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へびの夫婦  作者: たま
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六話 熱情の先

 蛇骨族は弱い一族です。

 所詮は蛇。龍ではありません。

 眷属である蛟は限りなく龍に近いものですが、蛇骨族は蛇、そして人化のままその形態で生活をするどちらかというと人に近い生き物でした。


 その一族を守るためには、強い強い力が必要でした。

 一族の長である蛇五衛門の血族は、ふるいふるい昔よりその方法を利用してきておりました。

 そうでなければ一族はここまで生き残れなかったでしょう。

 その力を利用してきたからこそ、この強いあやかしのはびこる地で栄えてこられたのです。

 そのあたりのあやかしでは到底対打ちできぬほどの強大な力。

 それは「造られた」ものでした。


 いくつかの命といくつかの絶望、そして多くの憎悪と怨嗟がそれを造るのです。





 時貞は時折そのときの夢を見ます。

 それは子供のころの、その呪いを一身にうけた時の夢でした。脳裏に刻みこまれたそれは否応なく彼にその夢を見せつけます。

 そんなときには女と肌を合わせるか、もしくは強い酒をあおるか。そうして訪れる長い夜を過ごしておりました。




 しかし最近はそれにひとつのことが加わりました。

 懐にある白い守り石。それを眺めたまま眠りにつくと、その夢は遠ざかるのでした。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




――この娘は毒だ。



 そう認識した次の日も、しかし時貞の黒い瞳は守り石をくれた娘の姿を追うことをやめませんでした。

 朝議の前、見送りをするために視界の隅にいる紫は、頬に残った傷跡はそのままに静かに頭を下げております。やわらかそうな頬にのこる痛々しいそれに、なぜだか苛立ちました。

 するとその時、紫がそっとこちらを見上げてくるのが視界の隅にうつりました。何かを言いたげにしております。

 そんなことこの娘にしては本当に珍しいことでしたが、この場で「正妻」にそれを問いただすのは矜持に触れました。

 だから時貞はそれに気づかないふりをすることが精一杯でした。



 その理由が判明したのは、その夜のことでした。

 時貞は悩んだ末、紫を閨に呼ぶことにしたのです。

 白い娘の朝の様子がどうしても気になったことと、そうしてやはり、ただ「傍に置いておきたい」ためでした。


 しかしその日は少し勝手が違いました。

 いつものように酒とつまみを用意させ、定位置の窓のそばで月を見上げていた時貞は、部屋に入ってくるなり彼の傍に寄ってきたちいさな娘に唖然とすることになったのです。

 もちろんそんなことおくびにもださずに紫の姿をみやると、紫はいきなりその場で深く頭を下げてきました。


「時貞さま、昨日は青坊が指に噛みついたってあれから聞きました。た、大変ご無礼なことをしたそうで、申し訳、ございませんでした……」


 ああ、と時貞は思いました。そんなこともあったな、と。

 彼にとってはその程度の些細なことでした。

 しかし昨日の紫の姿ならすぐに脳裏に蘇りました。

 ぼろぼろであるのに毒のように彼のすべてを麻痺させる姿。思い出すのはそれだけでした。

 しかし紫は続けます。


「あの、青坊はあの子はつよい毒をもっているのです。指は、毒の様子は、大丈夫でしたでしょうか……」



 時貞ははっと鼻で笑いました。

 子蛇の毒などこの身体には効きません。結構な猛毒でも効きはしないのですから当然のことでした。

 しかし紫にとってはとても重要なことのようでした。震える声でなおもいいつのります。


「けれど、時貞様は一族みんなにとって大事なおひとです。あの、解毒を……」

「いい」

「で、でも……」

「くどい」


 ぴしゃりと言い放つと、紫はびくりと小さな肩を震わせました。やがてすごすごといつもの定位置、部屋の片隅に行こうとします。

 朝、時貞に告げたかったことはそれだけだったのでしょう。そうして用事がすめばそれで時貞への興味は終わってしまうのです。

 時貞はち、と舌を打ちました。

 なにを期待していたのかは自分でもわかりません。

 しかしなぜだかそれにひどく苛立ったのです。



「――おい」



 衝動的に、いつかのように腕をつかんでひきとめます。

 その拍子に立ち上がりかけていた紫がふらついて膝をつきました。この娘はほんとうに軽いのです。

 見上げてくるその赤い瞳にはきょとんとした不思議そうな色が浮かんでおりました。

 しかしこの正妻はおとなしく「旦那」である時貞のつぎの言葉を待つのでした。



――おめえこそ昨日の傷は大丈夫か。



 しかしそんな「当たり前の」言葉をかけられない時貞は、黙ってその幼い顔を見下ろすだけなのでした。

 昨日ほどぼろぼろではありませんが、それでも頬や首の傷は痛々しく残っております。短い襦袢の袖からのぞく手や腕にも赤いかき傷がそのまま残っておりました。もしかしたら、傷の手当さえしていないのではないでしょうか。

