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ダークヒーロー、ダークヒロイン(こんとらくと・きりんぐ)

作者: 実茂 譲

 無味無臭、無色透明、検死の世界的権威が見ても自然死とごまかせる毒があるという手紙を、殺し屋は同業者サキ・ヴィンセントから受け取った。

 ――自分の仕事で使うのはもちろん、瓶詰にして同業者に高く売りつけることもできる。これを放っておくのは馬鹿のすることだ。

「馬鹿のすることか」

 サキの儲け話に乗ると、だいたいがくたびれ儲けで馬鹿を見るのだが、なぜか人を惹きつけるところがあった。

 殺し屋はギアをバックにして、鉄道駅前の食堂から離れる道へと針路を変えると、涙色のクーペは軽い駆動音をボンネットから鳴らして、舗装道路を走っていった。

 何時間も走る。

 草原は退屈だ。

 起伏はゆるやか。

 ときどき数枚の畑や石造りの家、古い錆びたトラックが見えるくらいで、他には何もない。

 遠くの高台では蒔かれた小麦を白い雲が優しくなでている。

 人などほとんどいない地域だが、それでも道はアスファルトで舗装されている。

 このあたりを領有する国は使っても使いきれないお金が金庫に入りきらず、困っているのだろう。

「じゃあ、ぼくにください、って言いに行きたいけど、ここの大臣、三回殺してるからなぁ。行ったら、絶対つかまるよなぁ」

 ひとり目は教育大臣。

 鹿の頭や熊の毛皮と一緒に高価な猟銃が壁にかかっていたので、いじめられて自殺した少年の遺書をくしゃくしゃにして、銃身に無理やり詰め込み、樹脂液を流し込んだ。

 ふたり目は陸軍大臣。

 執務室に忍び込んで、大臣のスクール水着姿が第一面に載った新聞と一緒に、『ご自由にお使いください』というメモを添えて、大口径リヴォルヴァーを置いていった。

 三人目は大蔵大臣。

 これが一番楽だった。株式電信機に細工して、全銘柄大暴落の嘘の情報を吐き出させたら、勝手に心臓が止まった。

 事故死や自殺に見せかけたのだが、仲介役がつまらないことで捕まり、警察に全部ペラペラしゃべったせいで、全てはひとりの殺し屋の仕業と知れた。

 ただ、仲介役は殺し屋について、ショートヘアの少女、または長髪の少年に見えることくらいしか知らなかった。

 だから、学校の制服を着てしまえば、子どもに紛れることができた。

 ある上流階級向けの女子学校の制服を着て、警察がゴミみたいな手がかりを握って、デパートでマネキンを相手にとんまな間違いをしでかすのを笑いながら見ていたが、自然と煙草に手がいって、マッチをすってしまった。それを警察にもろに見られた。

 それから、カーチェイス二回、スタントジャンプ一回を含むすったもんだがあり、身を隠す必要ができたから、サキの話に乗ったわけだ。

 しばらく走っていると、ゆるやかな起伏がだんだん高さを増した。斜面が殺し屋の走る道路へと挟み込むように近づいてきた。空がだんだん狭まっていき、気づいたころには涙色のクーペは渓谷に入っていた。

 彫刻刀でデタラメに刻んだような荒々しい斜面が左右から迫り、舗装道路は平らな谷底を蛇行していた。草原では道はまっすぐで眠気を誘ったが、いまは緩やかなカーブに最低限の注意力を割いていたので、多少の眠気が飛んだ。

 道の先で空と雲が赤く燃え、紫に変じ、太陽は返しきれない借金から隠れるみたいに岩の後ろへと沈んでいった。

 夜になると、殺し屋は車を道の脇の、小さな空き地に入れた。緑色のガス缶にグリルをつけたコンロに火をつけると、その明かりを頼りに、前の背もたれを倒して、後部座席に置いておいたオリーブグリーンの空挺部隊用バッグを引きずり出した。なかで缶がぶつかる音がガチガチ鳴った。

