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最終章 無意味な選択

 朝、目覚まし時計に従わずに起きた朝は清々しく、頭の中もすっきりしていた。

 起き上がって隣を見ると…楓がベットの上で、窓の外を眺めていた。すでに着替え終わっていて、携帯の時間を見てみると、8時。楓はいつももっと早く起きてるから…そりゃそうだろう。


「ん、おはよ遅起きさん。」

「おはよ…。ねむ。」

「昨日結局四十三個までしか言わせてくれなかったくせに。」

「十分だろ…。ふわぁあ……顔洗うか。場所は…あぁそうだ、教えてもらったわ。」

「いってらっしゃい。早く戻ってよ。お腹空いた。」

「え、まだ食べてないの?」

「当たり前でしょ。きい君と食べるんだから。」

「…じゃ一瞬で準備してきます。」

「んー。」


 俺はできる限りの最速で顔を洗って着替え終わり、楓の部屋に戻った。俺はベットの上で楓が持っていたものに、目を見張った。

 青色の、ペンギンのぬいぐるみ。


「それ…は。」

「え?…あぁ、なんか、朝さ、まだきい君が寝てた頃に男の人が『これはきっと君の大切なものだから』って。渡してくれたの。知らない人で…でも確かにこのペンギンは私のものな気がしたから、もらったの。」

「…その男の人は、何か言っていた?」

「うぅん。おはよう、元気かい?って。私もおはようございます、元気ですって答えた。それでこの青ペン渡してくれた。不審者か?って思ったけど、喜一良義君の事を知ってるみたいだったから。それにその人…すっごい悲しそうな顔をしてて…。私も思わず、悲しくなっちゃって。」

「…そうか。」


 名井戸さん、来てたんだな。…そしてペンギンを、か。


「きい君このペンギン、私いつ買ったか覚えてる?」

「…俺と、一緒に色違いで買ったんだ。」

「そう…。ごめんね。私もう覚えてない…から。…前の事。」

「いいさ、今さら…。」


 …おかしくないか?どうして楓は…自分が記憶喪失のなりかけであることだけは覚えていられるんだろう。毎朝里美さんが教えてくれるんだろうと、その時は納得した。

 残り三日間、楓とどう接してくかあまり考えないことにした。隣にいるだけでいいのだから。俺にとっても、楓にとっても。


「とりあえずご飯食べに行かないか?お腹空いたから。」

「こっちは誰かさんが起きなくてずっとお腹空かせてたんですけどね!」

「…すいません。」


 食の事について怒った楓を鎮めるには…食しかない。

 俺達は食堂に向かった。楓は何かに取りつかれたようにご飯を食べて、俺を睨んでの繰り返し。どんだけの恨みを俺は買ったんだ。

 食べ終わったら、楓に昨日買ってもらったあの本を読むか。


「楓。」

「何?あげないよ。」

「いらないよ…。食べ終わったら本読まないか?」

「本?」

「『暮れる頃に咲く花の正体』って本だ。…知ってるか?」

「んー…知らないや。お気に入り?」

「まぁそんなとこ。で、どう?」

「いいね。外に息抜きしに行きたかったけど…読書もいいかも。じゃ早く食べちゃおう。」

「あぁ、そうだな。」


 楓はそう言った三十秒後には食べ終わってしまった。カー○ィなのか楓は。

 お盆に皿を乗せてかたずけ、どこで読もうかという話になった。


「んー…普通に病室出たところにある交流スペースでいいんじゃない?あそこ静かだし、外の景色も見れて綺麗だし。」

「いいな。そうするか。」


 それから午前中は『暮れる頃に咲く花の正体』を楓と読んだ。俺がめくって、楓がめくれたページを受け止めて。一冊しかないのでこう読むしかない。…もちろんできるだけ近づきたい口実ではある。

 待て待て、今は本に集中しなければ。

 内容は…今の所ミステリだな。主人公の許嫁が誘拐されて…その真犯人を仲間たちと探す物語のようだ。昨日の楓はこの本がお気に入りと言っていたが…どういう結末を辿るのだろう?

