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闇に染まった恋人がフォーチュンクッキーを食べたとき、精霊様は囁きました――『いつかその手の中に幸運の一欠片が届くかも』って、まだ、私は間に合いますか?!

作者: 柏原夏鉈

こちらの小説は下記の短編小説の番外編小説になります。

この小説だけでは、成立していません。


恐れ入りますが、先に下記のURLより本編小説を読んでいただいてから、お楽しみください。

リンクは出来ないみたいなので、お手数ですが、下記のURLをコピーして、アドレス欄に貼り付けて下さい。

あるいは作者ページより同タイトルの小説を探して下さい。一つ前に投稿した作品になります。


小説タイトル

「氷の騎士団長様がフォーチュンクッキーを食べたとき、精霊様は囁きました――『素敵な出会いに恵まれるかも』って、それ、もしかして私のことですか!?」

小説URL

「 https://ncode.syosetu.com/n0350lc/ 」


鉄と薬品の匂いが混じり合う、冷たい通路を駆ける。


有象無象の構成員を何人斬り捨てたか、もう覚えていない。

けたたましい警報が鳴り響く中、俺はただ、彼女の名を心の中で叫び続けた。

そして、一番奥の部屋にたどり着く。分厚い金属の扉を、渾身の力でこじ開けた。


「…あ…」


息が、止まった。


部屋の中央。無数の管や機械に囲まれた台座の上で、その白衣の男は俺の恋人を、まるで稀代の芸術品のように優しく抱きしめていた。


グルア・ファージ。白衣を着た痩せた長躯の男、爛々と輝く瞳がぎろりと動く。

魔法や、精霊様の加護そのものなど、あらゆるエネルギーを"捕食"し、解析・吸収するスキル〈暴食する大地の顎グラ・マンディブル〉を持つという。


「ああ、素晴らしい…。実に美しい構造だった…」


グルアは、虚空を見つめる彼女の瞳を覗き込み、恍惚とした表情で呟いた。その声は、研究成果を誇る学者のように無邪気で、それ故に冒涜的だった。


「彼女の"光の加護"は、まさに奇跡の結晶だ。私はそれを喰らい、その組成を、その輝きの一粒一粒まで完全に理解した。これで、対精霊兵器の開発は飛躍的に進む…!」


グルアは満足げに語ると、興味を失ったように彼女の亡骸を無造作に台座へと横たえた。


「つまり、聖女ではなかったのか?」


その隣にいる大男はカイエン・ヴォルク。

自身や周囲に存在する"怒り"の感情を物理的なエネルギーに変換し、自身の身体能力を爆発的に向上させるスキル〈憤怒の獣の爪イラ・ベスティア〉を持つという。


「残念ながら。素晴らしい加護でありながら、しかし精霊の枠を超えるものではない」

「ふん! また外れか」

「外れとはいえ、無駄ではなかった――、おっと客人だったね」


そして、こちらを一瞥すると、心底つまらなそうに鼻を鳴らした。


「……ああ、このサンプルの所有者だったな。加護もなく、我々のような特別なチカラもない。つまり何の価値もない。去れ」


完全に背を向け、機械のコンソールを操作し始めるグルア。

その無防備な背中に斬りつけたい衝動を、必死に抑え、己と彼女までの距離を慎重に測る。

今は、こいつを殺すことが重要ではない。今は彼女を……。もう手遅れだったとしても、彼女をこの穢れた場所から連れ出さなければ。


俺は床を蹴り、彼女が横たわる台座へと駆け寄った。その指先が、彼女の腕に触れる、寸前だった。


突如、目の前に灼熱の壁が生まれた。

いや、壁ではない。屈強な体躯を持つ、カイエンが俺の前に立ちはだかっていた。

その瞳は、邪魔者を睨みつける獣のように、苛立ちと怒りに燃えていた。


「去れ、と言ったはずだ」


吐き捨てるような声。その言葉が、俺の最後の冷静さを焼き切った。


「どけぇぇぇぇっ!」


渾身の力を込め、剣を抜き放ち、斬りつけた。だが、その切っ先は鋭さを失ってしまったかのように、カイエンはそれを鬱陶しそうに片腕で受け止めた。

びくともしない。剣で何かを斬ったという感覚には程遠く、まるで最初からカイエンの腕に溶接した鉄の棒でも握っているかのようだった。


「鬱陶しい」


次の瞬間、彼の瞳に、より深い"憤怒"の光が宿った。

腹部に、俺の目には見えない速さで、カイエンの拳が叩き込まれた。

ただの拳ではなかった。怒りの感情そのものが爆発的なエネルギーとなり、俺の体を破壊する。


「が…はっ…!」


息ができない。骨が軋む音が聞こえた。俺は紙切れのように宙を舞い、入ってきた金属の扉に叩きつけられ、扉ごと通路に吹き飛ばされた。


薄れゆく意識の中、床に崩れ落ちた俺の目に最後に映ったのは、獣のように俺を睥睨する、カイエン・ヴォルク。

そして、騒がしいハエを追い払ったかのように、一切こちらに関心を示さず、彼女の亡骸に再び向き直るグルア・ファージの後ろ姿。


瞼が、ゆっくりと閉じていく。


その向こうに、俺の全てが、光が、閉じ込められていく。


届かない。

取り戻せない。


この手には、あまりにも力が、無さすぎる。

憎悪と絶望だけが、砕け散った体の中で、静かに燃え始めていた。


   ◇   ◇   ◇


「トトさん?」


その声に、俺は意識を戻す。

王都の裏路地にある小さな菓子店の店主である"リリ"が、心配そうに顔を覗き込んでいた。


「――あ。すまない、少し考え事を……」

「そうですか。びっくりしました、フォーチュンクッキーを一口食べたら、急に動かなくなったので。何か、変な味でもしましたか?」


俺の手には彼女の作ったクッキーが、一口分だけ欠けた状態で残っていた。


「いや、いつも通り美味しいよ! ただ、精霊様が囁いた一言に、少し昔を思い出してね」


残りのクッキーを口に放り込んで、クッキーには何の問題もないとアピールする。

彼女は安心した様子で「良かったです」というと、再びフォーチュンクッキーの詰まった籠をカウンターの下に戻しながら、作業に戻る。


その様子を見ながら、リリのことを考えていた。


リリエッタ・ホワイトベル。王都でも有数の商家の末娘にして、秘蔵っ子だ。

彼女の作るお菓子はどれも革新的で、王都にもファンは多い。ただ、彼女しか作れないことや、彼女が大量生産を望んでいないことから、人知れずに小さな菓子店で作れる分しか販売していない。この裏路地に佇む菓子店の存在は秘匿されていて、彼女の父に紹介を受けた者しか辿り着けないだろう。


俺は彼女の秘密を知っている。――彼女は転生者にして、加護をもたないもの、だ。

直に、前世のことを聞くわけにもいかないが、どうやら腕の良いパティシエールをしていたみたいだ。この世界の材料を上手に使って、元の世界の菓子を見事に再現している。


問題なのは、加護をもたない"精霊様から見捨てられた者"にときどき現れる、特別なチカラを彼女が持っていること。


彼女の作る"フォーチュンクッキー"は、食べた者に精霊様が囁く、という奇跡が起こる。

しかし、本来、精霊様の存在を感じることは誰にもできない、というのがこの世界の常識だった。


『大切なものに届かない手は、今も伸ばしたままかも。』


先ほど、精霊様に囁かれた一言。そして急にあの日の事が頭に浮かんできた。精霊様にはお見通しか。俺はずっと過去に囚われたままだ。


「んー……」


オーブンの前で作業していたリリが、顎に手を当てて、じっと出来上がりを待っているみたいだ。


「リリ。いい匂いだね。何か新作を作ってるのかい?」

「それが……」


俺の言葉に、リリは少し困ったように眉を下げた。


「実は、チーズケーキを試作してるんですけど、うまくいかなくって」

「へえ、キミでもお菓子作りで上手くいかないってことがあるんだね」

「ええ。……どうしても納得のいくチーズが見つからなくって」


彼女は知っているのだろうか?

チーズケーキと同じ菓子は、この世界にはない、ということを。

いや、この様子では知らないんだろうな、そう俺は思いながら、あえて"知らない振り"をして彼女に問いかける。


「チーズケーキっていうのは、どういうお菓子なんだ? チーズを使うのはなんとなくわかるが、チーズを生地に混ぜて焼くだけ、なんて単純でもないんだろ?」


俺の問いに、リリは「えっ、あ!」と慌てたように頷いた。

しまった、という表情が顔に浮かんでいる。転生者である彼女ならでは綻びだ。


「そ、そうなんです! チーズをたっぷり使って、卵やお砂糖と混ぜて、しっとりと焼き上げるお菓子でして……。土台に砕いたクッキーを敷き詰めたりもするんですけど……。よく見かける塩気の強い硬いチーズじゃなくて、熟成させていない、柔らかくて滑らかな、乳の風味が豊かな少し酸味のあるチーズが必要で……。そんな都合のいいものが、なかなか見つからなくって」


俺は腕を組み、さも真剣に彼女の説明に聞き入っていたかのように、深く頷いてみせた。


「なるほどな……。柔らかくて、滑らかで、少し酸味のあるチーズか。確かに、普通の店じゃ見かけない特別なものだろうな」

「え、ええ。父も取り扱ってないみたいで……」


俺は勿体ぶるように少し間を置いてから、悪戯っぽく笑った。


「――それなら、心当たりがあるかもしれない」

「本当ですか!?」

「ああ。王都の郊外に、すごくこだわりの強いチーズを作ってる牧場主がいてね。知り合いなんだ。彼に今の要望を伝えて、作れないか聞いてみるよ」

「ありがとうございます!……トトさんて、ほんと顔が広いっていうか、いろんな知り合いがいるんですね。私の父とも知り合いみたいですし、それでこのお店を知ったとおっしゃってました」

「ああ。食べ歩きが趣味っていうのもあるんだけど、まあ、俺が授かった闇の精霊様の加護は、情報収集に向いているから、便利使いされてるからね」

「闇って、すごく珍しい高位の精霊様ですよね? やっぱトトさんてすごい騎士様なんですね。……あまり馴れ馴れしくトトさんなんてお呼びしてるのは、やっぱり失礼なんじゃ――」

「いやいや! もっと親しみを込めて呼んでもらってもいいよ! 俺は騎士様なんて呼ばれる柄じゃないんだから」

「そう、ですか? 私は嬉しいですけど……」


そうでなくては、俺が困る。すでに俺の計画は始まっているのだから。


俺の目的はただ一つ。"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"――精霊様の"加護"を持たざる者たちが結成した革命組織の壊滅。

奴らをこの世から根絶やしにするためならば、俺はなんだってする。この少女を、贄に捧げたとしても。


奴らは、特別な異能に目覚め、この世界の不変の理である"精霊様の加護"を"世界の支配"と曲解し、これを覆すために、伝説の"聖女"を探し求めているという。俺の恋人は過去に存在しなかった唯一無二の"光の精霊王様の加護"を授かったがために、"聖女ではないか"と、やつらに捕らえられ、殺された。