 殺し屋はバッグからパンを引きずり出して、人を刺したことのない清らかなナイフでそれを二枚切った。

 さらに卵をひとつとフライパン、それにラードの瓶を取り出した。

 フライパンをコンロに乗せ、ラードをひとすくい放り込んだ。ラードは溶けて広がる自身の脂の上を滑り、小さなカスが残った。殺し屋はそこに卵を落として、たっぷりのラードでパチパチと揚げ焼きっぽくなったところで、目玉焼きをパンの一枚にのせた。そして、フライパンを傾けて、熱い脂のプールをつくると、そこに小さなラードのカスが転がって、ディープフライになる。そうやって辛抱すると、ラードのカスがきつね色に揚がるので、それをもう一枚のパンにのせ、残った脂をそのパンで念入りに拭ってから、二枚のパンに塩コショウをふった。

 殺し屋は深呼吸して二枚のパンと向き合った。

「じゃ、まず目玉焼きから」

 ぱくり。

「んまい!」

 卵は焼けすぎだが、殺し屋は構わなかった。

「グルメなんて、ろくな連中じゃないね。卵は必ず半熟にしろとか。馬鹿言ってる。いっぺん死んだほうがいい。まずはお腹にあったかいものが入ることを感謝すべきだ。それにしても、大自然のなかで食べる目玉焼きパンがおいしいのは、これが世界で最後の目玉焼きパンだ、という暗示に説得力が出るからだね。世界じゅうが目玉焼きパンを探しているなか、ぼくが最後の一枚を食べる。この想像の背徳感がたまらない」

 もちろん、それはラードをたっぷり拭き取って、さらにチリチリに揚がったカスまでのっている、まさにラードパンと呼んでも差し支えない、パン二号についても同じだ。

 なんでも入る便利な空挺部隊用バッグからベーコン・アンド・チキンの缶を取り出して、人を刺したことのない清らかな缶切りで缶を開け、ガス・バーナーの上に置いた。

「あちゃあ、クリーミー・タイプだ。チリ・タイプがよかったんだけどなあ」

 大きな缶のなかでシチューに近いスープがぐつぐつ煮立った。

 耐熱手袋で缶をつかんで、ブリキ皿にスープを開けた。

「んまい! グルメなんて、ホントどうしようもないね。あったかい、あったかい。――あ、流れ星」

 流れ星は新婚直後の一年間みたいに、あっという間に消えてしまった。

「あんな短い時間で三回お願いなんかできるわけないよなあ。あ、だから、これは願いなんて叶うわけないだろバーカってことか。人間、願いはささやか、手元のものから手堅く叶えていくのが賢い生き方だ」

 そんなわけでいつの間にか空になっていたスープ皿を拭うためにさらにもう一枚のパンを切った。



 仕組みの分からない力で、巨大で透明な立方体が浮いていた。

 アスファルトが尽きたところで車を停めた殺し屋はこの壮大な図形を見上げた。

 高さは百五十メートルくらい。その表面はガラスでできていたので、中身は見えた。デザインと緑樹。シルク。濾過された水。エア・カー。画一的な思想。そして、住人たちの衣装が、焦点の外れただまし絵みたいに色彩を飛び散らせている。

 いったいどうやって、このなかに入ったらいいのかと思い、立方体の下の、ガラスを通過した日光の迷路模様のなかを走りまわると、危うく透明なガラスの柱に衝突するところだった。

 よく見れば、それはガラスのボタンもついていて、エレベーターのようになっている。

 車ごと入って、ボタンを押すと、ガラスの扉が閉まり、ガラスのワイヤーがリフトを引き上げる。

 リフトが立方体のなかに入ると、蜂の巣構造の集合住宅や大通り、音楽を鳴らす不思議な球体が上からあらわれては下へと消えていく。パジャマのようなゆったりとした服を着た人びとが、空中回廊や芝生が広がる球戯場で、抽象思考を通貨にしているみたいに熱心に言葉を交わしていた。

 リフトが静止した。ドアが開き、涙色のクーペはひとりでに前に滑っていった。

 そこは大きなホールだった。左右には果樹園があり、〈歓迎局〉と成型されたプラスチックが宙に浮かんでいた。白くて流線形の端末らしいもののそばに、パジャマのようなものを着た男がいた。

