男助手に甘すぎる婚約者を捨て、僕は京都の名門令嬢と結婚することにした
社内の会食の日、柳原怜奈の若い助手である佐久間蓮司は、柳原ホールディングスの社員たちが見ている前で、自分が一口かじったナスの天ぷらを彼女の器に放り込んだ。天ぷらの端には、はっきりと歯形が残っていた。
それでも怜奈は、ほとんど迷わず箸でつまみ上げ、そのまま食べた。周囲の同僚たちは意味ありげに囃し立て、佐久間蓮司は目を細めて笑っていた。まるで、自分だけが勝者になれるゲームを眺めているようだった。
けれど怜奈は、何がおかしいのかまったく分かっていない顔で、軽く言った。
「食べ物を無駄にしちゃだめでしょ」
僕は彼女の向かいに座り、かつて何度も握ったことのあるその箸を見つめた。胸の奥が、急に冷たくなっていくのを感じた。
その夜、東京・港区のマンションへ戻ってから、僕は以前のように問い詰めなかった。ドアを乱暴に閉めることも、怒鳴ることもしなかった。ただ玄関に立ったまま、彼女がハイヒールを脱ぐ姿を静かに見ていた。
「怜奈。婚約を解消しよう」
彼女の手が一瞬止まった。すぐに面倒くさそうに眉間を揉み、あり得ない冗談でも聞いたような顔をする。
「蓮司がくれたナスの天ぷらを、私が食べたから?」
「彼がくれたんじゃない」
僕は訂正した。
「彼が一口食べて、気に入らなかったから、君に投げたんだ」
柳原怜奈は顔を上げた。きれいな顔には、苛立ちがはっきり浮かんでいる。
「久世晴翔。あなたが小さなことで騒ぐ男だって言われるの、本当にその通りね」
「そんなくだらないことで、そこまで大げさにするの?」
僕は言い返さなかった。ただ静かに彼女を見ていた。
僕たちは幼いころから一緒に育った。久世家と柳原家は、早くから僕たちの婚約を決めていた。周囲にとっては安定した政略結婚だったのだろう。けれど僕にとって、この二十数年は利害でも家同士の取り決めでもなく、ただ本当に彼女を愛してきた時間だった。
怜奈はきっと、僕がいつものように先に折れると思っていた。彼女は冷たく笑い、スマホを手に取ると、LINEもInstagramもゲームのフレンドも、僕をすべてブロックした。そして寝室へ入っていくと、扉越しに傲慢な声を投げてきた。
「いいわよ。婚約を解消したいなら、好きにすれば」
「最後にまた、みっともなく復縁を頼みに来ないでね」
僕はリビングに立ったまま、鍵の落ちる音を聞いた。部屋全体が恐ろしいほど静かになった。
彼女はずっと、僕が彼女から離れられないと思っている。
けれど彼女は知らない。どれほど濃い愛情でも、何度も何度も傷つけられれば、最後には跡形もなく削れてしまうということを。
今回は、本当に離れると決めた。
1.婚約破棄
その夜、僕は両親に電話をかけた。柳原家との婚約を解消し、以前から両親が提案していた別の縁談を受けたいと伝えた。
電話の向こうで、父は長いあいだ黙っていた。やがて母が、静かに尋ねてくる。
「晴翔、本当に考えたの?」
僕は窓の外に広がる東京湾の夜景を見つめた。自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「考えたよ」
「柳原怜奈は、もういらない」
両親は驚いていたが、僕を止めなかった。久世家と柳原家の提携は、もともと僕と怜奈の婚約によって保たれていた。僕が自分から手を放すなら、むしろ彼らはほっとしたのかもしれない。
その日から、怜奈はまた僕と冷戦を始めた。それは彼女のいつものやり方だった。喧嘩をするたびに僕をブロックし、削除し、僕が先に頭を下げるのを待つ。もう一度友だち申請を送り、贈り物を持って機嫌を取りに来るのを、当然のように待っている。
昔の僕は、いつも最初に負けていた。
けれど今回は、LINEの空っぽのトーク画面を見つめ、友だち追加の画面に指を止めたまま、最後にはスマホの画面を消した。
一週間後、柳原ホールディングスの業務用グループチャットに通知が流れた。
「今夜は柳原社長の誕生日です。社長のご招待により、場所は銀座の居酒屋。全員必ず出席、欠席は認めません」
本当は行きたくなかった。けれど正式な退職手続きもまだ終わっておらず、ほかの社員に気を遣わせたくもなかったので、結局出席することにした。
銀座の高級居酒屋の個室は、薄い琥珀色の照明に包まれていた。テーブルには、見た目にも美しい会席料理が並んでいる。僕が戸を開けると、怜奈は主賓席に座っていた。
佐久間蓮司は彼女のすぐ隣に腰かけ、肩が触れそうなほど近かった。彼は怜奈の耳元に顔を寄せ、何かを囁いた。怜奈は突然、声を立てて笑った。
二人のあいだには、透明な結界があるようだった。
他人は入れない。僕も、入れない。
僕は視線を外し、隅の席を選んで腰を下ろすと、自分で清酒を注いだ。
しばらくすると、同僚たちは次々に誕生日プレゼントを渡し始めた。香水、ジュエリー、限定モデルの万年筆、彼女が好きな画集。怜奈は笑顔でそれらを受け取りながら、時折入口のほうを見ていた。まるで、何かを待っているようだった。
やがて彼女は僕の前まで来て、見下ろすように言った。黒いロングドレスに精巧なメイク。相変わらず目を奪われるほど美しい。けれどその顔には、僕がよく知る苛立ちが張りついていた。
「久世晴翔。どうして私の誕生日プレゼントを用意していないの?」
以前の僕なら、柳原怜奈の誕生日には半年前から準備をしていた。いちばん大げさだった年には、アニメ映画『カールじいさんの空飛ぶ家』に出てくる家の模型を、僕が手作りで再現した。何百個もの小さな風船が浮かび上がった瞬間、彼女は僕を抱きしめて、私たちも映画の主人公みたいに年を重ねようと言った。
あのときの僕は、それを信じた。
けれど彼女の約束は、三年さえ保たなかった。
「忘れた」
怜奈の表情が一瞬で冷えた。
「久世晴翔。いい加減にしてくれない?」
「そんな小さなことで、一週間も私に当てつけているの?」