そして、リリのチカラもまた、この世界には二つとない奇跡を作り出す。奴らはきっとやってくる。


リリは俺の言葉に、まだ少し恐縮した様子だったが、それでも安堵したように息をついた。

その無防備な様に、胸の奥がちくりと痛む。だが、すぐに憎悪の炎がかき消した。感傷に浸っている暇はない。


「それじゃあ、俺はそろそろ行くよ。チーズの件、期待しててくれ」

「はい! 本当に、ありがとうございます、トトさん!」


深々と頭を下げるリリに背を向け、店のドアに手をかける。カラン、と澄んだベルの音が鳴った。

振り返らずに、俺は店を出る。午後の陽光が眩しくて、わずかに目を細めた。その瞬間--。


『けれど、いつかその手の中に、幸運の一欠片が届くかも。』


何処からともなく声が聞こえた。リリのフォーチュンクッキーを食べた時のように。


「俺が望むのは己の幸運じゃない、奴らの破滅だけ。すまない、精霊様……」


そう呟いて、俺は音もなく歩き出した。


俺は、この小さな菓子店を舞台に、大きな渦を巻き起こす。


聖女を求める亡者たちが、その甘い香りに誘われて姿を現すように。俺は、その時を待つ。



   ◇   ◇   ◇



「リリ、本当にごめん! あいつ、ああいう奴なんだ。悪気は……いや、あるな、今の。とにかく、俺からもう一回言っておくから!」


そう言い残し、カラン、とドアベルを鳴らしてリリの小さな菓子店を出る。

アルをリリの菓子店に連れて来て、初対面させた直後だ。思っていた通り、二人は激しく互いに反応した。


俺の隣を歩く親友の横顔は、彫刻家が冬の石を削って作り上げたかのように冷たく、一切の感情を読み取らせなかった。

だが、長年の付き合いだ。俺にはわかる。無表情の下で、彼なりの理屈と正義が渦巻いて、その奥深くに感情を押し殺していることが。


アルビリアス・フォン・シルノート。

氷虎騎士団の若き騎士団長にして、氷の精霊王様の強大すぎる加護をその身に宿す、この国の英雄様だ。

戦いにおいては、腕のひと振りで見るものすべてを氷漬けにしてしまうほど強大な魔力を持ち、火竜すら羽ばたく姿そのままに氷像と化したこともある。

常に眉間に刻まれた深い皺は、一切の妥協を許さない堅物さを周囲に知らしめ、その氷の魔法のように冷たい言動で、意図的に人を遠ざけている 。


だが、俺だけは知っている。

その分厚い氷の鎧の下で、強すぎるが故の孤独に怯え、どうしようもなく不器用で脆い魂を隠していることを。

普段なら軽口の一つでも叩いてこの重苦しい空気を霧散させるところだが、今日ばかりは軌道修正してやらねばならない。


王宮内にある氷虎騎士団に与えられた建物に入り、彼の執務室の重厚な扉が音を立てて閉まると、外界の喧騒は完全に遮断された。


しんと静まり返った室内。

アルは窓辺に立つと、夕陽に染まる騎士団の訓練場で若い騎士たちが訓練を行っている様子を、無言で見下ろした。

その背中が、あまりにも揺るぎなく、あまりにも傲慢に見えて、俺はついに押さえていた蓋をこじ開けた。


「……満足したか、団長様」


皮肉を込めた言葉に、アルの肩がぴくりと動く。

ゆっくりとこちらを振り返った彼の蒼氷の瞳には、何の感情も浮かんでいない。いや、浮かべることを彼自身が許していないのだ。


「何の話だ、トト」

「とぼけるなよ。あの小さな菓子屋で、何の罪もない女一人を権力でねじ伏せて、さぞ満足だっただろうって聞いてるんだ」

「……」


俺の言葉に、彼の周囲にはキラキラとダイヤモンドダストが舞うように、小さな氷の結晶が舞い始める。それは不快感の表れだ。

日頃は、理性によって押えてはいるが、感情が高ぶるときに、意図せずして強大な加護による魔力が周囲の空気すら氷結させてしまう。

それを恐れる者は、彼には何も言えなくなってしまうが、俺は構わずに続けた。


「しかるべき処置を検討する、と言ってたな。どうするつもりだ?」

「彼女の菓子が引き起こす現象は、秩序を乱す恐れがある。精霊様の御業を模したうえに、娯楽に使うなど。決して、あってはならないことだ。方法はわからないが、悪戯の範疇を超えている。放置すれば、いずれ悪用する者が現れる。国家の安寧を揺るがしかねない危険な力は、騎士団の名において管理下に置くのが当然の判断だ」


「認めないんだな? 自分で聞いたその声が、精霊様のものであったと、どうして認めない?」

「ありえない。ただ、その一言だ。言いたくはないが……。私は、恐れ多いことに、陛下に次ぐ大いなる加護を賜った身だ。だが、その私をもってしても、精霊の御声を拝聴した試しはない。精霊様は、我ら人の子が容易に触れてはならない、ということだ」


「精霊様の加護によって満たされたこの世界を狭める考えだな。精霊様には遍在性と多様性がある。何処にでもいらっしゃるし、どんな姿にもなれる。本来は、精霊様に格の違いなどない。人が勝手に格付けしてるだけだ。お前に加護を与えた氷の精霊王様や、俺に加護を与えた闇の精霊様といった、大樹の幹や枝にばかりが、この世界のすべてじゃないんだ。名もなき葉の一枚や土に染みる雫一つに宿る無数の精霊様を軽んじている」


そう言って、俺は、まるで何気ない仕草で剣の柄にそっと手をかけた。


鋼が鞘を擦る音すら耳に届かぬ、ただ一刹那。

抜き放った刃に祈りを乗せ、机の上のインク瓶を撫で、再び鞘へと帰す。

この儀式なくして、俺は"奇跡"を興せない。


俺には、精霊様の加護はない。

周囲には“闇の精霊から加護をうけた”と認知されているが、それは俺が演出した虚構。加護がないことを隠すための欺瞞。

俺自身が恋人の復讐のために鍛刀したこの短剣こそ、我が力の源。この剣一本に宿る、夜の精霊様の奇跡。

リリがフォーチュンクッキーによって食べた者に精霊様の加護を声を届けるように。

俺はこの剣で"斬った"ものにだけ、世界の理を僅かに書き換える奇跡を許される。


"斬る"ことは、決して物理的に分断するだけではなく、概念のみ”斬る”ことも出来る。

俺はアルが訝しげに見つめる中、彼の執務机からひょいとインク瓶をつまみ上げ、指でフタをはじいて飛ばす。


そして次の瞬間、躊躇なく瓶を傾ける。


「――おい、何を」


アルの制止の声は、途中で驚愕に呑まれた。


机に染みを作るはずだった真っ黒なインクは、一滴もこぼれることなく宙へと流れ出し、夜の闇そのものを練り上げたかのような色合いへと姿を変えた。それはまるで、小瓶の中に宇宙を閉じ込めていたかのようだ。無数の星々がきらめきながら、複雑な古代文字を描き出しては、空気に溶けるようにふわりと消えていく。


それは、この国の誰もが知る"魔法"の体系からはあまりにも逸脱した、静かで、あまりにも美しい奇跡だった。


「読めたか? 精霊様の言葉を」

「――今のは古代語、か。"聞こえるか? もっと大きな声をだそうか?" それが精霊様の言葉だというのか?」

「ああ」

「ありえない。ありえないが……」


蒼氷の瞳が大きく見開かれ、微かに唇が震える。

彼の周囲を不快感の証として舞っていたダイヤモンドダストが、まるで主の動揺を映すかのように乱れる。


アルの中で、精霊様への信仰心は、難く閉じている。己が強大な加護を授かったゆえの孤独を強いられて、なぜ自分がこれほど苦しまなければならないんだという反抗心を、幾度となくその信仰心を殴りつけるようにぶつけてきたがゆえに、凝り固まってしまった。


だが、今、その信仰心に、内側から亀裂が入る音が響く。


アルの脳裏に、リリの菓子屋での記憶が鮮烈に蘇っていたに違いない。

フォーチュンクッキーを口にした瞬間、脳内に直接響いた、暖かく、少しおせっかいな、祝福の言葉。

彼はそれを幻聴か、あるいは何かの魔術的なトリックだと、自らに強いるように断じたはずだ。

これまでも、彼が声が枯れるほど問いかけたにも関わらず、精霊様は一度も返事をしなかった。

なのに、小さな菓子屋で、ふいに出会うなど、あってはならないことだったから。


だが、目の前で起きた奇跡はどうだ。

俺が起こした、この世界の誰も知らない、あまりにも静かで美しい夜の奇跡。

そして、古代語で紡がれた、あまりにもふざけた精霊の言葉。


どちらも自分の耳で聞き、目で見た、本物の体験だ。

これを疑うことなど出来ない。今、自分の立っている堅い床すら、不確かなものになってしまうから。


ミシミシと、軋みを上げて崩れていく。


「私には、聞こえなかった……。これほどの……」


絞り出すような声は、彼の脆い魂の悲鳴だった。

自分こそが誰よりも精霊に近いはずだという自負。それが、己の心を閉ざし、世界を狭める枷となっていた事実。

その絶対的な矛盾が、彼の内側で荒れ狂う。


長い、長い沈黙が執務室を支配する。


やがて、アルの瞳に冷たい光が戻ってきた。その光は以前の傲慢な光とは違う。

全てを理解し、受け入れた上で、より鋭く、より冷徹な覚悟を宿した光だった。


彼はゆっくりと顔を上げ、俺を真っ直ぐに見据えた。


「わかった、みとめよう。彼女の菓子を食べた者は精霊様の声を聞く、その声はたしかに精霊様の奇跡だったと。……しかし、であるなら、彼女はそのチカラを何に使うのか、危険だ」

「リリが危険? アルには、あの子の顔が見えなかったのか?」


俺は一歩、アルとの距離を詰めた。熱を帯びた言葉とは裏腹に、俺の頭は氷のように冷静だった。


「"下賤な娯楽"、"平民の浅ましさ"……。お前がそのくだらない言葉で彼女の全てを切り捨てた時、あの子がどんな顔をしていたか。悔しさと、悲しさと、それでも己の誇りを守ろうとする光で、あの大きな瞳が潤んでいたのが、お前の目には映らなかったのか?」

「……感情論は不要だ。私は事実と、それによって起こりうる未来の危険性について話している」


アルが返した言葉は、驚くほどに冷静だった。俺は内心で舌を巻く。

伊達に若くして騎士団長の座にいるわけではない、か。


俺の狙いはこうだ。


挑発的な言葉でアルを煽り、常識外の奇跡を見せつけて、その価値観を根底から揺さぶる。

理性の鎧を剥がし、動揺の淵に突き落とす――そこまでが第一段階だった。


ぐらついた心でリリの存在を認めさせ、その胸の高鳴りを恋の始まりだと錯覚させる。

そうしてあの少女に、アルを孤独な氷の世界から引きずり出してほしかったのだが……。どうやら一筋縄ではいかないらしい。


ならば、詭弁でねじ伏せる。


「これは感情の話じゃない。矜持の話だ」


俺は静かに、だが腹の底から絞り出すような声で言った。アルの眉が、わずかに動く。


「矜持だと?」

「そうだ。あの娘には菓子職人としての矜持がある。それは、騎士が己が剣に魂を込め、その一振りに全てを賭けるのと同じものだ。お前は今日、その聖域を土足で踏み躙った」

「菓子と剣を同列に語るな。断じて違う」


「何が違う!」


俺は声を荒らげた。一転した激情に、アルの肩が微かに強張る。


「お前が理想の一振りのために、来る日も来る日も素振りを繰り返し、技を研ぎ澄ますように、彼女は理想の味のために、夜明け前から厨房に立ち、幾度となく火傷を負いながら粉と向き合う! その指先で生み出される宝石は、お前の剣と同じ、弛まぬ研鑽と揺るぎない誇りの結晶だ! お前にとってその剣が民を守るための"武器"であるように、彼女にとって菓子は、人を笑顔にし、この世界で己の生を証明するための、唯一無二の"武器"なんだ!」


叩きつけた言葉は、静まり返った執務室に鋭く響き渡った。アルの蒼氷の瞳が、激しく揺らぐ。

俺は追撃の手を緩めない。今度は逆に、氷のように冷たい声で続けた。


「思い出せ。リリはお前の権威に怯むことなく、その瞳を真っ直ぐに見返して言ったはずだ。「私の自慢のクッキーです」と。この国でお前に臆せず意見を言える人間がどれほどいる? 陛下の前ですら、あの子は同じことを言うだろう。相手が誰であろうと関係ない。リリは、己の積み重ねてきた時間を、その努力の結晶を、心の底から信じているからだ。その強さがお前には眩しく見えなかったか?」

「……彼女の目は、たしかに強く、澄み切っていた。まるで……磨き上げた剣の切っ先を突きつけられているかのようだった」

「ならば、なぜ見誤った」


俺は最後の一歩を詰め、アルの目と鼻の先で言い放った。


「信じるべきものを見誤る者に、騎士を名乗る資格はない。 お前は今日、秩序や規律という名の鎧で心を閉ざし、本当に守るべきだった、尊い一人の人間の魂を、その手で傷つけたんだ」


長い、息の詰まるような沈黙が落ちる。

やがて、アルはまるで全身の力が抜けたかのように、ゆっくりと目を伏せた。


「……君の、言う通りだ」


その声には、いつもの絶対的な自信も、氷の硬さもなかった。ただ、深い悔恨の色が滲んでいた。


「私は、間違っていた。……騎士が自らの剣を信じるように、か。私は、彼女が人生を懸けて打ち込んできた"剣"を、私は精霊様の声を聞いたと言う驚きに動揺して、恐れ、受けずに逃げた。それは私の未熟さ。騎士として、恥じ入るほかない」