 俺も楓も本好きなのに変わりはないので、少し読み始めてすぐに集中しだしてしまった。この時間が長く続けばいいのに。切に思う。


「…この南崎さんって誰だっけ。」

「主人公の弟じゃなかったか。登場キャラ多いよなこの小説。」

「だよね。ありがと教えてくれて。」

「ん。」

「え、待ってじゃあこの馬路って人は?」

「それは…確かその南崎さんの友達。まだあんまり関わりも会話も少ないけど今後関わってくるキャラなんじゃないか?」

「なるほど…。これは読み応えあるね。」


 半分ほど読み始めて、楓が疲れてきたように見えたので少し休憩にした。


「ふぅ…面白過ぎる。」

「だね。これは一気に読めちゃうタイプ。」

「俺は今の所あそこが印象的だな。前半のあの、さえりがミントに寄り添うシーン。良かった。」

「え、そんなシーンあったっけ?」

「ここだよ。」


 今読んでいたところに栞を挟んでから、そのシーンを楓に見せた。


「お、ほんとだ。……え、でもさ、主人公のミントは許嫁探してるんだよ?それをこのさえりって女の子わかってて…近づくのどうよ、女としてさぁ!」

「おぉ落ち着け…。一人でヒートアップするな。このシーンは普通に仲間として、苦行に心折れかけてる主人公に寄り添ってるだけなんじゃないか?」

「…んー。私ならやだよ。きい君にどんな感情であろうと、近づく女の子。私がいない間に。」

「…今俺も逆の立場で考えたら嫌だったわ。」

「でしょ?ん、私もう元気だから読も、続き。」

「おう。」


 読書を再開してから五分ほどして。


「…この南崎さんって」

「主人公の弟。」

「あぁ…ありがと。」


 十分後


「…馬路なんて人いたっけ?」

「南崎の友達だよ。」

「あ、そっかそっか…。」


 二十分後。


「えぇ…このさえりってキャラさ、どう思う?」

「嫌だな。」

「…だよね。」


 三十分後


「…南崎って」

「弟、ミントの。」

「…ありがと。」


 そうして、四十分後。


「はぁ…読み終えた。」

「…結構すぐ読めたね。」

「あぁ。勧めてくれた人に感謝だなこれは。最高の一品だった。」

「……私ちょっとトイレ行ってくる。」

「ん。」


 楓はなんだか暗い顔をして去っていった。

 にしてもこの本面白かったな…。続きとかないのかな。結構伏線残ってたんだけど。

 ちゃんと全部回収されなかったからどこか読み飛ばしてたのかもな…。ちょっともう一回見るか。


 そうして、話の要点だけ見ていたら…楓が一向に帰ってこなかった。どうかしたのか?…ってもトイレまで見に行ったらアウトだよな。

 不安になってきた頃、楓が帰ってきた。


「あぁ、楓。遅かったね?」

「…ねぇ、きい君。」

「どうした?」

「…あの…さ、ちょっと部屋戻らない?話したいことがある。」

「…?」


 言いにくそうに、楓はそう言った。断る理由もなく、それどころかどういう用件か気になったのでついて行った。

 部屋に着き、楓はベットに座る。隣をぽんぽんと叩いて俺にここに座れと催促してきた。基本俺は楓の言う事に従順なのでもちろん座った。

 まだ明るい外から差し込む光と同等の、重さの空気が流れている。


「…きい君さ、今の私といて…楽し?」

「え…?それは、その…ど、どういう事、ですかね。」

「私は…楽しくない…かも。きい君と、一緒にいるの。」


 もう壁をぶち破って吹き飛ぶレベルで俺はショックを受けていた。脳ごと揺れてたかもしれない。あれ、目が熱いな…。

 放心している俺に楓は慌てて弁明しだす。


「あ、違うからね?!私がきい君の事キライになったとかそういう意味じゃないから!?」

「じゃなんで…そんな事を。」

「さっきさ、本。読んでたじゃん?」

「読んだな。」

「読めば読むほど…最初の方の内容、覚えてなくて。話のつじつまが、所々合わなくて。それでわかんないとこ…きい君教えてくれるじゃん。誰がどのキャラで、とか。」

「…ああ。」


 そうか…。あまりにも、楓がそういう症状という事に慣れてきてしまっていたのか、俺は。楓が同じ質問をしていることに疑問も持たず、目の前の本に集中して…。隣で読む彼女は、内容もわからず、質問しても俺はそっけない対応をしてしまっていた。