僕は彼女の唇の端で、少しだけ崩れた口紅を見た。胸の奥を、何かが強く塞いだ。
「当てつけじゃない」
「婚約解消は、本気だ」
個室が一瞬で静まり返った。
すぐに佐久間蓮司が立ち上がった。彼は怜奈の手をそっと握り、傷ついたような、無垢なような顔をして言う。
「晴翔さん、誤解しないでください」
「僕は食べ物を無駄にしたくなくて、あのナスの天ぷらを怜奈さんに渡しただけなんです」
「僕のことがそんなに嫌なら、次の会食からは席に着きません。みんなが食べ終わってから、残り物をいただきますから」
その言葉を聞いた瞬間、怜奈の目には隠しきれないほどの痛ましさが浮かんだ。彼女は彼に向き直り、信じられないほどやわらかな声で言った。
「蓮司、そんなこと言わないで。あなたには、いちばんいいものを受け取る価値があるの」
それから彼女は、冷たい目で僕を見た。
「この席に来るべきじゃなかったのは彼よ」
「自分が何者のつもりなの? 全員が彼の機嫌を取らなきゃいけないわけ?」
佐久間蓮司はうつむき、さらに声を弱くした。
「怜奈さん、そんな言い方しないでください。晴翔さんは少し繊細なだけです。でも、あなたの婚約者ですから、なだめてあげるべきだと思います」
「僕のせいで二人が喧嘩するのは、本当に嫌なんです」
怜奈は鼻で笑った。
「なだめる?」
「彼は自分を何様だと思っているの? 両家の親たちが婚約を決めていなかったら、私はこんな、小さなことで怒る男と付き合ったりしなかった」
佐久間蓮司は僕の前に来て、慰めるように肩を叩いた。
「晴翔さん。男の立場から見ても、今回のあなたは少しやりすぎです」
「怜奈さんはこの数日、あなたに怒られて眠れなかったんです。僕も正直、二人は性格が合わないと思います。でも婚約がある以上、お互い一歩引くべきじゃないでしょうか」
僕は彼の手を払いのけた。乾いた音が、静まり返った個室にやけにはっきり響いた。
僕は彼を見て、冷たく笑った。
「佐久間蓮司。僕が君の何をいちばん尊敬しているか分かるか?」
「無邪気な顔をしながら人の婚約者を奪っておいて、それでも顔色ひとつ変えずにいられるところだよ」
佐久間蓮司の笑みが固まった。
怜奈が勢いよく立ち上がる。
「久世晴翔。誰が蓮司をそんなふうに侮辱していいと言ったの?」
「侮辱?」
僕も立ち上がり、喉の奥にこみ上げる怒りを押し殺した。
「なら聞くよ。君が僕に買ってくれたカフスを、どうして彼も持っている?」
「僕と君が喧嘩するたび、翌日には会社の給湯室で内容が筒抜けになっているのはなぜだ?」
「それから、どうして彼は君の腰の後ろにあるほくろを知っている――」
「もういい!」
乾いた音が響いた。
怜奈は全員の前で、僕の頬を強く叩いた。
耳の奥で世界がぼやけていく。それでも僕には、個室にいる人たちの表情がはっきり見えた。同情、憐れみ、嘲り、そして面白い見世物を眺める興奮。
痺れた頬を押さえながら、僕はふっと笑った。
人が本当に心を失ったとき、痛みさえ少し遅れてやってくるのだと、そのとき知った。
2.千個目のいいね
耳鳴りが少しずつ引いていくころ、怜奈が個室の中央に立ち、冷たい声で宣言するのが聞こえた。
「今日から、私と蓮司のツーショットには誰でも自由にいいねしていいわ」
「千いいねになったら、私は久世晴翔を捨てて、蓮司と区役所へ婚姻届を出しに行く」
個室のあちこちで、息をのむ音がした。興奮してスマホを取り出す者、僕の顔色を盗み見る者、口では止めるふりをしながら目だけは噂話で輝かせている者。
怜奈は言い終えると、佐久間蓮司の手を引いて個室を出ていった。扉を出る直前、佐久間蓮司だけが振り返って僕を見た。その目には、委屈さなど少しもなかった。あるのは勝者の挑発だけだった。
二人が去ると、騒がしかった個室はすぐに冷えた。通りすがりの同僚が、声を潜めたふりをしながら、僕に聞こえる大きさで言った。
「自分にどれだけ価値があるかも分かってないくせに、意地を張るから」
「これでやりすぎたって分かったんじゃない?」
別の同僚は、親切そうな顔で僕を諭した。
「晴翔くん。面子なんてどうでもいいんだよ」
「早く謝ったほうがいい。柳原社長が本当に蓮司と婚姻届を出したら、泣いても遅いよ」
もちろん分かっていた。これは怜奈が僕に謝らせるための手段だ。
彼女は昔の僕を知り尽くしている。少し言葉をきつくして、状況を大きくすれば、僕は必ず先に折れる。誰が悪くても、最後に謝るのはいつも僕だった。
けれど今回は、頭を下げたくなかった。
死んでも、下げたくなかった。
個室の人たちは次々に帰り、最後には僕だけが残った。僕はテーブルに残っていた清酒を手に取り、一気に飲み干した。辛い酒が喉を焼いて胃へ落ち、目の奥が酸っぱくなる。
二十数年の想いなど、所詮この程度だったのか。
僕はもう京都へ行き、新しい婚約を受けると決めていた。彼女がこれ以上、僕を煩わせることもないはずだった。
それなのに、なぜか頬は濡れていた。
港区のマンションへ戻ると、僕は荷物をまとめ始めた。
僕と柳原怜奈は幼なじみだった。短くもない人生の半分以上を一緒に過ごしてきた。だから本当に離れようとすると、ここには彼女の痕跡ばかりが残っているのだと気づかされた。
本棚には、彼女が幼いころにくれた小さな赤い紙の花があった。幼稚園で初めて先生から褒められてもらったものを、小さな足で僕のところへ走ってきて、誇らしげに差し出したものだ。
あのころの彼女は、顔を上げて目をきらきらさせながら言った。
「いちばんいいものは、全部晴翔お兄ちゃんにあげるの」
引き出しの中には古い写真もあった。彼女に初めて生理が来た日、僕がこっそり撮ったものだ。
あの日の彼女は真っ赤な顔をして、自分が重い病気になったのだと思い込み、泣きながら僕のところへ来た。これからは自分を大事にしてほしい、彼女を作ってもいいけれど、自分よりきれいな人はだめだと、妙なことまで言った。
