聞こえた。東海林がメリーさんの人形を拾った場所、それはすなわち、池口さんが美春さんの人形を捨てた場所だった。
「日下部先輩……あの……」
「大丈夫。これからだよ」
僕は、安心させるように言葉を溢した。だけど、これにどこまで意味があるかどうかは正直心配だ。池口さんは、もしかしたら今日殺されるかもしれないのだ。大丈夫なんて安請け合いするような言葉に、彼女を安心させるほどの力はない。
十分後、また電話が鳴った。池口さんはさっきよりも恐怖に震えながら電話に応じた。
『わたしメリーさん。今、吉方橋にいるの』
電話の向こう側から聞こえるのはメリーさんの幼く、しかし怨みと怒りが混じった言葉。合間に挟まれる雨音で、僕らはようやく外で雨が降っていることに気づけた。今日は曇りの予報で、雨が降るとは聞いていない。
池口さんは、言葉もなかった。雨の音と、通話の切れた「プーっ」という音が恐怖を引き立てる。
「お、おいおい。日下部、なんか俺の背中がちょーっと冷たくなって――」
「黙って」
東海林のセリフを途中で断ち切る。鈍感な東海林でも異変に身体が反応し始めている。
霊感というのは、実はすべての人が持っている。正確に言えば、人間が危険に対して反応するのがそれだ。自身に迫りくる恐怖感、危機感といったものが、自身にとって気持ちの悪い感覚として現れている。霊感がある人は、そう言ったことに対するセンサーがとびきり強く、且つそう言ったことに触れて耐性を得ていることだ。
問題なのは、普段そう言ったことに鈍感な東海林ですら異変に反応し始めていること。僕も電話越しにメリーさんが送り込んでくる負の念に身体が危険信号を発している。対象である池口さんは、これ以上に恐怖を与えられているのだ。
恐怖感が増すと、自然と口数も減っていく。僕らは静かに、黙ってメリーさんからの電話を待つ。その時だった。
カーテンの向こう側から強い光が部屋を貫く。と同時に、それまで部屋を照らしていた電灯の光がプツリと消える。
「えっ――?」
驚いたのは池口さん。僕の隣では、東海林がいよいよと言った様子で息を飲む。暗闇に閉ざされた部屋。そして、電話は無機質に振動を始める。
「……池口さん?」
池口さんは、動かなかった。携帯電話の画面はぼんやりと光を放ち、文字化けした番号と『メリーさん』の文字が振動に合わせて蠢く。部屋の外からは絶え間のない豪雨の雨音が鳴り響き、そして僕らを待ち構える。
「池口さん」
もう一度声をかけるが、やはり池口さんは動かない。怖いのだろう。少しずつ近づいてくる電話が。電話の相手は、彼女の大切な妹の怨念であり、彼女をこの世から引きはがす殺人鬼かもしれないのだ。
携帯電話はじれったく振動を続け、やがてピタリと止まる。池口さんはほっと息を吐いた。だが、僕には分かっている。怨念に突き動かされる怪異が次にどうするかくらい。怪異は、定められたルールに従う。だけど、結末は決まっているんだ。そこへ辿る道が僅かばかりずれようと、関係ない。
携帯電話は、独りでに通話モードに切り替わる。
『わたしメリーさん。今、駅の前にイルノ』
「いや!!!!」
メリーさんの言葉が真っ暗な部屋を揺るがし、それを上回る絶叫が池口さんから迸る。
「いや……いや……!」
荒く呼吸し、池口さんは両手で耳をふさぐ。そして、それを待ち構えた様に、携帯電話は次の言葉を呟いた。
『つギでなカったラ、どウなるかワかっテマすよネ』
ぶつりと通話は途切れた。だけど、メリーさんが残した怨念の余韻は暗闇の中を滞留する。
僕は、少しばかり後悔した。これほどの力を持つ怨念を溜め込んでいるのを、僕は横で見過ごしていたんだ。怪異の悩みを訊くことで、みはるの怨念は晴れたと、そう思い込んでいたんだ。
怪異は負の感情から発生する。浮遊霊だって、自分が死んだことが分からず、どうしていいか分からない迷いの感情でこの世に留まっている。他の怪異だって、例外じゃない。みんな負の感情があるからこそ、こうして人の世に入り込んで来るんだ。
「日下部、これさ、俺らが今まで感じてきた中でも、とびっきりでかい怪異じゃないか?」
「そりゃそうさ。メリーさんは、とびきり念の強い怪異だよ」
「だけどさ、俺のとこに着たメリーさんは家の前で居留守してたら帰ったぜ?」
「その時はメリーさんの方が誰を襲うか迷ってる、不安定な状態だったからさ。今のメリーさんは、本気だよ」
人形のような意志の無いものに怪異が宿ることは、最近では珍しい。今の時代、人形に強い念を抱く必要に駆られる人は少ないんだ。昔だったら、病気とかで誰かと会うことを禁じられた子供が、唯一の遊び相手だった人形に強い執着を抱き、それが怪異へと変貌することはある。だけど今の時代、ゲーム機が発達して一人遊びの幅は広がった。どれか一つに執着し、怪異が発するほどの念を籠められる人はいなくなったんだ。だから、今の時代にメリーさんが生まれたことは本当に珍しく、そしてだからこそ強い怨念が宿っているんだ。
ネットで面白おかしく茶化されているのはただの遊び。本当の、本気のメリーさんは、そんな遊びや冗談は通じないんだ。
再び、携帯電話が振動を始めた。先ほど言っていた駅はマンションのすぐ近く。ということは、メリーさんはすでに部屋の前に来ている。
