翡翠
短!くて、すみません。
そこはあまり大きくはない湖だった。
歩いて回っても、ものの5分とかからずに周回出来るくらいの大きさだった。
実際には、湖の周囲には葦が茂っているので、歩いて回る事はできない。
そんな湖の一角に、ぽかりと開いたように切り開かれた場所から小さな桟橋が湖面へと伸びている。
湖面はとても静かで、波ひとつない。
鳥の鳴く声も、車の走る音もしない。
静かだった。
第3ビオトープ。
それは今まで通っていた廃校舎のある山の隣の山にあった。
車で入っていける所まで入っていき、最終的には山道を1時間弱の歩き。
行くだけでも結構な大変さで、確かにこれは体力がなくてはいけないな、と妙な納得があった。
湖までは、タックル(釣り道具)の大半をスーさんが持って入った。
自分で持つ、と言ってもスーさんは聞いてくれなかったのだ。
しかしながら、きちんと整備されているとは言いがたい山道を歩くのは、思ったよりも大変で、実際両手が塞がった状態で登ろうとしたら痛い目に会っていただろう。
途中、妙な霧にも見舞われた。
まるで牛乳の中に突っ込んだかのような視界0の真っ白な霧。
それは立ち上ったかと思えば、ほんの数瞬で消え去った。
このままどこか異世界にでも迷い込むんじゃないのか?
そう不安に思う私の手を、不意にスーさんが握ってきて、そちらにビックリしている内に霧は消えてしまった。
あれは一体、なんだったのだろうか?
言葉の通じないスーさんに聞いても仕方がないので、頭の中であれこれ考えている内に、この湖に到着した。
事前に校長に聞いていた限りでは、この第3ビオトープには無数の小さな湖が山の中に点在しているらしい。
そしてそれぞれの湖に、それぞれの魚が棲んでいるという事だ。
今いる湖にいるのは、翡翠という魚で、それを釣るのは相当に難しいという話でもあった。
「……釣れん」
湖に付いてから既に2時間が経過している。
その間、何の反応もなかった。
最初に選んだのはペンシルベイト。
名前が示す通り、鉛筆にも似た形状の、両端が丸くなった形状のルアーだ。
そしてこれは水に沈まない。
糸を強く引けば、多少は潜りはするものの、基本的にはカエルのルアー、フロッグと同じく水面を泳がせて魚にアピールするルアーだった。
着水させ、しばらく魚の反応がないか様子を窺い、それから竿を動かしながらリールを巻く。
するとペンシルベイトは糸に引かれて最初は右に、次は左にと交互に首を振るように水面を泳ぐ。
ドッグウォーク。
犬の散歩をさせるように、糸を引き、水面を滑らせ魚を誘う。
さながら逃げ惑う小魚のように。
さながらぼんやりと呆けたように。
桟橋の対岸、その岸際を、そして湖中央の他よりは深くなっているその水面を探り、さらには一度通したコースでも、何度となく通してみる。
一度目に反応が無くとも、二度、三度と通すと、いらついた魚の反応を得られる事もある。
しかし、結局、反応は無かった。
次に選んだのはミノー。
中層を泳ぐ、形も動きも小魚そのもののルアー。
魚の唇の位置に、下向きに飛び出すように付いているリップ。
プラスチックの爪のような形状のそれが水の抵抗を受けてルアーを沈ませ、そして魚の頭を小刻みに震わせる。
それがまるで本物の魚が泳いでいるような動きを生み出す。
魚は基本的に障害物に付く。
しかし、桟橋から見渡した限りではそれらしい障害物は見えない。
それならば、水中の地形変化についている魚を狙うのがセオリーだったけれども、スーさんに身振り手振りで確認してみた限りでは、それも無いようだ。
典型的な皿池タイプ。
そうなれば、獲物を探して泳ぎ回る魚を狙うか、それともまた岸際を狙うしか無いだろう。
いそうな所に、そしていなさそうな所にも、反応のありそうなルアーを投げ続けた。
その結果、アタリのアの字も得られていない。
生命感がない訳では無い。
桟橋から湖の中を覗き込めば、メダカサイズの色とりどりの魚が泳いでいるのが見える。
水の透明度は高い。
それは1メートルにも満たない水底に、手を伸ばせた届くのではないかと錯覚させるほどに。
その透明さ故に、ルアーの些細な違和感も、魚に見抜かれてしまっているのかもしれない。
アクションが悪いのか、ルアーが悪いのか。
手を変え、品を変えするように、ルアーを変え、試せる事を試してもみた。
そんな私を馬鹿にするかのように、時折、ルアーを投げた位置とはまるで違う辺りで魚が跳ねる。
あまり大きくはない魚だった。
それは、周囲を樹々に覆われた山の中にぽっかりと空いたような湖の上空から差し込む陽の光を受けて、綺麗な緑色に輝いていた。
スーさんを見れば、彼女は無言で頷く。
あれが翡翠だと。
湖面に落ちた虫を食べているのか、それとも水面を泳ぐ、あのメダカみたいな色とりどりの魚を食べているのか。
馬鹿にされているかのような魚のジャンプを見せつけられるばかりで、その日は翡翠を得る事は適わなかった。
行くぞ、とばかりに首をぐいっと引いたスーさんの後に付き、ちらりと振り返る。
「次はこうはいかんぞ。覚えていろ」
そういえば、現実に捨て台詞を吐くなんてはじめてかも?
