第二話:梅雨の日、初めての相談 その四
私は、いつもいじめられていた。
まだ子どもなのに、おばあちゃんみたいな真っ白い髪だから。
充血した以上に目が赤くて、まるでバケモノだから。
みんなみんな、そう言って私をいじめた。先生がいる前ではおとなしいけど、先生がいなくなれば話は別。手足をロープで縛られた。教室中引きずり回された。傷だらけになった顔は、見る見るうちに醜く腫れあがった。
どこのだれがそれを見つけたか知らないけど、ついたあだ名が『ひきこさん』。所詮都市伝説って誰も信じないから、引き摺られるだけの、できそこないの『ひきこさん』だ。
学校の中は、息が詰まる汚い空気しかなかった。
親には言えない。いじめられてるなんて言ったら、きっと心配する。家は貧乏だから、お父さんもお母さんも夜までお仕事。頑張ってることが分かってるから、言えるわけがない。
……でも、限界だった。私は学校に行くのを止めた。心配させるって分かってたけど、理由も言わずに家に引きこもった。それがもっと心配させるのも分かってたけど、言えなかった……。
私は雨の日が好きだ。雨の日は、誰かに出会うことはない。それに、濡れてしまえば誰だって醜くなる。傷だらけの顔の私も、気にならない。
あの日も、雨の日だった。嬉しくなった私は、長靴を履いて雨具を羽織らずに外に駆けだした。全身が濡れる感覚が、嬉しかったんだ。晴れの日は部屋に引き籠ってるから、外の空気が恋しいのだ。湿ってたっていい。外の空気をいつまでも浴びていたい。いっそ、どこかの深い森の中に引き籠っていたいとさえ思った。
でも、私は、自分のしたことの意味をまだ知らなかったんだ
私の寄る辺が無くなった|あの日。全部どうでもよくなった私は考えなく道路に飛び出した。そして、私の視界いっぱいに、車のヘッドライトの明かりが広がったんだ……。
「私の未練は、両親に相談できなかったことなのかな」
ひきこさんは、滴り落ちる雨を眺めながらポツリと呟きます。
「相談、ですか?」
「ああ。私は何も言わない方が心配させるって分かってたけど、いじめられてる事実を父さんと母さんに知られるのが嫌で、黙ってたんだ」
ひきこさんはぼうっとした目で黒雲を見つめました。雲を映して赤黒いな瞳。わたしには、何を考えているのか分かりません。でも、ひきこさんの悩みを解決する方法は、教えてくれました。
「だったら、これからご両親に会ってくればいいじゃないですか!」
お父さんたちにお話しできなかったことが未練なら、お話すればきっと晴らせるはずです。未練を断つことが出来れば、ひきこさんは成仏できます。そうすれば、お悩み解決なのです。
ですが、わたしの提案にひきこさんは暗い顔でした。何か悩むように、黒雲の中へと視線を向けています。
「…………そうだな。いい加減、謝った方が良いかもしれない。みはるとなら……」
「そ、そうですよ! それが一番です!」
そうとなれば善は急げ。さっそくお会いしに行きましょうか。ですが、ふと時計を見てみるともう午後の十七時。付近はまだ明るいですが、不用意に出歩くのは良くないのです。
「ひきこさんのお家はどこです?」
「……市街の方だ。駅から少し歩いて、川が流れてる辺り。その近くに、二人とも居る筈だ」
あれ? ひきこさんの言い方、なんか不自然ですね。
「駅の方ですかぁ。秋雨さんに案内してもらった方がいいですね。でも秋雨さん明日も学校ですし……」
「それに、性質の悪い怪異がいるかも。引き籠りの私と無知なメリーさんだと、危ない」
「そーですねー……」
そこはかとなく貶された感じがするのですが、言い返せる要素はありません。わたしは無知で無垢な怪異です。世間知らずです。市街の方にはどんな怪異が居るか、想像もつきません。
「あ、いい道案内の人がいるじゃないですか!」
