十八、王妃の悲願
今回は王妃視点のお話です。
王宮の庭園はわたくしのお気に入りだった。
甘い香に包まれていた。鮮やかな花々は王妃という慣れない環境に疲弊するわたくしの心を癒してくれた。
清らかな水が絶えず溢れる噴水に手を浸し、穏やかな時の流れに身を置くことが好きだった。
日差しに疲れたなら木陰に移動して休み、柔らかな風に身を任せるの。
手を伸ばせば愛する陛下がそばにいてくれた。
やがて傍らには娘を伴うようになり、時には小さなその婚約者も連れ立って束の間の散歩を楽しんだ。ここは笑顔に溢れていた。
十年前までは……
わたくしのためにと陛下が揃えて下さった花たち。赤、黄、それともピンク? いいえ、どれでもない。わたくしの一番のお気に入りは穢れを知らない真っ白な薔薇。
けれど一度だけ、白は残酷なまでの赤に染まったことがある。愛する娘の血、ここは悪夢の夜が引き起こされた場所なのだから。
悲劇の王妃?
いいえ、皆が騙されてくれた。どれもわたくしが望み、わたくしが引き起こしたことなのに。だから悲しむ必要なんてないでしょう?
あれから十年が経ち、かつての賑やかだった頃の面影はない。
赤に黄にピンクも――すべてがあの頃のまま。そうメイドたちは言うけれど、わたくしの目に写る世界には色がない。
同じ場所に立っているはずなのに、十年前とは過ごし方はまるで違う。変わってしまったのね、わたくし自身のように……
ねえ、どうして? わたくしの理と世界の理がずれていくの、どうしてかしら……?
まるで時が止まったように一日中ここで過ごすこともあった。王宮の人間にしてみれば、わたくしがここを離れられないのも当然だそうね。
彼らに言わせれば、わたくしは心を病んでいるそうよ。娘を忘れられない悲しみ、思い出を忘れたくないのだろうと、庭園から長く動かない様子を咎める者はいない。
それは違うわ。ここにいれば甘い花の香りが気分を紛らわせてくれるから、それだけよ。娘との思い出なんて、もう何も見えないのだから。……見る資格がないのだから。
引きずるほどに長いローブを全身に纏い、顔は黒いベールで覆ってしまいましょう。首元までの一切を覆うドレスは、本当にわたくしなのか一見しただけでは判断出来ない。けれどここいるのはまぎれもないわたくし、シルヴィス・エデリウス。
水には触れたくない。太陽の下で活動したいとも思わない。次第に外へ出る機会も減っていた。誰にも会いたくはない。だって見られたくないもの。
早く夜が訪れてほしい。闇に紛れてしまえば醜い姿を晒すこともないのだから。
けれどわたくしは、あれほど毛嫌いしていた昼に身を置いている。だってもう、あとは時が満ちるのを待つだけですもの。最後だと思えば、もうどうだっていいのよ。
「陛下、良い夜ですわね」
「ああ、そうだな」
陛下はお優しい。わたくしだって昼だということはわかっているのに。不思議がることもなく、憐れむでもなく頷いてくださるのだから。陛下は焦点の合わないわたくしの呟きにも丁寧に返してくだわる。だから彼が愛したリージェンを、きっと取り戻して差し上げなければ。
「儀式には相応しいですわ」
「……本当にリージェンが戻ってくるのか?」
わたくしが愛し、わたくしを愛してくれた人。エデリウスを統べる人、リージェンの父親。彼はあまりに優しいから、もう何度となく繰り返した問答を何度も繰り返す。わたくしも呆れることなく同じ答えを返しましょう。
「はい、もちろん。女神に不可能はありませんもの」
ベールに覆われた下で、唇が弧を描くのがわかる。艶のなくカサついた唇がひび割れようとも、そんなことは気にもならないほど高揚していた。この力と女神の子孫である王族の血があれば可能なことだわ。
あと少し、そこから引きずり下ろしてあげる。そうすれば望んでいたものが全て手に入る。灰に染まった世界に意味はない。わたくしが創り変えてさしあげましょう。
「陛下」
手を上げることさえ今となっては億劫だけれど、最後の力をふり絞る。
早くこの手を掴んで、そうすれば何もかも上手くいく。傍らに忍ばせた短剣が王族の血を待ち望んでいるわ。
わたしくは色のない世界に取り残されている。わたくしだけが狂っていくなんて我慢できない。
邪魔な娘はいなくなったはず。これはわたくしだけのもの、髪の毛一筋たりともあげたりするものですか。
「さあ、お手を――」
「止めて!」
眩しいと、久しく感じたことのない感覚だった。色のないはずの世界に光が差したような気がした。
聞き覚えのあるその声に、手が止まる。わたくしの感情を逆撫でする女。わたくしが羨み、妬み、害しようと目論んだ女。憎いあの騎士の娘がそこにいる。おそらくわたくしに立ちはだかるために居るのでしょうね。