「〈完璧国〉へようこそ。歓迎します」

「〈完璧国〉?」

「はい」

 その後、パジャマの歓迎係は殺し屋の思考の容器に液体のように隅々まで認識を行き渡らせるような完璧な案内をした。

「つまり、食べ物はタダ。医療はタダ。電気はタダ。乗り物もタダ。職業も好きなものを選んでいい。好きな時間だけ働けばいいし、何なら働かなくてもいい。そういうこと?」

「はい」

「なんていうか、……すごい国に来ちゃったな。だから、毒物も完璧なのか」

「いま、何か?」

「ううん。こっちの話。ここに友人が先に来ているはずなんだ。サキ・ヴィンセントって人なんだけど」

 歓迎係は滑らかな曲線のセラミック製コンピューターを操って、サキの居場所を教えてくれた。

「その方でしたら、Kー23区でグミを扱っています」

「グミ? おやつのグミ?」

 歓迎係は知らないことを教える優越感で顔をまろやかにして言った。

「はい。グミです。〈完璧国〉では完璧なグミを開発しました。おいしくて、栄養満点でお腹いっぱいになって太らない」

 卵型の自動運転エア・カーに乗せられて、ついた先は並木道だった。根のはり方から葉の一枚一枚まで完璧に形をそろえた広葉樹が一定間隔で並んでいて、緑の影が落ちるところにサキが働いているというグミ・レストランがあった。

 材料不明の白く汚れのない壁に青い屋根が乗り、コンピューターを内蔵したテーブルと椅子が利用者にとって最も使いやすい位置に移動している。客、と言っていいのか分からないパジャマの人びとが青やオレンジの正方形グミを先の丸まった箸でつまんでは口に運んでいた。

 レストランにはレジがなく、カウンターもなかった。衝立で区切られたところにサキがいて、調理機械のラッパ口にグミの材料らしい粉末をバケツで流し込んでいた。

「おお、来たんだな」

「来たよ。で、儲かる毒はどこ?」

「まあ、そう慌てるな。グミでも食べて落ち着け」

「フライド・ポテトが食べたい」

「待っていろ。フライド・ポテト味のグミをつくるから」

 グミは歯ごたえがあった。それなのにフライド・ポテトの味がしたが、食感が完璧にグミだから、これはフライド・ポテトにはなりえなかった。

 サキも席に座った。そのあいだ、機械は自動で客の注文を取り、自動でグミを製造した。

「こんなこと言いたくないけど、サキ、役立たず」

「ここでは労働は暇つぶしだ。〈完璧国〉は完璧だから、別に人間が働く必要はない。全部、機械がする。ただ、人によっては家にじっとしているのが我慢ならないやつがいる。そういうやつが〈適性装置〉にかけられて、ふさわしい職業につく。嫌になったら、帰ればいい」

「歓迎係は好きな職業につけるって言ってたけど」

「もちろんだ。〈適性装置〉の結果はあくまでもおススメ、参考に過ぎない。ただ、非常に強く推奨されるというだけだ」

「なるほど。非常に強く推奨される、ね。いまのぼくにはなにか、非常に強く推奨される行動があるのかな?」

「〈適性装置〉によるテストを受けることだな」

「ぼくは自動販売機を蹴飛ばしてジュースをタダでかっぱらう職人になりたい」

「なれるとも。〈適性装置〉が非常に強く推奨してくれるさ」


〈適性装置〉は大きなドームになっていた。

 なかでは数珠つなぎになったクリスタルの玉が無数に――それこそ天井が光の屈折で見えないくらいにぶらさがっていて、少し揺れて、玉がこすれると、ヒインと高い音がかすかにきこえた。

 ドームの中央には床まで髪を伸ばした美しい女性がいて、殺し屋を手招きした。

 以前、こんなふうに女性が約束の報酬を渡すと手招きしたので、近寄ったら、床屋からショットガンで撃たれたことがあった。この女性が持っているものはショットガンではなく、ガラスの笛だった。もちろん、ガラスのショットガンかもしれないが、殺し屋は〈週刊ショットガン〉を欠かさずに見ているから、そんな画期的なショットガンが発明されたら、絶対に〈週刊ショットガン〉の表紙を飾るはずだ。つまり、女性の持っているものはガラスの笛だ。