「ごめん、わかった。何が言いたいか。」

「…ありがと。それでさ、一個…提案というか、あるんだけど。」

「何?」

「今日はもう…帰ってくれないかな。このまま、きい君と一緒にいると…多分また私泣いちゃって、なんにも考えられなくなっちゃう。んや、わかる、わかってるよ、きい君と長く、長く一緒に居たい。私もきい君も…そう。ただ…もう今日は辛いかな。きい君はきっと気にしてくれてないんだけど、私は気にしちゃうから。…その、何回も同じ会話されて、何回も同じようなこと一緒にされてきい君は私の事めんどくさいとか思ってるのかなって。」

「そんなこと…。」

「思ってないんだろうね…。きっとさ。けど一度理解して、自分を納得させても…そのことを、忘れるの。繰り返されるんだよ…。もう来ないでって意味じゃないよ。もっと、もう少し私のこの症状が深まったら多分気にしちゃうことすら忘れだすから、そしたら話そうよ。本も読もう。まだ二日もある。だから今日は…帰って欲しい…。」


 素直に帰りたくなかった。だけどこのままここに無理言って居続けても、楓が辛いだけだって、そう思ってしまった。まだ二日。いやもう…二日だ。

 なんとか楓を説得したかった。けれど何と言っても…どうしようもなくて。

 俺は楓のその言葉に、従ってしまった。俺の最大の弱点は楓だから。


「わかった…今日は帰る。」

「ありがとう。…また明日ね。」

「あぁ。」


 また明日。その言葉だけが救いだった。

 まだ明るいうちに、家に帰る。…最近は中々しなかったことだったから少し新鮮だった。朝早くに病院に向かって、夜遅く楓が寝る頃に帰る。俺のこのところの日程はそんなんだったから。


「帰って何しようか…。」


 この無力感の中の病院から家までの長い帰宅は、息ができない感覚に近かった。。

 俺は、楓といたい。それは変わらない事実だったから、明日からはただタイムリミットを過ごしているだけじゃだめだ。楓が辛くならないような、俺がそばに居てもいいような、工夫をしなければ…。


 次の日。楓がすべて忘れるまで、残り二日

 昨日の夜考えたあれなら大丈夫だろう。てかこれしか思いつかなかった。

 また八時頃に病院に姉さんに送ってもらい、楓の病室に向かう。


「おはよう、楓。」

「……?」

「かえ…で?」


 嘘…だよな?


「あ、あぁ…。きい君か。おはよう。」

「…楓」

「ごめん今…君のこと一瞬…誰かわかんなかった。」

「そっか。そろそろ…だな。」

「あと何日くらいなの?私が忘れちゃうの。」

「二日だ。明日が、最後。」

「そう。…最後に何か、思い出に残る事でもする?キミの思い出に。」

「なんだそれ。その言い方じゃまるで…俺がもう楓との思い出を作らないみたいな言い方じゃないか。」

「…私そっちの方が良い気がして。」

「え?」

「私が全部忘れてもさ、私に…会いに来ないでほしい。」


 楓が一瞬何を言ってるかわからなかった。もう来ないでほしい…?俺は、記憶を失った君から離れないと…決意したんだ。素直に受け止めることはもちろんできなかった。


「どうして…?」

「だって、きい君辛いじゃん…絶対。私の事、好きでしょ?」

「当たり前だ。」

「なら…今さら私に、虹咲楓に初対面で接せるの?私なら…怖くて、逃げるよ。もし明日からきい君が私のこと忘れたように過ごしてて、声をかけても「誰?」って言われるの。立ち直れない。絶対。」

