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へびの夫婦  作者: たま
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十話:生存競争

 側室から生まれた時貞たち兄弟は、比較的仲が良い兄弟でした。それぞれ母親は違うとはいえ館の中で平等に育てられましたし、何不自由なく暮らしておりました。

  正室の子供だけはやはり正室の実家の権力故か特別扱いされておりましたが、蛇五衛門一族の跡取りは長兄でも正室の子供でもなく当主が独断で決めると聞かされていたので、さほど気になりはしませんでした。

 もっとも、側室である母親たちがどうだったかはわかりませんが。


 ともあれこのような一族にしては仲の良い部類に入る兄弟でした。

 とくに二つ下の弟である明京は時貞に懐いておりました。側室の兄弟の中では一番時貞と年が近かったからかもしれません。何かというと鳥のヒナのように時貞のうしろをそっとついてくるような、そんな弟でした。


  反して時貞は気の強い少年でした。

  以前はそうでもなかったのです。側室である彼の母親もひどく静かで優しい人物でした。時貞のものとよく似た紫紺の髪と鱗を持つ、うつくしい容貌の女性でした。名を音羽といいました。

  父親である蛇五衛門清正は音羽を誰よりも愛でておりました。だからでしょう。正妻の音羽に対する態度は冷たく、あからさまに虐げることも度々ありました。

  時貞は優しい母親のことが大好きでした。

 だからなんとか正妻から気の弱い母を守ろうと、次第に強くなっていったのでした。




 ――母様はどうしているだろう。


  時貞は饐えた臭いのする暗闇の中で思いました。うつくしいけれど気が弱く、自分の居場所を自分と蛇五衛門の子である時貞に依存しているところのある母親でしたから、時貞が居なくなってどれだけ心細い思いをしているかを考えるとわずかに胸が痛みました。


 そのときふと左肩に重みを感じて時貞は視線をやりました。するとそのまま隣に居た明京の身体がずるずるともたれかかってきておりました。その身体はひどく重く、ぐったりとしております。


  「おい……」


 かさかさにひびわれた唇では声を出すのもおっくうでしたが、時貞は明京に声をかけました。


  「がんばれ。死ぬんじゃねえぞ」

  「……うん」


 かすかにかすかに明京が頷きます。それに時貞がほっとしていると、部屋の右隅のほうから低い声が聞えてきました。


  「おい、明京は死んだか」


 それは二番目の兄のものでした。兄の声も飢餓と乾き故か、かすかすに歪んでおります。

  時貞は眉根を寄せて答えました。


  「死んでない」

  「……本当だろうな」


 ずる、と音が響きました。暗闇の中ほとんど姿は見えませんでしたが、重いものを引きずるような音が近づいてきます。

  時貞が暗闇を睨みつけていると、今年十六歳になる次兄がゆるりと姿をあらわしました。巨大な茶色の蛇の尾を体にかける気力もないのでしょう。それをずるずるとひきずりながら歩いてきた次兄は、時貞と明京の前に来ると立ったまま明京の身体を見下ろしました。


  「……こりゃあ、死んでるんじゃねえか」

  「違う。まだ生きてる」


   時貞はわずかに明京の身体をかばうようにしながら次兄を睨みあげました。この二番目の兄は、兄弟たちの中ではもっとも大きく、そして荒々しい性格をしております。

   だからその血走った目にわずかに身のすくむ思いがしました。


  「貸せ。俺が調べてやる」

  「やめろ」


   次兄の太い腕が明京に伸ばされました。時貞は明京の身体を掴みましたが、次兄の力にはかないませんでした。次兄は明京の襟首を乱暴に掴みあげます。襟元が締ったためか明京がちいさく声を上げましたが、次いで叫ばれた次兄の声にそれはあっさりかき消されました。


  「……やっぱり死んでやがる! おまえ、これを独り占めにしようとしてやがったな! 」


   時貞は目を見開きました。

   明京はまだ生きております。それは間近で見ればわかることでした。 それを意図的に無視し、そうしてすでに明京を「食い物」としてしか見ていない兄の姿にぞっとしました。


  「ば、馬鹿を言うな、そんなんじゃねえ! だいたい明京はまだ生き――」


   紡ぎかけた声は言葉にはなりませんでした。次兄のふるった蛇の尾が時貞の小さな身体を激しく打ったのです。

   壁と尾に挟まれて時貞はぐうと息を吐き出しました。胸に強烈な痛みが走ります。呼吸ができずそのまま倒れこんだ時貞の前で次兄は鬱蒼と笑いました。


  「死んでるっていってんだろう」



   ずるずると音が響きます。

   ついで空気が軋みました。歪み、捻じれるその感覚は覚えのあるものでした。

   痛む胸で呼吸をしながら慌てて次兄を見上げます。そうして息をのみました。


   次兄の姿は巨大な枯葉色の大蛇のものへと変化しておりました。普通の蛇骨族は死んだ後にしか蛇の姿に戻れないのですが、蛇五衛門の血族だけは別で、自分の思うように変化可能なのです。