「お待ちしておりました」楽器みたいな声だった。「ここはあなたの適性を診断する施設です。お気を楽に」

 殺し屋は座り心地の良さそうな椅子を探してきょろきょろしたが、青いガラスの床には本当に何もない。

「最初の質問をいたしましょう」女性は目を閉じた。長いまつ毛がより目立った。「あなたは人間の赤ちゃんです。ですが、あなたは牛の子宮に入っていることに気がつきました。いつ、気がついたでしょうか?」

「生まれてから」

 女性は笛を吹いた。軽やかでそれをきいていると、わけもなく飛び跳ねたくなる音だった。

 笛の音に頭上のクリスタルの群れが反響した。

 ヒイン。ヒイン。ヒイン。

「では、次の質問です。あなたは百歳のおじいさんです。すると、天使があなたを若返らせてくれるといいました。あなたは何歳になりたいですか?」

「百一歳」

 また笛の音。その音は澄み切っていて、ふざけた回答をした殺し屋を許してくれるようだった。

 ヒイン。クリスタルの音もちゃんと降ってくる。

「では、最後の質問です。あなたは完璧ですか?」

「発展途上ぼく」

 笛が今度は竜巻みたいな音を鳴らした。クリスタルは全体が震えだし、ヒャアアアアアア!とわめき散らされた。

 殺し屋にとって、この音はとても心地よかった。生まれたときからきいていたような気がした。あまりにも心地よく安心できたので、その場で横になりたくなり、そして、眠ってしまった。


「おい、起きろ」

 軽く蹴とばされて目が覚めた。

 目に入ったのはボディアーマーだ。束ねた針金のように強靭な手足を覆っている黒いアーマーだが、顔は蒼白かった。髪はポニーテールにまとめてあるが、それも白く、末端は薄く紫に染まっていた。

「立て」

 殺し屋は立ち上がり、ショルダーホルスターから九ミリを抜き、スライドを引いた。

「何の真似だ?」男がたずねた。その腰には刀が差されていた。

「ぼくはすごくいい夢を見てた。サキの怪しい話に乗ってみたら、パジャマの理想郷に到着して、そこでスタジアムでドミノみたいに潰れていく群衆の断末魔みたいな気持ちいい音をききながら昼寝をする夢を見たんだ」

「それは夢ではない。見ろ」

 男が指差した先には横笛のそばに口を寄せた、あの女性が立っていた。立っていたが、まったく動かなかった。

「止まっているのはそいつだけじゃない」

 見上げると、クリスタルの玉が様々な位置で停止していた。

「どういうこと?」

「試験は合格だ。来い」

「説明」

「している暇はない」

 そのぶっきらぼうな態度に背中から撃ってやろうかと思った。アーマーを見る限り、九ミリでどうにかなりそうな気がしなかった。だが、殺せなくとも「怒っているんだぞ」という意志は伝えられる。

 そんなふうにまごまごしているうちにどこからあらわれたかヘルメットとマスクが男の顔と頭を覆い隠し、殺し屋にできるのは唯一露出しているポニーテールを撃ち飛ばすくらいしかなくなった。

 外に出ると、確かに水路も遠足する子どもたちも停止していた。

「乗れ」

 と、指差されたのはタイヤの代わりにジェット噴射装置がついている黒いバイクで、いかにも「空を飛ぶぞ、安全性は二の次だけどな!」といわんばかりのとげとげしいデザインをしていた。

 キックスターターもついているが、乗ったときの姿勢はかなり前傾していた。空を飛んで分かったが、普通のバイクのように座っていたら、上半身が風圧でもげていただろう。

 殺し屋は空中で停止している様々なインフラをきわどく避けながら、ポニーテールを追った。

 白と青の都市のなかにどぎつい紫と金ぴかが見えた。そのどぎつい紫と金ぴかは〈完璧国〉からは隔絶された空間だった。ポニーテールはそこへ突っ込んだ。殺し屋も後に続く。

 外へ出て(なかに入って)、分かった。ネオンサイン。酔っ払いと街娼とチンピラ。吸い込まれる麻薬と簡単に抜かれるナイフ。どぎつい紫は娼婦の化粧で金ぴかは質屋の鉄格子の向こうできらめく高級腕時計だった。