そのときの僕は何が起きたのか分からず、何度も聞き返してようやく事情を理解した。それから近くのコンビニを何軒も回って生理用品を買い、彼女と一緒にパソコンの前に座って使い方を調べた。
保健の授業をちゃんと聞いていないからだと僕が笑うと、彼女は恥ずかしさのあまり僕の腕を噛んだ。僕は痛いとは思わなかった。ただ胸の奥が、やわらかくほどけた。
その後、僕たちは本当に付き合った。大学時代、僕たちは一人は東京、一人は大阪にいて、四年間の遠距離恋愛を新幹線と夜行バスでつないだ。切符は箱いっぱいに溜まった。
十九万三千七百キロ。それはかつて、僕たちが互いに向かって走った距離だった。
あのころの柳原怜奈は、僕しか見ていなかった。どれだけ長く移動しても疲れたとは言わず、会うたびに僕の胸へ飛び込んできて、会いたくておかしくなりそうだったと言った。
僕は引き出しの奥にある硬い小箱に触れた。中には、僕たちが手作業で磨いたペアリングが入っていた。
大学を卒業した日、僕は彼女のために東京へ戻った。彼女は僕を銀座の手作り工房へ連れていき、自分の手でその指輪を僕にはめた。あのとき彼女は、誇らしく、確信に満ちた笑顔で言った。
「晴翔。この指輪をつけたら、もう一生私から逃げられないからね」
「永遠に、私を離れられないよ」
ただ、僕たちは知らなかった。最後に先に手を放したのは、僕ではなかったのだ。
佐久間蓮司が柳原ホールディングスの面接に来た日、彼の出来は正直よくなかった。学歴も普通、経歴も普通、質問への答えにも穴が多かった。怜奈もそのときは眉をひそめ、こんな人材はうちには入れないと言っていた。
僕も、その応募者のことなど気に留めていなかった。
けれどほどなくして、彼は特例で採用された。さらにその後、誰にも注目されない一社員だった彼は、怜奈のそばでいちばん可愛がられる特別助手になった。
僕が本当におかしいと気づいたのは、僕と怜奈だけのはずだったペアリングが、佐久間蓮司の指にも現れたときだった。
最初のうち、怜奈はまだ説明した。似たブランドなだけだとか、蓮司は私たちの指輪のデザインを知らなかったとか、あなたの考えすぎだとか。
けれど時間が経つにつれ、彼女は説明すら面倒がるようになった。僕の未練も、我慢も、機嫌取りも、彼女の偏愛をますます露骨にしていった。
会社の会食では、佐久間蓮司が好きな料理ばかりを注文した。彼は週に半日しか会社へ来ないのに、残りの時間は怜奈と展覧会へ行き、食事をし、温泉旅館へ泊まりに行った。
それなのに彼の仕事は、すべて怜奈から僕へ押しつけられた。
彼女が僕の前で彼の話をする回数は増えていった。最初は何気ない褒め言葉だったものが、やがて比較に変わった。
「蓮司のほうがロマンチック」
「蓮司の言葉のほうが優しい」
「蓮司はあなたみたいに、いつも仏頂面じゃない」
ある日の社内のティータイムで、怜奈が自分の黒糖タピオカミルクティーをおいしいと言った。佐久間蓮司は、自分も一口飲んでみたいと言った。
怜奈は迷わず、自分のカップを彼の前に差し出した。ストローには彼女の口紅が残っていた。
佐久間蓮司はそのストローをくわえ、たっぷり一口飲んだ。
さらに滑稽なことに、怜奈はカップを受け取ると、そのまま飲み続けた。
その瞬間、僕の心臓は誰かに強く握りつぶされたようになった。酸っぱく、痛かった。
それから佐久間蓮司の越線は、どんどん増えていった。彼は怜奈に付き添ってエステサロンへ行き、ハンドクリームを塗ってやった。怜奈が足をくじくと、僕という正式な婚約者がそばにいるのに、彼が彼女を背負って医務室へ駆け込んだ。
怜奈は僕の誕生日を一緒に過ごすと約束していたのに、佐久間蓮司が風邪を引いたからといってキャンセルした。
僕が不満を口にするたび、怜奈は面倒くさそうに言った。
「久世晴翔。あなたの心が汚れているから、何を見ても汚く見えるのよ」
「私と蓮司は、ただの清らかな友情」
「あなたの卑しい考えで、彼を勝手に疑わないで」
ただし後になるほど、その言葉には力がなくなっていった。
いちばん心が冷えたのは、六本木で開かれた業界団体の大規模なパーティーだった。主催者は同伴者を連れてくるよう求めていた。
怜奈は僕に一言も伝えず、佐久間蓮司を連れて行った。僕は後になって、何人もの人から「柳原社長とは別れたのか」と聞かれて、初めてそのことを知った。
僕が問い詰めると、彼女は僕以上に怒った。
「私は蓮司の人脈作りを手伝っただけ。会社の人材育成でもあるの」
「男のくせに、どうしてそんなに心が狭いの?」
あのとき、僕たちは長く冷戦した。本当にこのまま別れるのだろうと、僕が思い始めるほど長く。
けれど深夜、彼女から一言だけメッセージが来た。
「ねえ、夫さん。お腹が痛い」
僕が必死に作っていた冷たさは、その瞬間、あっけなく崩れた。
僕が問い詰め、彼女が怒る。僕が機嫌を取り、彼女が許す。
その恐ろしい循環が、また始まった。
僕は指輪の箱を閉じ、ゴミ箱へ投げ入れた。引き出しの奥には、古い手紙もあった。怜奈が十八歳のとき、僕への返信を一通だけ忘れたことを謝るために、自分から書いてくれた手紙だった。
あのころの彼女は、本当に僕を大切にしていた。
けれど今の彼女が大切にしているのは、佐久間蓮司だけだ。
僕は手紙を取り出し、少しずつ破ってゴミ箱へ捨てた。何十年分もの絆を空にすると、マンションは急に広くなったように感じた。僕の心も、同じように空っぽになった。
スマホはまだ震え続けていた。会社のグループチャットでは、同僚たちが佐久間蓮司の怜奈への誕生日祝い写真を次々に転送している。
「柳原社長と蓮司、やっぱりお似合いすぎる」
「彼氏にするなら蓮司みたいな人がいいよね。久世晴翔みたいに心の狭い男は無理」
「久世くんは家の力があるだけ。蓮司は全部自分の力でここまで来たんだから、比べものにならないよ」
