- 1月10日。火葬。
1月10日。
午前は、学校があったので早く家を出た。
もちろん、そんな気分でも無かったのだが。
ペット葬儀場が混んでいたら、明日以降になるかもしれないという話があったのだが、
俺が帰ってきたときには庭のチェーンも外され、
小屋も毛布などがすっかりと無くなっていた。
薄々気づいていたが、愛犬は骨になっていた。
白い壷に入ったまま。
頭蓋骨らしきものがドンとそこにあった。
怖くは無かった。
ただの亡骸としか感じなかった。
両親に話を聞くと、午前中にそれらを全て行ったらしい。
「15歳という年齢の割には、丈夫な骨でした」
と葬儀担当者が言っていたらしい。
そりゃそうだ。アイツは体力の続く限り頑張った。
むしろ、俺はアイツの体力に驚いた。
少なくとも俺が諦めた時間より10時間以上は生きていたのだから。
墓は、庭の隅に作られることになった。
そして、犬はもう飼わないということを母に告げられた。
けど、ガランとなった庭は、あまりに寂しかった。
当たり前の存在が、当たり前に存在することはとても重要である。
そんなことはずっと前から理解してたつもりだったけど。
けど受け入れるには少し重すぎるようにも思える。
だから、もう死ぬな。
誰も死ぬな。誰一人として死ぬな。
悪人だろうが善人だろうが、恨まれてようが、他人だろうがそんなことはどうでもいい。
だから、もう誰一人として死ぬな。それが犬だろうが人間だろうが関係ない。
生きれるところまで生きろ。
死ぬな。頑張れ。
きっと、誰かが悲しむ。
悲しむ存在がいる。
そして、死んでからじゃないと気づけない。
死ぬな。
死んでいい存在なんて本当は無い。
普段、死んでくれと思う人だって、いざ死ねば誰かが悲しむ。
それを忘れない。
だから死ぬと決まっていても死ぬな。
死ぬまで生きてくれ。
我が愛犬のように。火葬の後。
最後まで、拙い日記のようなものを読んで下さってありがとうございました。
私も3.11の震災にて仲間を失いましたが、
弔うことは、口に出すこと。口に出してあげること。
罪なことは、忘れることだと今も思っています。
もし、その時にその人のことを話せる内容、もしくは思い出せる物。
みなさん、持っていますか?