 ポニーテールはバイクを降りていた。殺し屋はまだ慣れぬ着陸にふらふらしていた。

「ドラッグストアに入れ」

 言われた通りにする。腕が注射の跡だらけのジャンキーがショットガンを片手に処方箋なしでは手に入らないドラッグをポケットのなかに詰め込んでいる。レジのそばには頭がなくなった薬剤師の死体が転がっていた。

 殺し屋は舌打ちして、九ミリを構えた。クスリ切れで震えるジャンキーの指が引き金にかかったままになっている。防弾チョッキもない殺し屋にとっては秘密の発射コード入力済みの核ミサイルと同じくらい危険だ。

 ジャンキーが振り返る。探しながらドラッグを食っていたのか、目が濁っている。

 殺し屋が頭に二発撃ち込んだ。

 ジャンキーは避けた。

 少しもしゃがむ動作がない。

 それなのに体が下がっていく。

 カウンターに見えない部分に底なし沼があって、そこに沈んでいるような。

 ぼこっ、ぼこ。

 殺し屋はゆっくり近づいて、カウンターの向こうを覗き込んだ。

 薬剤師の死体が溶けて原油のようになっていて、ジャンキーはその水たまりへ溶けて沈んでいた。

 ジャンキーは殺し屋の見ている前で完全に溶けたが、ドラッグで酩酊状態だから、自分が死んだことにも気づかなかっただろう。

 ゆっくり、九ミリを構えながら下がり、ポニーテールにたずねた。

「あれ、なに?」

「〈修正者〉だ」

「何を修正するの?」

「世界をだ」

 カウンターの向こうで化け物が立ち上がった。

 皮膚は原油のように黒くてぬらりと光り、肩や腕の付け根から小さな黒金色の泡が消えていく、首のない化け物だった。

 十三発を胴に撃ち込んだ。少し足が止まったが、カウンターの上をずるずる這って出るのを止められるほどのダメージは与えらえなかった。

 空の弾倉を落とし、新しいのを入れ、スライドを戻す。薬室に九ミリ弾が装填される。

 また胴を相手に弾倉を空にするのは賢くない。

 ただ、どこかに弱点があるはずだ。

 落ち着いて、構えを解かずに深く呼吸をする。

 化け物はゆっくり近づいてくる。

 殺し屋は目を化け物に向けるのをやめた。

 意識するのもやめた。

 そのかわりに薬の箱のラベルを見た。

 緑色のイカがピースサインをする歯磨き粉。

 野球帽をかぶった猿の胃薬。

 シルクハットの紳士が悩まし気な強壮薬。

 流線形の機関車が迫ってくるうがい薬。

 その中央に赤い宝石。

 気づくと九ミリ弾が飛び出して、化け物の脇腹に姿を見せた赤い宝石を粉々に砕いていった。

 化け物は倒れ、照り輝きながら、排水口に吸い込まれるように消えた。

「合格だ」

 ポニーテールの声が遠くからきこえた。



「いろいろ質問ができたよ、ポニーテール。まず、毒は? 無味無臭、世界的権威もだませる完璧な毒は実在するの?」

「しない。〈適性装置〉は〈完璧国〉の外へと〈守護者〉の適格者を探す。お前をここに呼ぶためにサキ・ヴィンセントを使った」

「クソッタレ。――ん? じゃあ、サキは? どうしてサキを化け物退治に使わない? 馬鹿な金儲けにだまされるけど、腕は保証するよ」

「不適格だ。環境に影響されやすい」

「あー」

「知りたいのはそれだけか?」

「あの時空の歪みの向こう。典型的なスラム街の夜だ。不完全な世界だ」

「説明が必要か?」

「別に。でも、話したいならどうぞ」

「物質には反物質というものが存在する。それは次元や世界も同じだ。様々な次元の世界はあのように完璧とは程遠い。だが、完璧ではない世界の反物質性はかすかだが存在する。その反物質性こそが〈完璧な世界〉だ。そして、何世紀も前の科学者たちは様々な次元の完璧ではない世界をひとつの場所に集めて、そこから集結し強化された反物質性――〈完璧国〉を取り出した。〈完璧国〉は少なくとも人間が知覚できる範囲では完璧だった。だが、無理やり集められた完璧ではない世界がときどきこちらとあちらの壁を穿ち、流れ込もうとする」