僕は読む気をなくし、グループから退出した。そしてすぐ、弁護士へ電話をかけた。
「柳原ホールディングスに入っている久世家の投資を、すべて引き揚げてください」
電話の向こうで、弁護士が少し息をのんだ。
「久世様。本当によろしいのですか?」
僕はゴミ箱の中の紙くずを見つめ、静かに答えた。
「構いません」
「できるだけ早く」
3.奪われた最後の部屋
翌日、僕は自分の荷物を片づけるため、柳原ホールディングス本社へ向かった。
柳原ホールディングスは東京・丸の内にあり、そのビル全体が柳原家の資産だった。過去の数年間、怜奈はよく、ここも私たちの未来になるのだと言っていた。
けれど役員専用休憩室の扉を開けた瞬間、僕は佐久間蓮司がゆったりした短パン姿で、僕のデスクに足を乗せているのを見た。彼の上着はソファに投げ出され、香水、充電器、ゲーム機、菓子が部屋中に広がっていた。
そして僕の書類、写真、予備のスーツは、すべて無造作に廊下の段ボール箱へ放り込まれていた。
その休憩室は、怜奈が僕のために用意したものだった。彼女はここを、東京にある僕だけの小さな家だと言った。社内の誰もが、ここは僕だけの空間だと知っていた。誰も勝手に入ることなどなかった。
けれど今、佐久間蓮司は堂々とそこに座っている。
まるで、僕に残された最後の尊厳さえ、自分が奪ったのだと告げるように。
僕は彼と口論しなかった。ただスマホを取り出し、現場を撮影し、警察署へ電話をかけた。私物を勝手に動かされたこと、重要書類を触られたこと、場合によっては営業資料の漏洩につながること。警察に介入してもらう理由としては十分だった。
警察署の調停室に着くと、佐久間蓮司はようやく慌て始めた。僕の向かいに座り、目を赤くして、委屈そうな声を出す。
「晴翔さん。僕は怜奈さんの資料を取ってあげようとしただけです」
「警察沙汰にする必要なんてありましたか?」
僕は彼を見た。
「そこは僕の私的な空間だ」
「僕が君に入っていいと言ったか?」
「人の許可なく他人の部屋に入り、物を動かす。それは盗みと何が違う?」
佐久間蓮司の表情がわずかに固まった。彼は反論せず、突然うつむいて、ぽろぽろと涙を落とし始めた。
その瞬間、僕はまずいと気づいた。
次の瞬間、調停室の扉が開いた。柳原怜奈が、恐ろしいほど暗い顔で立っていた。佐久間蓮司は彼女を見るなり、その胸へ飛び込んだ。
「怜奈さん……」
「僕は本当に、あなたの資料を取ってあげようとしただけなんです」
「でも晴翔さんは僕のことが嫌いみたいで、どうしても僕を泥棒扱いしたくて」
「あなたがくれた物だけで、何十平米のマンションもいっぱいになりそうなのに。僕がどうして、彼のあんなみすぼらしい物を欲しがるんですか」
怜奈はすぐに痛ましそうに彼を抱きしめた。彼の背中を軽く叩きながら、警察官へ説明する。
「すみません。誤解です。私たちは全員知り合いですので、ご迷惑をおかけしました」
それから彼女は僕に向き直った。その目には、罪悪感など一片もなく、嫌悪だけがあった。
「久世晴翔。あなた、どうしてこんな人になったの?」
「毎日嫉妬深い男みたいに、自分の立場を使って無実の部下をいじめて、そんなに満足?」
「本当に失望したわ」
責める言葉が頭から降ってくる。僕が口を開く前に、佐久間蓮司がまたすすり泣いた。
「怜奈さん、晴翔さんを責めないでください」
「全部僕が悪いんです。僕が不注意だったから」
「数日拘留されても、人に笑われても構いません」
「どうか僕のせいで、晴翔さんと喧嘩しないでください」
怜奈が彼を見る目は、ますます痛ましげになった。
「蓮司。あなたは優しすぎるから、いつも人にいじめられるのよ」
彼女は顔を上げ、冷たく僕に命じた。
「久世晴翔。蓮司に謝りなさい」
僕は自分の耳を疑った。
「柳原怜奈。彼は許可なく僕の私的空間に入り、僕の物を勝手に触った」
「それでも僕に、彼へ謝れと言うのか?」
怜奈は冷笑した。
「あなたの私的空間?」
「その休憩室は柳原ホールディングスのものよ。会社全体が私の名義なの」
「あなたには、一時的な使用権しかない」
彼女は僕を見据え、一語一語はっきり言った。
「その態度を続けるなら、虚偽通報としてあなたの責任を問うことも考えるわ」
怜奈の言葉は鋭い針のように、僕の胸を深く刺した。
この数年、僕は柳原ホールディングスを支えるために力を尽くした。彼女のために投資を集め、株主を安定させ、面倒な後始末をいくつも片づけた。
ずっと、僕たち共通の未来のために努力しているのだと思っていた。
それが最後に返ってきた言葉は、これだった。
あなたには、一時的な使用権しかない。
怜奈は佐久間蓮司を連れて去る前、もう一度僕を振り返った。
「親切に教えてあげる。今、いいねは九百九十まで来ているわ」
「まだ頭を下げないなら、本当に蓮司と婚姻届を出しに行くから」
僕は彼女の後ろに立つ佐久間蓮司を見た。彼の目には、隠しきれない軽蔑が浮かんでいた。
その瞬間、僕は一つのことを理解した。
佐久間蓮司の手口は、実はずっと稚拙だった。柳原怜奈ほど賢い人間が、見抜けないはずがない。
彼女はただ、見ないことを選んでいただけだ。
彼女の心の天秤は、ずっと前から彼のほうへ傾いていた。
このすべては、蓮司が彼女を奪ったのではないのかもしれない。彼女は最初から、邪魔になった婚約者の僕を捨てたかった。ただ、その理由が必要だっただけだ。
そこまで分かった瞬間、柳原怜奈への最後の愛情も、完全に死んだ。
僕が東京を離れるまでの数日、面白がる同僚たちが次々に個別メッセージを送ってきた。
「もう九百九十四いいねだよ。早く謝らないと、婚約者を本当に取られるぞ」
「おお、九百九十七。どうやら一生独身コースだな」
「今回はずいぶん粘ったね。蓮司に勝てないって分かって、逃げるつもり?」
僕は一つずつ削除し、ブロックした。
