序章
目隠しを外された朝陽の足許には、地面に開けられた大きな穴があった。見渡すと顔を上に向けない限り空は見えず、荒れた大地が広がるばかり。今まで坂を下ってきたことを考えると、途轍もなく大きなすり鉢状の地面の中心にある、大きな穴の前に立っていることが想像できる。
朝陽は何者かに、先の細く硬いもので背中を突かれる。突然のことでよろめくが、なんとか踏ん張ってみせた。すると、自然と朝陽の視線が穴のほうへと向けられる。
足許にある大きな穴をよく見ると、石造りの階段があるのが確認できた。再び背中を突かれたため、朝陽は背後にいる何者かの指示に従い、穴の中へと入っていく。
穴の中の階段を下りていってしばらくすると、あたりは完全に真っ暗になっていた。転ばないよう無事に階段を下りるには、足許を照らす明かりだけが頼りな状況。朝陽は踏み外さないように気をつけながら、ゆっくりと階段を下りていく。
穴の中の階段を下り始めてから、体感一時間ほどが経ったぐらいで、ようやく階段を下りることができた。すると、目の前に錆びついた鉄の扉が姿を現す。背後から手が伸びてきて扉を開けると、薄明るさと同時に、生暖かい空気と臭気が立ち込めてきた。朝陽は気分悪そうに顔を歪ませながらも、扉の向こう側へと足を進めた。
扉の向こう側へと入ると、先ほどとは異なり、薄明るい空間が広がる。朝陽の視線の先には、硬い土の壁の中に作られた受付窓のようなものがあった。再び背中を突かれると、そこまで歩かされる。
受付窓のある部屋の前まで来ると、部屋の中から軍服を着た男が窓を開けた。男は眼鏡をかけた痩せ型の神経質そうな容姿で、この男の背後の壁には銃が飾られている。そして、朝陽の背後にいる何者かが手を伸ばし、部屋の中にいる男に書類を渡した。男は受け取ると目を通し、書類に何やら書き込む。さらに拇印をして、書類の一部を背後にいる何者かに渡すと、頭を軽く縦に振った。
またしても、背中を突かれると、朝陽は受付窓のある部屋を離れて、防護柵のあるところまで歩かされる。防護柵の目の前まで行くと、下を見下ろした。
そう、ここは地下監獄。この監獄の出入り口付近の形状と、囚人を蟻に見立てているところから、通称蟻地獄と呼ばれている。この地下監獄は軍が管轄しており、盗みなどのものから大勢の人間を殺してきた凶悪なものまで、あらゆる罪で捕えられた男たちが収監されている。
防護柵の下を見ていると、各階に鉄の扉が無数に存在している。
朝陽は防護柵の端まで歩かされると、そこから階段を下り始める。階段を一段一段下りるたびに、生暖かさとともに悪臭がひどくなっていく。
何階か階段を下りたところ、今度はその階にある無数の鉄の扉が並んだ狭い通路を歩かされる。通路は薄暗く、所々に土の壁をくり抜いた場所があり、そこにはランタンが置かれていた。
通路を歩いていくに従い、ランタンの明かりがついていない割合が増えていき、段々と進む先が暗くなっていく。鉄の扉の隙間からは、何やら人の息のような音が聞こえたり、時折奇声も聞こえてきて、そのたびに朝陽はビクッと身体を震わせた。
目的の部屋までたどり着くと、地上からここまで連れてきた看守が朝陽の手錠を外した。二人のあとをつけてきたもう一人の看守が、鍵を使って目の前の扉を開ける。看守から銃を突きつけられると、朝陽はそれに従い中へと入った。
朝陽が中へと入り扉が閉まると、監房の中が途端に真っ暗になった。だが、扉の隙間から入り込む微かな光によって、次第に目が慣れていく。しばらく経つと、監房の中の様子が段々と浮かび上がってきた。そして、朝陽は監房の中の様子に驚愕する。
監房内部を取り囲む硬い土の壁一面に、絵がぎっしりと描かれていた。それはどれもおぞましく、若い女性が男たちに強姦されているものから、骸骨姿の死人が生者に襲いかかってるもの、拷問の数々、そして、悪魔たちに生きたまま人間が喰いちぎられていく様子まで、様々な惨たらしい光景が壁一面に広がっている。絵は赤みがかった黒色のみで描かれており、ひとつひとつの絵が集まることによって、壁全体に一つの巨大な模様が浮かび上がっているかのように見える。朝陽はこれらの絵を見ていると、絵から鼓動が聞こえてきて、胎動しているように感じた。
「蟻地獄へようこそ」
突然何者かの声が聞こえてくる。朝陽は絵から少し視線を下に向けると、囚人服を着た壁にもたれかかっている人物に目が留まる。少し長めの黒髪に、目には隈があって血色が悪い。このひどく痩せている若い青年が、まっすぐ視線を向けている。
朝陽はこの得体の知れない青年の存在に警戒したせいか、こめかみから汗が一筋流れ落ちた。その様子を見ていた青年は、何やら不気味に微笑む。
「そんなに怖がらなくていいよ。別に取って食おうなんて思ってないから」
青年がこのように言ったものの、朝陽は警戒を解かない。
「ははははっ、そんなに警戒してたら、身がもたないよ。どうせ、これから一緒に生活することになるんだから。ねっ、ほら、そんなところに立ってないで、こっちに来なよ」
青年の言葉にどこか馴れ馴れしさを感じながらも、彼の言葉の半分は納得がいったようで、朝陽は青年のそばまで近づいた。朝陽が目の前に来ると、青年は再び不気味な感じで微笑む。
「……この絵、すべて、あんたが描いたのか?」
「そうだよ。いいでしょ?」
朝陽はその言葉に無言で答えた。
「ねえ、ところで君の名前は? 君のことはなんと呼べばいい?」
朝陽は青年の言葉に目を細めた。そして、渋りながらも、なんとか声を出した。
「……朝陽」
「朝陽かあ、僕は白夜。よろしく朝陽」
白夜はそう言うと暗く微笑んだ。