- 1月9日。確信。
夜が明けて(1月9日の続き)
夢のせいで気分は悪かった、というか悲しい気持ちに拍車がかかっていた。
もうムサシがどうなっても私は泣くな、と思った。
それが嬉し泣きか、それとも悲し泣きかは分からなかったけど。
朝の七時に起きて一縷の望みを託して外を見てみるが、
ムサシの様子は変わってなかった。
まだグルグルと旋回して歩いているだけだった。
そして、何が私の気がかりだったかといえば何も食べたり飲んだりしていないこと、
毛ヅヤが失せてボサボサとした手触りになったこと。
そして、昨日は右旋回だったにも関わらず、
今日になって左旋回になっていたことだった。
インターネットでは、脳腫瘍や痴呆犬は、結構力弱い声で鳴くと書いてあったのだが、
ムサシが泣き声を上げない分だけ寂しくも感じられた。
私はすぐに手持ちのハンディでヨタヨタと歩くムサシの姿をカメラに収めた。
せめて元気なときに撮影してやればよかったとも思うが、もはや後の祭りである。
震災のときもそうだが、カメラに収めておけば、と後悔した。
人間の記憶なんていつか風化するし、人に批判されようと撮影をするべきった。
それは震災の爪あとを面白おかしく撮影するんじゃなく、自らが鮮明に思い出せるように。
そしてそれが死者への弔いでもあることに気づいたからである。
少し話しがそれたが、ムサシがまだ歩けて良かったという気持ちと、
せめてもう徐々に体調が崩れていればまだ元気な姿が撮影できたのに……
という矛盾した考えを持ったままカメラを回していた。
しかし、私のことが微かに分かるのか、私が庭へ出ると私のほうを見た。
そして、確かにこっちへと歩き出そうとしていた。
しかし、足はおぼつかず、結局旋回運動に戻ってしまった。
何が悲しいかというと、私という存在を認識してくれただけで、
私は嬉しいという感覚を持ってしまっていたことだった。
私と母、家族は何となく分かっていた。多分、ムサシは助からないだろう、ということに。
母は「かわいそう、かわいそう」と言って涙目だった。私も涙目だった。
これを書いている最中(9時42分)にムサシが抑揚の無い声で鳴いた。
最後の力を振り絞って地面に倒れたらしい。まだ息はあるので、小屋に寝かせた。
今後どうなるか分からない。
けどこんな時くらい、コイツのことをしっかり思い出そう。
細かいとこは間違えているかもしれないけど、とにかく思い出せるところだけ書こう。
震災で仲間が死んだとき、私が一番の弔いになると思ったのは、思い出すこと。
そして、忘れずにそいつの会話をすることが弔いになると思ってるからだ。
罪なのは忘れること。そして、無かったことにすること。