 時貞はかすかに眉根を寄せました。

 自分の身体では一日で治るであろう傷。

 それなのにこの娘の身体の、なんと脆いことなのでしょう。



 なにやらわけもわからぬ感情が湧きあがり、時貞は衝動的に紫の手をそのまま引き寄せました。

 そのまま一番深い傷に舌を這わせます。かすかな血の味がしましたが、やはり薬のそれはしませんでした。予想どおり、傷の手当てをしていないのでしょう。



「――阿呆が」



 ぼそりと一度だけつぶやいて、さらに傷を丹念に舐めあげます。

 ほんの少し牙をたてるだけでたやすく破れてしまうそうなほどやわらかな皮膚は甘いものに満ちておりました。それを傷つけぬように、できるだけ優しく舌を這わせます。


 深い傷から浅い傷へ。

 手から腕へ。


 傷を一つ残らず丹念に舌を這わせます。時折わずかに身を引くそぶりをする紫の動作が邪魔でしたので、その身体を敷いてあった布団の上に抑えつけました。

 そうして襟元を緩めると、首にできたかすり傷を舐めあげます。

 舌が肌に触れるたびに甘いものが脳裏を占めていきました。

 これが紫の「毒」なのでしょうか。

 その毒は触れるたびに時貞の意識を狂わせていくようでした。

 押し寄せる熱情と白みがかってくる意識。

 もはや傷を治すことが目的だけではないことは明白でした。しかし時貞の矜持は、ただそれを口実にして紫の肌に触れておりました。

 かすむ思考で傷を探し、そうして次のものを認めると薄く微笑みます。


 幼さの残る頬。

 薄いまぶた。

 かすかに血のにじむやわらかな耳たぶ。


 ひとつひとつをすべて舐めあげた時貞は、紫の顔のうえでちいさく笑いました。

 毒に狂わされたそれは、男の美しい造作も相俟ってひどく妖艶なものでした。

 

 しかし、そこで時貞は気づきました。

 声ひとつあげない紫の身体。わずかに乱れた白い襦袢からのぞく月の光のごとくぼんやりとにじむましろの四肢。


 布団の上におさえつけていたそれらが、どうしようもなくぶるぶると震えていることに。



 よく見るとその噛みしめたちいさな唇も震え、月の光に鮮やかに輝く赤い瞳には涙がいっぱいにたまっておりました。

 しかし娘は声ひとつもらしません。

 それは自分がこの男の「もの」であることをよく承知している故のことに違いがありませんでした。

 どんなに嫌でも憎くても、なにひとつ「主人」に逆らうことはしないのです。


「……」


 それを認識した瞬間意識の一部が、冷たいものを流し込まれたかのようにすうっと凍えるのを感じました。

 身体の熱情は激しく残っておりました。己の下にある女の身体を好きにしたいという欲求も強く強く残っておりました。

 けれどもかすか残った理性がそれを留めました。

 それは今までのように、正妻だからとか、矜持だからとか、それだけの理由ではありませんでした。


 紫の上から身体を引きはがします。そうして立ち上がり、背を向けました。紫がかすかな呼吸をおさえながら見上げてくる気配を感じます。

 それすらも甘い響きに聞こえて、時貞は唇を噛みしめます。

 熱情は強く、今もなお彼の身体の中を駆け抜けておりました。

 だから彼は、あえて盛大に舌を打ちました。


「起きろ」


 命じれば紫は素直に従います。

 昨日青蛇に言ったように、紫は「時貞のもの」なのでした。時貞が無理やりにそうしたのです。

 単純で馬鹿で、おろかな娘。

 そう思いました。そのはずでした。

 それなのに。


 ふらふらと布団から立ち上がった娘の気配がします。きしり、と畳がかすかな音をたてました。

 それを背に、時貞は紫に向けて強く命じました。



「――おめえの相手はもう飽きた。とっとと出てけ。もう二度と、この部屋へは来んじゃねえ」




 泣かれるのは嫌だと思いました。

 意に望まぬことを強要することも嫌でした。


 そうしてそれが紫のためなどではなく、ひたすら己のためであることをも、この男は悟っておりました。

 しかし決して決して、それを認めるわけにはいきませんでした。



 何故ならそれは「嫌われる」ことが恐ろしいという、ただひたすら幼い子供のような、単純な理由だったからなのでした。







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