黒曜
湖上はうっすらとした朝もやに覆われている。
朝もやの合間から見えるのは不思議な灰色の輝く水面。
濁っている訳では無い。
水は水底まではっきり見えるほど透き通っている。
まだ薄暗い早朝だからという訳でも無かった。
日が昇り、すべてを照らし出されても、その水面は灰色に輝いていた。
それはまるで油絵を薄く重ねて描き出された透明な世界。
そんな世界へと私を乗せたボートは進み出した。
畳をやや大きくしたほどの大きさのボートは最初のポイントを目指して進んで行く。
最初に訪れたポイントは何本もの木が水中から突き出しているエリア。
木には既に枝は無く、枯れた幹だけが墓標のようにいくつも伸びていた。
さて、最初に投げるべきルアーは何だろうか?
そう思い、魚の餌となる生き物に似せたプラスチックや木で出来た釣り道具、ルアーが無数に納められたタックルボックスの中を覗き込んでいると、軍物のパンツにタンクトップ、その上にライフジャケット姿のガイド、スーさんがいつの間にかすぐ脇まで来ていた。
「びっくりしたなぁ。驚かせないで下さいよ」
微笑みながら穏やかに文句を言うと、スーさんは真顔のままでタックルボックスの隅を指差した。
「フロッグですか?」
よくオモチャ屋さんで売っているようなビニール製のカエル、それに太い二股の針が付いたようなルアーだった。
勧めに素直に従って、ダークグリーンのそれを取り出すと、スーさんがぐいっと手を伸ばした。
狭いボートの上なので、自然、体が触れ合う距離になる。
スーさんはバランスを崩さないように、私の右肩に左手を置き、右手をタックルボックスへと手を伸ばす。
金色のさらさらとしたショートカットからほのかに甘い香りがした。
不用意に動くと危ないので体ごと逃げる訳にはいかず、思わず顔を少し遠ざけてしまった。
年齢を聞いた事は無いけれども、明らかに私よりも若い女性に不意に近づかれて、平然としていられる程に女性慣れしてはいない。
休みの日には川や海へと向かい、釣り三昧。
そんな生活をそれこそ子供の頃から、既に20年近くやってきたのだ。
思わず鼓動が早まってしまうのも仕方無いだろう。
そんな何の自慢にもならない事を思っていると、スーさんの体がすっと離れた。
スーさんが手にしていたのは赤いカエルだった。
それを使えとばかりに差し出してくる。
スーさんは校長と違って、日本語を話せない。
それでもボートの上で魚を釣るのに必要なやり取りをする分には、彼女の言いたい事は何となく分かる。
彼女がロッド(釣り竿)を出している所を見た事は無かったけれども、アングラー(釣り人)のガイドをしているだけあって、この場所の魚には詳しい。
お互いにひとつも言葉は通じない。
それを最初はどうだろう?と思ったけれども、もう慣れた。
勧めに従って、ウォームレッドのフロッグをライン(糸)の先へと結びつける。
結び終え、改めて魚のいるであろうポイントを見定めるべく、立ち木の周辺を眺めた。
薄いモヤの浮かぶ水面には特に異常は見られない。
魚の活性が高いと、水面を小魚が飛び交っていく姿を見る事が出来る。
小魚がはしゃぎまわっている訳では無い。
食い気のある肉食の魚が小魚を追い回し、そんな肉食魚から逃げ去るべく、小魚が水面まで浮かび上がり、そして跳ね回るのだ。
いや、そんな常識がここでも通用するのかは分からなかったけれども、それでも気を逸らせてルアーを投げ込むよりも、きちんと分析してから投げ込む事には価値があるはずだろう。
大体の当たりを付けて、最初の第一投を行うべく、そっと立ち上がりロッドを持ち上げた。
ロッドにはいくつもの丸い輪、ガイドが付いていて、その中をラインが通り手元の拳程の大きさのリールへと繋がっている。
リールにはハンドルが付いていて、それを回す事によってラインを巻き取る事が出来る仕組みになっている。
リールについているクラッチと呼ばれるボタンを押すと、ラインが100メートルほど巻き付けられたスプールのロックが外れた。
するするとラインが出て行き、結びつけられたフロッグが下へと垂れ落ちていく。
少しブレーキの効きが弱いようだ。
気持ち分だけブレーキを強めた。