こちらを向いた彼の瞳には、苦悩と、そして俺の言葉を真摯に受け止めた誠実な光が宿っていた。

こういう男なのだ、アルという人間は。一度自分の過ちを認めれば、決してそこから目を逸らさない。


俺は腕を組み、ようやく本題に入る。


「反省してるってんなら、話は早い。問題はそれだけじゃ済まないんだ」

「……どういうことだ?」

「アルが危惧した通り、彼女は危険なんだ。アルが言う"秩序を乱すから"ではないぞ? ――彼女はやつらに"聖女"とみなされる恐れがある」


アルの表情が、再び凍てついた。

今度は、先ほどまでの傲慢さからくるものではない。リリの身に迫る明確な脅威に対する、騎士団長としての冷徹な怒りだった。


「まさか……」

「やつら、"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"は、常に"聖女"を求めている。やつらにとって、"聖女"とは伝説上の存在だが、しかし精霊様に直結した存在だと信じている。アルが言うように、精霊様の存在を感じられる機会は稀だが、その存在を感じさせる加護や奇跡があるところに、やつらは現れる」

「お前の、恋人のように、か」

「ああ。彼女は、人の怪我を癒すとき、患者の周りを小さな光の粒子がキラキラと舞った。その様子はまるで、小さな妖精の姿となって精霊様が降臨され、傷を癒してくださるかのようだと、噂になった。そしてやつらが現れた」


俺の恋人は、光の精霊王様から癒やしの御力を授かっていた。その奇跡の力ゆえに、彼女は生きる"聖女"として、人々の尊崇を一身に集めていた。


「あの菓子屋の菓子は、すでに評判なのか?」

「ああ。リリ本人は気づいていないだろうが、彼女の父親が裏で客をうまく選んでいるのさ。あの子の菓子はどれも目新しく、放っておけば噂が広まって店に人が殺到しかねない。すでに熱心な常連も付き始めている。何せ、父親は王都でも指折りの大商人だからな。その辺りの匙加減は心得たものだ」

「なるほど、知るものには、すでにその奇跡は知られているということか」

「ああ。おそらく、幹部クラスがじきに表れる、そう俺は読んでいる」

「ならば、これは命令だ。トトはしばらく彼女の周囲を見張るんだ。トトの闇属性の魔法であれば、容易なはずだ。危険が迫ったと判断した場合は、私の許可を待たず、即座に介入し、これを排除せよ」

「了解」


アルに向けて敬礼し、俺は静かに執務室を辞した。

重厚な扉が閉まると同時に、俺は深く、長い息を吐く。口の端が自然と吊り上がるのを抑えられなかった。


(ここまでは予定通り、か)


あの氷の騎士様に、リリを一人の人間として認めさせ、その誇りに敬意を抱かせることができた。 二人の間に恋が芽生えるのはまだ遠い先の話だろうが、アルの心を覆う分厚い氷壁に、確かな楔は打ち込めたはずだ。


そして何より、騎士団長直々の「命令」という、最高の大義名分を手に入れた。これで堂々と、公然と、彼女に寄り添うことができる。 "無冠の黎明"が彼女の奇跡を嗅ぎつけ、その姿を現す、その瞬間に。


今度こそ、やつらを滅ぼすために。



   ◇   ◇   ◇



想定していたよりも早く、そのときは来た。


俺は、リリの小さな菓子店のドアに取り付けられたドアベルを斬りつけ、情報の書き換えによって、疑似的な魔力センサーに変えてあった。

物理的な監視体制には、どうしても隙が生じてしまう。俺自身が常に見張っているわけにもいかず、また、俺の起こす奇跡も万能ではない。そこで、魔力的な流れを監視する方が効率が良い。


特に、俺が警戒しているのは、精霊様の"加護"を持たざる者たち"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"の幹部だ。加護を持つ者であれば、かならず魔力を持つため、ドアベルが鳴り響いたときにドアを潜るものが魔力を持っていれば、魔力センサーは反応しない。逆に、その者が魔力を持たないとき、魔力センサーは俺に警報するように設定しておいた。


リリもまた、加護を持たないため、リリにも反応するのだが、リリが店に来たタイミング、帰宅するタイミングを知るためにも都合が良い。――もちろん、他にもいくつか手を打っておいたが、今回、俺に警報したのは、このドアベルに仕掛けた魔力センサーだった。


頭の中に警報が鳴ったとき、俺は訓練場にいたため、その場にいた若い騎士に「アルを探して、ドアベルが鳴ったと伝えてくれ。それで伝わる」と言い残し、すぐに飛び出す。


そして、最短距離で商業地区の裏路地へと向かうため、いちいち王宮の門を潜っている時間は惜しいと、障害物となる城壁を剣で一閃、そこには闇の亀裂が生じる。躊躇わず、闇の亀裂の身を滑り込ませると、闇の洞を抜け、商業地区の裏路地へと身を躍らせた。


俺が裏路地に降り立ったのは、まさに女一人が指示して、二人の男にリリを引きずらせ、店から出てきた瞬間だった。リリの腕には男の汚れた手が絡みつき、その表情は恐怖に歪んでいる。


――間に合った。


一瞬で状況を把握する。敵は三人。うち二人は女の禍々しいチカラで操られた傀儡だとわかる。女はよほど強力なチカラを持つ者なのだろう。目に見えて、女から伸びた触手のように動くエネルギー体が、男二人をぎちぎちに縛り付けていて、意のままに操っているようだ。


リリは腕を負傷して、怯えている様子だ。最優先事項は、リリの身柄確保だ。

まずは相手の行動を読みやすくするために、注意を引こう。俺は静かに、しかし殺意を込めて口を開いた。


「――リリから、手を離せ」

「な、なんだてめぇは……!」


俺の声に、その場の全員の視線が突き刺さる。男の一人が威嚇の言葉を発するが、聞く価値もない。俺は地を蹴った。


最初の狙いは女ではない。優先順位を間違えてはいけない。隙だらけに見えて、俺が声をかけた瞬間に、女は露出の多い濃紺のドレスのスカートの下に隠し持っている何かに、手を伸ばしているのを見逃していない。対応を間違えたら、リリを傷つけられてしまう。


風のように女の横をすり抜け様に、悟られる隙を与えず、俺は剣を一閃した。

物理的に切断するのではなく、概念を斬る。執務机のインク瓶を斬った時のように。


俺を迎え撃とうと構える男。だが、遅い。


動きを完全に捉え、最小限の動作で相手の死角に入る。剣を抜くまでもない。拳を、がら空きの腹部、その中心にある鳩尾へと寸分の狂いなく叩き上げた。

衝撃が内臓を揺らし、男は「ぐ」という声にもならない呻きを漏らしてくの字に折れ曲がり、意識を失って地面に突っ伏した。


一人目を無力化すると同時に、身体を反転させる。

もう一人は、リリの腕を掴んだままだ。下手に攻撃すれば、リリに衝撃が伝わる。故に、より精密な一撃を要する。


崩れ落ちる一人目の男を二人目の男の視界から遮る盾とし、地面を蹴るその瞬間を消した。男は一人目の男の影に入った俺を一瞬だけ見失い、左右のどちらから出てくるのかを想定しながら、身構えるだろうが、その瞬間には俺は宙を舞っていた。


男の背後へ音もなく飛び降りながら、一切の躊躇なく、その首筋に手刀を打ち込んだ。天から振り下ろされた強烈な手刀で、抵抗する間もなく全身から力が抜け、崩れ落ちる。その手が離れる寸前、俺はリリの腕を支え、背後へと庇った。


傀儡二人を瞬時に排除し、俺の全神経、全憎悪は、ただ一点、遺された女へと注がれた。紫の瞳の奥で、殺意が燃え盛るのを感じる。


こいつは、間違いなく"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"の幹部だろう。

俺が男二人を無力化している間も、そして今こうして向き合っている間もずっと、女から伸びた触手のように動くエネルギー体が、俺やリリを捕らえようとのたうち回っている。それは悍ましい多肢の生物が、獲物を捕らえようと蠢くさまにしか見えず、まともな存在ではないことがうかがい知れる。


リリの周りにはうっすらと光るベールのようなものがあり、その触手から彼女を守っているのがわかる。彼女の持つ奇跡のなせる業なのだろう。同様に、俺は迫りくる触手のようなエネルギー体を目にも止まらぬ速さで斬り飛ばしている。それゆえに、その女の毒牙にはかからない。


「お前には聞きたいことがあるが、それ以上に……」


この女が、"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"の幹部だと認識した途端、俺が自身に枷ていた鎖がはじけ飛んだのを感じた。目の前にいるのは、俺の恋人を殺し、その亡骸すら冒涜したやつらのひとり。リリの安全を確保した今、何を耐える必要がある? 今すぐに、この剣の本来の力を解放して、存在そのものを消し飛ばしてしまうべきではないか?


「まずは殺す。殺して死ななければ、聞こう」

「あら、怖い。私はただ、この子を私たちの里に招待しようとしただけなのに」


女は怯むことなく、妖艶に微笑む。その態度が、俺の怒りの導火線に火をつけた。剣の束に触れた手に、力が――。


「トトさん、やめて!」

「そこまでだ、トト!」


リリの悲鳴と、アルの鋭い声が、ほぼ同時に響いた。


息を切らして駆け付けたアルは、手をかざす。次の瞬間、俺の眼前に巨大な氷の壁がせり上がった。


「邪魔をするな、アル! そいつは……!」

「落ち着け!」


厳格な声に、俺は苦々しく顔を歪め、柄から手を離した。

頭ではわかっている。こいつをここで殺してしまっては、組織の中枢に通じる導線を断ち切ってしまう。


その一瞬の隙を突き、女は陽炎のように姿を消した。舌打ちが漏れる。

アルは逃げた女には目もくれず、まっすぐにリリへと歩み寄る。その瞳には、明らかに安堵と心配の色が浮かんでいた。


「――大丈夫か?」


予想外の優しい声色に、リリが固まっているのが気配でわかる。アルはリリの腕の傷に気づき、自身の懐から清浄な布を取り出して手当てを始めた。


「すまない。君に危険が及ぶと判断し、トトに魔法で見守るように命じていたのだが……。間に合って、本当によかった」


あの堅物が、ずいぶんと饒舌ではないか。しかも、自分の上着まで脱いで掛けてやっている。そこまであからさまな態度を取るとは。

俺は背後で、ただ静かにその光景を見つめていた。先程までの殺気は、仮面の下に再び隠す。


女の横をすり抜けるときに、やつのネックレスを斬りつけ、情報改変による"パン屑落としの細工"を行った。万が一にも気付かれないためにネックレスから水滴が零れ落ちるように、微量の痕跡がしたたり落ちる仕組みだ。他の誰かがそれに気づいても決して俺にはつながらない。地面に小さなシミのような痕跡を残すだけ。


俺はその痕跡を追える、警察犬が臭いの痕跡を辿るように。


「トト、すぐに治癒師を。それと、王宮に報告を」

「了解」


短く答え、俺は踵を返した。

リリの心に、アルの不器用な優しさが小さな波紋を広げたのを、肌で感じながら。


だが、俺の心にあるのは、取り逃がした宿敵への燃え盛る憎悪と、次こそは必ず仕留めるという冷たい決意だけだった。



   ◇   ◇   ◇



夜の闇は、あらゆる境界を曖昧にする。


俺は、月明かりすら届かぬ深い森の中を、獣のように気配を殺して駆けていた。

頼りになるのは、昼間、あの女が身に着けていたネックレスに仕掛けた、夜の精霊の奇跡だけだ。


俺の剣によって概念を斬られ、情報が書き換えられたネックレスは、持ち主さえ気づかぬほど微量な魔力の雫を、まるで道標のように滴らせている。常人には決して見えず、触れることも叶わぬその痕跡を、俺の研ぎ澄まされた感覚だけが正確に捉えていた。


一晩中、森の中を痕跡を追い続け、鬱蒼とした木々が途切れ、不意に視界が開けたときには、東の空が明るく白んできていた。断崖絶壁に囲まれた、巨大な谷底。

そこに、まるで世界の底に打ち捨てられたかのように、小さな集落が息を潜めていた。


(――ここか)


