ビオトープセンター
私がその釣り堀の事を初めて聞いたのは、よく一緒に釣りに行くアングラー仲間からだった。
「良く分からないですね。アマゾンとかの魚が釣れるんですか?」
「いや、そういうのとも違うんですよ。とにかく見た事も聞いた事もない魚が釣れるんですよ。その釣り堀は」
茨城の山奥、農家の家すらもほとんど無いようなそんな寂れた廃村寸前の場所にある、まるでこの世のものとは思えないような魚を釣らせてくれるらしい釣り堀。
男はそんな場所に最近通っているらしかった。
「それで最近、見なかったんですね」
その男、黒瀬さんとは元々友達だった訳では無い。
良く行く野池で良く見る人。
見かけては何となく挨拶をする内に、釣れましたか?と話すようになり、いつの間にか色々な場所へと一緒に釣りに行くような仲になった人間だった。
「いや、もうあそこで釣りするようになったら、こんな所で釣りなんてしてられませんよ。今日だって本当だったら行きたかったんですから」
こんな所って。
目の前に広がるのは半径が50メートルもない、小さな野池。
自分達が散々通い倒したお気に入りのフィールドに対する酷い言様に思わず苦笑する。
「どうして行かなかったんです?」
「いや、お恥ずかしい事に予約を取るのを忘れてしまいまして」
どうやらその釣り堀は完全予約制らしい。
それも必ずガイドと一緒に回るのが鉄則で、勝手に行ってすぐに楽しめる訳では無いらしかった。
さらに紹介制が徹底されていて、何のツテも無しに行くのも御法度らしい。
「まあ、それならそれで入木さんに会って、誘ってみようかと思いまして」
早朝にいつもの場所に行けばいるだろう、そう思われているようだ。
それで実際に会えてしまう辺りに返す言葉もない。
「良いですよ。そんなに面白い魚が釣れるなら、是非とも行ってみたいです。いつにしますか?」
「それじゃあまずは今日行ってみましょう!」
それは先程聞いた事と、まるで矛盾している科白だった。
そこは古びた小学校の校舎だった。
廃校になった建物をそのまま買い取って使っているらしい。
昇降口で靴を脱ぎ、そこに並べてあったスリッパに履き替える。
私が運転する車で向かう道すがら、黒瀬さんは電話で登録のために訪れる事を話し、了解を取り付けていた。
実際に釣りをするのに予約が必要になるだけで、登録申請に向かう分にはあらかじめ連絡さえしてあれば大丈夫という事だった。
古びた校舎の中は手入れが行き届いているのか、意外にも綺麗だ。
廊下の真ん中には、所々ひび割れた白線が引いてあって、クリーム色に変色した壁には「廊下は右側を静かに歩きましょう」という標語が掛けてある。
思わず幼かった頃の懐かしい記憶の気配が呼び覚まされる。
ほんの少しおかしくなって笑ってしまうと、黒瀬さんも分かるとでも言うように微笑んだ。
入ってすぐに右に曲がり、廊下の右側を静かに歩く。
右手には教室。
教室の中はがらんどうで机も椅子も無かった。
そんなさびしい教室を眺めながら進むと、黒瀬さんが「ここだ」と足を止めた。
左手には何やら物置にでも使われているのか、なにかしらの部屋が並んでいた。
その中でも一際大きなその部屋の入り口のプレートには職員室と記載されている。
黒瀬さんがその入り口をノックした。
「どうぞー」
中から響いてきたのは意外にも女性の声だ。
釣り堀と聞いて、よく池でヘラブナを釣っているようなおっちゃんか、それともおじいさんのような人間が運営しているのだろうと勝手にイメージしていたので驚いた。
「失礼します」
職員室のプレートがそうさせるのか、そう言いながら入室する。
そんな黒瀬さんの様子に、思わず吹き出してしまいそうになるのをこらえ、同じく失礼しますと言って私も入室した。
中は職員室のイメージそのままだった。
事務机が島を作るように並び、その上にはなにがしかのファイルが据え付けられた小さな棚に収まっている。
その上は整頓されていて、ともすれば使われていないのではないか?と思わせるほどだった。
その島の奥に、ひとつだけ独立した机があり、そこに座っていた女性が立ち上がる。
着ている服は揃いのジャージ。
履いているのはその辺のホームセンターで買ったようないい加減なサンダル。
被っているのはそれこそどこぞのおっちゃんが釣りの時に使うような、後ろ側がメッシュになっていて、前側が派手な蛍光イエローのキャップ。
はっきり言って微妙だ。
例え自分がどんなにファッションに疎かろうとも、年頃の女性のファッションでない事はひと目で分かる。
しかし、それがどうにも妙に似合っていた。
肩の少し下あたりまで伸ばした黒髪を、首の後ろ辺りでゴムで縛って垂らしている。
年齢は大学生くらいの歳だろうか。
目が大きく、童顔なので幼く見られそうだったけれども、その物腰はもう少し上のような気がする。
近づいて来るその姿の背はあまり高くない。
160センチあるかないかくらいだろう。
私たちの前まで歩いてくると、丁寧におじぎをした。
「いらっしゃい、黒瀬さん。そちらの方がおっしゃってた入木さんですね。はじめまして。当ビオトープセンターにようこそいらっしゃいました」
「センター?」
釣り堀では無かったのだろうか?
