納竿
前回、おじいさんにあっさり象牙を釣り上げられたのが悔しかったので、しばらく釣り堀には顔を出さなかった。
代わりに昔、3ヶ月でやめてしまった会社近くのジムに登録し直し、そこへと通った。
せっかくだからと本格的に鍛え直したいと付けてもらったトレーナーに伝えたら、やれ関節の可動域が狭いだの、柔軟性が低すぎるから、まずはそこを直さないと筋力だけ上げても怪我するだの、色々と徹底的に体を改造する事になった。
何のために鍛えるんですか?と聞かれて、そのまま答える訳にもいかずに南アフリカの奥地に怪魚を釣りに行くんです、と答えたらあだ名がなぜかアマゾンになってしまった。
色々と突っ込みどころはあったものの、とにかく世界最大のアジ、ジャイアントトレバリーだろうがゲームフィッシュ(趣味としての釣りの対象魚)としては世界最大の魚であるメカジキだろうが力ずくで釣り上げられるような肉体改造を目指した。
高校の部活動でもこんなに自分の身体の事を考えた事はなかったと思う。
中学、高校は陸上部だった。
言われるままに走って、筋トレして、試合に出る。
深い理由を求めずに、指示に従っていただけだった。
ひとつひとつのトレーニングの意味を今のように真剣に考えて、取り組むのは生まれて初めての事だ。
部活もこれくらい真剣に取り組んでいたら、もうちょっと上の大会にだって出られただろうに、と今更ながらに思ったりした。
食事にも気を使って徐々に体つきが変わっていくのを、風呂上がりに鏡で確認するようになってから、ボディビルにはまる人の気持ちがほんのちょっと分かる気がしていた。
なんだかんだで、秋が過ぎ、冬になった頃にあの釣り堀へと連絡した。
「あら、入木さん。お久しぶりですね」
「お久しぶりです。えぇっと、冬でもそちらは、やっているんですか?」
「ええ。大丈夫ですよ。予約なさいますか?」
「是非、お願いします」
冬になると、魚の活性は下がる。
水温が下がると餌を積極的に取らなくなるし、川の水位が下がって魚の生活する場所も変わる。
つまり釣りにくくなる。
そうした事情からか、他のアングラーの予約が結構入っているようで、取れた予約は年末も押し迫った頃だった。
◇
久しぶりの第2ビオトープ。
水面には朝もやがただよっている。
狙うのは水晶。
気温も、水温も管理されているのだろう。
第2ビオトープの中は防寒着がいらないくらいに温かかった。
本当に久方ぶりに会ったスーさんは、相変わらず一言も発せず、しかしながら体つきがちょっと変わった私の肩をバシバシと叩いた。
痛い、と抗議しても尚もバシバシと叩き、その身体の固さに満足したのか、最後にがっしりと握って、うんうんと頷いた。
納得して頂いたようだったけれども、なぜか「そのまま精進しろよ」と言われた気分にもなった。
何にせよ、スーさんに喜んで頂けたなら、ある程度の成果が出るまでは、と自ら出入り禁止にしていた甲斐はあったと思えた。
最初に向かったのは、以前にも1本釣り上げていたあの浮き草が水面を覆い尽くしているエリアだ。
スーさんに言われるまでもなく、赤いフロッグを結びつける。
スーさんもそれを黙って見守っている。
ひととおり流してみても、何の反応も無かった。
と言うよりも、魚の気配がしなかった。
釣り勘が鈍ってしまっている。
釣り自体が久しぶりだったせいもあって、キャスト(狙って投げる事)の精度も良くない。
水草の切れ目であるポケットを狙って、全然それが外れた位置に落ちていく。
「へたれてるなぁ」
がっかりしたように、思わずこぼしてしまうとスーさんがオールを握ったのとは逆の手で、水草とは逆側を指差した。
移動するぞ。
手振りでそう示すスーさんの表情は、普段と変わらないへの字の口元。
情けないキャストを繰り返している事には特に文句は無いらしい。
彼女の真似をするつもりはなかったのに、気が付けば私自身も口をへの字にしてしまっていた。
◇
水晶が釣れるポイントはある程度決まっているようだ。
次に向かったのも、前にもやった事のあるポイントだった。
岩山が崖のように突き出している岸壁際。
岸壁からは水が溢れ出し、ちょっとした滝のようになっているそこは、前に黒曜を釣り上げた場所でもある。
タックルボックスを開けようとして、接近してくるスーさんに気が付いた。
「あれ?スピナベですか?」