「それが〈修正者〉?」

「そうだ。自然には存在するはずのない〈完璧国〉を修正するのがやつらの目的だ。いや、そもそもやつらに意識があるのかも怪しいがな」

「〈修正者〉があらわれて完璧でなくなったら、〈完璧国〉を一時停止して、〈修正者〉をぶっ殺して、完璧になったら、再生ボタンを押す。わかったよ、ポニーテール。この国はポルノビデオだ。倫理の面で言えば、十二歳の少女を使ったハードコアものよりもひどい」

「そんなことはわかっている。それとわたしにはディノスという名前がある。そっちは?」

「本名教える馬鹿に見える?」

「見えないな」

「そういうこと。他にこんな感じでだまくらかされたマヌケは何人いるの?」

「ふたりだ」



 寝るときですらボディアーマーをつけろと言われたときは頭がおかしいのかと思ったが、実際に身につけてみると、思ったよりも着心地がよく、中庭でうとうとしてしまうことも少なくなかった。

 殺し屋が住むことになったのはバウムクーヘンを縦にした施設で、四人の〈守護者〉がそれぞれバウムクーヘンの可食部分に住み、中央は緑と水路の中庭になっていた。

 バウムクーヘンの隣には武器センターがあり、〈守護者〉の使うバイクを仮想空間を使って乗り回し、訓練することができた。

〈守護者〉はディノスが率いていた。ディノスは生まれながらの〈守護者〉だった。科学者たちがまだ〈守護者〉のつくり方を覚えていた最後の世代だ。

 残りの〈守護者〉は少年がひとり、少女がひとりだった。

 少年の名前はリーン、少女の名前はサティ。

 ふたりの性格は、よく言えば、ミステリアス、悪く言えば、何を考えているのかわからない。

 殺し屋はここで本物のフライド・ポテトを食べながら、〈修正者〉が世界をあるべき姿に戻そうとするのを妨害することになった。

 ただ、殺し屋としても、タダ働きはするつもりがなく、出撃して生きて帰るたびに物をねだることにした。フライヤーはまさにそのご褒美のひとつだった。殺し屋も殺し屋なりに完璧に近い暮らしをしようと頑張ってみることにした。

 逃げようと思えば、逃げられる気もするが、しかし、三件の大臣殺害のほとぼりは簡単にさめるものではない。

「〈完璧国〉は完璧になるためにいくつの〈不完全世界〉をかき集めたんだろうね」

 リーンとサティが携帯ゲームのポーズボタンを押して、顔を上げた。どちらに話しかけられたのか、判じかねているようだった。

「ごめん。ひとり言」

 ふたりはゲームに戻り、大陸が全滅爆弾で消し飛んだ。

「砂漠。廃墟。スラム街。氷河。元人間の〈修正者〉を殺せば、お駄賃がもらえる。いいね。でも、ぼくとしてはここに永住するつもりはない。ぼくの専門は個人的な暗殺であって、戦争じゃない」

 ふたりはお互いの国民をサイボーグに改造して、次の戦争に備えていた。

「それにぼくらのしていることが殉教者じみてきているのも気になるところだ。何十万人の完璧な夢のためにぼくら四人が終わりのない戦いをさせられる。さらに言ってしまえば、ぼくらは間違った側に立っている。極めて不自然な環境を守ろうとしている」

 ふたりは反戦主義者の脳に矯正手術を施した。

「あれ、待てよ? そもそも人間の存在自体が不自然の極みじゃないのかな? 森をつぶしてゴルフ場つくったり、百万年経過しても浄化できない産業廃棄物を海に捨てたり。そう考えると、ぼくらもそれほど間違ったことをしてないのかもしれない……そりゃ、ひとり言といったのは、ぼくだけど、なんていうか、ちょっとくらい反応してくれてもいいんじゃないかな」

 ふたりは本日五度目の最終戦争の宣戦布告文を書いている。

「ピザ・コーン、食べる人」

 すっと、ふたりの手が上がった。

 殺し屋は自分の部屋に戻ると、フライパンをコンロにかけて、オリーブオイルを垂らして、弱火にした。そのあいだにボウルに缶詰のコーンを二缶全部あけて、新鮮な卵をふたつ割りいれた。そこにシーズニング入りの小麦粉をつなぎとして適当に入れ、黒コショウをひき、プラスチックのへらで念入りに粘り気が出るまで混ぜる。