崖の上から見下ろす集落は、朝日が差し込まず、全体が夜の闇が澱み、暗い影に沈んでいる。

家々は廃材や歪んだ木材を寄せ集めて作られており、どれも不揃いで今にも崩れそうだ。

だが、いくつかの家からは生活の明かりが漏れ、か細い煙が立ち上っている。確かに人の営みがそこにはあった。


俺は躊躇なく崖を滑り降り、音もなく集落の影へと溶け込む。

鼻腔をくすぐるのは、スープを煮込む匂い、干した洗濯物の匂い、そして微かな家畜の匂いが混じり合った、素朴な生活の匂いだ。


物陰に身を隠し、注意深く観察を続ける。


痩せた土地を懸命に耕したのだろう、山の斜面には小さな段々畑が作られ、老婆が腰を曲げながら夜露に濡れた作物の世話をしていた。

家の軒先では、母親が繕い物をし、その傍らで幼い子供が山羊の毛を梳かしている。薪を背負った少年たちが、仲間と囁き合いながら通り過ぎていく。

ここにいる誰もが、大人も子供も、常に何かをしていた。

水汲み、畑仕事、家畜の世話。その顔には長年の苦労が深く刻まれ、衣服は汚れ、痩せている者がほとんどだ。


だが、その瞳の奥には、虐げられてきた者の弱々しさだけではない、どんな状況でも生き抜こうとする強い光が宿っている。

彼らは互いに助け合い、寄り添い、この隔絶された谷底で一つの共同体を形成していた。


一見すれば、それは迫害から逃れた者たちが築いた、健気で美しい理想郷に見えるのかもしれない。

だが、俺の目には、その全てが歪で、悍ましいものに映っていた。


(……養殖場、か)


そうだ、ここは養殖場だ。

"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"にとって、この隠れ里は、加護を持たない者たちを囲い込むための施設。

彼らは、加護のない者たちに最低限の住処と食料、そして「仲間」という名の共同体を与える。

生きるために必死に働くことを強制し、外の世界からの隔絶によって思想を統制する。


そうやって世代を重ねていく中で、稀に現れる"特別なチカラ"に目覚める者が生まれるのを待っているのだ。

異能を持つ者は組織の幹部候補として吸い上げられ、そうでない者は、次の世代の「当たり」を生むための母体として、ここで一生を終える。


彼らが抱く生きるための光は、組織にとっては新たな戦力を得るための苗床にすぎない。

搾取されていることにも気づかず、与えられた偽りの安寧の中で、彼らはただ組織の駒を生産し続けている。

その事実に気づいた瞬間、腹の底から、形容しがたいほどの吐き気と殺意が込み上げてきた。


俺は痕跡の源を探し、一際大きな、粗末だが集落の中ではマシな部類の家へと視線を固定する。

窓から漏れる明かりが、室内の人影を映し出していた。


あいつが、リリを攫おうとして、俺の恋人を殺した連中の、仲間だ。

村人たちとの会話を聞きながら、その女がここでは"メリル”と呼ばれていることを知る。

おそらく偽名だろう。徹底的に調べ上げた"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"の幹部の中には、メリルという名は無い。


しかし、候補者は一人しかいない。


リリアナ・メリ。

人の心に潜む最も強い"欲望"を鋭敏に感じ取り、それを満たす言葉や振る舞い、そして彼女から伸びる触手のようなエネルギー体によって絡めとり、籠絡する精神干渉スキル〈色欲の蜜の囁きルクスリア・ススールス〉を持つと言う。


彼女に魅了された者は、自らの意思でリリアナに協力するようになる。


今、この場で息の根を止めれば、どれほど心が晴れるだろう。

脳裏に、グルアとカイエンに無残に奪われた恋人の姿が焼き付いて離れない。あの時、何もできなかった無力な自分と、今の自分は違う。

剣の柄にそっと手をかける。俺の憎悪に応えるかのように、鞘の中で夜の精霊が静かに脈打った。


だが、その指先が柄を握りしめる寸前、俺はかろうじて理性の鎖を引き戻した。


(……駄目だ)


今、この女を殺しても、得られるものは刹那の快楽だけ。

組織の他の幹部には辿り着けず、尻尾を掴む前に逃げられる。

俺の目的は、この女一人への復讐ではない。"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"という組織そのものを、この世から根絶やしにすることだ。


グルア・ファージ。カイエン・ヴォルク。あの男たちの顔を思い浮かべる。

奴らを、あの時と同じ絶望の底に叩き落とす。そのためならば、どんな屈辱も、どんな憎悪も、今は飲み込む。


俺は、燃え盛る復讐心を、分厚い氷の下に沈み込ませるように、必死の思いで抑え込んだ。


そして、音もなくその場を離れる。背後で続く偽りの平穏には、もう振り返らない。


俺の心にあるのは、ただ一つ。

恋人を殺した悪を、一人残らず狩り尽くすという、氷のように冷たい決意だけだった。



   ◇   ◇   ◇



組織に"聖女"とみなされた以上、リリの護衛が必要だ。


問題は、そのやり方だ。大げさに騎士団を動かせば、奴らが大規模な破壊工作を仕掛けて、関係のない王都の住人たちにも被害が出る恐れがある。やつらなら、そんなのお構いなしにやりかねない。


だからこそ、俺が闇に紛れて影から見守るのが最善だと提案したんだが……あの石頭が「自分が直接護衛する」と、てこでも動かなかった。

結局、昼間はアルがリリの店に張り付き、夜は俺が闇属性の魔法で見守る、という何とも非効率な二重体制に落ち着いた。


つい先ほど、そのアルと交代し、リリが店の戸締まりをして帰路につくのを影から見届けた。

彼女の自宅周辺には、以前仕掛けた魔力センサーに加え、幾重にも夜の精霊の奇跡を編み込んだ不可視の結界を張り巡らせてある。

万全の態勢を整えた上で、俺は今日の「昼間の報告」とやらを聞くために、親友にして石頭の騎士団長様の執務室を訪れた。


氷虎騎士団の執務室の扉を、俺はノックもせずに開けた。

案の定、この国の英雄様はデスクにかじりつき、膨大な書類の山と格闘している――はずだった。


「……おい」


思わず、間の抜けた声が漏れる。

そこにいたのは、俺の知るアルビリアス・フォン・シルノートではなかったからだ。


書類に視線を落としてはいるものの、そのページは一向に進む気配がない。

時折、はぁ、と誰に聞かせるともなく深い溜息をつき、窓の外へ視線を彷徨わせる。

その横顔は、遠い日の思い出に焦がれる詩人のように物憂げで、普段の氷の仮面のような無表情とは似ても似つかない代物だった。


俺はわざと足音を立ててデスクに近づき、積み上げられた書類の山をひょいと持ち上げる。


「よぉ、アル。ずいぶんと熱心なことだな。その書類、裏返しだが」

「――っ!?」


びくりと肩を揺らし、アルが弾かれたように顔を上げる。その蒼氷の瞳が、ばつが悪そうに揺らぐのを、俺は見逃さない。


「トトか……。いつからそこに」


「お前が悩める恋の詩でも詠もうかと思案していた、ちょうどその時からだ」

「そ、そんなことはしていないっ!」

「どうした? 氷の騎士様ともあろうお方が、ずいぶんと腑抜けた顔じゃないか。さては、リリに惚れたのか?」

「ち、ちがう……」


図星だったのだろう。

アルはぐっと言葉に詰まり、気まずそうに視線を逸らし、立ち上がると俺の視線から逃げるように窓際に立つ。

その頬が、ほんのわずかに朱に染まったように見えたのは、夕日のせいだけではあるまい。


「馬鹿を言うな。これは任務だ。……ただ、護衛対象との円滑なコミュニケーションについて、少々、思考を巡らせていただけだ」

「ほう、円滑なコミュニケーションねぇ」


俺はわざとらしく頷き、アルのデスクの端に腰を下ろす。

いつもなら、アルが目くじら立てて起こる行動だが、今は気にも留めずに、アルは思案を巡らせているらしい。


「それで? 思考を巡らせた結果、一日中黙って書類を読むふりをし、たまに来る部下に仏頂面で書類を渡すだけ、という結論に至ったわけか。なるほど、実に円滑だ。リリもさぞ安心していることだろうよ」

「……うるさい」


ぼそりと呟かれた言葉には、いつもの威圧感はかけらもなかった。ただ、子供じみた拗ねた響きだけが、静かな執務室に転がった。


「私が……、私が彼女に、何を話せばいいというんだ」


観念したように、アルは絞り出すように言った。


「護衛任務に必要な会話はしている。だが、それ以外に……。彼女が何か話しかけてきても、どう返せばいいのか分からん。下手に言葉を発すれば、この前の二の舞だ。だから、書類に集中しているふりをするしかない……」


その姿は、あまりにも滑稽で、あまりにも愛おしかった。

この国の英雄と呼ばれた氷の騎士団長が、たった一人の少女を前に、どうしていいか分からず立ち尽くしている。


正直言おう。俺は腹を抱えて笑い出してしまいたい。

だが、その衝動を、俺は奥歯を噛み締めて必死に堪えた。

ここで笑えば、この氷の堅物は、永遠に心を閉ざしてしまうだろう。


俺は真剣な表情を装い、深く頷いてみせる。


「なるほどな。問題は深刻だ。だが、解決策は一つしかない」

「……何だ」


藁にもすがるようなアルの視線を受け止め、俺は静かに、しかしはっきりと言い放った。


「鎧を脱げ」

「……は?」

「お前はいつだって、騎士という分厚い鎧を着て、その上から氷の精霊王様の加護という、誰にも砕けない鎧を重ね着している。それでは、リリの心に届くはずがない」


俺は立ち上がり、窓辺に立つアルの隣に並んだ。夕陽に染まる訓練場を見下ろしながら、言葉を続ける。


「お前は、彼女にどう見られたい? 威厳ある騎士か? この国を守る英雄か? 違うだろ。お前はただ、アルビリアス・フォン・シルノートという一人の男として、彼女の隣に立ちたいだけのはずだ」

「……」


アルは何も答えない。だが、その沈黙が、何より雄弁な肯定だった。


「いいか、アル。難しいことは言うな。気の利いた世間話もいらん。ただ、お前の本当の姿を見せろ。強さだけじゃない、お前の弱さを、その痛みを見せるんだ」


俺はアルの方へと向き直り、その蒼氷の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「自分の孤独を打ち明けてみろ」


俺の言葉に、アルの瞳が大きく見開かれる。


「お前が、その強すぎる力のせいで、どれだけ孤独だったか。誰にも触れることさえ恐れられ、たった一人で生きてきたその苦しみを、ありのままに話すんだ。格好つけるな。誤魔化すな。……女ってのはな、男の完璧さや強さに惹かれるわけじゃない。不器用でも、必死に自分と向き合おうとする、その脆い魂に心を動かされるもんなんだよ」


それは、かつて俺が、愛する恋人との関係の中で学んだことでもあった。

憎悪に囚われた俺の言葉が、今、親友の恋路を照らす光になるというのは、なんとも皮肉な話だ。


長い、長い沈黙が落ちる。

やがて、アルはまるで全身の力が抜けたかのように、ふ、と息を吐いた。

その表情から、迷いや気負いが消え、どこか吹っ切れたような、澄んだ光が宿っていた。


「……弱さを、か」


ぽつりと呟かれた言葉は、もう問いかけではなかった。

自分の進むべき道を見出した男の、静かな決意の響きがあった。


(ま、これで少しは進展するだろ)


俺は口の端が吊り上がるのを隠すように背を向け、執務室の扉に手をかける。


「じゃあな、アル。明日の報告、楽しみにしてるぜ」


ひらりと手を振り、俺は部屋を後にした。

背後で、アルが何かを言おうとして、やめた気配がした。


それでいい。言葉は、伝えるべき相手に伝えろ。

あの小さな菓子店で、不器用な氷の騎士様が、たった一つの温かい心に触れるために、その重い鎧を脱ぎ捨てる。

その物語の始まりを想像し、俺は静かに笑みを浮かべた。



   ◇   ◇   ◇



午後の陽光が、バターと砂糖の甘い香りを乗せて穏やかに店内を照らしている。

俺はカウンター席の端でコーヒーを啜りながら、目の前で繰り広げられる、あまりにも初々しい無言劇を静かに観察していた。


店の最も奥まった席には、氷の彫像よろしくアルが腰を下ろしている。

建前は"護衛"だが、その実態は、分厚い書類に視線を落とすふりをしながら、全身の神経をカウンターの向こう側にいる店主一人に集中させているだけ。

先日の俺のアドバイス通りに、リリに自分の弱さを打ち明けたようだ。


その証拠に、カウンターの内側で焼き菓子の配置を直すリリが、ちらり、と彼の方へ視線を送るたび、アルの肩が僅かに強張る。

リリはといえば、彼のその微かな反応に気づいているのかいないのか、すぐに視線を戻しては、口元を緩ませて一人含み笑いをしている。

その顔は、恋する少女のそれ以外の何物でもなかった。


(初々しいにも程があるな)