フロッグが垂れ落ちた分だけハンドルを巻き、再びクラッチを押すと今度は先程よりもゆったりと垂れ落ちていく。
調整が済み、ロッドにラインが絡まっていない事を確認してから、一度スーさんを見る。
スーさんは既にボートの後方に下がっていて、始めてくれと言うように頷いた。
一度、ロッドを後ろへと振り、スーさんにロッドが当たらない事を確認してから前へ戻す。
クラッチを押してロックを外し、ラインが出て行かないように指で直接スプールを押さえる。
狙い定めたポイント、立ち木のすぐ脇をしっかりと見つめ、ロッドを後ろへと振りかぶった。
ロッドがしなり、力をためる。
その力を逃さないように素早く前へと勢い良くロッドを振る。
その瞬間にスプールを押さえていた指を離すと、真っ赤な偽物のカエルはゆるやかな弧を描きつつも、まっすぐに立ち木の側へと飛び去っていった。
カエルは立ち木のすぐ脇に軽やかな着水音と共に降り立つ。
僅かな水しぶきが波紋を生み、静かに静かにその輪は広がっていく。
すぐには動かさずに、波紋が消えるのを静かに待った。
肉食性の魚は、水面に落ちてきたカエルや虫を食べる習性がある。
まるで目の前に猫じゃらしを出された猫のように、魚は落ちてきた物が何なのかを確認せずに飛び出し、食らいつく。
すぐに動かすと、そんな風に飛び出してきた魚の目測を外してしまう事があるのだ。
まずは魚が浮かび上がり、そして食らいついて来ないかを確認する。
波紋はやがて消え、水面には静けさが戻ってきた。
どうやらすぐに食いついてくるような魚はいないらしい。
ロッドを倒し、待っている間に生じた糸のたるみを巻き取り、フロッグが糸に引っ張られ動き出す、そんな状態の一歩手前の状態にしてから、ロッドをほんの少しだけ起こして、そしてリールを巻きながら再び素早く倒した。
すると、さっきまでまるで水面に浮かんだゴミのようにただ漂っていただけだった赤いカエルが、糸に引かれ、まるでお辞儀をするように頭を倒しつつ左へと滑らかに水面を滑った。
ロッドを動かし、ラインが引かれた事で僅かに生じたラインのたるみを巻き取りつつ、ロッドを起こし、さらにロッドを倒す。
ラインがたるんだ事で、わずかに止まりかけたカエルが続けて引かれ、今度は右へと滑らかに滑る。
それを繰り返すと、カエルはまるで生きているかのように、リズミカルに右へ左へとお辞儀をしながら泳ぎ出す。
ドッグウォークと呼ばれる水面で使うルアーの基本的なアクションをフロッグにさせつつ、時に止め、魚が食い付く隙を与えつつ、手前へと引いてくる。
ルアーにアクションを与えつつ巻き取り、再び投げ、アクションを与える。
幾度か繰り返したものの、魚の反応はまるで無かった。
魚がそこにいないのか、それとも使っているルアーが魚の好みに合わないのか。
思わずスーさんを見ると、スーさんは親指を立てた左手を顔の横で左へと二度振った。
右手には既にオールが握られている。
駄目だな、別の場所に行こう。
そんなスーさんの言葉なき手振りの提案に同意し、ロッドを置いた。
次に訪れたのは岩山が崖のように突き出している岸壁際だった。
岸壁からは水が溢れ出し、ちょっとした滝のようになっている。
水面から立ち上っていたモヤがほんの少し薄くなっていた。
このモヤが完全に消えるまでが狙っている魚が釣れるチャンスだと、校長から前もって説明されている。
まだ時間はありそうだけれども、そう悠長に構えていられる程でもなさそうだ。
先程、全く反応の無かったルアーをそのまま使うのは気が進まない。
そう思いタックルボックスを開くと、またいつのまにかスーさんが接近してきていた。
今度はくっつかれる前にタックルボックスの中からひとつを選び出し、それを彼女に見せた。
真っ白なバズベイト。
コの字型の金属ワイヤー、その上側には金色の金属プロペラが、下側には重りである弾頭型の白い頭が付き、そしてその頭からは細く長いラバー製の糸がいくつも、まるでスカートのように取り付けられている。
そのスカートの中に、まるで隠されているように太い一本針が付いていた。
彼女は見せたルアーをただじっと見つめ、やがて下がった。
お気に召したのだろうか?