タックルボックスを差し出すと、つまみ出されたのはスピナーベイト。
てっきり、前にも使ったバズベイトを選ぶのかと思っていた。
つまみ出されたそれの一見した印象はバズベイトにとても良く似ている。
くの字型の金属ワイヤー、その上側には銀色の木の葉に似た形の金属片、銀色のブレードが付いている。下側には重りである弾頭型の緑の頭、そしてその頭からは細く長いラバー製の弾頭と同じく緑の糸がスカートのように取り付けられている。
そのスカートの中には一本の太い針。
ルアーフィッシングを始めたアングラーが、何だこのルアーは?釣れんのか?と最初に思う事になるルアーの代表格だ。
ルアーフィッシングの雑誌でもテレビ番組でも、このルアーは必ずと言って良いほどに出てくるメジャーなルアーではある。
しかし、その見た目はどう見ても、何の魚のエサにも似ていない。
スイムテスト(ルアーの動きを確かめる)するために、糸を余分に垂らしてスピナーベイト、通称スピナベを水中へと落とし、竿を動かして引いてみる。
するとスピナベはひらがなの「く」の字の姿勢を保ったまま引かれてくる。
ブレードは水の抵抗を受けてくるくると回り、スカートは微妙に揺れながら、ひと塊になっていて、引く速度の変化に合わせてすぼまったり、広がったりした。
絶対にこんな妙な生き物は水中に存在しない。
シャッドにせよ、クランクベイト(おたまじゃくしに似た形のルアー。魚やザリガニを模倣している)にせよ、ルアーというのは餌となる生き物そのものの形や動きを真似している物がほとんどだ。
それがこのルアーにはあてはまっていない。
実際、自分自身もなんでこれに魚が食い付くのか、と聞かれると、正直分からなかった。ブレードの回転によって生じる光の乱反射が逃げる小魚の群れに見えると一般的には言われているけれども、人の目には魚の群れにはどうしても見えない。
それでも私は知っている。
これほどに革命的なルアーは無いという事を。
針の前に金属ワイヤーがある事で、このルアーはとにかく根がかりが少ない。
障害物すれすれに通しても、引っかかる事がほとんど無い。
ルアーを無くす心配が無ければ、狙ったポイントがどんなに厳しくても果敢に狙う事が出来る。
そして、とにかくこのルアーは釣れるのだ。
回転するブレードは、近くにいる魚だけでなく、ルアーから離れた魚を引き寄せる。
それも強力に。
狙う魚の居場所が分かりにくい時に、魚を引き寄せて釣る事が出来るのというのは他のルアーにもあるものの、とにかくこのルアーはそれが他のルアーに比べて強い。
ポイントを直撃しても釣れるし、そこから外しても釣る事が出来る。
そんなこのルアーの効果は、釣りの腕が鈍っている今の自分には確かに最適とも言えた。
スーさんの勧めに従って、結び、流れ落ちているポイントへ向かって投げる。
微妙に狙いを外したスピナベは滝の脇へと落ちた。
取り合えず、表層から順にチェックしていこうと思い、着水と同時に巻き始めると、すぐに反応が出た。
ラインが水中へと引き込まれる。
そして、見えた。
表層近くの緑の塊が、銀色に輝く何かにひったくられていったのを。
既にラインを巻いていたので、すぐに反応する事が出来た。
巻き合わせがすぐに出来るというのも、このルアーの使い勝手の良さの内だ。
腰を回すようにして、横へとロッドを振り、リールを素早く巻き取る。
魚の重さがロッドへと伝わり、そして暴れる魚の力強さが伝わってくる。
それは確かにフックアップ(針が魚にかかっている事)している証拠。
そして、この力強さは前にも確かに味わった事があった。
「出た。水晶だ」
間違い無い。
まるでプロの格闘家との腕相撲。
負けじと起こす竿をなぎ倒すように引いて行く力強さ。
前にはそれに驚き、バランスを崩した。
それは既に昔の事。
今の自分は違う。
そう胸の内で呟き、竿を起こす。
ラインの強度は十分だ。
短時間で決着をつければ、焼き切れる心配もないはず。
少しきつめにドラグを設定して、そのままリールを巻き始めた。
暴れて逃げようとする時には、無理矢理にこちらへと頭を向けさせる。
深く潜ろうとすれば、ロッドをコントロールして横へと流す。
力が相手よりも勝っているという実感があった。
自然に口元に笑みが浮かぶ。
余裕が思考を生み、思考が魚の動きをコントロールする。