お互いを意識し始めたばかりで、どうやって声をかけたらいいかも分からず、相手の些細な動作一つに心臓を跳ねさせている。

見ているこちらがむず痒くなるような光景だが、同時に微笑ましくもある。だが、このままでは百年経っても何も進展しまい。


俺は空になったカップをカウンターにことりと置き、芝居がかった仕草でリリに声をかけた。


「リリ、このクッキーは絶品だな。コーヒーのおかわりを貰おうか」

「あ、はい!ありがとうございます、トトさん!」


ぱっと顔を輝かせ、リリがカウンターを回り込むようにして俺の横にやってきて、空になったカップにコーヒーを注いでくれた。

ついでとばかりに、彼女はコーヒーの入ったカラフェを置くと、カウンターの天板を拭き始めた。しかし、その腕が拭くふりをして、アルのいる方へ少しだけ近づいているのが見え見えで、思わず笑みがこぼれた。


俺は、アルに聞こえないよう、リリに顔を寄せながら声を潜めて、彼女に囁いた。


「なあ、リリ。毎日そうやって見つめ合ってるくらいなら、いっそ付き合いたいと告白したらどうだ?」

「なっ……!?」


リリは、茹でダコもかくやというほど顔を真っ赤にして、ぶんぶんと首を横に振った。


「とんでもない! 私は平民ですし、アル様は騎士様で、しかもこの国の英雄とたたえられたお方です。自分とは全く釣り合いませんから!」


彼女は慌てて声を潜め、必死の形相で続ける。


「こうして毎日のように、その尊顔を拝めるだけでも、私にはもったいないくらいなんです!」


その瞳は潤み、心からの言葉なのだと痛いほど伝わってくる。

健気で、あまりにも自己評価が低い。そして、このままでは絶対に動かない、鉄壁の言い訳だ。


(……なるほどな)


俺は内心で深くため息をついた。このままでは駄目だ。この少女の固い殻を破るには、生半可なことでは通用しない。

ならば、少しばかり手荒な真似をするしかない。


俺は穏やかな笑みを顔に貼り付けたまま、心の中では冷たい計算を始めていた。

アルに懸想し、その動向に常に気を配っている貴族令嬢たちの顔が、脳裏に次々と浮かんでくる。

彼女たちに、ほんの少しだけ情報を流してやろう。「英雄殿が最近、足繁く通う平民の菓子店がある」と。


リリに、はっきりと分からせる必要がある。


今のまま、ただ遠くから尊顔を拝んでいるだけでは、何も手に入らない。

本当に欲しいものは、自分が引いていては、あっという間に誰かに奪われてしまうのだと。


それは痛みを伴う、劇薬になるだろう。

だが、二人ならきっと乗り越えてくれる、そう信じている。


会計を済ませ、二人に声をかけてから、喫茶店を出る。

さて、暗躍を始めようか。まずはどこかの茶会に紛れ込んで情報を流そう。



   ◇    ◇    ◇



月さえも姿を隠す、真夜中の王城。

堅牢を誇る城壁も、精鋭たる近衛騎士の幾重にも及ぶ警備網も、俺にとっては無意味だった。

俺は光あるところに必ず生まれる影、そのものだ。人の視界の死角を渡り、闇から闇へと溶け込むように跳躍し、誰の目にも、いかなる魔術的な探知にも留まることなく、城の最深部――主君の寝室へと到達した。


大理石の床に、音もなく降り立つ。

天蓋付きの豪奢なベッドには、この国の頂点に立つ男が静かに横たわっている。

眠っているはずの主君は、しかし俺の侵入を寸分の狂いもなく察知していた。


「……入れ」


深く、静かな声が室内に響く。それは許可というより、待ち人が来たことを告げる単なる確認に近かった。

闇に慣れた俺の瞳が、ベッドからゆっくりと半身を起こした壮年の男の姿を捉える。


グングニル・フォン・ヴァイスハイト。

聖人君子と謳われる表の顔とは別に、国という盤上で冷徹に駒を動かす策略家としての顔を持つ王。

この国で最高峰の精霊様の加護を持つ。


「陛下におかれましては――」

「よい、報告せよ。“無冠の黎明”の動きは?」


儀礼的な挨拶を遮り、王は本題を切り出す。

俺と王の間には、アルビリアス・フォン・シルノートという国一番の英雄さえ存在しない。

この件に関する報告は、全て直通。それが俺たち二人の間で交わされた、絶対のルールだった。


「“養殖場”を発見しました。王都から離れた谷底の隠れ里です。加護なき者たちを集めて共同体を形成させ、その中から稀に発現する異能者を組織の戦力として育て上げるための」

「やはり、そういうことか。奴らの異能者は、ここ数年で確実に数を増している。その供給源がそこか」


俺の報告に、王は静かに頷く。その瞳は、すでに次の手を思考している。


「リリエッタ嬢は、奴らにとっては“聖女”候補となります。精霊様の声を聞かせるなどという前代未聞の奇跡は、奴らを煽るには十分すぎる。必ず彼女を狙って動き出すでしょう」

「だろうな。だが、奴らも今は容易には手が出せん。我が国の氷の英雄殿が、四六時中、店に張り付いて彼女を守っておるゆえな」


王の言葉には、わずかな揶揄の色が混じる。あの堅物の不器用な恋心は、どうやら王の耳にまで届いているらしい。アルの純粋な想いが、結果として国家規模の謀略において、最も強固な"盾"として機能しているのは皮肉な話だ。


「ならば、その盾に、意図的に隙を作れば餌に食いつく、と?」


俺の問いに、王は満足げに口の端を吊り上げた。


「ああ、食いつく。奴らは、御しきれぬほどの奇跡を前に、必ず焦りを覚える。焦りは判断を鈍らせる。英雄という名の盾に守られた極上の餌が、一瞬だけ無防備になるのだ。逃すはずがあるまい」

「ええ。間違いなく」

「……ならば、用意しよう。奴らを一網打尽にするための、隙をな」


王の目が、闇の中で獣のように鋭く光る。


「いかように?」


俺の問いに、王は闇の中で深淵を覗き込むような笑みを浮かべた。


「なに、アルビリアスからの進言を、好機として利用するまでのこと。あの娘の身を案じるあまり、アルビリアスは菓子工房ごと王宮へ移し、王家の完全なる庇護下に置くべきと奏上してきた」

「……あのバカ。リリがそんな事を望むはずがない。またリリの怒りを買うだけだ……」


俺の率直な物言いを、王は意に介した様子もなく続ける。


「ああ。恋慕の情とは、いかなる英雄の目をも曇らせるものらしい。だが、その忠心、我が国のために利用させてもらう。――まずは布石として、布告する。『かの奇跡の菓子は、これより王家の厳重なる監督下に置き、以降、何人たりとも製造を許さぬ』と。これを王命としてアルビリアスに下すのだ」


その声は、絶対者の揺るぎない響きを伴っていた。


「アルビリアスには、私的な感情で動く護衛ではなく、公的な監視へと任を改める、と命じる。……そうして、あの娘から、我が忠実なる騎士を引き離す」

「……懸念が一つ、よろしいでしょうか」


俺は、あえて水を差すように口を開いた。王の策略は完璧だ。だが、その駒となる者たちの心までは計算に入っていない。


「申してみよ」

「ようやく心を通わせ始めたアルビリアスとリリエッタ嬢、その仲をいたずらに引き裂くことにならねば良いのですが」


静寂が、一瞬だけ室内を支配する。やがて、王はまるで取るに足らぬことのように、鼻で笑った。


「それで損なわれる程度の絆であれば、それまでのえにしよ。真実の恋路に障害はつきもの。もしアルビリアスが、あの娘一人の感情を汲んで余の王命を反故にするほどの男気を見せるのであれば、それはそれで面白い。別の手を考えよう。……まあ、あやつに限って、それはないであろうがな」


王は己が懐刀の性格を、完璧に見抜いていた。実直で、どこまでも愚直な騎士。その忠誠心が、今は仇となる。


「ええ、間違いなく。陛下の大義名分を、一言一句違えず、彼女に伝えることでしょう」


俺は静かに肯定する。そして、この謀略における自らの役割を正確に理解し、言葉を続けた。


「――そして、王命という名の剣に傷つけられたリリエッタ嬢の心を慰めるのが、この私の役目。そういうことでございますね」

「任せよう。貴様は、女の涙を拭うことには長けておろう?」


その言葉は、俺の過去を知る王からの、信頼であり、揶揄でもあった。


「ええ。まあ、どうにかしますよ」


俺は肩をすくめ、道化を演じるように軽く答えた。


「では、報告は以上だな」

「は。御前を失礼いたします」


報告は終わった。俺は静かに踵を返し、再び闇に溶けようとした、その時だった。


「ロドエスト」


低い声が、俺の名を呼ぶ。俺の貴族としての名。他人から呼ばれるのはいつ振りか。

足を止め、陛下の言葉を待つ。振り返りはしない。背中に突き刺さるような、強い意志を感じ、振り返ることが出来なかった。


「いいか、先走るなよ。先日の菓子店での接触……報告は受けている。激情に任せて、女を斬り捨てようとしたそうだな」


その声には、先ほどまでの遊戯を楽しむような響きはない。絶対君主としての、氷のように冷たい威圧が込められていた。


「お前の復讐心は理解している。だが、その私怨で大局を見誤るなよ?」


それは、俺の全てを見透かした上での、最後の枷。

俺は振り返らない。振り返らず、ただ静かに、心の底からの本心を告げた。


「もちろんです。その時は、殺してくださっても構いません。出来れば、アルに命じてほしいですね、あいつになら――」

「そうはならん。我らは必ずやつらを追い詰める、そうであろう?」


俺は、ゆっくりと振り返る。闇の中で、王の視線と俺の視線が確かに交錯したのを感じた。


「奴らをすべてまとめて一刀両断にする。グルア・ファージも、カイエン・ヴォルクも、その根城も、思想も、この世に存在したという事実さえも、残らず断ち切る。そのためならば、俺はこの命、この魂さえも、喜んで差し出しましょう。相手が精霊様でも陛下でも、悪鬼羅刹でもいい。他に何も望みませんから」


復讐に身を捧げた男の、狂気じみた祈りだった。

王は何も答えなかった。だが、それで十分だった。


俺は一礼し、今度こそ身を翻す。

そして、開けることのなかったはずの窓から身を躍らせ、再び王城の闇に溶け込んだ。



   ◇   ◇   ◇



店の扉を開けた瞬間、俺は奥歯を強く噛み締めた。


いつものバターと砂糖の甘い香りではなく、濃厚な絶望の匂いが立ち込めている。

カウンターの足元、光の届かない床の上で、リリが小さな影のように蹲っていた。その震える背中が、俺の胸を容赦なく抉る。


計画通りだ。陛下と俺が描いた筋書きの上を、物事は完璧に進んでいる。だというのに、腹の底からせり上がってくるこの黒い怒りはなんだ。

一人の健気な恋にときめいていたあの笑顔を、あえて美しく咲いた花を踏み躙るように、非情な筋書き通りに進めてしまう俺自身への、どうしようもない嫌悪感だった。


俺は足音を殺して彼女に近づき、その隣にゆっくりとしゃがみ込んだ。俺の気配に気づいた彼女の肩が、びくりと跳ねる。


「……アルのやつ、本当にあのまま伝えやがったのか……! あのバカ……!」


絞り出した声は、自分でも驚くほど、本物の怒りに満ちていた。

そうだ、これは演技じゃない。リリをこんな風に傷つける権利など、アルにも、俺にも、あるはずがなかった。

俺の言葉が引き金になったのだろう。堰を切ったように、彼女の瞳から再び大粒の涙が溢れ出す。


「トトさん、実は私には精霊様の加護が--」


か細い声で、彼女が全てを打ち明けようとする。その言葉を、俺は静かに遮った。今、彼女に必要なのは告解ではない。絶対的な肯定だ。


「リリ。俺は、君に精霊様の加護がないこと、最初から知ってたよ。だが誰にも伝えてない。もちろん国にも、そしてアルにさえも」


驚きに見開かれた瞳が、涙の向こうで俺を捉える。そうだ、その顔が見たかった。絶望以外の感情が宿る、その顔が。


「俺はね、他人の加護がなんとなく分かっちまうんだ。でも、そんなこと全く関係なかった」


ここからが、俺の正念場だ。

これから俺の口が紡ぐのは、彼女の心を救うための、甘く燃えるような嘘。彼女を次の舞台へ導くための、非情な劇薬。


「俺は、お菓子を作っている時の、太陽みたいな笑顔の君に……リリ、君自身に惹かれたんだ」


凍てついた彼女の心に、熱い雫を一つ、落とす。

俺は彼女の冷たい手を取り、祈るように、ぐっと力を込めた。すまない、リリ。俺はお前を利用する。


「ただの友達のつもりでそばにいたんじゃない。ずっと言えなかったけど……君がアルを見つめるたび、胸が張り裂けそうだった。あいつが君を傷つけるのを見るのは、もう我慢できない!」


