『愛されてたから』
彼女は、夫が自分からは離れられないと思っていた。
少し不機嫌になれば、夫は謝った。
彼女が無視をすれば、夫は機嫌を取った。
彼女が「もう無理」と言えば、夫は慌てて引き止めた。
彼女はいつしか、夫を見下すようになった。
――この人は、私がいなければ何もできない。
そう思っていた。
夫が家事をしても、当然。
生活費を入れても、当然。
自分のわがままを聞いても、当然。
何をしても離れていかない人間に、感謝する必要などない、彼女の思い通りに扱っていればいいと、本気で思っていた。
むしろ、夫が自分に合わせるほど、
「この人は私に夢中だ」
と、彼女は自分が価値のある人間だと勘違いしていった。
夫が何かを我慢していることには全く気づかなかった。
何度も言葉を飲み込んでいたことにも。
夫が、家族を壊さないために、自分を抑えていたことにも。
彼女にとって夫は、いつでもそこにいる家具のようなものだった。
邪魔になれば動かす。
必要になれば使う。
壊れたら、誰かが直してくれる。
そんな存在だった。
ある日、夫が言った。
「もう、終わりにしよう」
彼女は笑った。
「また始まった」
そう思った。
どうせ数日もすれば、夫は戻ってくる。
今まで何度もそうだった。
彼女が冷たくすれば、夫は追いかけてきた。
彼女が離婚を口にすれば、夫は怯えた。
だから今回も同じだと思っていた。
「好きにすれば?」
そう言って、彼女は夫を見送った。
しかし、夫は戻ってこなかった。
離婚届を提出した。
誕生日にも。
記念日にも。
体調を崩したときも。
彼女が何気なく送ったメッセージにも、夫から返事が来ることはなかった。
しばらくして、彼女は知った。
夫には、もう新しい人がいるらしい。
しかも、ずいぶん幸せそうだった。
彼女は、笑った。
「どうせ長続きしない」
そう言った。
「あの人に誰かを幸せにできるわけがない」
そうも言った。
けれど、時間が経つほど、胸の奥に妙な苛立ちが積もっていった。
夫は、彼女といた頃より遥かに幸せそうだった。
以前は彼女の顔色ばかり見ていた夫が、今の妻を愛おしそうに見ている。
彼女のために我慢していた夫が、もう何も我慢してはいなかった。
そして何より、夫は新しい妻を気遣い、大切にしていた。
彼女は、その光景を見て気づいた。
夫は、誰にでも従う男だったわけではなかった。
自分を大切にしてくれる相手を、大切にしていただけ、だった。
彼女が夫より優位に立てていたのは、彼女の価値が高かったからではなかった。
夫が彼女を愛していたから、だった。
それに気づいたときには、もう遅かった。
ある夜、彼女はふと思った。
――私が何をしても、あの人は戻ってきた。
――あの人は、私のことを一番好きだった。
そして、それがもう二度と戻らない過去だと気づいた瞬間、彼女は泣いた。
自分が失ったのは、言うことを聞く夫ではなかった。
自分のわがままを受け入れてくれる人でもなかった。
自分がどれだけ酷い人間でも、それでも愛してくれていた人、だった。
彼女は、あの頃の夫を思い出した。
自分の帰りを待っていた夫。
自分の機嫌を取っていた夫。
自分が笑えば、嬉しそうに笑っていた夫。
そのすべてを、彼女は「当然」だと思っていた。
そして今、彼女の隣には誰もいない。
彼女はようやく理解した。
人は、いつまでも自分の思い通りにはならない。
優しい人は、いつか優しくなくなる。
我慢する人は、いつか我慢をやめる。
そして、何をしても離れていかなかった人ほど、
一度離れたら、二度と戻ってはこない。
彼女は、もう一度だけ、夫に連絡をしようと思った。
けれど、iPhoneを手にしたまま、長い時間動けなかった。
何と送ればいいのかわからなかった。
「戻ってきて」
なのか。
「ごめんなさい」
なのか。
それとも、
「まだ私のことが好き?」
か。
彼女は、最後まで自分の気持ちしか、考えることができなかった。
結局、送信ボタンは押せなかった。
その頃、彼女の元夫は妻と夕食を食べていた。
妻が何気なく笑い、夫も笑った。
かつて彼女が当然だと受け取っていたものを、今の妻は当たり前と思わない人だった。
「ありがとう」
と、妻は言った。
その言葉を聞きながら、夫は思った。
――愛されるって、こんなに静かなものなんだ。
夫が過去を振り返ることはない。
彼は、愛し愛されることを教えてくれた愛しい妻と、
この先の人生をゆっくりと、
これからも歩いていく。
一方、
自分を愛してくれていた夫を、
愛されているという理由だけで見下してしまっていた彼女が、
愛し愛される幸せを知ることは、
この先もきっとないのだろう。




