エピソード 1ー1
それは珍しく雨が降った日の夕暮れだった。アルステリア領を治める領主の妹である私――リシェルは屋敷の会議室にいた。
ざわめく会議室で、私はマリエス族の王子を呆気にぽかんと見つめていた。なぜなら、彼がこの三ヶ月の成果を無に帰すような言葉を口にしたからだ。
信じられない思いで隣の席に視線を向ける。そこに座るお兄様は私と目を合わせ、一瞬だけ申し訳なさそうに瞳を揺らした後、ゆっくりと首を横に振った。
どうやら、先に聞いていたらしい。
私は再びマリエス族の王子――バルサズ・カルドランに視線を戻した。
「……領地を出る、ですか?」
聞き返すと、とたんにバルサズ王子は不快そうな顔をした。
「さっきからそう言っているだろう! それとも、俺がよその領地に移ることになにか文句があるのか? おまえは王族である俺の行動を縛り付けるつもりか?」
「そうではありません。ですが、この領地に留まって、マリエス族の力を振るう。だから住居や工房を用意しろと言ったのは貴方ではありませんか。既に住居や工房も完成していますし、いまさらよそに移ると言われましても……」
まさかそのような裏切りに遭うとはと唇を震わせる。
バルサズは盛大に溜め息を吐く。
「だ か ら、気が変わったと言っただろう」
「お兄様、いいかげんにしてください!」
茫然自失の私に変わり、バルサズの妹――ファリーナが机に手を突いて立ち上がった。
サラサラの黒髪に赤い瞳。薄着のマリエス族では珍しくローブを纏っている。見た目は十代半ばくらいの少女だが、マリエス族は長寿なので、実年齢は私より上のはずだ。
その彼女が、バルサズに向かって捲し立てる。
「嵐で難破した船より私達を助けてくださった方になんという言い草ですか! しかも、こちらからお願いしておいて、それは不義理というものです!」
「はっ、助けたのは、マリエス族の力が目当てに決まっているではないか。マリエス族の、それも王族である俺の力を見返りに求めるなど、それは傲慢というものだ」
バルサズはそう言って鼻で笑う。
たしかに、見返りを期待したのは事実だ。手先が器用で、魔導具や様々な装備品を造ることに特化したマリエス族は、私達にとって貴重な人材だから。
だけど――
「お兄様! 技術の提供を見返りに、保護して欲しいと願ったのはこちらです! それを傲慢だなどと、傲慢なのはお兄様の方です!」
「うるさい! だったら、おまえが残って恩返しでもすればいいだろう!」
「もちろんそのつもりです! でも、いま問題にしているのはお兄様のことです」
「くどい、俺は領地を出ると決めた! あのような不平等な約束など知ったことか!」
あまりの言い分に声も出ない。
だけど、ファリーナが怒っていることで、私は逆に冷静になった。
うちは決して豊かとは言えないから、提示した条件は破格とは言えなかっただろう。だけど、それでも、精一杯の誠意は示したはずだ。なにより、バルサズも先日までは乗り気だったはずだ。なのになぜ、彼は手のひらを返したのだろう?
そこまで考えた瞬間、斜め向かいの席に座る男の姿が目に入った。マリエス族の工房に必要な道具の仕入れを任せていた、グラセッド商会の商会長だ。
彼は商談が潰れようとしているのに薄ら笑いをしている。
「……バルサズ殿下を引き抜いたのは貴方ですか?」
「ええ、その通りです。私が拠点を置くイージーワール領の領主に引き合わせると提案したら、殿下は喜んでお受けくださいましたよ」
その瞬間、お兄様の歯ぎしりが聞こえた。こちらに隙があったと言えばそれまでだけど、取引中の相手の顧客を引き抜くなんて、商会としての仁義にもとる。
お兄様――エルネストが怒りを滲ませて口を開く。
「……引き抜きは世の常なれど、取引中の相手から職人を引き抜くのは、商会としての信頼を著しく損なう行為だ。今後、グラセッド商会との取引はお断りさせてもらおう」
「ははっ、好きになさってください。ダンジョンもなく、交易路すらない陸の孤島になど用はありません。こちらこそ、今後の取引はお断りさせていただきます」
そう言うと、商会長はお兄様を見ながらせせら笑った。
アルステリア領にダンジョンがなく、交易路に掛かってもいないのは事実だ。そのことで、他領からも見下されることも珍しくない。
でも、だからこそ、私とお兄様はこの領地を豊かにしようとがんばっている。
――五年前、視察中の襲撃で亡くなった両親の分まで。