以前には死力を尽くして何とか釣り上げた魚を意のままに動かし、ボートへと近づけていった。
まるでオーケストラの指揮者にでもなったように、竿を振り、魚を動かし、イメージを実現させていく。
時折、ドラグが鳴り、糸が走る。
それすらも予定調和だ。
格上の演奏者にあたふたしていた哀れな指揮者はもういない。
ボートが揺れる事も無く、静かに魚は引き寄せられていき、やがてその姿を目の前へと現した。
それは確信していた通り、白銀に輝く魚体だった。
スーさんが網を手に近づき、そのまま魚をあっさりとすくい入れた。
「っっしゃ!」
それを確認して、ロッドから離した左手を思わず握りしめた。
どれだけコントロールしていようとも、釣り上げるまでに何があるかは分からない。
確かに緊張があった。
そしてそれを楽しめるだけの余裕が今回はあった。
つまりは本当に、良いファイトだった。
そして、自分自身の肉体の成長を感じられて、それがとても嬉しかった。
◇
釣り上げた水晶は測ったら82センチだった。
あまりの大きさと力強さに、スピナベのワイヤーが伸びきってしまっている。
前に釣り上げたものよりも大きい。
喜びもひとしおだ。
無事に狙った獲物を釣り上げ、余った時間で水晶よりは簡単に狙える黒曜を狙い、3本上げた所で時間になって切り上げた。
職員室へと向かうと、スーさんと校長が何やら宇宙語で話し合っていた。
時折、校長が笑い、私へと視線を向けてくる。
「何の話です?」
「いえ、スーが入木さんがかっこ良くなったって」
笑い方で校長が適当な事を言っている事が分かったのか、日本語が分からないはずのスーさんが何事かを口にした。
その語調はどう聞いても文句のそれだ。
「うん。嘘ですね。分かります」
「いやいや、全部が嘘って訳じゃないんですよ。でも、入木さん、水晶を難なく釣り上げたんですって?」
「ああ。ええ、前よりは確かにうまく釣り上げられましたよ」
スーさんは報告を終えたのか、さっさと職員室から出て行ってしまった。
特に別れを惜しむでも無く、こちらに視線を向けるでも無かった。
うん。
絶対にかっこ良くなったなんて言ってないぞ、あれは。
ちらりと期待した自分に言い聞かせる。
きっとスーさんは後片付けがあるのだろう。
校長へと視線を戻すと、校長がニヤニヤ笑っていた。
「何なら私からスーに言っておきましょうか?」
「……何をです?」
「またまたぁ」
「いや、遠慮しておきます」
何をどう伝えるつもりなのかは分からないけれども、嫌な予感しかしない。
「それよりも、年内の営業はどうなっているんですか?」
話を逸らすつもりで気になっていた事を聞いた。
校長もきちんと対応する姿勢に戻って、机の上に置いてあったカレンダーを私へと見せる。
「もう年内の予約は埋まっているんで、営業日自体はもう少しあるんですけど、後は来年ですね」
「そうですか。まぁ、そうですよねぇ」
年末の休みにもう一度くらい出来るかと期待していたので、残念だった。
「もし来年の予定がお分かりになるんでしたら、予約を入れますけど?」
「いや、それは実際に仕事が始まってからにしますよ。不意の仕事が入らないとも限らないですし」
今年の釣りはこれでおしまい、つまりは納竿だろう。
「そうですか。残念です。入木さん、来年からは第3ビオトープで釣りしても大丈夫ですよ」
「え?本当ですか?」
第3ビオトープにはまだ黒瀬さんも行ってないはずだった。
どうやら鍛えた事が評価されたらしい。
驚く私に近づいてきた校長も、ばしばしと私の肩を叩いて続ける。
「ええ。水晶を難なく釣れるんなら大丈夫です。第3にはまた違った魚がいますので、楽しみにしていて下さいね」
「ありがとうございます!」
年末のお決まりの挨拶、良いお年を、を校長へと告げ、生憎とスーさんにもよろしく言ってもらって釣り堀を後にする。
まだ見ぬ魚の詳細は聞けなかった。
しかし、帰りの運転はいつも以上に慎重に走った。
年末の高速は車が多い。
こんな所で事故に遭う訳にはいかない。
慎重に、運転しながら、知れず鼻歌がこぼれていた。
ロッドと言ったり、竿と言ったり、微妙に用語が統一されていなくてすみません。
でも実際の釣り人ってこんな感じなんだよなぁ、とも思ったり。
キャストしたと言ったり、投げたと言ったり、その時の微妙な感じの違いで使い分けているんですけど、適当と言われれば確かに適当だしなぁ。