と、阿呆な事を考えながら、山を降りた。
隣の山の廃校舎でスーさんを下ろし、校長に挨拶して家へと向かう。
車の中で思い出していたのは、はじめてブラックバス釣りに向かった少年時代の事だった。
偽物の餌で釣れる魚がいるらしい。
そう聞いたのは小学生の時。
文字通り、食事で使うスプーンに似たルアー、スプーンと、くるくる回る金属片に針が付いた変なルアー、スピナー。
それにロッドとリールがセットになって売っていた安っぽいタックルを手に、釣り道具屋で聞いた近所の野池に向かった当時の事は、色あせているどころか既に記憶の彼方。
それでも強く心に残っているのは、全然釣れないじゃん!
という癇癪にも似た気持ちだ。
そう、全然釣れなかったのだ。
それまで、ミミズを餌に、それなりの数の魚を釣っていた。
友達の間では名人と呼ばれるような腕前だった。
しかし、ブラックバスは全然釣れなかった。
さらに不愉快にさせたのは、自分は全然釣れないのに、周りの人には釣れるのだ。
最初は父が釣り上げ、そして次第に友達も釣り上げるようになった。
そんな中にあって、自分だけが全く釣れなかった。
1ヶ月釣れず、3ヶ月釣れず、半年釣れず。
思えばよく辞めてしまわなかったものだ。
相変わらず自分だけが釣れず、周りの人には釣れて。
たまに気晴らしのように餌釣りをすれば、きちんと魚は釣れる。
ならばと餌でブラックバスを狙ってみれば良かったのに、それはしなかった。
ブラックバスはルアーで釣るもの。
そういう妙な意地があった。
そうしてルアーでブラックバスを狙うようになって1年。
ついにその日が訪れた。
明確なアタリがあったのか、なかったのか。
自分がどうやって合わせ、そしてラインを引いているのが魚であると確信したのか。
覚えているのは魚を手に、一緒に釣りをしていた友達の元へと走っていった事。
そして、強い喜びだけ。
一度、釣ってしまえばブラックバスもそれなりに釣れるようになった。
あんなに釣れなかったのが嘘みたいに。
あの喜びをもう一度。
次はもっと大きな魚を。
こんな魚もルアーで釣れるらしい。
あそこに行けばこんな魚が釣れるらしい。
思い返せば、随分と長い間釣りをしてきている。
子供の頃の遊びを大人になっても趣味として続けている人はどれくらいいるのだろう?
小学生の頃に一緒に釣りに行っていた友達は皆、中学、高校と時間が経つのにあわせるように離れてしまった。
子供の頃に好きだった事を、今でも好きでいて、それも懐かしさとしてではなく、今も新しい気持ちで興じている自分は変なのだろうか?
高速道路を下りれば家はもうすぐそこだ。
そういえば、住んでる場所もかつての少年時代とは違う。
思えば本当に時が経っているんだな、と今更のように思った。
家へと帰り、仕舞ってあるルアーを片っ端から引っ張り出した。
その中に、小学生の頃に、親戚の叔父から買ってもらったスプーンがあるのを見つけた。
既にその叔父も亡い。
かつて、イワナやニジマス釣りを教わったのはその叔父からだった。
叔父の言葉を思い出す。
静かに、ゆっくり近づくんだ。
気配を消して、周囲と同化するんだ。
焦るな。
焦らなくても、釣れる時にはちゃあんと釣れる。
ブラックバスを釣るのには1年かかった。
イワナを釣ったのも、自分が一番最後だった。
「焦るな。焦らなくても、釣れる時には釣れるものさ」
手の平で弄んでいたスプーンが、蛍光灯の光を反射してキラリと光った。
翡翠 = イワナやニジマスに似た山魚。臆病かつ、警戒心の強い魚で、網にかかる事は無く、釣り上げられる事も滅多に無い。強い魔法耐性を持ち、特に雷系の魔法は一切無効化する。そのために、釣り上げるしか捉える方法が無い。それを食した者には一度だけ強い幸運をもたらし、その身を守る。