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『愛されてたから』

作者: ミオ
掲載日:2026/07/28

彼女は、夫が自分からは離れられないと思っていた。


少し不機嫌になれば、夫は謝った。


彼女が無視をすれば、夫は機嫌を取った。


彼女が「もう無理」と言えば、夫は慌てて引き止めた。


彼女はいつしか、夫を見下すようになった。


――この人は、私がいなければ何もできない。


そう思っていた。


夫が家事をしても、当然。


生活費を入れても、当然。


自分のわがままを聞いても、当然。


何をしても離れていかない人間に、感謝する必要などない、彼女の思い通りに扱っていればいいと、本気で思っていた。


むしろ、夫が自分に合わせるほど、


「この人は私に夢中だ」


と、彼女は自分が価値のある人間だと勘違いしていった。


夫が何かを我慢していることには全く気づかなかった。


何度も言葉を飲み込んでいたことにも。


夫が、家族を壊さないために、自分を抑えていたことにも。


彼女にとって夫は、いつでもそこにいる家具のようなものだった。


邪魔になれば動かす。


必要になれば使う。


壊れたら、誰かが直してくれる。


そんな存在だった。


ある日、夫が言った。


「もう、終わりにしよう」


彼女は笑った。


「また始まった」


そう思った。


どうせ数日もすれば、夫は戻ってくる。


今まで何度もそうだった。


彼女が冷たくすれば、夫は追いかけてきた。


彼女が離婚を口にすれば、夫は怯えた。


だから今回も同じだと思っていた。


「好きにすれば?」


そう言って、彼女は夫を見送った。


しかし、夫は戻ってこなかった。


離婚届を提出した。


誕生日にも。


記念日にも。


体調を崩したときも。


彼女が何気なく送ったメッセージにも、夫から返事が来ることはなかった。




しばらくして、彼女は知った。


夫には、もう新しい人がいるらしい。


しかも、ずいぶん幸せそうだった。


彼女は、笑った。


「どうせ長続きしない」


そう言った。


「あの人に誰かを幸せにできるわけがない」


そうも言った。


けれど、時間が経つほど、胸の奥に妙な苛立ちが積もっていった。


夫は、彼女といた頃より遥かに幸せそうだった。


以前は彼女の顔色ばかり見ていた夫が、今の妻を愛おしそうに見ている。


彼女のために我慢していた夫が、もう何も我慢してはいなかった。


そして何より、夫は新しい妻を気遣い、大切にしていた。


彼女は、その光景を見て気づいた。


夫は、誰にでも従う男だったわけではなかった。


自分を大切にしてくれる相手を、大切にしていただけ、だった。


彼女が夫より優位に立てていたのは、彼女の価値が高かったからではなかった。


夫が彼女を愛していたから、だった。


それに気づいたときには、もう遅かった。




ある夜、彼女はふと思った。


――私が何をしても、あの人は戻ってきた。


――あの人は、私のことを一番好きだった。


そして、それがもう二度と戻らない過去だと気づいた瞬間、彼女は泣いた。


自分が失ったのは、言うことを聞く夫ではなかった。


自分のわがままを受け入れてくれる人でもなかった。


自分がどれだけ酷い人間でも、それでも愛してくれていた人、だった。


彼女は、あの頃の夫を思い出した。


自分の帰りを待っていた夫。


自分の機嫌を取っていた夫。


自分が笑えば、嬉しそうに笑っていた夫。


そのすべてを、彼女は「当然」だと思っていた。


そして今、彼女の隣には誰もいない。


彼女はようやく理解した。


人は、いつまでも自分の思い通りにはならない。


優しい人は、いつか優しくなくなる。


我慢する人は、いつか我慢をやめる。


そして、何をしても離れていかなかった人ほど、


一度離れたら、二度と戻ってはこない。


彼女は、もう一度だけ、夫に連絡をしようと思った。


けれど、iPhoneを手にしたまま、長い時間動けなかった。


何と送ればいいのかわからなかった。


「戻ってきて」


なのか。


「ごめんなさい」


なのか。


それとも、


「まだ私のことが好き?」


か。


彼女は、最後まで自分の気持ちしか、考えることができなかった。


結局、送信ボタンは押せなかった。




その頃、彼女の元夫は妻と夕食を食べていた。


妻が何気なく笑い、夫も笑った。


かつて彼女が当然だと受け取っていたものを、今の妻は当たり前と思わない人だった。


「ありがとう」


と、妻は言った。


その言葉を聞きながら、夫は思った。


――愛されるって、こんなに静かなものなんだ。


夫が過去を振り返ることはない。


彼は、愛し愛されることを教えてくれた愛しい妻と、

この先の人生をゆっくりと、

これからも歩いていく。



一方、


自分を愛してくれていた夫を、


愛されているという理由だけで見下してしまっていた彼女が、


愛し愛される幸せを知ることは、

この先もきっとないのだろう。

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