象牙
日が暮れた。
月も星も無く、暗かった。
足下にある小さなランプだけを頼りに船は進んでいく。
校長に迷いは無い。
ポイントを目指して進んだ。
「ここですか?」
何も無い場所だった。
岸からも遠い沖だ。
水中に何か沈んでいるのか、それとも地形が変化しているのだろう。
自分には何が目印なのか分からない。
しかし、校長には間違い無いと分かるようだ。
「ええ。特に根がかり(水中の障害物などに引っかかってしまう事)の心配もないので」
つまり、そのまま餌を落として待てという事だ。
琥珀の顎に針を掛けた。
針の大きさは私の人差し指と親指を曲げて針を形作ったようなそれだ。
これを見るだけでもどれだけ大きな得物を狙うのかが分かる。
琥珀を水に落とし、そして待った。
校長がゆったりと船を漕ぎ、周囲を流す。
ルアーと違って、生き餌を使った釣りで出来るのは待つ事だった。
竿先を見、糸を見、水面を見る。
待つ。
待った。
「いやあ、待ちますねぇ」
活きが悪くなった餌を3度変えた時に、つい声に出してしまう。
それに校長はただニコリと笑みを返すだけ、おじいさんは目をつぶってじっと腕を組んでいた。
寝ているのだろうか?
その割には、頭が揺れる、俗に言う船を漕ぐという状態にはなっていない。
ぶれずに、じっと座っていた。
小さく息を吐き、そして待った。
どれほど待ったか、ついに糸がドラグをじーじーと鳴りながら出ていく。
そして竿先が曲がる。
来た!
心臓が高鳴る。
慌てて竿を手に取ろうとすると、校長に止められた。
「まだです。あせらないで」
こんなにも糸が出て行っているのに?
分からない。
それでも、ここではガイドの言う事は絶対だ。
逃げられるんじゃないか。
そんな不安を抑え、出て行く糸をただただ眺めた。
そして、出て行っていた糸が、止まった。
「今です。合わせて」
「え?今ですか?」
もう逃げられてしまったんじゃないだろうか?
半信半疑。
そのままに竿を手に取り、そして糸ふけを巻き取ると、思いっきり竿を起こし、合わせた。
ん。
根がかりだ。
感触が違う。
魚の気配は無い。
「根がかりです。逃げられました」
「いえ、掛かってますよ」
校長は笑顔で言う。
そんな馬鹿な。
試しにリールを巻いて竿を寝かせ、そして再び起こしながらリールを巻こうとしてみる。
しかし、動かない。
限界まで竿がしなるとドラグが鳴り、竿が折れるのを防ぐように糸が出ていく。
「……」
おじいさんが何事かを口にした。
「ドラグをしっかり締めろ。そんな簡単には折れたりしない、だそうです」
ええ?
ふたりは魚が掛かっている事を全く疑っていない。
「んー」
唸りつつも、言われるままにドラグを締める。
折れても知らん!
そう胸の内で呟き、竿を力いっぱい起こした。
刹那、今までに感じた事の無い、大きな力で引っ張られた。
「うぉ」
象でも繋がっているんじゃないか。
そう思える馬鹿みたいな力だった。
堪えられず、竿を倒してしまう。
ただし、それは一瞬だけ。
引っ張られたと感じたのが嘘だったのではないか。
そう思える程に、また梃子でも動かなくなる。
思わず苦笑してしまった。
なんだこれ。
「これは……どーしろと」
「……」
「力ずく、ですよ。勿論」
振り返らずに、とにかく悪戦苦闘を開始した。
どれくらい粘っただろうか。
とにかく、力の限りに引き上げる。
その度に、ずずっと引いた分だけ戻される。
そんなやり取りを繰り返した。
「これ、誰か、本当に上げたんですか?」
愚痴だ。
どう考えても無理だ。
「今までにひとりだけですね」
あなた方では。
そんな呟きが校長から漏れた気がした。
ひとりって、格闘家か、それとも重量挙げの選手か何かだろうか。
電動リールでも上がらないような気がする。
それでも試行錯誤、力の限りを尽くしてみたけれども、遂に無理だと判断されたのか、おじいさんが肩をたたいた。
「選手交代、だそうです」
既に疲労困憊だ。
腕はパンパン。
腰にも来ている。
疲れてちょっと吐き気すらしていた。
言われるままに竿をおじいさんに渡す。
すると。
「はぁ」
知らずため息が漏れた。
おじいさんはさらにドラグを締めると、竿をあおった。
一気に。
糸が出ていく前に、竿を倒し、すぐに糸を巻き取る。
おじいさんに変わった事を魚も気付いたのか、先程とは違って、糸が右に左にと走る。
締めたドラグが糸が出て行くのを許さず、おじいさんは順調に竿を起こし、糸を巻きながら倒し、そしてまた竿を起こす。
「ははは」
口から乾いた笑いが出た。
この小さな体のどこにそんな力が宿っているのか。
さっきまでの私の静かな力の比べ合いが、大人と子供の喧嘩だった、そう言わんばかりに魚は暴れる。
激しく船も揺れていた。
こんな小舟では、ひっくり返るのではないだろうか?