いいねが九百九十九になったとき、怜奈の顔色はひどく悪くなっていた。社内で最後の一つを押す勇気のある者は、誰もいなかった。
彼女はきっと、僕が崩れるのを待っていた。僕が自分から会いに行き、跪いて、そこまでしないでくれと頼むのを待っていた。
けれど彼女が待っていたものは、別の知らせだった。
その日の午後、誰かが慌てて彼女のオフィスへ飛び込んだ。
「柳原社長!」
「千個目のいいねが達成されました!」
4.自分の手で終わらせた人
その言葉を聞いた瞬間、柳原怜奈の顔が沈んだ。彼女は勢いよく顔を上げ、ぞっとするほど冷たい声で尋ねた。
「誰が千個目を押したの?」
報告に来た社員は怯えながら説明した。
「私ではありません」
「さっき久世さんが退職手続きで会社に来たとき、私のスマホで押したんです」
オフィスは死んだように静まり返った。
怜奈は、その言葉の意味が理解できないようだった。
「退職?」
「誰が彼の退職を許したの?」
社員はうつむき、小さな声で答えた。
「久世さんは会社の株主の一人です。ご自身で進退を決められます」
「それは、社長ご自身が決めた規定です」
怜奈の顔はさらに白くなった。
「では、彼の持ち分は?」
「久世さんは数日前に、すでに投資引き揚げの手続きを始めています」
「投資引き揚げ? そんなはずないわ」
怜奈は勢いよく立ち上がった。
「そんなこと、あり得ない」
彼女の胸に、ようやく不安が湧き上がった。
けれど佐久間蓮司は彼女の異変に気づかず、ソファに座ったまま軽い調子で煽った。
「怜奈。久世晴翔は手段を使って、君に頭を下げさせようとしているだけだよ」
「押しては引く、いつもの作戦だ」
「絶対にまた騙されちゃだめだよ」
怜奈は答えなかった。ただスマホの画面を凝視した。僕にメッセージを送ろうとして、そこでようやく、自分がとっくに僕をブロックしていることに気づいた。
佐久間蓮司はそれを見ると、軽くため息をつき、気遣うふりをして口を開いた。
「僕は前から分かっていたよ。久世晴翔は、君にはふさわしくない」
「神経質で、疑い深くて、君が友人と普通に付き合うだけでも口を出す」
「今は退職と投資引き揚げで君に謝らせようとしている。そんな人が、本当に君を愛しているわけがない」
怜奈の指が止まった。
けれど彼女の脳裏には、自分の意思とは関係なく、いくつもの古い場面がよみがえった。
冬、僕は彼女のかじかんだ手を、自分のコートのポケットに入れた。雨の日、傘をすべて彼女のほうへ傾け、自分の肩は半分濡れた。彼女が生理痛で顔を白くしたとき、僕は東京を半分走り回って、彼女の好きな黒糖ジンジャーミルクティーを買いに行った。
彼女が当然のように受け取ってきた優しさが、今になって細い針のように胸へ刺さった。
怜奈は突然、苛立ったように佐久間蓮司の言葉を遮った。
「蓮司。そんなこと言わないで」
佐久間蓮司は一瞬固まり、すぐに傷ついた顔をした。
「怜奈。僕は君が心配なんだ」
「見てよ。こんな暑い日に君がここで苦しんでいるのに、彼はメッセージ一つ返さない」
「僕なら、絶対に君にこんな思いはさせない」
「ただ君のことを思うと、悔しいだけなんだ」
怜奈の心はますます乱れていった。彼女は僕をブロックリストから外し、そのまま電話をかけた。
けれど受話口から聞こえてきたのは、冷たい自動音声だけだった。
「おかけになった電話は、現在つながりません」
怜奈の心が、急に底へ落ちた。何度かけ直しても結果は同じだった。悪い予感が込み上げ、彼女はすぐにLINEを開き、友だち申請を送り直した。
五秒後、拒否の通知が届いた。
怜奈は画面を見つめ、顔から血の気を失っていった。
「彼が……私を拒否したの?」
佐久間蓮司が近づき、わざとらしく驚いた。
「まさか」
「久世晴翔って、そんなに薄情だったんだね」
「怜奈、悲しまないで。そんな人のために傷つく価値なんてないよ」
「終わったなら、終わったでいいじゃないか」
怜奈は突然、彼を強く突き飛ばした。
「黙って!」
佐久間蓮司はその場に凍りついた。怜奈は彼の表情など気にする余裕もなく、僕の父へ電話をかけた。
電話がつながると、父の声には疲れが滲んでいた。
「怜奈さん。何か用かな」
怜奈はスマホを握りしめ、震える声で言った。
「おじさま。晴翔はどこかへ出かけているんですか?」
「ここ数日会社へ来ていないんです。何か用事で遅れているだけですよね?」
電話の向こうが数秒沈黙した。父はため息をついた。
「怜奈さん。晴翔から聞いていないのか」
「彼は京都へ行ったよ」
「今朝の新幹線だ。もう着いているはずだ」
怜奈は雷に打たれたように固まり、スマホを落としそうになった。
「京都?」
「京都へ何をしに?」
父の声は、静かでよそよそしかった。
「白石家との縁談を受けた」
怜奈の呼吸が乱れた。
「縁談?」
「では、私と彼の婚約は?」
「彼はどうして私に隠して、別の人と婚約できるんですか?」
父は少し黙り、やがて淡々と言った。
「怜奈さん。若い二人のことに、私たち年長者が口を出すべきではない」
「ただ、晴翔は今回は本気だ」
「彼の決断を尊重してほしい」
電話が切れると、怜奈はその場に立ち尽くした。世界全体が回っているようだった。耳鳴りがして、頭の中には僕が最後に彼女を見たときの目だけが、何度も浮かんだ。
失望、疲労、そして静けさ。
怒りも、引き留める意思もなかった。
「怜奈、大丈夫?」
佐久間蓮司が手を伸ばして支えようとした。怜奈はその手を激しく振り払った。
「触らないで!」
彼女は目を赤くして叫んだ。
「触らないで! 全部あなたのせいよ!」
「あなたさえいなければ、晴翔がいなくなるわけないじゃない!」
佐久間蓮司の顔色が変わった。けれど彼はすぐに、また委屈そうな顔を作った。
「怜奈、どうしてそんなことを言うの?」
「久世晴翔が心の狭い男で、君と友人が普通に付き合うことも受け入れられなかっただけだろ」