   巨大な大蛇の瞳は、やはり次兄そのものでした。しかしその血走った、何かに狂ったような瞳は時貞を映してはいませんでした。それは地に伏している明京、ただひとりに向けられています。それは笑っているようにも見えました。

 それにぞっとした瞬間。次兄はその顎をがくりと大きく開きました。


  「え……」


   時貞は尻をついたまま唖然とした声を上げました。

   蛇骨族にとって蛇は近しい存在です。だからこそその口がありえないほどに広がる様子も、獲物をまるごと飲み込んだ頭部がその形に広がるさまも、よく知っているはずのものでした。

   しかし目の前で起こる光景は現実味がないものに思えました。がくがくと足が震え、みるみるうちに血の気がひいていきます。吐くもののないはずの腹から何かがせりあげてきて、時貞は身体を丸めてそれを吐きだしました。打たれた胸は動かすと痛く、いまだに呼吸がしにくいほどでしたがそれよりも目の前の異常な光景に身体が反応したのでした。


  「常盤、おまえ……! 」


   そのとき声を上げたのは長兄でした。

   年は十七。次兄の常盤よりひとつ上のおっとりした青年でした。

   暗がりの中から現れた長兄は色をなくしたまま枯葉色の大蛇を見上げておりました。

   時貞はぼんやりとその姿をみつめました。明京をたすけて、と言いかけます。呑まれて間もない今なら助かるかもしれないと思ったからでした。


   しかし、長兄が叫んだのはこんな言葉でした。




  「この糞が! 何故ひとりで食った! 」




 ――狂っていく。




   時貞は思いました。

   すでに何が正しいのか正しくないのかわかりません。しかしそれらは全部時貞の知っている兄たちには見えませんでした。

   兄たちが全員、いまかいまかと自分たちが死ぬことを望んでいることは気づいていました。それほどに飢餓は強く、そうしてそれ以上に渇きは耐え難いものであったのです。

   身の内かを食い破らんとする飢餓は経験したものでないと理解できないものでしょう。ぎりぎりと内の腑を荒しながら溶かしていく蟲を身の内に飼っているようなものでした。

   最後に死んだ兄弟を食ってからだいぶ経ちます。だから、いつだれが手を出してもおかしくない状況でした。彼らにとって、傍にいる兄弟はただの食い物であったのです。



 ――けど、それも当たり前だ……。



   時貞とて同じようなものでした。彼もすでに兄弟を口にしておりましたから、いまさら聖人ぶるつもりなど毛頭ありませんでした。

   ただ、明京のことは可愛く思っておりました。いつも兄さん兄さんと言って鳥のヒナのように後をついてきていた弟を可愛く思わないはずがありません。

   助けなきゃ、と思いました。きっとまだ間に合う。そう思いました。

   打たれた胸の痛みはひどく、動くたびに呼吸を圧迫するようでした。立ち上がろうとしましたがうまくいかず、自らの吐いたものの中に頭から倒れこみます。

   時貞はひとり歯を食いしばりました。泣きたい気がしましたが水のほとんどない身体では涙も出ませんでした。   

   饐えた臭いの中で次第に意識が遠のいていきます。

   助けなきゃ、という言葉はすでに声にすらなりませんでした。




   次に気が付いた時には、生暖かいぬめる壁に囲まれておりました。それは脈打ちながら蠢き、時貞の身体をゆるゆると前へ動かそうとしているようでした。ひどく苦しく、不快な感触の中で時貞は悟りました。ああ、食われているのだと。


   ぎゅうぎゅうと迫る肉壁の中、それでも自分の意思で指先が動きました。

   時貞は笑います。馬鹿だなあ、兄者。俺がもう死んでいると思ったのかい。獲物というものはちゃんと毒で動けなくしてから飲み込まねえと自分の命が危ねえんだぞ。

   大蛇の姿に変化した時貞の姿は人の姿の十倍もの質量になります。だから彼はそれをやってのけました。相手が自分を殺そうとしている以上、容赦などしませんでした。

   はじけとんだ肉片と体液の中、時貞は人の姿に戻ります。

   すでに閉じられた部屋の中に兄弟の気配はひとつもありませんでした。散らばる肉片についている皮の色と模様は枯葉色。それでおそらくは次兄だと検討がつきました。

   残った巨大な胃袋の中に生きているものの姿はありませんでした。はじめにのまれた明京の身体は原型を留めてすらいません。それで自分が最後の食糧であったことを悟りました。



   時貞は笑いました。

   自分はどうやら生き延びたのです。そうして当分の食料は目の前にある。



   もう、それで十分でした。






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