プロローグ
窓の外の景色は、いつの間にか緑と茶色ばかりだった。つい少し前までは、白いコンクリートと目立つ色で着色されたスーパーマーケット、そして道路のアスファルトが視界に映る色だった。都市の色だ。けど、今は自然の色ばかりが目につく。薄く剥げたような木材の茶色。古めかしいけど、趣のある赤茶色の煉瓦。古風で懐かしさを感じてしまう建物が、いくつも立ち並ぶ。
そして、木々の隙間から覗くのは、肌が薄い、透けた人たち。現実とは思えない魑魅魍魎。人ならざる者たち。
「ずいぶん奥まった場所なんだな。高校まで通えるか?」
「大丈夫だよ。自転車で三十分ほどだから」
「遠いな。寝坊するなよ」
「大丈夫だって。それくらい距離があった方が、ちょっと風情あるって」
父さんの心配を適当にあしらい、僕は車の窓を流れる自然あふれる光景に見入った。来年度からは、この景色を眺めながら自転車のペダルを漕いで進学先の高校に行くのだ。雨の日や雪の日が大変だけど、別にそんなことは気にしない。歩くのは好きだから、片道徒歩で一時間だろうと、僕にはむしろ嬉しいくらいだ。
高校進学を控えた僕は、とある一軒の古民家に住めるという話に跳びついた。高校だったら地元を選べばよかったのだが、僕は遠くの学校を選びたかった。理由は単純、一人暮らしへの憧れだ。もう一つ、今の中学校の知り合いと顔を会わせたくなかったって言うのもあるけど、それはおくびにも出せない。そんなことを言えば、父さんも母さんも心配する。
「だが……」
「いいじゃない。私は気に入ったわ。秋雨に会いに来るときはあんな昔ながらの家に暮らせるんだもの。楽しそうじゃない」
「母さん、いいのか?」
「いいのよ。秋雨が自立してくれるなら、ちょっと寂しいけど、嬉しいことだわ」
心配性な父さんと楽観的な母さん。世に言う父と母の関係とは真逆な気がするけど、僕の両親がこの二人で良かったと思う。
「ねぇ、にいちゃん。僕も一緒に引っ越したい」
「え、でも秋人は中学――いや、そうなったら、学校の勉強は僕が教えることになるよ」
「それでもいいよ」
一切の迷いがない弟――秋人に、曖昧な苦笑を見せるほかない。秋人は、いわゆる引き籠りだ。見える筈も無いものが見えて、学校では虚言癖の変人という扱い。秋人も徐々に周りとのずれを認識して、最終的には学校に行かなくなった。まぁ、僕も人の事は言えないけど。いや、ちゃんと登校はしてたさ。じゃないと、高校にいけるわけない。人付き合いを避けていただけだ。
「秋雨が教えて、中学校の勉強免除とかなればいいのにねぇ」
「母さん。そんなに世の中甘くないぞ。どうにかしないとなぁ」
秋人の引き籠りが秋人の将来を大きく崩してしまうのではないか。それが、父さんの悩みの種だ。
「なに言ってんの。私は中学どころか小学校も行かずに山の中駆けまわってたのよ。そんなでも家族養えるようになったんだから、大丈夫よ」
「母さんが特例だろう?」
「私の血を引いてるんだから、秋人は大丈夫よ」
ホント、こんな親で良かった。でなければ、高校進学で山の中の古民家に一人暮らしなんて、どこの親が認めてくれるというのだ。
兄弟そろって見える筈の無いおかしなモノが見えるというのに、誰が気味悪がらず育ててくれるというのだろう。
「秋雨、そろそろかい?」
「うん。そこで停めて。塀の向こう側が……」
車を停め、僕はガラス窓越しでなく、直にそれを見上げる。
一軒の平屋。入り口の柱を抜けたら、その先には色とりどりの花が咲き乱れる庭がある庭の中には、山の方から水を引いたのだろう小さなため池が。庭を望む、のんびりとした雰囲気が似合いそうな縁側が昔ながらの古民家という印象をさらに引き立てた。そして、縁側から望む室内は風情を壊さない畳張り。
管理してくれる者がいない寂れた古民家と聞いていたけど、なかなかどうして、しっかり整備されているじゃないか。庭の手入れまでしてあって、まるでこれから高校生活を始める僕を祝っているようじゃないか。
っと、ちょっと自意識過剰な面が出てしまったけど、そうとしか思えないくらいの状態なのだ。
僕は深呼吸一つする。目を開くと、真昼間だってのに、炎の塊のような者がふわふわ浮かんでいるのが見える。
「ここが……」
不可思議で誰も管理を請け負ってくれない古民家。だけど、それはこれまでの話。今日からは、僕の住居になるのだ。
「いいところだな」
僕の不可思議な古民家暮らしは、この日始まったと言っていい。
印象に残る出会いから始まった、古民家暮らしの思い出。それから、もう一年が経つ。僕は、当時の感動を、もうほとんど覚えていない。あれは、心揺れる高校生活の開始と同時に、良からぬものまで引き寄せてしまったのだから。
高校生活を始めて一年。僕は、この古民家で、『怪異相談役』をやっている。