「君を信じられない男との関係に、何の意味があるんだよ」
怜奈は言葉を失った。
彼女は会食の日、自分が佐久間蓮司から渡されたナスの天ぷらを迷わず食べたとき、僕の目に一瞬だけ浮かんだ暗さを思い出した。喧嘩の後、いつも僕が先に折れていたことも思い出した。
そして僕が、かつてどれほど慎重に頼んだかも思い出した。
「怜奈。佐久間蓮司とは、少し距離を置いてくれないか」
あのとき彼女は、ただ苛立っただけだった。
彼女の答えは、冷たく不機嫌なものだった。
「久世晴翔。あなたって本当に面倒くさい」
後悔が氷水のように、頭から彼女へ降り注いだ。
怜奈はオフィスビルの外の路上にしゃがみ込み、膝を抱えてとうとう声を上げて泣いた。
けれど今回は、もう誰も彼女のそばにしゃがみ込み、優しく頭を撫でてはくれなかった。
誰も、こう言ってはくれなかった。
「泣かないで。僕はここにいるよ」
5.京都の新しい婚約
京都へ着いてから、僕が先に始めたのは婚約ではなく仕事だった。
久世家は関西にも以前から投資基盤を持っていた。ただ、僕はこの数年ずっと柳原ホールディングスに全力を注いでいたため、本格的に関わったことはなかった。今はチームを組み直し、戦略目標を調整し、毎日忙しすぎて過去を思い出す暇もなかった。
新しい婚約者の名前は、白石夏帆。
白石家は京都の古い名門で、家の基盤は柳原家よりも安定していた。実はずっと以前から、白石家は僕の両親に縁談の意思を伝えていたらしい。ただそのころの僕は柳原怜奈しか見えておらず、ほかの誰かを受け入れる余地などなかった。
白石夏帆と初めて会ったのは、鴨川近くの料亭だった。彼女は生成り色のニットを着て、髪を淡い青のリボンでゆるく束ねていた。名門令嬢らしい傲慢さも、無理に機嫌を取ろうとするぎこちなさもない。穏やかで、大らかな人だった。
彼女と話していると、とても楽だった。
あまりにも長いあいだ、僕と怜奈の間にはいつも張りつめた空気があった。だからこうして穏やかに向き合って食事ができることに、僕はむしろ少し戸惑った。
食後、僕は正直に彼女へ話した。
「白石さん。僕は失敗した恋から、まだ抜け出したばかりです」
「自分の気持ちを整理する時間が少し必要です」
白石夏帆は失望もしなければ、問い詰めもしなかった。ただ静かにうなずいた。
「分かりました」
「婚約は家同士のことでも、結婚は二人でするものです」
「久世さんは急いで私に応えようとしなくて大丈夫です。心が少しずつ開くまで、私は待てますから」
僕は彼女を見て、初めて思った。境界を尊重されることは、こんなに楽なことだったのか。
以前の柳原ホールディングスの同僚が、時々電話で怜奈の近況を教えてくれた。彼らによると、怜奈はその後、結局佐久間蓮司と付き合ったらしい。
けれど二人の関係はうまくいっていなかった。佐久間蓮司はもともと女癖が悪く、正式に付き合い始めて間もなく、ほかの女性に手を出し始めた。相手は新入りのインターンだったり、取引先の女性社員だったりした。
怜奈はそのことで何度も彼と喧嘩し、柳原夫人を巻き込むほどの騒ぎになったらしい。
僕はそれを聞いて、ただ笑った。
心には、波一つ立たなかった。
本当に一人を手放すとは、恨むことでも、苦しむ姿を見たいと思うことでもない。ただその名前を聞いても、胸がもう痛まなくなることなのだ。
ある休日、白石夏帆が京都市内に新しくできた洋食店へ行こうと誘ってきた。僕は少し迷ったが、結局うなずいた。
すぐに彼女から、スタンプがいくつも送られてきた。
「反故にしないでくださいね」
「約束を破った人は、子犬です」
僕は画面を見て、思わず笑った。
店内は洗練された雰囲気で、暖かな照明がテーブルに落ち、白石夏帆の瞳をいっそう明るく見せていた。その日の彼女は淡い青のワンピースを着て、髪を赤い紐でゆるく結んでいた。いつもより、少し柔らかな印象だった。
彼女は看板メニューのハンバーグを一切れ、僕の皿に置いた。
「久世さん、これを食べてみてください」
「この店でいちばん人気らしいです」
僕がお礼を言おうとしたとき、視界の端に、入口から入ってくる見慣れた姿が映った。
柳原怜奈だった。
数か月ぶりに見る彼女は、ずいぶん痩せていた。顔色は青白く、目の下にははっきりと隈がある。かつて明るく鋭かった目は、今では灰色の膜に覆われたようだった。
彼女も僕を見つけた。
次の瞬間、まっすぐこちらのテーブルへ歩いてきた。声は震えていた。
「晴翔」
「やっと見つけた」
白石夏帆は不思議そうに僕を見て、それから彼女を見た。
僕はカトラリーを置き、静かに言った。
「久しぶり」
怜奈の目から、突然涙が落ちた。
「少しだけ、二人で話せない?」
「五分だけでいいの」
白石夏帆は察したように立ち上がった。
「どうぞ」
「私はお手洗いに行ってきます」
怜奈は彼女の席に座り、ナプキンを強く握りしめた。涙がテーブルに落ち、声は詰まっていた。
「晴翔。私が悪かった」
「本当に、悪かったって分かったの」
「佐久間蓮司は……彼は、私に本気じゃなかった」
「ほかの女と一緒にいて、私のことをしつこいって言ったの」
僕は静かに彼女を見た。心には、少しの揺れもなかった。
「それで?」
「それが僕に何の関係がある?」
怜奈の顔色が白くなった。彼女は手を伸ばし、僕の手をつかんだ。指先は冷たかった。
「私たち、やり直せない?」
「後悔しているの、晴翔」
「この数か月、毎日あなたのことを考えていた」
僕はそっと手を引き抜いた。
「柳原怜奈。僕たちはもう終わっている」
彼女は激しく首を振った。涙はさらにこぼれた。
「違う」
「あなたはまだ私を好きでしょう?」
「ただ怒っているだけでしょう?」
僕は彼女を見て、ふと笑った。
「悪いけど」
「僕はもう怒っていない」
彼女の目に、一瞬だけ希望が灯った。
次の瞬間、僕は続きを告げた。
「もう、どうでもいいからだ」
怜奈の顔が一気に青ざめた。