「誰だ?」
「さっきまでそこにいた人です」
きょとんとした顔のひきこさんに、わたしは可憐な笑顔を振りまきます。いえ、ここは悪戯するときの顔でしょうか。ひきこさんが私の考えに気づいた時が楽しみです。
その日の夜。ひきこさんは長居は悪いと言って帰りました。山の中で過ごしてるそうで、案外快適なのだとか。
秋雨さんに相談を持ちかけられたこと、それを解決することを話すと、酷く心配されました。まだこの辺りの土地に慣れていないからでしょう。ですが、わたしが熱意を籠めて訴えたおかげで――渋々ですが――秋雨さんも承諾してくれました。
秋雨さんは数日前に高校の帰り道で相談を受けたらしく、そのことであちこち歩き回っているとか。相手は人間霊で、この世に留まってそろそろ三年が経とうかというところ。居座り過ぎにもほどがあるくらいだそうで、今まで悪霊に変質しなかったことが信じられないそうです。
わたしが相談を受けたひきこさんも元は霊体、人間霊です。変化する時間の差はあれど、彼女はすでに――ほぼ――悪霊でしょうか。
ともかく、秋雨さんは明日も授業が終わらないと出られないそうです。秋雨さんも明日は市街の方に出て来るそうなので、市街の駅で合流できればしようということになりました。わたしの方は。いちよう案内役が居るので安心です。
「まったく、意味分からへんわ。なんで僕が道案内やねん。こんなんこっくりさんへの質問ちゃうやろ」
「でもきちんと出て来てくれたじゃないですか」
「出てこさせられたんや」
「学習してないからですよ。同じ手に引っかかって。でも、お手伝いありがとうございます」
「手伝いちゃう、脅迫されたんや。あーもうそこのおねーさん、僕の背中のカッターナイフ抜いてくれん?」
「どうせ見えてませんよ」
「これだから怪異の制約は面倒なんや。こっくりさんは受動的なんがいかんな。草食系男子は食われる運命や」
ぶつくさ文句を言うこっくりさんはほっといて、わたしはボディーガード兼案内人の御蔭で市街に出て来れました。田舎県の市街ということでそこまで大きい訳ではありません。以前わたしも大阪に出た事があるのですが、比べられる訳もないです。でも、大阪駅と比べて駅前の公園の緑が映えるのは良いですね。あっちは屋上に上がらないと緑が見えませんから。
「ひきこクン。それで、君の家はどこや?」
「……こっちだ」
ひきこさんの先導の元、わたしたちはどんどん駅から離れていきます。駅前の寂れた商店街を抜け、整備された川の脇を進みます。
「市街から外れた所なんか?」
「ああ。たぶん、二人ともあそこにいるから」
またです。ひきこさんの言い方は、どうもお家に向かっている感じじゃありません。それよりも、ご両親がどこにいるか分かっているかのような口ぶりで、少しずつ人気のない所に向かいます。
やがて見えて来たのは、冷たい石の建物がたくさん、規則正しく並んでいるところです。足元には細かい砂とコンクリートの塀で出来た道が。石の建物がある高台は、地面が砂だったり砂利だったり。そして、石の建物の近くには「ぼぅ」と立ち尽くすたくさんの霊体が。
「……お墓、ですか?」
「こら、なんや重なってきたなぁ」
立ち止まり墓場を見渡すわたしとこっくりさん。それを余所に。ひきこさんは迷うことなく墓場の道を進み、一つの建物の前に立ちます。
わたしたちも近づくと、あまり手入れのされていない墓石が目に飛び込んできます。そこの脇には、名前が掘られていました。
【森山志珠 平成○○年〇月 四十二歳】
【森山露夢 平成○○年〇月 四十歳】
【森山梅雨乃 平成○○年〇月 十二歳】
ひきこさんはまた無表情な瞳で墓石に近づき、手を合わせました。お線香を立てようと思ったのですが、持ち合わせていませんでした。
「私の両親は、ここに眠ってるんだ」