嘘だ。お前がアルを見つめる瞳の輝きを、俺は眩しく見ていたよ。そしてのその視線に気づいていながらも、必死に目を逸らすアルの様子に、今すぐ駆け寄って肩を抱きながら「よう、相棒。どこを見てやがる。しっかり、見つめ返せよ」と笑ってやりたかった。


だというのに、なぜだろう。今、この言葉を口にすると、本当に胸が軋むように痛むのは。


俺の紫の瞳に、いつもの軽薄な色は微塵もないはずだ。

鏡を見なくともわかる。今、ここには、一人の女の不幸に憤り、その心を奪おうとする、嫉妬に狂った男がいるだけだ。


「アルを見てる、君のその気持ちを、俺は知ってる。あいつが不器用なだけの、本当は優しい奴だってことも、俺が一番分かってる。でも、それでも言わせてくれ。あいつは君を幸せにできない! 自分の矜持のために、自らの心さえ凍らせる男だ!」


リリ。俺の思いを汲み取って欲しい。俺が言いたいのはうわべだけの言葉じゃないんだ。

俺はわかっている。アルがお前をどれだけ深く傷つけたか。そして、お前がどれだけアルを想っていたか。

その痛みの大きさが、リリの恋の深さそのものだ。だから、その気持ちから、目を逸らすな。

そう伝えたい、なのに――。


俺は彼女の涙を、熱を帯びた指先で、わざと乱暴に拭った。優しさだけでは、彼女の心は動かせない。


「俺なら、君をそんな顔にさせない! 君の笑顔も、お菓子も、その震える心も、全部俺が抱きしめてやる! 俺はリリが好きなんだ!」


最後の嘘を、魂からの叫びのように吐き出す。

それは、あまりにも情熱的で、あまりにも身勝手な告白。

アルの氷に砕かれた彼女の心に、俺の偽りの炎が流れ込んでいくのが分かった。

揺れろ、リリ。迷え。そして、お前の本当の答えを見つけ出すんだ。

アルへの断ち切れない想いと、俺が差し出したこの手のどちらを取るか、必死で考えろ。


その葛藤の果てにこそ、お前の想いは本物になる。


「……少し、考えさせて、ください」


絞り出すような声。それで十分だった。

俺は一瞬だけ、役になりきって悲しげに瞳を伏せると、すぐに力なく微笑んでみせた。そして、彼女の手をもう一度、強く、強く握りしめる。


(やはり、キミは強い。もう俺なんかいなくても、きっと二人で手を取り合って、再び笑顔でこの静かな菓子屋で愛を語り合う日が来るから。今は耐えてくれ)


そう、願わずにいられなかった。


――そして、後日。

彼女が攫われていく様を、影の中からじっと見つめていた。



   ◇   ◇   ◇



崖の上、夜の闇よりなお深く昏い影に身を潜め、俺は眼下で繰り広げられる戦いを、氷のような冷静さで見下ろしていた。

風が運び上げるのは、金属がぶつかり合う甲高い音、女の嘲笑、そして村人たちの狂気に満ちた怒声。


計画通り、リリは攫われ、"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"の"養殖場"たる隠れ里へと運ばれた。

彼らは、リリを傷つけようとはせず、自分たちにとって必要なものだと必死に説得している様を見ていた。


俺の導きでアルが隠れ里へとやってきた。リリを救出するために。

アルには「俺は周囲の警戒をしておく」と言い残して、俺は姿を消した。


そして始まったのが、組織の幹部であるリリアナ・メリによる一方的な暴力だ。アルは孤立無援の戦いを強いられている。

村人たちを傷つけまいと、その強大すぎる氷の力を完全に封じ、ただひたすらに受けに徹している。その優しさが、今は彼の首を絞める枷となっていた。

リリアナ・メリの放つ変幻自在の炎の鞭が、村人という盾の隙間を縫って、アルの体から幾度となく血飛沫を上げた。


その全てが、俺の腹の底で燃え盛る憎悪の炎を、さらに煽り立てる。


(――行くな。今はまだ、その時じゃない)


剣の柄に伸びそうになる指を、もう片方の手で強く押さえつける。


今、俺がリリアナ・メリの前に立てば、理性の鎖は千切れ飛び、俺はやつの存在そのものをこの世から消し去るだろう。


それは、あまりにも甘美な誘惑だった。

恋人を奪った“無冠の黎明”の幹部の一人を、この手で葬る。その快楽を想像するだけで、全身の血が沸騰しそうだ。

だが、それは同時に、俺の復讐の終わりをも意味する。


この女一人を殺しても、グルア・ファージにも、カイエン・ヴォルクにも届かない。組織の根を絶つという俺の目的は、決して果たされない。


そして、もう一つの理由。

この騒ぎは、奴らを誘き出すための絶好の機会でもある。リリアナ・メリ以外の幹部が、騒ぎを見るために、周囲に潜んでいる可能性は捨てきれない。俺は、その気配を探るためにこそ、この場に留まらねばならなかった。


(……いっそ、飛び出して行って、鞭をもつ手を切り落としてやろうか!)


焦燥に、奥歯を強く噛み締める。

だが、その時だった。俺の予測し得なかった、最悪の事態が起こったのは。


「やめて!」


リリの悲痛な叫びが、狂乱の渦を切り裂く。

彼女は、アルと村人たちの間に、その身一つで立ちはだかった。

何が起きたのか、崖の上の俺からでは正確には見えなかった。

ただ、リリの白いワンピースが、一瞬にして鮮血に染まっていくのが、暗闇の中ではっきりと見て取れた。


――瞬間、俺の中で、復讐心も、大局観も、全てが思考の彼方へ吹き飛ぶ。


俺は躊躇なく崖から身を躍らせた。風を切り、闇を突き抜け、数瞬後には音もなく地面に降り立つ。

アルの絶叫が、谷底に木霊していた。その声は、かつて俺が恋人を失った時の、自分自身の悲鳴と重なって聞こえた。

狂騒の中心で、俺だけが冷静だった。いや、冷静さを無理やり取り戻していた。


「――君、ちょっとこっちへおいで」


怯えて泣きじゃくる小さな女の子の腕を取り、懐から“こんなこともあろうかと”用意しておいた小さな包みを取り出す。


リリが作った、フォーチュンクッキーだ。


「怖がらないで。このお姉ちゃんを助けるために、これを食べてみて」


女の子は戸惑いながらも、俺の真剣な眼差しに何かを感じ取ったのだろう。こくりと頷き、小さな口でクッキーを齧った。

サク、という音がして、少女の瞳が驚きに見開かれる。精霊様が、彼女にだけ聞こえる声で、奇跡の起こし方を囁いたのだ。


「せいれいさん! おねがい! せいじょさまが傷ついてるの! 治してあげて!」


子供の純粋な祈りが、引き金となった。

どこからともなく、無数の光の粒子が現れ、きらきらと舞い始める。

その光は、まるで温かい春の雪のようにリリの身体に降り注ぎ、深紅に染まった傷を、優しい光で包み込んでいく。

俺は、息を呑んでその光景を見つめていた。


――ああ、そうだ。彼女も、こうだった。


俺の恋人が、光の精霊王様の癒やしの御力を使う時、いつもこうして小さな光の精霊たちが、患者の周りを舞っていた。

目の前の光景は、失われたはずの過去の記憶そのものだった。


胸の奥が、熱く、痛む。懐かしさと、切なさと。

目の前のリリと、愛する彼女が重なり、どうしようもない愛しさが、ごちゃ混ぜになって込み上げてくる。

リリは、恋人の代わりなどではない。だが、リリが起こす奇跡は、俺の凍てついた心を、確かに溶かしていく。


その感傷に浸る俺の視界の端で、一体の影が動いたのを、俺は見逃さなかった。

騒ぎに乗じて、メリルが村の闇に紛れ、この場から離脱しようとしている。


(……逃がすかよ)


俺は即座に思考を切り替える。

昼間、奴のネックレスに仕掛けた、夜の精霊の奇跡による“パン屑落としの細工”は、まだ生きている。

彼女がどれだけ気配を殺そうと、俺の目からは逃れられない。


俺は誰にも気づかれぬよう、そっとその場を離れた。


「リリ、すまなかった……」


アルがリリを抱きしめ、声をかけているのが聞こえる。きっと二人は愛を誓い合う。その場に立ち会いたかった。

だが、きっと俺はもう必要ない。あの二人なら――。


これから俺は物言わぬ器物と化す。愛する者を穢した奴らを一人残らず斬り捨てる一本の剣になる。


―—二人に祝福と別れを。



   ◇   ◇   ◇



亡霊が、影を這うように。俺は人であることをやめた。




食事は胃を満たす作業、睡眠は肉体を維持する儀式。

世界の色彩は褪せ、音は遠のき、五感はただ一つの目的のために研ぎ澄まされる。

リリアナ・メリ。彼女が残す微かな魔力の痕跡だけが、この亡霊を前へ進ませる唯一の道標だった。


旅路の先々で、トトは"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"が世界に刻み込む、静かで残酷な傷跡を目撃し続けた。


