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へびの夫婦  作者: たま
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三話 わからない望み

視界にやたらと入ってくるようになった白い娘は、しかしそれからもまったく態度は変わりませんでした。

 静かに頭を下げてそこに居るだけです。朝も晩も、それはまるで変化がありませんでした。

 それによくわからぬまましびれをきらしたのは時貞の方でした。

いつものようにお帰りなさいとむらがってくる側室たちを押しのけ、つかつかと白い娘の前に立った時貞はしかし、何の言葉をかけるべきかを用意しておりませんでした。


「よお」


 ぼんやりとした娘の瞳が時貞を見上げます。ほんの少しばかり驚いたように瞠られたそれは、まさか自分に声がかけられるはずがないと知っている娘の心情がみえるかのようでした。正妻である以上、本来ならありえない心情でした。


 時貞は娘を見下ろしたまま、自分に無関心であった瞳がようやくこちらを向いたことに満足しておりました。しかしその次にかける言葉を用意しておりませんでしたので、そこにはかすかな沈黙が生まれました。


 その沈黙を破るべく、時貞はこう続けました。



「……お前の名、今一度教えてくれねえかい? 」



 本当は名前は覚えておりました。紫。その白い髪の先端がかすかに紫色なのもよく覚えておりました。

 しかし時貞にはかける言葉がなく、だからこそそのような質問をしたのでした。


 ふいにくすくす、と押し殺した笑い声が響いてきました。

 目の前の娘ではありません。彼の後ろにいる側室たちの中からその声は響いておりました。

 それは嘲笑でした。

 正室でありながら、その主人に名前すら覚えてもらえない哀れな娘――。

 こらえきれない笑い声に。

 侮蔑と、そして優越感を含んだ瞳。

 それをたっぷりみせつけながら、側室のひとりが言葉を紡ぎました。


「時貞様、そのお方は紫様とおっしゃるのですわ。ふふ、まさか正室でらっしゃるかたのお名前をお忘れになるなんて……それではあまりに紫様がおかわいそうですわ」


 正室。

 その言葉に時貞はふっと我に返りました。

 そうでした。この娘は正室で、だからこそ自分の憎むべき存在であるのでした。

 だから彼は、こう冷たく笑みました。



「ああ、そうだった。あまりこの娘の印象が薄っぺらなんで忘れていた」



 その言葉に周囲の笑みがいっそう大きくなります。

 侮蔑に嘲笑。

 しかし娘の表情はぼんやりとしたまま、やはりほとんど変わりませんでした。

 そんな娘に背を向けながら、あの夜の表情はなんだったのかとなにやら腹立たしくも思いました。



 それからもやはり何も変わりませんでした。

 視界に入る娘はやはりぼうっとした表情でただただ静かにしております。



 変わったのは時貞のようでした。

 どうやら自分はあのときの歌と娘の表情を見たいらしい。

 それに気づくまで時間はかかりませんでした。

 けれど「正室」である娘にそれを命じることはできませんでした。

 いえ、本来なら閨によんで一言命じればよいだけのことです。

 しかし時貞にとっては「正室」を特別扱いすることは許せないことでありました。


 だというのに朝に晩、ぼんやりと無表情の娘の顔をみるたび、その欲求は強くなっていくようでした。

 あれから幾度かあの井戸に足を運びましたが、娘に会うことはできませんでした。




 しかし、ある日のことでした。


 やはり深夜、庭に人の気配がしたのです。

 時貞は先日のようにふわりと抜け出すと、気配をたどって歩き始めました。

 しかしそれは先日とは違い、広い広い庭の裏、庭師の住んでいる小屋の近くで感じられました。

 あの娘ではないのか。

 そう思い引き返そうとした時貞でしたが、しかし次の瞬間聞こえてきた小さな声にその足を止めました。



「……ありがとうございます」

「いいさ。こんなんでよかったらいつでも持ってけ。おれにわざわざ許可なんていらねえから」

「……はい」


 ちいさな声はあの娘のもの、もうひとつはおそらくは庭師の老爺のものでした。

 気配を殺し、大木の陰からそっと覗くと、小さな畑の前に座り込んでいるちいさな白い頭が見えました。


「よかった……これで青坊の病の手当てができる……」

「青坊ってあれかい。嬢ちゃん……っていや、あんたは奥方さまだったな。奥方様が連れている子蛇のことかい。あれはなんだ? あやかしじゃあないだろう」


 はい、と紫は頷きました。


「ここに来る前、獣におそわれていたところを拾って、友達になったんです」

「ここに来る前か……奥方さまも大変だな。いろいろ話は聞いてるよ」


 老爺は紫の傍らに座りました。

 紫はそのことばに首を横に振りました。


「いえ……そんな……」

「そんなわけあるかい」


 老爺は顔をしかめたようでした。


「若様や側室のかたたちの話はおれたちにも聞こえてくるからな。あんたは曲がりなりにも奥方様ってやつなのに、相当邪険にされているだろう。とくに側室のかたたちがひどいと聞いた。あんたのその怪我もそうなんじゃないのか? 」

「……」


 腕にかすかに走る傷跡を指差され、紫はほんの少し黙りこみました。

 しかしすぐに顔を上げて老爺をみます。


「けど、それは外に居たときよりはいいと思うから……」


 え、と声を上げる老爺に向かって、紫は自分の髪を示して見せます。

 そうしてぽそぽそと続けました。



「わたしはこんな髪に目だからみんなに気味悪がられてて……。拾ってくれた薬師のじいちゃんが死んじゃってからは薬もさっぱり売れなかったんです。ことさら殴ったり蹴ったりなんてことは少なかったけど、かわりに大半のひとはわたしを居ないようなものに扱ってて……そっちのほうが辛かったかもしれない。薬が売れないからお金もなくて、たべものも買えなくて……。おなかがすくのって、本当につらいんです。そればかりしか考えられなくなっちゃうんです。ああ、おなかがすいたなあ、おなかがすいたなあって」

「……」

「だから若様に会う前、じつはもう駄目かなって諦めてたんです。お金も底をついてたし、家も追い出される寸前だった。だからね、若様には感謝しているんです。少なくともここにいれば青坊と赤坊にごはんを食べさせてあげられるもの……」


 紫は本当にそう思っているようでした。

 それに呆れたのか、老爺が小さく息を吐きます。


「最低のところから最低のところにきちまったんだな、奥方様は。まあいい。野草に近いが薬ぐらいならいつでもわけてやるよ」

「あ、ありがとうございます……」

「あまり無理すんじゃねえぞ」


 そういって老爺は紫のその白い頭をくしゃりと撫でました。

 それに紫は驚いたようでしたが、しかしすぐに嬉しそうに瞳を細めました。

 それはふわりと花が綻ぶかのように愛らしい微笑みでした。



「ありがとうございます……」





 その数日後、その庭師は館からいなくなりました。

 退職金をたっぷりはずんだとはいえ、そうしむけたのはこの屋敷の若君そのひとでしたが、その本人だって何故そのようなことをしたのかはわかりませんでした。



 視界の片隅にうつる白い娘は、それを聞いて珍しくもかすかに気落ちしているようでした。

 ただひとりの味方を失ってこの館でひとりきり。



 だというのに白い娘は、それでもあいかわらず彼の傍に寄ることはありませんでした。




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