「はい。ご説明させて頂きますと、こちらでは特殊な環境でしか育たない、特殊な魚の飼育を行っております。個人で行っております事業になりますので、色々と資金が掛かるのですが、その資金集めの一環として、黒瀬さんや入木さんのようなアングラーの方に釣り堀として解放しております」
研究所みたいなものだろうか?
「ええっと、わざわざ飼育している魚を釣っちゃって大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。魚がどんな状況でどういう風に捕食を行うかを調べる事も事業の一環に含まれておりますので、むしろご協力頂いていると言っても過言ではございません」
ただし、あまりにも多くの人が押し掛けられてきては、環境に与える負荷が大きくなりすぎるので、極少数の人間に、それも短時間での釣りを認めているとの事だった。
必ずガイドが付く、紹介制、そして事前登録と予約が必要なのはどうやらそれが理由らしい。
とにもかくにもその特殊な環境で育つ特殊な魚には興味が有る。
早速に登録をお願いすると、年齢や職業といった簡単なアンケート用紙に記入をさせられた。
今までにどんな魚を釣った事があるのかといった釣り堀らしい質問の他には持病があるかといった健康面に関する質問もあった。
黒瀬さんと女性、黒瀬さんが校長と呼んでいる彼女はその間、どこから持って来たのか数本のロッドを肴に話している。
一見して見た事のないと判断出来るそのロッドに強い興味を引かれながらも、記入を終えた。
「ありがとうございます。んーっと……特に問題ありません」
借りていた事務机へと近づいて来た校長に用紙を渡すと、早速にチェックが行われたようだけれども、具体的に何をチェックしたのかは良く分からない。
これでさっきのロッド談義に加われるのかと思ったら、その予想は裏切られた。
「それでは次は体力測定をさせて頂きます」
「え?えーっ!?」
行われた体力測定は、その昔、学生時代にやったそれとまったくと言っていいくらい同じものだった。
ジャージも用意されていて、万全の体制だった。
「ま、まさか、この歳になって、50メートルを全力疾走させられる、とは」
息も絶え絶えな私に黒瀬さんが笑いながら話す。
「はっはっは。まあ、それもこれも魚のためですよ。あともうちょっとです。頑張りましょう」
「まだあるんですか!?」
次に行われたのは視力検査や聴力検査といった健康診断にも似た内容の検査だった。
先程、空き教室だった部屋に、いつのまにか検査機器が並べられていた。
文句を言わずに次々とこなしていく。
最後には直感力テストですと言われ、校長が裏にして持つカードに何が書かれているのか、手元のカードから選ぶという謎なテストまでやらされた。
「これですべて終わりです。後は当センターで釣りをするために必要な訓練を行って頂きたいのですが、お時間はまだよろしいですか?」
そう言われて時計を見ると、針は午後3時を少し回っている。
「構いませんよ。ここまで来たらもう何でもやりましょう」
なんだかんだと言いながらも、途中からちょっと楽しくなっている。
休日には釣りばっかりだったので、たまにはこういうのも悪くないなと素直に思えた。
「ありがとうござます。それでは体育館に行きましょう」
案内された先には校長とは別のひとりの女性が待っていた。
輝くような金色の髪が肩の上で揺れている。
そしてその表情は恐ろしく無表情だった。