付け替えつつも、滝が流れ落ちている辺りを観察すると、滝が生む水しぶきとは別の波紋が水面に生じているのが分かる。
ベイトフィッシュだ。
肉食魚の餌となる小魚、ベイトフィッシュが何者かに追われ、逃げ惑っている。
いかにも釣れそうな気配。
逸る気持ちを抑え、まずはスーさんを見て確認すると、先程と同じように、大丈夫だと言わんばかりに頷いた。
その表情は口をへの字に曲げていて、一見すると機嫌が悪いようにも見える。
しかしこれがどうやら彼女にとっての仕事中の顔のようだった。
私も頷き返し、水が流れ落ちているその真下へとルアーを投げ入れた。
ルアーが着水すると今度は待たずにすぐに巻き出す。
先程のフロッグとは違って、バズベイトは水に浮かない。
何もしなければ沈んでしまうこのルアーは、それでも水面を泳がせないと役に立たないルアーだ。
なのですぐにリールを巻き、水面へと浮かび上がらせる。
水面へと浮かび上がったバズベイトのプロペラは水の抵抗を受けて回転し出す。
回転したプロペラはまるで逃げ惑うベイトフィッシュのように絶妙な水しぶきを上げた。
スプラッシュを上げながら、手前へと水を押し進めるバズベイト。
そのスプラッシュが、一際大きなそれによって、突如として断ち切られた。
ばしゃりと上がる水しぶき。
一瞬、真っ黒な魚体のお腹が目に飛び込む。
心臓が高鳴る。
それは先程、スーさんに不意に近寄られた時よりも数倍大きな鼓動。
そしてそれは、何よりも焦がれ、待ち望んでいた瞬間だった。
ラインと巻き取りつつも、ロッドを立てる。
しっかりとラインを張り、魚の重みが感じられた時点でヘソの付近に位置していたリールを胸へと引きつけるようにロッドを起こす。
フッキング(合わせ)。
食いついた魚に針がしっかりと刺さるようにと行ったそれは、果たして成功した。
まるで猛犬の散歩だ。
こちらの制御を嫌うように魚は力強く潜り、泳ぐ。
それは私を湖の中へと引きずり込まんばかりの力強さだった。
巻き付けていたラインの3分の1があっという間に引き出された。
リールには強く引かれると、ラインが巻き付けられているスプールのロックがその引きの強さに合わせて緩み、ラインが出て行くように、ドラグという装置が備わっている。
そのドラグが悲鳴を上げ続ける。
ドラグの補助があっても、私の腕は引き倒されそうになり、実際、度々天へと向かって立てていたロッドが度々水中へと引き込まれそうになっていた。
さらにラインは出続ける。
ロッドは弓なりに曲がり、その竿先は右へ、時に左へと猛然と引く魚に合わせてぐねぐねと動く。
私がその引きの強さに負け、ラインのテンションを緩めてしまえば、暴れた魚からあっさりと針は外れてしまう。
それは驚く程にあっさりと。
そうならないようにロッドをコントロールし、耐え、そして魚が弱るのを待った。
どれほどの時間を耐えていたのだろうか。
それはほんの1分間だったかもしれないし、あるいは10分、20分だったかもしれない。
猛然と引き続けた魚の力が緩み、その疾走が一瞬止まった。
不意に訪れた休息。
そのチャンスを逃さない。