「池口さん」
「…………」
電話は、振動を続けている。
「出るんだ」
「…………」
ガシャガシャとドアノブがひねられる音が響き、池口さんが縮こまった。
「出て」
「…………いや」
ドアの向こうからは、何かを引き摺るような音も響いてる。やっぱり、彼女も共犯だった。それは、ドアの向こうから直接向けられる殺意で分かる。強力な怪異が持つ負の感情が、僕らに叩きつけられる。
「君が出ないといけない」
「…………いやです」
池口さんは小さく首を振る。怖いんだ。でも、だめだ。
「僕は言ったよね。メリーさんとの出会いを話してくれないと、君は一生追われ続けるって」
「…………はい」
「怪異はしつこいよ。僕らと違って寿命がない。忘れられて消滅ってのも、君が覚えている限りないし、君が忘れることはない。君が、美春さんの人形を捨てたって罪を自覚しているから」
「…………どうすれば」
「今日、今ここで、メリーさんとの決着をつけるんだ。君が捨ててしまった理由、それで覚えた後悔。全部伝えて、メリーさんに理解してもらうんだ。美春さんの人形を、これからずっと恨み続けさせるつもりかい?」
「……じゃぁ、先輩方が出てください。私は、もう聞きたくないです」
「それはだめだ」
断言する。
「…………なんで」
「これは君の問題だから。話すのは君だ。なのに、君が逃げちゃメリーさんも聞く耳を持ってくれない。だから話して、伝えて、理解させる」
池口さんは恐怖におびえた目を携帯電話に注いだ。それを手に取って、通話するだけが、彼女にはできない。
解ってる。怪異は普通の人には見えない。見えない物は、怖い。それが全力で襲っているのだ。怖くない訳がない。だけど、僕らが出て、池口さんに謝ってもらったところで、それはメリーさんに届かない。ただ、池口さんが僕らに言われてしぶしぶ謝ったとしかとられない。
それでメリーさんが、みはるが納得するわけがない。
「東海林、池口さんが電話に出たら、ドアを開けるんだ」
そう告げると、池口さんが驚きと驚愕の籠った眼で僕を見た。
「いいのかよ!? そんなことしたら、池口さんが後ろからグサッて――」
「ならないよ。ねぇ、池口さん」
僕が池口さんに問いかけると、池口さんは首を横に振った。
「君には僕の考えが分かってる。だから、君は殺されないって、理解してるよ」
「そんなの、日下部先輩の予想です! 予想は、外れるかもしれないじゃないですか。私は、もう美春に殺されるんですよ」
「殺されない」
「殺されますよ! あの子を殺してしまったのは私です! 美春はきっと私を恨んでる。先輩が美春と一緒に暮らしてたって言っても、私の方があの子を知っているから!」
「絶対に、殺されない!」
僕は語気を強めた。本当は、こういうことは言いたくない。だって、感情論だから。感情的に言って、池口さんをその気にさせるだけだから。それでも、現状僕が取れる対応は、これしかない。
だから言うんだ。メリーさんなら――みはるなら、絶対に僕の予想通りに動いてくれる。池口さんを、殺せない。
「池口さん。あなたは美春さんと十年間一緒に過ごしてきました。その月日には、僕と知り合った一週間ほどの期間は叶いません。でも、僕はあなたを襲うメリーさんとこの半年一緒に過ごした。あなたが知っている美春さんじゃない、僕が知るみはるは、決してあなたを殺すことはできない!」
半年。ほんの半年間の出来事を思い出す。
初めてみはるが僕の前に現れた時、失敗続きで泣いてしまった事。僕が出した料理をお腹いっぱい食べ尽くしたこと。やってきたひきこさんの相談を訊いて、解決するために奔走した事。一緒に花札をやって、怪異のことを勉強して、怪異の役に立つことをやりがいと決めた事。
「今の池口さんなら解るよ! 絶対に、絶対にみはるはあなたを殺せない。だから!」
震えながら、恐怖に手が引っ込みそうになりながら、しかし池口さんは携帯電話を掴んだ。手が震えて画面を何度も擦り、ようやく通話モードに切り替わる。
『わたしメリーさん。今、アナタの部屋の前にイルノ』
「東海林!」
「おう!」
僕の合図に応えて、東海林がドアを開く。その瞬間、吹き込んだ雨風が小さな部屋の空気を一気に冷やした。背筋が凍る。身体が震え上がる。そして、僕は見た。小さな影が、雷のように一直線に走り、池口さんの背後に回るそれを。
再び響携帯電話のコール。池口さんは、覚悟を決めて再び電話に出た。
『わたしメリーさん。イマ、アナタノウシロにイルノ』
突き出されたナイフが、鈍い音を響かせる。
「……………………痛っ――」
小さな悲鳴は、池口さんのものだった。彼女は鎮痛な痛みを表情に浮かべ、右手で背中を押さえる。そこに流れる筈の赤いドロリとした液体――は、ない。
僕は池口さんの後ろにいる小柄な金髪の少女の手から、ナイフを取り上げる。その刃の先端を掌で押さえると、刃は柄の中に吸い込まれるようにして縮んだ。
「……うん、やっぱりこのナイフを使ったね。僕の思った通りだよ」
ナイフを軽く振い、返す。彼女は、下がっているポシェットにナイフを仕舞った。
「ね、みはる」
そこに、僕の見慣れた可愛らしい少女の怪異、メリーさんのみはるは居たんだ。