そのとき、白石夏帆が戻ってきた。彼女は温かいミルクティーを二杯持っていて、一杯を僕に渡し、もう一杯を自分の前に置いた。
「どうぞ」
彼女は怜奈を見て、穏やかな声で尋ねた。
「こちらの方も飲まれますか?」
怜奈は彼女を睨みつけた。突然立ち上がり、鋭い声を出す。
「あなたは誰?」
白石夏帆は少し驚いたが、すぐに微笑んだ。
「初めまして」
「久世晴翔さんの婚約者です」
彼女は少し間を置き、もう一言付け加えた。
「私たちは、近いうちに結婚します」
僕は驚いて彼女を見た。彼女はこっそり僕にウインクをした。
怜奈は雷に打たれたように、よろめいて二歩下がった。涙が止まらなかった。
「そう……そうだったのね……」
「久世晴翔、あなたって本当に残酷」
そう言うと、彼女は店を飛び出していった。
白石夏帆は席に戻り、少し舌を出した。
「すみません。勝手なことを言いました」
僕は首を横に振り、思わず笑った。
「どちらにしても、ありがとう」
彼女は頬杖をつき、目をきらきらさせて言った。
「どういたしまして」
「でも、私が言ったことは、完全な嘘ではありませんよ」
「あなたが望んでくれるなら、私はいつでも準備できています」
窓の外では、京都の夕日が店内へ差し込み、彼女のやわらかな横顔を照らしていた。
そのとき僕は、彼女の笑顔が記憶の中の誰よりも温かいことに、ふと気づいた。
6.遅すぎた媚び
僕は、柳原怜奈がこれで諦めると思っていた。
けれど翌日、彼女は京都の僕の支社の前まで来た。
彼女はビルの外に立っていた。顔色は青白く、全身が一回り小さくなったように痩せている。かつての完璧なメイクは消え、赤く腫れた疲れきった目だけが残っていた。
その手には、保温容器が握られていた。僕を見ると、彼女はすぐに取り繕うような笑みを浮かべた。
「晴翔」
「あなたが昔好きだったスペアリブのスープを作ってきたの」
声はかすれていて、長く泣いた後のようだった。
僕は眉をひそめ、受け取らなかった。
「そんなことをしなくていい」
「僕たちはもう終わっている」
彼女の笑みが顔に張りついたまま固まった。指先がわずかに震えたが、それでも保温容器を差し出してくる。
「一晩かけて煮込んだの」
「少しだけ食べてくれない?」
「昔、あなたはいつも――」
「柳原怜奈」
僕は彼女を遮った。
「昔の話は、もうしないでくれ」
「僕たちは終わったんだ」
彼女の目が一瞬で赤くなった。唇は震え、何かを言おうとして、それでも無理やり飲み込んだ。最後にうつむき、消えそうな声で言った。
「分かった」
「じゃあ、明日また来るね」
それから十数日、彼女は本当に毎日やって来た。スープを持ってくる日もあれば、弁当を持ってくる日もあった。何も持たず、会社の向かい側に立って、僕の出入りを遠くから見ているだけの日もあった。
その目は卑屈で、執着に満ちていた。以前の高慢な柳原怜奈とは、まるで別人だった。
社内では噂が広がり始めた。彼女に同情する者もいれば、自業自得だと笑う者もいた。
白石夏帆は多くを聞かなかった。ただ時々、僕に静かに言った。
「会いたくないなら、警備に任せてもいいと思います」
僕はうなずいた。
「自分で片づける」
そしてある夕方、僕は鴨川沿いの並木道で、ようやく怜奈を呼び止めた。彼女はまだ弁当箱を提げていて、僕を見るなり目を輝かせた。
「晴翔。会ってくれるの?」
僕は彼女を見た。声は冷たかった。
「君は結局、何がしたいんだ?」
怜奈は少し身をすくめたが、それでも勇気を出して顔を上げた。
「本当に悪かったって分かったの」
「もう一度だけ、チャンスをくれない?」
「無理だ」
僕は迷わず答えた。
彼女の目から、涙が一気に溢れた。
「じゃあ、どうしたら許してくれるの?」
「私、変わるから」
「何もいらない」
「ただ、あなたのそばにいさせてほしいの」
僕は彼女を見た。心にあるのは、疲労だけだった。
「柳原怜奈。諦めてくれ」
「僕たちは、とっくに戻れないところまで来ている」
彼女の体が揺れた。すべての力を抜かれたようだった。やがて彼女はゆっくりしゃがみ込み、膝を抱えて、声もなく泣いた。
昔の僕なら、きっと心が揺れていた。しゃがみ込み、背中を撫で、泣かないでと言っていた。
けれど今回は、彼女を支えなかった。
ただ背を向けて歩き出した。
鴨川から吹いてくる風は、初夏の湿り気を含んでいた。僕はゆっくり歩いたが、一度も振り返らなかった。
7.結婚式の最後列にいた影
それから怜奈は、二度と僕の前に現れなかった。
後になって、僕は自分の投資引き揚げの後、柳原家が急速に傾いたと聞いた。柳原ホールディングスにはもともと多くの問題があった。ただ、これまでは久世家の資金と人脈によって支えられていただけだった。
支柱が抜けると、取引先は次々に様子見へ回り、株主も動揺し始めた。
怜奈は僕が去ってから、ほとんど真面目に会社を管理しなくなった。毎日のように酒を飲み、ぼんやりと過ごしていたという。佐久間蓮司はとっくに彼女を捨て、別の会社の若い女性役員に乗り換えていた。
柳原家では、その件で家庭内も大荒れになった。彼女の父は怒りのあまり倒れ、母は毎日泣いていた。
怜奈自身は、後にバーで働くようになり、正気とも酔いともつかない日々を送っていたらしい。
友人がため息交じりに教えてくれた。
「彼女、一度酔いつぶれて泣きながら言っていたよ。もしあのころ晴翔にあんなことをしなかったら、今もあなたの隣に立っているのは私だったのかなって」
僕は答えなかった。
その問いに、もう意味はなかったからだ。
時間はあっという間に過ぎた。
僕は白石夏帆と結婚した。
式は京都の小さな教会で行われた。その日はよく晴れていて、ステンドグラス越しの光が長椅子に落ち、やわらかな色を敷いていた。
客席は満席だった。
白石夏帆は白いウェディングドレスを着て、スズランのブーケを持っていた。その笑顔は、春のように明るかった。