ロッドを突き上げるように立て、30メートル先の水中の魚の顔をこちらへと向けさせる。
一度魚がこちらを向いてしまえば、ラインを巻き、たぐり寄せるのは容易になる。
ラインを緩ませないように細心の注意を払いつつも、しっかりと力を込めてロッドをコントロールする。
こちらがたぐり寄せる時間と、魚が抵抗し再び疾走する時間とが交錯する。
思わず笑みがこぼれた。
良いファイトだ。
何度も何度も引き、引かれを繰り返していると、いつの間にか傍らにスーさんが立っていた。
手には私の頭どころか肩まで入りそうな大きな網を持っている。
既にこちらがたぐり寄せる時間の方が長くなっていた。
もはや魚に抗い続けるだけの力は無い。
やがて不思議な灰色をたたえた水面から黒曜石の輝きが覗けた。
水中から浮かび上がってきたそれはまるで宝石。
朝もやがいまだ消えない薄暗さの中でも、わずかな光を受けて明らかに輝いていた。
最後の詰め。
ここまで寄せておきながら、バラしてしまう(魚を逃がしてしまう)事は決して少なくない。
最後の最後まで慎重にたぐり寄せ、そして水面まで魚を浮かび上がらせると、スーさんがそっと網を水中へと差し入れ、そして魚を迎え入れるようにその中へと魚を捕らえた。
瞬間、ふっと腕に掛かっていた重みが、何よりも緊張が消えた。
獲った。
深く、深く鼻から息を吸い込むと、胸の内から、文字通りの打ち震えるような言葉にできない何かが体を駆け抜け、そして空へと駆け上る。
歓喜。
思わず目を閉じ、それを噛み締めた。
お疲れ、そう言わんばかりにスーさんが背中を軽く叩いた。
目を開け、振り返ると、口元に有るか無しかの笑みを浮かべたスーさんの姿。
「ありがとう」
お礼を言うと、スーさんが網を差し出した。
中には黒曜石の輝きが収まっている。
大きさは40センチほどだった。
あれほどの引きならば、普通、鯉やスズキなら1メートルに近いサイズだっただろう。
それがここでは、この大きさの魚があれほどの力強さを見せるのは決して珍しい事ではない。
その魚の体形はイワナやニジマスといった渓流魚に似ていた。
しかし、その色は静謐な黒。
黒曜石を削り出して造られた美術品のようでもあった。
わずかに口を開き、そして閉じ、それに合わせて動くエラが物では無い、生き物なのだと感じさせ、それが不思議な感動を呼んだ。
黒曜と勝手に呼んでいる魚だった。
本当の名前を一度、校長から聞いていたけれども、全く聞き取れなかったので、本当の名前は分からない。
尾びれや背びれはまるでトンボの羽のように透き通っている。
黒曜がわずかに動くたびに、それは虹色の輝きを見せた。
本当に美しい魚だった。
しかし。
「これでも外道なんだよね。今回は」
網で体を傷つけないように慎重に魚を掴み、そして針を外した。
魚を掴んだまま水中へともどし、そっと手を離す。
黒曜は何度か体を揺らすと、そっと水底へと潜り、去っていった。
外道。
狙った魚とは別の魚が釣れる事。
今回狙うのは、これよりもさらに美しいと言われる魚、水晶だった。
黒曜 = 非常に弾力性に富んだ肉で食べるには顎の力がいる。熟練の料理人が調理すると、歯ごたえのある鶏肉のような食感が楽しめる。美味。