鏡像偶像
鏡に映った己に「お前は誰だ」と毎日言い続けるとその人は狂うらしい。
まあ、そんな奇矯な事をしていれば狂うだろう、普通に。寧ろ何を期待していたんだ。狂う以外にどんな選択肢があるんだ。
古今東西、鏡に霊性を見出す話はよく見聞きすることができる。それは、鏡というものが、ほぼ唯一といっていい、己の姿を己で直接見る手段だからだろう。特に、己の顔というものは他に見る手段がない。背も同じく。こちらは二枚いるかもしれないが。そして、鏡像とは同一でありながら非同一のものである。
まあ昨今では写真映像などといった手段もあるが…まさか、己の身だしなみを整えるのにカメラを使うものはおるまい。そして、カメラというのは他者の目を通した世界を見る手段だ。鏡とは存在意義が違う。
鏡とは己と向き合う為のものだ。好むと好まざるとに関わらず、鏡は偽らざる現実を映す。…まあ、偶に歪んで映る鏡もなくはないのだが。吸血鬼は鏡に映らないというが、ならばそいつは己自身と向き合う事は出来ないのだろう。
獣は鏡に映った己を己と認識しない。本来の自然界に、己を鮮明に映し出す鏡像は存在しないからだ。人間とて知らなければ、理解できなければ、それが己の姿だとは思わないだろう。自然に存在する鏡とは、水鏡である。
童話には水に映った己の姿に吠える犬が存在するが、現実にはそんな犬は存在しない。鏡像が不鮮明で意味のあるものと認識できない、そもそも犬は水に映った鏡像等には興味を持たない、見おろしている時点で己が優位である、などと色々と理由づけはできるかもしれないが、俺はこう言いたい。水面に己と同じ姿をしたものが実在したとして、それは妖怪だろう。
水鏡を見る生物とは、陸上の生物である。稀に例外もあるが、陸生生物は水の中では生きられない。それなのに水の中で平然としている己と同じ姿をした存在がいるのなら、それは同族ではない。同族を騙る妖怪だ。妖怪とは関わるべきではない。下手を打てば死ぬからだ。それが悪意を持っていればなおさらだ。
ナルキッソスは水面に映る己の鏡像に恋焦がれて死んだとされるが、本人の認識としては、その鏡像というのは水妖の類だったのだろう。あの時代にはまだ世界に精霊がいたとされる。水に棲む己と同じ姿の存在も、あり得ぬ話ではなかったのだろう。実際にはそんな水妖はおらず、彼が恋したのは己の鏡像以外の何でもなかったわけだが。
鏡像の否定は自己の否定に繋がるが、逆に肯定はどうだろうか。まあ、毎日鏡に向かって肯定的な言葉をかけると良い方向に変化できるというが、それは鏡像以前の問題だ。己の使う言葉の影響を一番強く受けるのは己自身である。鏡に向けてでなくても、前向きな言葉を使っていれば前向きに変化できる。それが言霊というものである。
人を呪わば穴二つというのは、他人を呪えば自己をも呪うことになるからに他ならない。己の発した言葉を聞かずに呪いを使う事は出来ない。他人を呪う言霊はそのまま自己暗示へと繋がる。人の脳は主体と客体の区別をできないし、打ち消し言葉の認識が出来ない。
鏡像の否定とは、鏡像を他者として呪う様なものなのかもしれない。そう思えば、そちらも言霊なのかもしれないが、最初の実験に関してはやはり鏡像が重要なのだろう。鏡に映った姿は己なのだという前提を、自ら否定する。おそらく、鏡像とは己であるという認識が元々ない人間であればまた別の結果になるのだろう。
己の持つ常識を、価値観を、否定し粉砕されても狂わないでいられる人間がどれほどいるものか。それはその人間の人格の否定にも等しいものだ。物事の判断基準が間違っていると言われれば何も決められなくなる。他者に唯唯諾諾従うだけの人間に自己があるものか。たとい間違った判断基準だと断じられてそれでもそのまま進める人間が人の輪から外れずにいられるものか。
狂うとは、己で正しい判断が出来なくなる事だ。故に、必ずしも奇矯な言動をするとは限らない。寧ろ、そうやってわかりやすい狂い方をしていない人間の方が厄介だ。狂っていても日常生活を送ることのできる狂人は確かに存在する。所謂サイコパスだって狂人の類だし、狂信者だってそうだろう。己が狂っていると思っていなくても、社会から見れば狂っている。この、社会から見れば、というのも難しい。