手をおろし、墓石を眺めるひきこさんはポツリと言います。
「私が引き籠りになって、必死に働いてた二人の心労はもっと増した。身体も精神も限界なのに、二人ともそれでも私のために仕事を止めなかったんだ。それで、無理のし過ぎで逝っちゃった」
ひきこさん――いえ、梅雨乃さんの頬を、涙が伝ったのが見えます。もしかして、初めてなんでしょうか。ここに訪れるのが。
「二人が逝っちゃって、私もどうしていいか分からなかった。ただ、私が引き籠って、それが二人を死なせちゃったんだ。その後は、もうどうでもよくなった。雨の日にふらふらって外に出た時、わたしも轢かれちゃって」
真っ白な髪を片手で梳き、ひきこさんは頬の傷跡を撫でました。怪異になってから、傷は癒えてきたそうです。でも、つぎはぎの残る顔は醜いって、ここに来る途中ひきこさんは言ってました。
「怖かったんだ。一旦引き籠ったら、外に出たら何言われるか分からない。いじめっ子たちにじゃない、近所の人に、親戚の人に、お父さんとお母さんに、どんな顔して会えばいいんだろう。そんなこと考えたら、引き籠り始めた理由もどうでもよくなっちゃった。ずるずるとそのままが続いて、自分の中に閉じこもって、誰にも話したくなくなって……気づいたら、もう遅かった。死んでからも、二人に会わす顔が無くて、山に引き籠っちゃった。引き籠りってさ、一度始めたら、止まらないんだ。引き籠る自分が嫌で、人に見せたくないんだ。だから、辞められないんだ」
こっくりさんは明後日の方を見つめてます。すごく居辛そうです。
「山の動物にさ、麓の古民家の相談役に小さな助手が出来たって聞いたんだ。それがみはる。みはると一緒に『さとるくん』や『こっくりさん』を呼んでたらさ、みはるとなら、謝りに行けるって思ったんだ。引き籠ってて、みんなから離れてて気づかなかったけど、誰かと一緒だと気持ちが楽になるんだ。誰かが見てくれるから、こうやって謝りに来れたんだ」
微笑みかけてくれたひきこさんは、笑顔でした。暖かで、朗らかで。安心したような、つきものが落ちたような、そんな顔です。なぜか、わたしの胸も温かくなるほどに。雨に濡れてるのに、温かい。
ひきこさんは、墓石の前にしゃがみました。そして、震える唇を必死に開き、告げます。
「お父さん、お母さん。迷惑ばっかりで、ごめん。死なせちゃって、ごめん……」
「謝らないで、梅雨乃」
その声は、わたしの背後からでした。振り返ると、少し頬のこけた男女二人組の人間霊が立っています。こっくりさんが「おっと」と言ってその場を離れるのに従い、わたしも下がります。
「梅雨乃。謝るのは私たちの方。ずっと梅雨乃に辛い想いをさせて、ひとりぼっちにしちゃったんだから」
「お前に苦労を掛けまいと必死に働いた。だけど、その所為でお前に寂しい想いをさせてしまった。怪異になってまで、一人にさせてしまった」
梅雨乃さんのご両親は、とても辛そうでした。生前に分かりあえず、死んだ後三年も経ってようやく再会できたからでしょうか。
「一人残したお前がどんな想いだったか、考えてこなかった。親失格だよ」
「……そんな、そんなことないよ」
目を伏せる梅雨乃さんのご両親に、梅雨乃さんは一歩、歩み寄ります。
「私だって、二人に何も言わなかった。何も言わないから、お父さんとお母さんを余計に心配させちゃった。そして、私が二人を、殺しちゃったんだ……」
梅雨乃さんの頬を、涙が伝います。先ほどの一滴だけではありません。溢れて溢れて、止まりません。梅雨乃さんのの顔は、涙と雨のしずくでぐしゃぐしゃです。
「梅雨乃」
梅雨乃さんのお母さんが、梅雨乃さんを抱きしめます。あれ、なんか、わたしも辛くなってきました。抱きしめられる梅雨乃さんは、何かを思い出します。