マリエス族との取引はその一環だ。彼らの技術を借りて、このアルステリア領に数々の装備を作ってもらおうと思っていた。
そうすれば、武器を買い付けに商人がやってくる。商人がやってくれば、新たな素材だけでなく、他の資源も買うことが出来る。
それはつまり、アルステリア領に交易の風が吹くということだ。
彼らの力があれば、それが可能だったはずだ。なのに、それを台無しにした者達が、私達を笑うのかと、悔しくてたまらない。
だけどお兄様は言い返そうとする私を手で遮って、続けてバルサズに視線を向ける。
「バルサズ殿下もです。今後は、二度とアルステリア領に足を踏み入れないでいただきたい」
「俺はこれからダンジョン産の希少な素材を手にし、様々な装備を作って後世に名を残す。おまえ達はこの貧乏領地で、愚妹とともに指をくわえて見ているがいい」
バルサズは私達を見下ろしながら底意地の悪い声で笑った。
大陸の西の端。
周囲は険しい山と砂漠、それに海岸に囲まれた陸の孤島。ダンジョンは近くになく、交易路にも掛からない弱小領地、それが私の生まれ育ったアルステリア領だ。
領地が出来たころは、木材や農作物を輸出することでそれなりの生活水準を維持していたそうだ。けれど、各地にダンジョンが現れるようになってすべてが変わってしまった。
ダンジョン、それは人類にとって夢のような場所だ。
希少な鉱石や薬草、それに木材などの素材はいくら採取しても時間で復活するし、魔獣からはそれ由来の素材や肉、それに魔石を手に入れることが出来る。
なにより素晴らしいのは、人知を超えたダンジョンの仕様だ。
ダンジョンの入り口付近にあるセーフエリアと呼ばれる区域は魔獣が現れない仕様となっていて、ダンジョン発見者や階層踏破者に管理権限が与えられる。
ゆえに、セーフエリアには街が造られ、莫大な富を生み出すことになる。始まりの竜が産み出したと言われるこのシステムのおかげで、ダンジョンはいつも賑わっている。
当然、その付近にある領地は大きく栄えることとなる。
結果、領内にダンジョンを有するかどうかで領主の力が決まるようになった。
だから、ダンジョンが近くになく、交易路にすら掛かっていないアルステリア領は、弱小領地と呼ばれるようになった。それが百年以上昔のことである。
だけど、そんなアルステリア領にも転換期が訪れた。
嵐の夜、海岸に十数名ほどのマリエス族を乗せた船が流れ着いたのだ。
マリエス族というのは、隣の大陸で暮らす手先が器用な種族だ。
長寿で、高い技術を有している彼らの作る武具はどれも一級品だ。そして、その褐色の肌に浮かぶ文様――魔術回路を使って、様々な魔術的装備を造ることが出来る。
その才能は、ダンジョンで得られる素材ととても相性がよい。
この大陸では、非常に希有な存在とされている。ゆえに、私のお兄様――アルステリア子爵は彼らを手厚く保護し、バルサズの要望に応えて屋敷や工房を用意した。そして各地からダンジョン産の素材を仕入れ、マリエス族の作った道具を売り出す、予定だった。
そうすれば、アルステリア領が交易の対象になり、豊かになると信じたから。
だけど、その希望はバルサズとグラセッド商会の裏切りによって砕け散った。
「――お兄様が大変な不義理を働いたこと、ここにお詫びいたします」
裏切り者が領地を出た翌日。私が自室で今後の方針を考えていると、そこに訪ねてきたファリーナ以下三名のマリエス族が私に向かって頭を下げた。
「頭を上げてください。バルサズ殿下には腹を立てていますが、ファリーナ王女殿下が謝ることではありません。それにあのとき、私の代わりに怒って下さったことは覚えています」
彼女が声を荒らげていなければ、私は冷静でいられなかったかもしれない。だから感謝していますと笑うと、彼女はおずおずと頭を上げた。
「……許して、いただけるのですか?」
「許すもなにも、最初から怒っていません。お兄様もきっと同じ気持ちのはずです」
「……たしかに、エルネストさんもそう言っていましたね」
「ということは、既にお兄様のところには……?」
「はい。謝罪してきました。それで今後の方針について相談したところ、制作物についてはリシェルさんと話し合って欲しいと」
「……お兄様が、ですか?」
両親が早くに亡くなって、お兄様は若くして当主になった。私はそんなお兄様の補佐を続けてきたので、こんな風に重要な仕事を丸投げされるのは珍しい。
