秋刀魚に醤油は欠かせない
秋刀魚に醤油は欠かせない。ビールは一日二本、風呂の後で冷えた状態で用意されていないといけない。ハンカチ、ワイシャツは皺ひとつあってはならない。家事は全て家にいる妻がやるべきで、ゴミ出しするどころか食後の食器も片付けない。いつも笑顔で言う事をきちんと聞いて、眉をしかめてはならない。実家に帰ってはならない。ちょっと熱があるくらいで家事をサボるな。友達などと会わなくていい。趣味なんてお前に必要ない。口答えするな。母さんが嫁いびりするはずないだろう。親戚付き合いは上手くやれ。カレーは中辛じゃないと駄目だと何度言ったら分かる。ぐずでのろまで何の役にも立たないバカ女。俺を怒らせるお前が悪い。責任転嫁。怒鳴り散らす。
などの決まり事や行動、発言は結婚して五年間、私が妻にやり続けてきたことである。
他にももっとあるだろうが、私が思い出せるのはこのくらいだ。妻にはとても酷いことをしたと思っている。
テレビの番組で、酷い夫が特集されていた・全国の嫁の夫に対する悩みや嘆き怒り、モラハラについて詳しく説明されていた。
始めは酷い奴もいるものだと他人事のように観賞していた。しかし、徐々に「あれ? これ自分のことじゃないか?」と気付きだし、そこで私も酷い奴の一員だと悟った。全国の嫁の怒りが私に向いたような気分だった。
今日会社で自分のことというのは隠し、同僚や後輩達に「こんな男がいるんだがどう思う」と自分が妻にした事を話してみた。
「うわひでえ。そんな人間いるのかよ」
「むしろ人間じゃないでしょ。マジありえない」
「その人超キモいですね」
「我儘な子供がそのまま大人になったみたい」
「その嫁、離婚するべきでしょ」
「そんな男とは死んでも結婚したくないわー」
大不評の嵐だった。皆の批判の波にもまれ、途中から記憶がなく、我に返った時は家で夕食の秋刀魚をボーっと眺めていた。
「あなたどうしたの? 具合でも悪い?」
妻は今日も私の言いつけを守ってニコニコ笑顔で、私の前に座っている。同僚、後輩達の言葉がぐるぐる頭の中を回って、『離婚』という二文字を妻の背後に投影していた。
私は勢いよく頭を下げた。鼻と机が後数センチで接触しそうで、秋刀魚と目があって、ご飯とみそ汁が前髪に浸かっているが気にせず妻に頭を下げた。謝ろう。今まで別れずにいてくれた妻だ。まだ遅くはない。きっと許してくれる。
「どうしたの? 何か変な物でも付いてた? それとも秋刀魚の焼き目が気に入らなかったの?」
「違うんだ。今まで本当に悪かった」
「なんのこと?」
「今までお前に酷いことをしてきた。俺は悪い夫だった。これからは心を入れ替える、どうか許してくれ。もう怒らないし家事も手伝う。嫌な事はしなくていいし、好きに遊んでいい。変な決まり事を守らなくてももう怒鳴らないから、だから、どうか…」
優しい妻はきっといつもの笑顔で私を許してくれる。その揺るぎない自信を胸にパッと頭を上げてみると
妻は瞬きもせず、どこかで見た気味の悪い人形のように無表情で固まっていた。
みそ汁と米粒が前髪を滴っていたが、それを拭う気にならないほどみたことのない衝撃的な表情だった。
「全部あなたが悪かったの?」
「え? あ、ああ…うん」
「私、何もできないぐずのバカ女じゃなかったの?」
「お、お前はその、いつも良くやってくれてるよ」
「そっかー。私ちっとも悪くなかったんだ。悪いのは全部あなただったんだ」
「はい……そうです」
「へーそっかー。私が今までしてきた苦労は経験しなくてもよかったのかー。あんな辛い思いも涙も言いつけも必要なかったのかー。認められようとした努力も無意味かー。全部無意味だったのかー。ふーん」
「………すまない」
「………………」
「………………」
「……………………………」
「…………………………………………」
「ご飯、冷めるよ」
「……うん」
私は秋刀魚の身をほぐす。妻はニコニコ笑顔で私に醤油を渡すタイミングを窺っている。
「このクソ野郎」
妻から受け取ってたらした醤油がどんどん秋刀魚の身に染みていく。どんどんどんどんどんどんと。
ああ、これは手遅れだな。