 熱したフライパンにボウルの中身を全部入れて、へらで薄く広げて、中火。ケチャップをコーンの上にへらで伸ばし、裂いたチーズをまんべんなく乗せて、蓋を閉じて、五分。

 すると、ピザ生地がコーンでできた摩訶不思議なピザが出来上がる。

 ゲーム内ハルマゲドンは一時停止され、ふたりはピザ・コーンをハフハフと食べている。

 殺し屋はバウムクーヘンの屋上へ上がり、〈完璧国〉を見下ろした。

 産業と環境と自由が全て叶えられた国。そして、人びと。

 まさか、自分たちの存在が〈不完全世界〉の集合に上塗りされて成り立っているとは思いもしない幸福な人びとが完璧な暮らしを営んでいる。上塗りの下では人間が住んでいて、〈不完全世界〉の揺り戻しによって〈修正者〉という化け物になっている。

 それを〈守護者〉が殺すのだ。建国から一度だって完璧だったことがない〈完璧国〉を守るために。

 全てが停止した。武器センターへ装備を取りに行こうとしたとき、空が黒く割れた。

〈不完全世界〉の暗黒が〈完璧国〉の上半分を飲み込んだ――そこにいた人びともろともに。

「うわ。なんだ、これ」

 殺し屋は〈不完全世界〉のなかに点々と赤い灯がともっているのをみた。双眼鏡で見れば、それは燃え上がる都市、村、農場、港であることが知れた。空には燃える大地の朱色に腹部を照り輝かせた空中戦艦がいくつも浮かんでいた。そのどれもが〈修正者〉だった。乗組員が全員溶けて一体化したのだ。戦艦の飛行嚢や装甲にその照り輝く肉がこびりつき、その大きな一滴が垂れるたびに、土が割れて火を噴いた。

〈不完全世界〉に青いものが見えた。それは煤の黒雲がわずかに裂けて見えた青空だった。


〈守護者〉全員が飛行ユニットを背負っての出撃になった。

 殺し屋は多銃身回転式機関砲を大量の弾薬タンクと一緒にもって、飛んだ。ボディアーマーの補助機能がなかったら、絶対に持ち上げられない装備だ。

〈不完全世界〉は集合して、終わらない戦争の世界をつくり上げた。

 肉に取りつかれた戦艦の艦首には冠をかぶった双頭の鷲やときをつくる雄鶏、剣を振り上げた騎士の絵が描かれていた。

 双頭の鷲の軍艦が艦体よりも大きな腕を生やし始めた。その歪な形の指が雄鶏をとらえて握りつぶすと、艦体からレモンのように肉がしたたり落ち、大きな炎の湖が暗黒の大地にひろがった。