なにかあるのかなと首を傾げる。
「……リシェルさん、どうかしましたか?」
「いえ、なんでもありません。制作物についてでしたね。そのように申し出てくださったということは、そちらの二人が協力してくれる、ということでよろしいですか?」
ファリーナの背後に控える二人に視線を向ける。
長い黒髪で目元を隠す妙齢の女性は侍女のラナだ。
彼女が前髪で目元を隠しているのは恥ずかしがり屋だからと聞いたことがある。
だけど、彼女はマリエス族らしくビキニとパレオのような大胆な服装をしており、褐色の肌に浮かぶ文様――魔術回路を惜しげもなく晒している。
この辺りの価値観は、マリエス族特有のものだろう。
というか、恥ずかしそうにしている女性が大胆な服装をしているのを見ると、こちらまで恥ずかしくなってくる。……と、そこまで考えたとき、お兄様が私に任せた理由を察した。
……お兄様も年頃の男の子だったんですね。
露出過多な美女と話すのは気を遣ったのだろう。そんなことを考えながら視線を向けると、それに気付いたラナが恥ずかしそうに身をよじった。
「その、私はあまり手が早くないのですが、一通りの道具は造ることが出来ます。マリエス族が恥知らずと思われないためにも、全力を尽くさせていただきます」
「それはとても心強いです」
私は胸のまえでぽんと手を打ち合わせて喜び、続けてもう一人のお付きに目を向ける。
腰に剣を携える彼女は護衛騎士のカトレア。
黒髪セミロングのスレンダーなお姉さんで、マリエス族らしく露出度の高いビキニアーマーを纏っているが、その褐色の肌に刻まれている文様はそう多くない。
それは、カトレアの才能が平均以下であることを示している。
「すまない、リシェル殿。見ての通り、私の魔力回路は粗末でな。ファリーナ様に剣の実力を買っていただいて護衛となったが、物作りではあまり役に立つことが出来ない」
カトレアはそう言って申し訳なさそうな顔をした。
「いえ、謝罪の必要はありません。こちらこそ、騎士に対して不躾なお願いでした」
そう言って首を横に振る。
本音を言えば、もう一人くらい職人が欲しかった。けど、それは無い物ねだりだ。さすがにファリーナに頼む訳にはいかないし……と、視線を向けると、彼女はふわりと微笑んだ。
「微力ながら、私もお手伝いさせていただきます」
「よろしいのですか?」
思わず問い返してしまう。
サラ艶の黒髪ロングに赤い瞳。見た目はクール系の美少女だが、ファリーナはその小さな身体をローブで覆っている。これは、マリエス族としては異例の装いだ。
生まれたときから肌に浮かぶ文様――すなわち魔術回路を人々の目に晒すことこそ誇り。
そんな考えを持つ種族の王女でありながら、全身をローブで覆っているのはたぶん、その肌――正確には文様を人々の目から隠す必要があるのだろう。
そう思って触れないようにしていたのだけど――
「懸念はごもっともですが、ご心配には及びません」
「……ファリーナ様も協力してくださるのですか?」
「ええ。まずは自国で重宝されていた農具などを作ろうと思います」
「農具、ですか?」
たしかに、グラセッド商会との取引は潰え、ダンジョン産の素材を仕入れることは難しくなったけど、なぜ農具と首を傾げる。
「……申し上げにくいのですが、この国はずいぶんと旧型の農具を使っているように思いますので、農具を一新すればかなり生産効率が上がると思います」
予想外の言葉に、私は瞬いた。
「農具一つで、そのように変わる物なのですか?」
「少なくとも、自国で農具を一新したときは収穫量が二割近く上がりました。恐らく、この領地でも同じように収穫量が増えると思います」
「……それは、夢のような話ですね」
二割と言うと少なく聞こえるかもしれない。でも、アルステリア領の食糧事情はギリギリだ。そこに二割の食料が足されるのなら、いまの状況を変えられるかもしれない。
そうなったら嬉しいなと笑う私をまえに、ファリーナはゆっくりと首を横に振った。
「夢ではありませんよ。私達が協力し合えるのなら」
ファリーナがそう言って手を差しだしてくる。
本音を言うと、もう一度マリエス族を信じることには不安があった。でも、私達を裏切ったのはバルサズであり、グラセッド商会だ。
だったら、もう一度信じてみようと、私はファリーナの手を取った。
「ファリーナ様、これからよろしくお願いします」
「リシェル。私のことはファリーナと呼んでください」