あれは……わたし? 美春さんに抱きしめられる、わたしでしょうか。
「もういいの。私たちみんな死んじゃったけど、成仏する前に、こうして会えたんだから」
「梅雨乃……」
こっくりさんが「あかん、もう見てられん」と言って天を仰ぎます。見れば、墓場の一角で起きた再会は、墓場全体に伝播していました。無表情で「ぼう」としていた人間霊のみなさんが、一組みの家族の死後の再会を見つめています。魂で、噛みしめています。
「お父さん……お母さん……」
そして、梅雨乃さんも同じでした。いや、それ以上でしょう。梅雨乃さんはやっと会えたご両親と、嗚咽交じりに抱き合うのでした。
墓場の一角で置きた感動は、わたしにも何かを残していくようです。
三十分くらいでしょうか。こっくりさんは「もうこの場におれへん」と言って勝手に消えました。梅雨乃さんたちの身体がぼんやりと光り始めます。身体から小さな光る玉が昇り、天へと消えていきます。
「一家まとめて、お世話になりました」
「いえ、あなたたちが悪霊に転じずに済んで、なによりです」
梅雨乃さんのご両親の言葉に、いつの間にか背後に立っていた秋雨さんが答えます。傘の下で線香に火を灯し、お墓に立てます。
「本当に、何から何まで……」
「それは、僕じゃなくてみはるに。僕は、あなたたちに頼まれて梅雨乃さんを探していただけです。梅雨乃さんを見つけてくれたのは、僕じゃなくてみはるですから」
「そうですか。ありがとう、みはるさん」
梅雨乃さんのお父さんにお礼を言われますが、わたしは少し複雑です。だって、わたし自身なにかをやったって思いがないんですよ。わたしは、さとるくんとこっくりさんに成仏のやり方を訊いただけ。実行したのは、全部梅雨乃さんです。
「みはる、ありがとう」
だから、梅雨乃さんのお礼も素直に受け取れません。
「……みはる。僕は憶測でしか語れないけどさ……えっと、梅雨乃さんには悪いこと言うかもだけど……」
「構わない。みはるが納得できるなら、言ってくれ」
「……梅雨乃さんは友達がいなかったんじゃないかな。ご両親に訊いたことからの想像だけど、学校ではいじめられてばかりで、それからずっと引き籠って、何かするにも全部一人だ。一人だと、怖くてできないこともある。だけど、友達が傍で見ていてくれたら、何かあった時に言葉を吐き出せる友達がいるから……だから今日、勇気を出してご両親に会いに来ることが出来たんだよ」
秋雨さんは、わたしにお線香を渡してくれました。お線香は怪異にとって毒にもなるのですが、毒は反対に薬にもなります。
お墓にお線香を立てると、梅雨乃さんはとてもうれしそうに笑いました。
「みはる。たった一日だけど、友達みたいで楽しかった。ありがとう」
「……いえ、わたしは、何もしてないです。無知で無垢で、生まれて数ヶ月の怪異のわたしは、何もできてないです」
「十分だよ。ありがとう」
梅雨乃さんは、目元を押さえています。梅雨乃さんにとって、わたしは初めての友達なのでしょうか。だから、居るだけで力になれたのでしょうか。……なんだか実感が湧きません。たった一日ちょっとのことですから。仕方ないですよね・
「日下部さん。後のことは……」
「大丈夫です。相談役ですから責任は持ちます。任せてください」
梅雨乃さんのご両親の言葉に、秋雨さんは真摯に応えました。
「……じゃあ、ね」
その言葉と共に、梅雨乃さんたちの光は一層眩しくなりました。
そして、光が収まると、
「…………あれ?」
梅雨乃さんだけが、そこに残っていました。
「…………え?」
成仏したんじゃ、ないのですか?
わたしたちの困惑を余所に、秋雨さんは後頭部をかきます。そして「さてと」と前置きを入れます。
「それじゃ、君に説明しなきゃね」
とりあえず、把握できたことは一つ。
梅雨乃さんは、まだ成仏できてません。