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へびの夫婦  作者: たま
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二話 かすかな変化

 若君が連れ帰った花嫁を見て、誰もが仰天いたしました。

 いかにも身体の弱い白い娘。調べた結果、幼く見えるとはいえ成体でありなんとか子供は成せるようでしたが、素性も知れない乞食同然の娘です。


 しかし若君の決定は絶対でした。

 その無謀な婚姻に反対するかと思われた族長である清正も、不思議なことに何も言いませんでした。



「あれが俺の嫁さんだよ。問題あるかい?」



 まるで挑発するように言う息子に、その父親は何かを悟ったような静かな目を向けるだけでした。

 当の娘が嫌がらなかったのかといえば、それは実のところよくわかりません。

 なぜなら、時貞はほとんど娘と話すことがなかったからです。

 連れ帰れと命じてそれきり。数日後、至急行われた婚姻の儀で顔を見ただけでした。

 館のものがなんとか見栄えのするように磨いたのでしょう。あのときのぼろぼろの娘はそこにはおらず、汚れを落とされた肌はましろであり、丁寧に梳かれたであろう白紫の髪をもつ娘の姿がそこにはありました。

 しかしあのときと同じような赤い瞳はやはり茫洋としており、笑みも悲しみも浮かべておりません。



 まあ時貞にとっては、この娘が悲しんでいようが、それとも族長の息子の嫁になれて嬉しく思っていようが、どうでもよいことでした。

 どうせこの娘を夜伽に呼ぶことはありませんし、子など作るつもりは毛頭ありませんでした。

 跡継ぎの問題は、側室の誰かに子供を産ませれば解決できます。現に時貞も側室の子でしたから、それは問題のないことでした。

 そして側室は正妻ほどの権限はありません。

 それでよいのです。





 蛇骨族の若長としての職務は蛇骨族の住む土地を守ることです。

 とはいえ周囲に脅威となる部族はおりませんでしたので、時折やってくる無頼者や侵略者への対応が主なものでした。

 これはあまりに単純で、時貞という男にとっては阿呆のように簡単なものでありましたから、やはりただ毎日を前と同じようにふらふらと過ごしておりました。



 婚姻の儀の後も、時貞の生活はあまり変わりませんでした。

 側室は十二人。いずれも美しいものばかりでなかなかに面白かったし、飽きれば街におりればよかったからです。



 だから正室となった娘のことなど、頭の片隅にも残っておりませんでした。

 もしもこれが野心溢れる娘で、正妻の立場を振りかざそうとするなら時貞の目に触ったのかもしれませんが、娘のありようは、ただただおとなしいものであったのです。

 唯一目に触れるのは時貞が屋敷を出てゆくときと帰ってきたときの迎えのときぐらいでしたが、それも華やかな側室たちの後ろにひっそりと居るばかりでしたので、時貞の目にはほとんど入りませんでした。


 時貞の正室を無下にする態度は明らかで、だから名もない娘に正室の場を奪われた名だたる娘たちも、さほど矜持を損ねることなく側室の立場に甘んじているようでした。

 いや、むしろ徐々に正室である娘を軽んじるようなものになっておりました。


 それはほんのひと時、出迎えのときに触れる空気のときでさえ感じ取れるものでしたので、実際にはもっとひどかったのかもしれません。

 しかし時貞にはやはりどうでもよいことでした。


 側室の誰かがあまりにも尊大な態度に――権力を欲するような態度に出るならそれを殺せばよいだけですし、もしもそれが正妻の娘だとしても同じことだったからです。

 彼にとって「命」など、紙切れほどの重さも伴っていないものでした。




 そんなある日のことでした。




 その日、時貞は閨に誰も呼びませんでした。この男とてたまにはひとりで過ごしたい夜もあるのです。

 人払いをし月を肴にひとり飲んでいると、庭の方からふいになにやらちいさな歌が聞こえてきたのでした。


 それはほんとうに小さなものでした。

 並外れた聴力をもつ時貞でなければわからないほどの、空気に溶けそうなほどの歌声でした。


 時貞は杯をおき、二階の窓からふらりと庭に下り立ちました。

 まあ暇つぶしによいだろう。そんな単純な気持ちが大半でしたが、なぜだかそれは妙に時貞の心を騒がせるものを持ってもおりました。



 声を頼りに入り組んだ庭を抜けると、今は使われていない小屋のある、忘れられたかのような小さな空間にたどり着きました。声はその奥、つぶされた井戸のあたりから聞こえてきます。


 さて、下働きの娘か、それとも幽霊か。


 前者でしたら今宵の夜伽に呼ぶのもよいだろう。

その歌声は悪いものではなかったので、そう思いながらそっと奥を覗き込んだ時貞は、そこで思わず声をなくしてしまいました。


 そこには彼の正妻である、白い娘がいたのです。



 正妻の寝室はここではなく、むしろ彼の閨に近いところにあります。

 だから何故、とも思いましたが、しかしすぐにそんな考えは吹き飛びました。


 白い娘は歌を歌っておりました。

 ちいさなちいさな声はやさしい旋律を刻んでおります。そうしてそれは闇のなかにほろほろとほどけるように流れておりました。

 月に照らされた白い顔の中にある赤い瞳はふわりとした慈しみに満ち、そのやわらかな視線は己の膝の上にいる二匹の子蛇に注がれておりました。

 赤と青のちいさな子蛇は、娘の指に頭を撫でられ、そうして流れてくる静かな歌にうっとりと瞳を閉じているようでした。


 その光景に、時貞はただただ声をなくしておりました。

 何故かはわかりません。

 周囲から切り取られたかのようなそのひとつの幸福な光景は、彼の思考を完全にとめておりました。

 呆然としたままその光景を眺めます。


 長い長い時間、ただそうしておりました。





 その日から時貞の視界に、その娘の白い姿がよくはいってくるようになりました。

 何故だかはわかりません。

 娘にはなにも変化はなく、ただいつものように側室の陰に隠れてひっそりと居るのに、それは不思議なことでした。




「おかえりなさいませ時貞さま」

「おかえりなさいませ」

「おかえりなさいませ」



 そうしていつものように華やかな側室たちが我先にと傍に寄ってくる中、ひっそりと頭を下げる娘だけが自分の傍には寄ってこないことをそのときにようやく気付きました。

 視界の隅にそれを認め、そうして何故だかそのことが気に入らない自分にも気づきました。



 やはり何故だかはわかりません。

 彼自身にも何もわからないまま、しかし確実に変化は起きつつあったのでした。



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