彼女が一歩ずつ僕へ近づいてくるのを見つめながら、僕の胸は静かで、確かな幸福に満たされていた。
指輪を交換する瞬間、視界の端に、教会の最後列の隅に立つ見覚えのある影が映った。
柳原怜奈だった。
彼女はほとんど骨のように痩せ、顔色は白く、色あせた古いワンピースを着ていた。そこに立ち尽くし、空洞のような目で僕たちを見つめていた。
僕たちの視線は一瞬だけ交わった。
彼女は火に触れたように慌てて顔を伏せ、すぐに背を向けて教会を出ていった。
僕はわずかに動きを止めた。
白石夏帆が、そっと僕の手を握った。
「どうしました?」
僕は我に返り、彼女に笑いかけた。
「何でもない」
教会の扉が静かに閉まった。
柳原怜奈の姿は、陽射しの中へ完全に消えた。
一年後のある夕方、僕は書斎で書類を整理していた。突然スマホが震えた。
東京の古い友人からのメッセージだった。
「晴翔、聞いたか? 柳原怜奈が死んだ」
僕は画面を見つめ、キーボードの上に指を浮かせたまま、しばらく返事ができなかった。
すぐに、相手から次のメッセージが届いた。
「彼女、佐久間蓮司の会社まで行ったんだ。新宿のオフィスビル十九階で、彼を巻き込むように飛び降りた」
「二人とも即死だった」
心臓が大きく縮んだ。
脳裏に、怜奈が最後に僕の結婚式へ現れた姿が浮かんだ。痩せて、白くて、幽霊のようだった。
あのときの彼女の目には、すでに光がなかった。
それが最後の顔になるなど、僕は思ってもみなかった。
僕はゆっくり文字を打った。
「いつのことだ?」
友人の返事は早かった。
「昨日」
「ニュースにもなっている。でも詳しい理由は書かれていない」
「彼女、ずっと佐久間蓮司につきまとっていたらしい。でも彼は逃げ回っていた」
「昨日、彼女が直接オフィスに押しかけて、数言言い争った後に起きたみたいだ」
僕はスマホを置き、窓辺へ歩いた。京都の夕日が空の半分を赤く染め、遠くの街並みは少しずつ暮色に沈んでいく。
複雑な感情が胸に広がった。
悲しみとも、解放感とも言えなかった。
白石夏帆が扉を開けて入ってきた。手には温かいお茶を持っている。彼女は僕の様子に気づき、静かに尋ねた。
「どうしたんですか?」
僕はスマホを彼女に渡した。
彼女はメッセージを読み、しばらく黙ってから、僕の手を握った。
「大丈夫ですか?」
僕はうなずき、すぐに首を横に振った。
「分からない」
「もうとっくに手放したと思っていた」
「でも、この知らせを聞くと、やっぱり胸が苦しい」
白石夏帆は僕の肩に寄り添い、それ以上何も聞かなかった。
僕たちはそのまま、夜が降りるまで静かに立っていた。
8.旧愛は旧い物語になる
数日後、僕は一人で東京郊外の霊園へ向かった。
柳原怜奈の墓は、静かな一角にあった。墓石は簡素で、彼女の名前と生没年だけが刻まれていた。
写真もない。
弔いの言葉もない。
かつてあれほど明るく、あれほど誇り高かった彼女の一生が、最後には冷たい文字の数行だけで片づけられているようだった。
僕は白菊の束を供え、墓前に立ち尽くした。
記憶の中の柳原怜奈は、まだ高校生の姿をしていた。赤いワンピースを着て、校門の前で僕に手を振っている。
あのころの彼女は明るく笑い、その目には僕だけが映っていた。
「来てくれたのね」
背後から、かすれた声が聞こえた。
振り返ると、少し離れた場所に柳原夫人が立っていた。彼女も花束を持っている。
ずいぶん老けていた。髪はほとんど白く、目は落ちくぼみ、全身が歳月に押し曲げられたようだった。
「おばさま」
僕は何を言えばいいのか分からなかった。
彼女は苦笑した。
「怜奈は最後のころ、よくあなたの話をしていたわ」
「もしもう一度やり直せるなら、絶対にあんなふうにはしないって言っていた」
僕は黙っていた。喉の奥が少し詰まった。
柳原夫人は墓前に花を置き、ため息のように軽い声で言った。
「あの子は壊れてしまったの」
「本当は、あなたが東京を離れた日から、もう普通ではなかったのよ」
彼女の声が震えた。
「それなのに母親の私は、気づけなかった」
「あの子の心の中に、あんなに深い愛と、あんなに深い憎しみが隠れていたことに」
僕は彼女をどう慰めればいいのか分からなかった。最後に、ただ低く言った。
「すみません」
柳原夫人は首を横に振った。
「あなたのせいではないわ」
「怜奈が、自分で抜け出せなかっただけ」
そう言って、彼女は背を向けた。曲がった背中は、風に押し流される枯葉のように遠ざかっていった。
京都へ戻ると、白石夏帆は台所で夕食の準備をしていた。僕が帰ったことに気づくと、手にしていたものを置き、こちらへ来て抱きしめてくれた。
「会ってきたんですね」
僕は小さくうなずき、彼女の肩に額を埋めた。彼女の体には淡い香りがあり、不思議と心が落ち着いた。
彼女は静かに言った。
「晴翔さん」
「過ぎたことは、過ぎたことにしましょう」
「あなたには私がいます」
「そして、私たちの未来があります」
僕は顔を上げ、彼女の明るい目を見て、ゆっくりうなずいた。
そうだ。
人生は続いていく。
柳原怜奈の選択は、彼女自身のものだった。
そして僕は、もう別の道を選んでいる。
その夜、僕は夢を見た。
夢の中で、柳原怜奈は高校時代の制服を着て、陽射しの下で僕に笑いかけていた。彼女はずっと昔のように、僕の名前を呼んだ。
「晴翔。幸せになってね」
そう言うと、彼女は背を向けて走り出し、光の中へ少しずつ消えていった。
目が覚めたとき、枕の横は濡れていた。
白石夏帆はまだ眠っていて、呼吸は穏やかだった。僕はそっと彼女の額に口づけ、起き上がって窓辺へ向かった。
空の端には、もう朝の白い光が滲んでいた。
新しい一日が始まる。
柳原怜奈の死は、湖に落ちた石のように一度だけ波紋を広げ、やがて静かに消えていった。
生活は前へ進む。
そして彼女の物語は、あの絶望の瞬間に永遠に閉じ込められた。