乾いた風が砂塵を運ぶ神殿都市。

年に一度の「星降りの儀」で沸き立つ熱気の中、リリアナはいた。

屋根裏の闇に溶け込み、トトは彼女が組織の幹部の一人"グルア・ファージ"と密会し、神殿の祭壇に細工を施すのを見た。

儀式の当日、民衆の祈りは天に届かず、祭壇は沈黙を保ったまま光を放つことはなかった。

精霊に見捨てられたと天を仰ぎ、地に膝をつく人々の絶望を、俺はただ無感情に見下ろしていた。

奴らは希望を食い物にする。


霧深い湖畔の里。

癒やしの力を持つ「聖なる泉の一族」が執り行う治癒の儀式を、リリアナは群衆に紛れて眺めていた。

その隣には、蛇のように冷たい瞳を持つ女、組織の幹部の一人"リヴィア・シェーデ"の姿。

彼女が当代一の巫女に向けた視線が悪意に歪んだ瞬間、儀式は冒涜へと転じた。

祝福の光は呪いの瘴気と化し、癒やしを求めた病人はさらなる苦痛に身を捩らせる。

自らが起こした惨劇に泣き崩れる巫女の姿も、リリアナたちにとっては愉快な見世物に過ぎない。

奴らは善意を悪意に反転させる。


岩肌が剥き出しの荒涼とした聖地。

不壊と謳われた「賢者の巨石」の前で、リリアナは獣じみた大男、組織の幹部の一人"カイエン・ヴォルク"と合流した。

彼は祈りを捧げる人々の間に渦巻く不平不満、怒りを己の力へと変え、たった一撃で聖なる巨石を砂糖菓子のように砕いてみせた。

絶対の守護が崩れ落ちる様を前に、信仰を失い立ち尽くす人々。その光景を、リリアナは満足げに眺めていた。

奴らは信仰の拠り所を破壊する。


ある大国の王都では、リリアナと密使の接触を目撃した。

闇に紛れて密使を仕留め、懐から抜き取った報告書には、組織の幹部の一人"ゼノン・ソレイユ"の悪行が記されていた。

敵国の王が持つ「太陽の化身」の加護を乗っ取り、祝福の光を破壊の雷に変えて式典を蹂躏した、と。

王の権威は地に堕ち、人々は精霊の加護そのものに恐怖を抱いたという。

奴らの首魁は、人の誇りを内側から支配し、冒涜する。


そしてトトは、リリアナ・メリ自身の悪意を、最も近くで見続けた。


季節が巡り、枯れ葉が舞う。

寂れた鉱山町の酒場で、リリアナはカイエン・ヴォルクと落ち合った。

トトは酒場の最も暗い隅の席で、フードを目深に被り、その時を待つ。


忌まわしい記憶の中の姿そのままに、男は苛立ちを隠そうともせずに言った。


「――精霊の声を生成するという女はどうだった?」


その獣のような声を聞いた瞬間、トトの中で凍らせていた憎悪が、マグマのように熱を帯びる。

脳裏に、無力なまま打ちのめされたあの日の光景が、鮮烈に蘇った。

リリアナは、テーブルの酒を指先でなぞりながら、妖艶に微笑む。


「あら。あえて報告は遅らせていたのだけど、耳が早いのね」


彼女は楽しむように間を置き、つまらなそうに肩をすくめた。


「彼女は“聖女”とは思えないわ。しょせんは、菓子を使って声を聞かせるだけの芸当。奇跡と呼ぶには、あまりに矮小よ」


これだ。これこそが、奴らの本質。

自らの尺度でしか価値を測れず、理解の及ばぬ奇跡を、真の輝きを、いとも容易く踏み躙る。

かつて、グルア・ファージが恋人の亡骸を前に「聖女ではなかった」と吐き捨てた時と、何一つ変わらない。

その傲慢さこそが、トトが最も憎むものだった。


カイエンは興味を失ったように鼻を鳴らす。


「ふん、また外れか。――どういうつもりで報告を遅らせたか知らんが、次の会合では問われると思え」

「あら、こわい。もうそんな季節なのね。さて、いったい今度はどこに集まるのかしら。いつも直前まで知らされないから、困ってしまうわ」

「知るか。総帥に直接文句を言え。言えるものならな」


剣の柄を握る手に、爪が食い込む。

血が滲む痛みだけが、今にも飛び出しそうな衝動をかろうじて繋ぎとめていた。

望んでいた情報。幹部が一堂に会する場が、近い。


さらに月日は流れた。


戦災孤児の救済に身を捧げ、「生きる聖女」と呼ばれた大神官がいた街。

リリアナは信者を装って彼女に近づき、その心の奥底に眠る承認欲求に囁き続けた。

やがて大神官は堕ちた。

民衆の前で、精霊への無力な祈りを捨て、「無冠の黎明」こそが真の救いだと宣言したのだ。

最後の希望を裏切られ、絶望に染まる民衆の顔を、リリアナは恍惚とした表情で見つめていた。

人の心を弄び、希望を絶望へと塗り替える悪意そのもの。それが彼女だった。


その日、リリアナの元に一羽の鴉が舞い降りた。

年に一度、七人の幹部が一堂に会する刻が来たのだ。


彼女の足取りは、雪深い北の山脈へと向かう。長い、長い追跡の旅は、終わる。


吹雪の果てに見えた古びた修道院。そこから、七つの大罪全てが凝縮されたかのような、悍ましい気配が漏れ出ていた。


トトは、修道院を見下ろす吹雪の尾根に、亡霊のように佇む。

観察の時間は終わった。



   ◇   ◇   ◇



トトはただ一人、夜の最も深い場所を目指していた。

リリアナ・メリから滴り落ちたかすかな痕跡が、導きの糸のように彼の意識の先で明滅している。

それはまるで、死にゆく恋人が最後に遺した、細くか弱い光の残滓のようだった。


音もなく進む。その歩みは影よりも静かで、床の軋みひとつ立てない。やがて辿り着いたのは、修道院の中央、主祭壇を備えた聖堂だった。

凍てついた重い扉を押し開けた瞬間、死んだ空気が彼の頬を撫でた。


そこは、かつて精霊への篤い信仰心が満ちていた場所の、無残な骸だった。

トトは入り口に佇み、無言のまま視線を巡らせる。


まず目に映るのは、闇に溶け込むほどに高いゴシック様式の天井。そこから吊るされた照明は蜘蛛の巣に覆われ、蝋は黒い涙となって固まり、二度と火が灯されることはないだろう。


壁を覆っていたはずの壮麗な壁画は、意図的に黒く塗りつぶされ、あるいは鋭利な何かで削り取られていた。剥がれ落ちた漆喰の隙間から、かつて精霊の創世神話を描いていたであろう色彩の断片が、涙の跡のように覗いている。


巨大なステンドグラスは、その多くが無残に打ち砕かれ、夜の吹雪が絶えず聖堂内に吹き込んでいた。残ったガラス片が、差し込む月光を歪んだ万華鏡のように床へと落とす。だが、その光は神聖さとは程遠い、血と汚濁を思わせる禍々しい色の斑点にしか見えなかった。


参列者が祈りを捧げた長椅子はなぎ倒され、打ち砕かれ、まるで巨大な獣の肋骨のように散乱している。ひび割れた大理石の床には、何の儀式に使われたのか、得体の知れない文様が乾いた血で描かれていた。


そして視線は、聖堂の最も奥、かつて主祭壇があった場所へと収束する。 本来、光の精霊を祀っていたであろう祭壇は無残に破壊され、その瓦礫の上に、七つの不揃いな椅子が円を描くように配置されていた。それはまるで、神聖な場所を嘲笑うかのような、悪魔の円卓だった。


玉座まがいの椅子に、七つの影が集う。"無冠の黎明ジ・アンクラウンド・ドーン"が誇る戦力"七つの烙印"。


その中央、最も豪奢な椅子に深く腰掛けていたのは、銀髪を月光に輝かせる彫刻のように美しい男、総帥ゼノン・ソレイユ。彼は組んだ指の上で顎を休ませ、闖入者をまるで王が謁見するかのごとく悠然と見下ろしている。その瞳に映るのは侮蔑ですらない、完全な無関心だった。


その右隣には、参謀長リヴィア・シェーデ。黒髪を切り揃えた眼鏡の女は、指先で眼鏡のブリッジを押し上げながら、トトの立ち姿、呼吸、筋肉の強張りまでをも見透かそうとするかのように、冷たく分析的な視線を送っている。


左隣では、筋骨隆々の大男、実行隊長カイエン・ヴォルクが、今にも飛びかからんばかりに身を乗り出していた。その傷だらけの顔には獰猛な笑みが浮かび、面白い獲物を見つけたとばかりに好戦的な眼差しでトトを睨めつけている。


彼らの背後の影に溶けるように座るのは、諜報部長ノクス・アンブラ。気怠げに椅子にもたれかかり、顔の半分は闇の中。闖入者の存在すら「面倒だ」とでも言うように、半開きの瞳は虚空を彷徨っていた。


その傍らで、派手な装飾品をじゃらつかせた小男、財務・兵站管理長マモン・アウリが、指輪だらけの指で顎を撫でている。その目はトトの装備の価値や、この騒動がもたらす損得を瞬時に計算しているかのように、卑しくまたたく。


痩身長躯の白衣の男、技術開発部長グルア・ファージは、未知の生物を発見したかのように目を爛々と輝かせ、口元から涎を垂らしそうなほど身を乗り出していた。彼にとってトトは、解体すべき興味深い「サンプル」でしかない。


そして、彼ら円卓の中心で、脚を組んで微笑む女、渉外部長リリアナ・メリ。彼女は面白い玩具を見つけた子供のように妖艶な瞳を輝かせ、その赤い唇をゆっくりと開いた。


「あら。招かれざる客、かしら」


その声は、静寂を甘く、粘つくように掻き乱した。他の幹部たちの視線が一斉にトトへと突き刺さる。常人ならばその殺気だけで凍り付くであろう視線の集中砲火を、彼は何の感慨もなく受け止めていた。


リリアナは記憶を探るように細い指を唇に当て、やがて楽しそうに瞳を輝かせた。


「思い出したわ。菓子を食べると精霊の声が聞こえるって、つまらない奇跡を探りに行ったときに邪魔してきた騎士ね。まさか、ここまで私を追ってきたの?」


一歩。

広間へと足を踏み出す。嘲笑を浮かべていた財務・兵站管理長マモン・アウリの計算高い瞳が、一瞬だけ揺らぐ。

月光に照らされたその姿に、獣じみた大男、カイエン・ヴォルクがニヤリと口の端を吊り上げた。


「俺は覚えているぞ」


その隣に座る、ひときわ不快な存在感を放つ長躯の男、グルア・ファージが値踏みするようにじろりとトトを見た。


「私も見覚えがあるが……。さて、研究のこと以外は興味がないから、二度と思い出さないな」


グルアは興味を失ったように肩をすくめたが、カイエンは愉悦を隠そうともせずに続けた。


「――光の加護を持っていた女を奪い返しに来た、あの時の雑魚だな。あえてあの場では殺さずに逃してやったが、甲斐があったな。復讐心でどれほど強くなった?オレを楽しませろよ」


カイエンの言葉に、グルアはようやく目の前の「サンプル」の素性を思い出したようだった。その目が、マッドサイエンティスト特有の、悍ましい好奇心に爛々と輝き始める。


「ああ! そうか、あの女の! ほう、この男か!」


グルアは、まるで珍しい昆虫でも観察するかのように言った。


「お前のことは何も思い出さないが、あの光の加護を食らった時の至高の瞬間は、今でも忘れない。そうか、ずっと追っていたんだな。俺のことを。お前の大事な恋人を、俺が『美味しく』いただいたからなあ」


グルアの言葉に、他の幹部たちも興味深そうに身を乗り出す。トトは、ただ黙って立っていた。


「ああ、素晴らしいサンプルだったぞ、あの女は!光の精霊王の加護?神聖だの奇跡だの、馬鹿げた概念で覆い隠されているが、その本質はただのエネルギーだ。非常に高純度で、興味深い構造を持つ、極上のエネルギーに過ぎん!」


グルアは立ち上がり、芝居がかった仕草で両手を広げた。


「しかし、どうだ。お前はここに辿り着いた。褒めてやろう。恋人の仇を討ちたいんだろう?いいぞ、見せてみろ!あの女が最後にどんな顔をしたか、教えてやろうか?自らの力が根こそぎ喰われ、聖なる光が汚濁に変わっていく様を見て、絶望に染まりきった、あの美しい表情を!」


狂気に満ちた哄笑が、聖堂に響き渡る。他の幹部たちも、哀れな復讐者を煽り立て、その絶望を肴に楽しもうと、下卑た笑みを浮かべていた。


彼らは、まだ気づいていなかった。 トトの沈黙が、嵐の前の静けさなどという陳腐なものではなく、既に全ての終わりが確定した後の、墓標のような静寂であることに。


二歩。

トトが、ゆっくりと距離を詰めた。 その一歩に、幹部たちの笑い声が僅かに揺らぐ。何の殺気も、何の怒りも感じられない。ただ、虚無が歩いてくるような、得体の知れない感覚。気怠げにしていた諜報部長ノクス・アンブラの影が、僅かに濃くなったように見えた。


三歩。

床に落ちる月光の歪んだ模様を、トトの足が踏み越える。彼の瞳には、狂い叫ぶグルアも、妖艶に笑うメリも、他の幹部たちの姿も、もう映ってはいなかった。彼の意識は、ただ一つ、これから成すべきことだけを捉えていた。参謀長リヴィア・シェーデが分析のために細めていた瞳が、焦点を失って凍り付く。


四歩。

カイエンが、ようやくその異常さに気づき、腰を浮かした。その異能が、その身から黒いオーラとなって立ち上る。渉外部長リリアナ・メリが何かを言い募ろうと開いた妖艶な唇が、言葉を紡ぐことなく微かに震え、止まった。


五歩。

グルアは、獣のように殺気を放ち始めたカイエンとは対照的に、眉根を寄せていた。何かがおかしい。空気が、あまりにも静かすぎる。 先程までこの場を支配していた、同胞たちの禍々しいまでの圧が、まるで嘘のように消え失せている。玉座に座す総帥ゼノン・ソレイユの、絶対者の余裕を湛えていたその顔から、表情が抜け落ちる。