〈守護者〉がそれぞれの武器で軍艦を叩き落しているうちに軍艦たちが同士討ちをやめた。

〈修正者〉たちには共通の意識があった。それは憎悪――保たれた人型に対する癒しがたい憎悪だ。

 戦っているあいだも、最後の都市たちがライターみたいに燃えていった。

 軍艦がいくら蜂の巣にされても、いくら真っ二つにされても、戦いは終わらなかった。

 次々と新しい戦艦があらわれた。双頭の鷲。獅子。赤い☆。

 そして、途中で気づいた。

 肉のなかにパステルカラーのパジャマが大量に混じっていることに。



 全ての〈修正者〉を墜としたが、もはや〈完璧国〉は完璧ではなくなった。

 国民の半数が〈修正者〉となって燃え尽きた。

〈不完全世界〉は閉じなかった。都市が永遠に燃え続ける暗黒の世界として開き続けた。

「知ってる? こういうの、地獄って言うんだよ?」

 ディノスはバウムクーヘンの端に座り、刀を杖のように立てていた。

「地獄ってのはお金になるんだよ。そこに落ちるぞって脅せば、寄付金取りたい放題――ところで、いつまで、この状態は続くのかな?」

〈完璧国〉の残りは静止を続けていた。

 ディノスは残り半分を見つめていた。

 そこにはエナメルの艶、管理された緑、透明なガラスがある。

「もし、静止状態を解けば、〈完璧国〉は二度と完璧にはなれない」

「でも、止まっていたら?」

「完璧なままだ」

「まあ、それならいいけど、この状態なら、ぼくはお役御免でしょ? ぼくも暮らしがあるから、ここを離れたいんだ」

「止めはしない。いや」ディノスは初めて笑いかけた。「お前はよくやってくれた」

「なんか気味が悪いなぁ。まあ、いいか。それとひとつお願いがあるんだ」

「なんだ?」

「サキの停止を解いてほしい。もともと外の人間だし、ありもしない毒にだまされるようなやつかもしれないけど、ここで終わらない完璧に巻き込まれるのはいくらなんでもなんだよ」

「わかった。それなら、こちらからもひとつ頼みがある」

「お金貸せとかなら無理だよ」

「あのふたりを外に連れて行ってほしい」

「いいけど、あのふたりはどこの出身?」

「〈不完全世界〉だ」

「〈適性装置〉はそんなところまで調べられるの?」

「あのふたりにはここにいる義務はない。今さらだが——」

「なんなら、あなたもくれば?」

「いや」

 ディノスは苦笑した。一度笑ったことでリミッターが外れたようだ。

「わたしはここでつくられた。だから、最後まで見届けたい」

「海が干上がっても、その最後、来ないかも」

「それでもいい。この国のことはいずれ、他国にも知られるだろう。そして、完全主義者の愚行とあざ笑われるだろう。だから、ひとりくらい、本当に幸せになろうという純粋な思いで、この国がつくられたことを覚えておくべきだと思うのだ」

「世界の半分が不完全で、もう半分が完璧。意外と、外の世界もそんなものかも」

「……しゃべり過ぎたな。さあ、行くといい。サキ・ヴィンセントの停止は解いてある」


 涙色のクーペは草原地帯を抜けて、いまは鉄道駅の食堂の前で停車していた。

 サキは助手席で頭痛に悩んでいた。〈完璧国〉であったことが全部記憶から抜け落ちていて、まぶたを閉じるとグミばかり食べていた悪夢にうなされるとのことだった。もちろん、毒の手紙も忘れている。

 殺し屋はドアを開けて、降りた。

 食堂は国有鉄道時代につくられた古く細長い建物で、元はレールや枕木を保管する倉庫だった。この一帯で伝染病が猛威をふるったときは臨時の病院にもなったという。

 リーンとサティは空挺部隊用バッグを挟んで後部座席に座り、携帯用ゲームに熱心だ。

「で、これからは別行動なわけだけど」

 ふたりは渇いた荒野に水路を引いた。

「ふたりとも殺人術はあるわけだから、稼ぐとしたら、暗殺者だけど、これは交渉力が必要だ。なにせ依頼人たちはどいつもこいつもしみったれで少しでも報酬をケチろうとする。そして、こっちが仕事を終えて、残りの報酬をもらおうとしたら、ショットガンを持った手下に待ち伏せさせる。つまり、非常に交渉が難しいわけだ」

 ふたりは植物学者の指示に従って、種をまいた。

「で、第二の選択肢は賞金稼ぎだ。これは実は結構楽なんだ。なにせ、賞金はハナから決まってる。きみたちはその殺人技術を少しセーブして半殺しにとどめて、銀行なり鉄道会社なり保安官事務所なりにおたずねものを届ける。必ず生かしてね。生死を問わず、って書いてあっても必ず生け捕りにする。なぜかというと——」

 ふたりは夜通し、動物が芽を食べてしまわないよう見回った。

「賞金もまたケチられる場合があるからだ。だから、生け捕りにする。もし、相手が賞金の支払いを渋ったら、その場でおたずねものを放してしまえばいいってわけだ。死体を注文する暗殺業よりもこっちのほうがずっと簡単だ。でしょ?」

 ふたりは見渡す限りの麦畑のなかに立っていた。

 はあ、と殺し屋はため息をついた。

「ピザ・コーン、食べる人」

 しぴっと、ふたりの手が上がった。


                    End

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うがあメシテロ!で始まってサイケで終わるのかと思ったらなんか責任感あふれる、いや結局フルコースディナーでは?アクロバットにも感銘するんですが飯テロの巧さは絶品です。思うに(清らかな缶切りの微妙さとそこ…
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