そんな恐怖も生まれてくる。
こんな夜中にライフジャケットの性能テストはしたくない。
船のへりに手をかけ、強くしがみつこうとして、手に力が入らない事に気が付いた。
ぶるぶると震えている。
こんな時に!
そう思っていると、校長が船を漕ぎ始めた。
すると、不思議と船が安定する。
校長は例の宇宙語で何かを呟いていた。
歌うように、不思議な旋律に乗せて。
まるでおまじないだ。
不思議と静かになった船の上で、おじいさんの竿さばきをただただ眺めた。
やがて、暴れていた魚がおとなしくなったようだ。
負けを認めたのだろう。
右に左に走っていた糸が、今はおじいさんが引くままにするすると巻かれていく。
それは熟年の漁師の技を見ているようだ。
それを美しいとすら思った。
そして水面にその魚体が遂に、姿を現す。
ランプの灯りに照らされたそれは、まるで幽霊を見るかのような白さだった。
橙色の灯りに照らされてなお、白く、なまめかしく輝く。
大きさは4メートルほどだろう。
巨大だ。
象牙と言うよりも、巨大な象そのものを連想した。
今までにこれほど大きな魚を見たのは水族館のサメだけだ。
いや、その時のサメだって、これほどは大きくなかっただろう。
ナマズにしては幅があり、エイにしては幅が狭い。
ナマズとエイの間の子。
そんな魚だった。
口元から長く伸びたヒゲは、体の全長よりも長く、そして不気味に太かった。
奇妙な魚だった。
あれほど合わせるまでに長い事待っていたのに、しっかりとその口に針が掛かっていた。
餌にした琥珀は影も形も無い。
おじいさんに引かれるままに船の脇まで引かれると、校長が手にしていた槍で腹を刺した。
思わず目を逸らす。
刺された瞬間、象牙は暴れた。
その時だけ船が激しく揺れる。
それも長くは続かない。
赤い血が、辺りの水面を染めていく。
「殺すんですね」
「今回は持ち帰るのが目的ですので」
釣れて良かった。
そう口にする校長の口調は明るい。
かわいそう、などと言う同情的な色は全く無い。
自分もそんな事を口にするつもりはない。
釣りとはつまり狩りと一緒だ。
例え、釣った魚を再び水に戻しても、その魚が生き延びるとは限らない。
前に狙った時には、はずれで当たりすらなかったそうだ。
今回、自分はただ餌を釣っただけで、何もしていない。
それでも、校長はさすがです、と私を褒めた。
血を見て、急に沈んでしまった気分そのままに、曖昧に笑って答えた。
校長が口からエラへと太い金属コードを通して、ボートへと繋ぐ作業をしている間に、おじいさんは既に針を外していたようだ。
渡していた竿を返された。
さぞ、がっかりさせてしまっただろう。
そう思い見たおじいさんの顔は、意外な事に笑っていた。
嘲る風でもなく、仕方ねえな、とでも言わんばかりの笑い方だった。
「……」
「これくらいは上げられるように鍛えとけ、ですって」
「はい。返す言葉もございません」
おじいさんと象牙のファイトは強く脳裏に焼き付いている。
怪魚を釣るには専用の道具が必要なように、専用の筋肉も必要になるのだろう。
ただ、改めて見たおじいさんの腕は私と同じくらいか、それよりも細いくらいだった。
細マッチョ。
というには常軌を逸している。
今度、あの体育館で体の鍛え方を伝授してもらいたいものだ。
そう思いながら、戻っていく船に揺られた。
校長とおじいさんが話す宇宙語が闇に吸い込まれて消えていく。
それが不思議と眠気を誘った。
◇おまけ◇
「どうです?」
「やはりこちらの人間はなまっちろくていかんな。こんなに貧弱で、どうやって生き残っているんだ?」
「こちらには魔獣はいませんから。それらしい肉食獣も人里には出ないようですし」
「情けない事だ。つまり生物として勝者となった事で堕落したのか」
「そうでも無いようですよ。もともとこんなもんで、道具の進化を力としたようです」
「なるほどな。確かにこちらの道具は面白い」
「“こちら”にも釣り道具はありますけど、“あちら”の方が発達してますよね。おかげで随分と水妖を狩るのにも役立ってますし。それに、釣り人もですね。滅多に人前に姿を現さない……がこんなに簡単に出てくるのにも驚きましたけど。本当に何故なんでしょうね?」
「たまたま、と言うには……は、滅多に現れないしな。それを掛ける運も立派な実力なのは確かだ」
「本当に助かりましたよ。この水妖しか……の触媒は作れないんですから」
「その内、竿の1本でもやったらどうだ?古い型落ちのなら儂は構わんぞ」
「それがどこぞの研究施設にでも渡ったら不味いでしょうに」
「ふん。こいつなら心配は要らんと思うがな」
「おや、珍しい。人嫌いの……さんが、本当に気に入られてるので?」
「まあ、次があったとして、その時にどれくらい鍛えているかだろうな。こんななまっちろいままじゃ、どうにもならん」
「そうですか」
校長は笑っていた。
老人にもあるかなしかの笑顔が口の端に現れている。
青年はいつのまにか寝ていた。
象牙 = 食べられない。臓器に魔力を溜め込む器官があって、特定の魔導装置の触媒に必要。湖底に1年中へばりついていて、滅多に人前に姿を現さない。