グルアは、慌てて周囲を見回す。リリアナは、まだ妖艶に微笑んでいる。ゼノンは、王のように悠然と玉座にいる。他の者たちも、皆、先程と変わらぬ姿勢で椅子に座っていた。


だが、違う。 彼らはそこに“いる”だけだった。


魂が抜け落ちた、精巧な人形のように。グルアが感じ取っていた、彼ら一人一人が放つ罪の気配、その存在感そのものが、綺麗に削ぎ落とされていた。

嘲笑は、いつの間にかグルアの顔から消えていた。代わりに浮かんだのは、自らの理解を超えた現象に対する、純粋な困惑と、その奥底で芽生え始めた原始的な恐怖だった。


だが、遅すぎた。トトの歩みは止まらない。


「ああああああ!」


最初に動いたのは、獣の理性が恐怖に上書きされたカイエンだった。


理屈ではない。目の前の虚無が、自らの理解を超えた方法で仲間を“消した”。その事実だけが、彼の闘争本能に火をつけた。

かつて、無力な女の前でこの男を殴り飛ばした時と同じように、黒いオーラをまとった拳が、トトの顔面めがけて振り抜かれる。


六歩。

カイエンの拳は、確かな手応えを感じるはずの空間を、虚しく切り裂いた。


「なっ――」


何が起こったのか理解できず、カイエンは間抜けな声を上げる。自分の腕に目を落とし、ようやく気づいた。

あるべき場所にあるはずの右腕が、肘から先、綺麗に消え失せていることに。痛みすらない。ただ、そこにあるはずのものが、ない。

その信じられない表情のまま、カイエンの巨体は、糸の切れた操り人形のようにゆっくりと崩れ落ちていった。


「ひっ…!」


それを見ていたグルアは、ついに科学者としての冷静さを失った。

逃げろ。この怪物を分析している場合ではない。一刻も早く、ここから。


脳が発する生存本能の命令に従い、椅子から立ち上がろうとする。

だが、足が動かない。まるで椅子に尻が張り付いてしまったかのように、金縛りにあったように、身じろぎ一つできなかった。


トトは何も言わない。ただ、最後の標的に向かって、静かに歩みを進めてくる。


「よ、よせ!来るな!貴様、何をした!私たちに何をしたのだ!」


グルアは必死になって叫ぶ。

命乞いでも、威嚇でもない、ただ理解できない恐怖から逃れるための、意味のない絶叫。


七歩。

その声は、がらんどうの聖堂に虚しく響き渡り、やがて吹雪の音に掻き消されていった。


音もなく、すべては終わった。

やがて、聖堂には完全な静寂が戻った。

あれほど満ちていた悪意と狂気は跡形もなく消え去り、砕けたステンドグラスから差し込む月光の中を、七人分の塵がキラキラと舞っている。


トトは、その光景に背を向けた。長い、長い復讐が終わった。


心を満たすのは、達成感でも、喜びでもない。ただ、全てを失った後の、どこまでも広がる空虚な静けさだけだった。



   ◇   ◇   ◇



「……万事、終わったようだな」


完全な静寂の中、鈴が鳴るような透き通った声が響いた。俺は驚愕に目を見開き、残党かと警戒して剣に手をかけ、声の主を振り返る。


純白の騎士服は、寸分の隙もなく磨き上げられている。

砕けたステンドグラスから差し込む月光を弾く白銀の髪は、透き通るように美しく、まるで月の光そのものを紡いで作られたかのようだ。

彫刻家が精魂込めて作り上げた完璧な顔立ちと、常は氷のように冷たく輝く蒼氷の瞳が、今は温かな光を宿して穏やかに細められている。


アルビリアス・フォン・シルノート。


「……リリと喧嘩でもして、その相談に来たのか?」


俺の口から出たのは、万感の思いを込めた感動や感謝の言葉ではない。しばらく会っていなかった相棒との空白などなかったかのような、いつもの軽口だった。

アルは、その端正な口元に柔らかな笑みを浮かべ、一歩ずつ俺に近づいてくる。


「どのような言葉をかけるべきか、今の私には計りかねる。このような時に、君のように気の利いた言葉を紡ぐ術を、私は持ち合わせていない。君も知っての通り、私は口下手でな」

「ああ、知っているさ、相棒」

「ゆえに、私はまず果たすべき役目から済ませるとしよう。……これを」


アルは俺の目の前で立ち止まり、白い手袋に包まれた手を差し出した。薄暗い聖堂の中にあって、それはまるで光り輝く満月のように見えた。


「リリの、フォーチュンクッキーか……」

「ああ」


何かに導かれるように、俺は迷うことなく、躊躇うことなく、そのクッキーを手に取った。

そして口に含み、そっと歯を立てる。小さな、サク、という音とともに、クッキーは半分に割れた。


『これは幸運の一欠片。愛する人に再会できるかも』


精霊様の声が脳裏に響いた瞬間、世界が一変した。


ボロボロに朽ち、穢されていた聖堂が、まるで時間を巻き戻すかのように、本来の神聖な姿を取り戻していく。

高いゴシック様式の天井に吊るされたシャンデリアに、清らかな光が灯る。

壁を覆っていた壮麗な壁画は、精霊様の創世神話を描いた鮮やかな色彩を蘇らせる。

床に散らばっていたステンドグラスの破片は、意思を持つかのように宙を舞い、再び窓を彩って神聖な光を聖堂に満たした。

なぎ倒されていた長椅子は、磨き上げられた大理石の床を滑るように整列していく。


そして視線は、聖堂の最も奥、輝きを取り戻した主祭壇へと収束する。

神々しい光の中心に、一人の女性が、今まさに静かに降り立った。


「……まさか。これは、死の間際に見るという幸せな夢か……?」

「かつて君が私に言った言葉を、今度は私が君に返そう。……認めるのだ、トト。精霊様の祝福は、あまねく世界に満ちている。我らが力を持つか持たざるかなど、元より些末なことだったのだ」

「だが、認めてしまえば……。抱きしめようとすれば、その瞬間に、彼女は消えてしまわないのか……?」

「確かめるがいい。……それに、淑女を待たせるものではない」

「リリという恋人ができて、急に女性の扱いが手慣れたな?」

「いいから、いけ」


言われるまでもない。

俺は駆け出し、彼女――アレアへと近づいた。


アレアは、優しい笑みを浮かべていた。その頬を一筋の涙が伝い落ちるのを見て、彼女が幻ではないのだと悟る。

アレアを抱きしめる。温かな彼女の体温を、その存在を、確かめるように。もう言葉は出なかった。ただ、子供のように泣きじゃくっていた。


「トト、トト……」

「アレア、アレア……」


互いの名を呼び合うだけで、凍てついていた心が温かなもので満たされていくのを感じた。

これが夢なら、決して覚めないで欲しいと、心の底から願った。


憎悪が消え去った心に、ただ愛しい人の温もりだけが満ちていた。



   ◇   ◇   ◇



二人は答え合わせをしました。


「ずいぶんとつらい思いをしただろう? 大丈夫か?」

「ううん、不思議とほとんど覚えていないの。思い出そうとすると、霧がかかったみたいに……」

「精霊様が、余計な記憶に蓋をしてくれたのかもしれないな。君が、壊れてしまわないように」

「でも、一つだけ……はっきりと覚えている記憶があって」

「……どんな光景だい?」

「トトの声が、だんだん近付いてきて……すぐ目の前に来てくれた、そう思った瞬間、とても大きな音と一緒に、あなたの声が聞こえなくなって……」

「……ああ」

「すごく、恐ろしかった……。自分がどうなるかという不安よりも、トトがどうなってしまったのかって……そればかり考えて、胸が苦しくて……」

「……そうか」

「あなたこそ、私がいない間、無茶ばかりしていたんじゃない?」

「大したことはないさ。君には悪いが、毎日アルをからかいながら、のんびりクッキーでも食べて過ごしていただけだ」


「あの組織は、どうなったの?」

「俺が幹部の七人を消滅させた。この七人による絶対的支配があったからこそ、今まで俺は奴らに辿り着けなかったんだ。それを失った以上、残党は有象無象の構成員しかいない」

「ではもう、私のように……"聖女"だからと、攫われる人はいないのね?」

「ああ。末端の者たちは、聖女については何も知らされていなかったようだ」

「……よかった」

「万が一、残党が何か企んでも、俺か、あの氷の騎士団長がすぐに叩く。だから心配はいらない」

「加護を持たない人たちを、救うことはできないかしら。せめて、食べるものに困らないように、何かしてあげたいのだけれど……」

「王都に近い隠れ里は、陛下が自治区として認めて、支援も約束してくれた」

「あなたが通っていた、可愛らしいお菓子屋さんの……リリさんが攫われた場所ね」

「他の場所は、時間をかけて社会の方を変えていくしかないだろう。『加護なし』は精霊に見捨てられたのではなく、魔法適性がなかっただけだと、広く認知させていくつもりだ」


「ぜひ、リリさんに会わせてほしいな。私が精霊様によってあなたに再会できた奇跡も、リリさんのチカラのおかげだもの。私からもお礼を言いたいし、リリさんの作るお菓子がとても気になるの」

「そうだな。彼女のフォーチュンクッキーには助けられた。奇跡は精霊様のおかげだが、そのきっかけをくれたのは彼女だからな」

「ええ、本当に素晴らしいこと。美味しいお菓子で人を喜ばせたいという、その真っ直ぐな想いに、憧れてしまうわ」

「ああ、彼女は強いな。アルは間違いなく尻に敷かれるだろう」

「アル様とリリさんの結婚式は、いつになるのかしら?」

「さてね。二人とも今に満足してしまっていて、放っておくといつまでも進展しないんだ。今もアルは騎士団の仕事の合間にリリの店に入り浸っては、俺が"仕事が溜まっているぞ"と連れ戻す毎日だよ」

「貴族で英雄のアル様と、平民のリリさんとでは…。簡単ではないでしょうけど、周りの方の反対はないの?」

「ないな。今まで人を遠ざけていたアルが、リリのおかげで随分と柔らかくなったからな。それを喜んだアルのご両親が、リリを養女に迎えてくれる貴族を段取りしている最中だ。他にも婚約準備を水面下で動いているが、肝心の本人たちは何も知らない」

「まあ。リリさんのご家族は?」

「娘が『加護なし』だと知られて傷つくのを何より案じていた父親も、この国で最高の加護を持つ騎士団長の庇護下に入ることを、大変喜んでいる」

「ふふっ、外堀はすっかり埋まっているのね。婚約も、もう時間の問題かしら」

「いや、時間というより本人たちの自覚の問題だな。まあ、あの朴念仁な団長殿は、俺が発破をかけるしかなさそうだな」

「ふふっ、じゃあリリさんのことは私に任せて。お礼も言いたいし、ゆっくりお話ししてみたいと思っていたの」


「ねえ……人のことばかり気にしているけど、私たちは、これからどうするの?」

「ああ、もちろん――」

「その前に、私たち、お互いのことをきちんと知っておく必要があると思うの」

「ん?」

「隠し事は、良くないと思うわ」

「なっ……! いや、君に隠し事なんて何もないさ」

「トトは精霊様の加護はないということ、どうして話してくれなかったの?」

「……その事か。すまなかった、何度も言おうとしたんだが、怖くてな。上位の精霊様の加護を持つ者ほど、精霊様への信仰は強く、同時に加護を持たないものへの忌避感が強いと聞く。アレアは最上位の光の精霊王様の加護を持つ。俺はアレアにゴミを見るような目で見られたらと思うと--」

「ごめん、なさい。そんな事ないわ、と頭から否定できないわ。もしあんな事がある前に打ち明けられてたら、あなたの言うように、あなたを酷く傷付けていたかもしれないわね」

「いいんだ。生まれた時から加護に満たされた社会にあっては、無理もない」

「でも、あなたは闇属性の魔法を使っていたわ。それは奴らが使うような、特別なチカラなのね?」

「ああ。俺は生まれた時から、自分の特別なチカラを自覚して、最初は3歳の頃に森で見つけた黒曜石を削って作った小さなナイフから始めた。このナイフで切った物に魔法と同じ現象が起こせる事を利用して、周囲を騙していた」

「そ、そんな幼い頃から!?すごいわね」

「闇属性の精霊様の奇跡だと思っていたんだが、アレアが殺され、俺自身が傷ついたとき、さらに覚醒したのを感じた。そうして鍛刀したこの剣は夜の精霊様の奇跡を起こす」

「夜の精霊様……? 聞いたことがないわ。どんな精霊様なの?」

「一言で言うなら、世界の行間に介入する力、かな」

「世界の、行間?」

「世界という物語は、昼の間に進み、夜になると止まる。夜、登場人物が眠れば、物語もまた休止する。その物語が止まっている空白に、都合のいい夢を見せることで、目覚めた時にはそれを現実に変えてしまう。そういう理屈だ」

「すごい……!じゃあ、どんなことでも現実にできてしまうの?」

「さあな。あまり無茶をするとバグって詰むからな。俺も気をつけてはいるんだ」

「バグって……? それは、どういう……?」

「……いや、なんでもない」


「……それで、もう一度聞かせて。私たちは、どうするの?」

「結婚しよう」

「……もうちょっと、こう……雰囲気とか、ないのかしら?」

「無理を言うな。俺たちはすでに最高の体験をした。精霊様の奇跡、打ち捨てられ朽ちた聖堂が時間を巻き戻したみたいに美しく復元され、もう会えないと諦めてた恋人までも抱きしめる事ができた。……悪いがあれほどの体験をした後で、どんな感動的な演出をしろというんだ?」

「ふふっ……まあ、そうね。あなたの言いたいこと、わかるわ」

「どうせアルとリリの結婚式の方が華やかで目立つさ。俺たちは、当たり前の日常の中で、静かに未来を考えていこう」

「ええ。こうして一緒にいられる奇跡を、精霊様に感謝しながらね」


さっそく二人は小さな菓子屋を目指して歩き始めました。


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