「俺はそんなことない。」

「…かっこいいね、言いきっちゃえるんだ。強いもんね…きい君は。わかんないんだもんね…きい君はさ。最愛の人を…忘れる怖さ。」

「確かに…わからないな。忘れられる怖さを、俺はわかってない。経験したことないから。だがな楓、覚えておけ。」

「無理でーす…」

「無理でも。」

「…はい。何?」

「俺は一途なんだ。楓の事、忘れられないんだよ俺は。」


 今楓はきっと、自暴自棄にでもなっていたんだろう。度重なる記憶の混濁、消滅。そりゃ壊れもする。何もかも捨てて、一人でいたかった。多分俺の事を思ってくれてることも、あるんだろうが。

 そんなことさせない。誰だろうと、楓だろうと。

 これ以上楓が一人で狂って行くのだけは、嫌だった。それは俺にとって最も辛いことだから。


「…ふふっ。」

「なんだか久しぶりに楓の笑顔見た気がするよ。」

「私は…どうだろ。でも笑ってなんだかすっきりした気分だよ。泣くこと以外でも…あるんだね。すっきりする方法。」

「良かったな、知れて。」

「忘れちゃうけどね。」

「俺がまた教えるよ。」

「…うん。それで今日は何するの?パズルとかならできるよ。オセロも将棋も。」

「あ、それ俺が昨日の夜必死考えたやつ。」

「えぇ…。これくらいしかないでしょ今の私たちができる遊びって。会話もいらないし。」

「少しつまらないけどな。話さないと。」

「そう?一緒にいるだけで私、幸せだよ。」

「ならやろうか。間宮先生から借りてくる。」


 そう言って座っていたベットから立ち上がり、部屋を出て行って間宮先生の部屋へ行こうとした時、楓が何か言ったようなきがした。


「……ん。」

「え?」

「なんでもない。早く行ってきなよ。間宮先生忙しくなると捕まえにくいらしいから。」

「マジか。すぐ行く。」


 あまり気にせずに、俺は間宮先生の部屋に行った。すると、先生はいなかったが代わりにボードゲームの詰め合わせと置手紙が。

『好きに遊ぶといい。間宮より』

 とのこと。察しの良い人だな…。

 そのボードゲームを持って、俺は部屋に戻った。


「あ、おかえり。借りれたんだね。」

「間宮先生いなかったけど、置手紙があって持ってけってさ。」

「おぉ、察しの良い人だね。間宮先生。」

「俺もそう思った。それじゃまず何やる?」

「駒崩し。」

「そこ変わらないんだな…。」

「私は変わらないよ。」

「…だな。」


変わらない。それは間違いではない。けれど…今の君とはもう会話する事が出来なくなってしまう。その葛藤をも一緒に感じられないのだ。

そう感じた事でさえ君は忘れてしまうから。


 午前中は将棋にチェス、オセロなどとにかく遊びつくして、お昼を食べてからは散歩に出かけることにした。どこか遠くにでも行こうかと提案したけれど、それほどの気力はないみたいで。

 朝起きたら、看護師里美さんか、間宮先生にあなたは記憶喪失の手前と言われる一日の始まり。…そうしてよく思い出してみても、思い出せるのは僅か。疲れる、とかそういうレベルじゃない重たい朝だろう。


「寒い。」

「もっと着て来いよ…。はい。」

「ありがと。」


 すでに雪が降ってもおかしくない時期だ。寒さが尋常じゃない。楓は舐めて割と軽装で出てきていた。おかげで俺のダウンが奪われたじゃないか。


「人のぬくもりを感じる。」

「俺が来てたからな。」

「きい君のぬくもり…放したくないねこれは。」

「どうしようもないぞ。…さむ。」

「はは、馬鹿だねきい君。」

「あのなぁ。」

「私の匂いつけて返してあげるから我慢して。」

「本体が良いです。」

「君のものでしょ、私は。」

「…今すごい恥ずかしい事言ってるのわかってる?」

「えへへ、どうせ忘れちゃうから良いかなって。」

「暴走しちまった…。」

「ふはは~。きい君といる間は何も気にしなくていいから、ラク。」

「そりゃ…よかった?」

「良い事。朝はそう思わなかった。記憶喪失前の私といることは、この先の君にとって辛い事だってふと気づいたから。けど、私が何を言っても無駄みたいだからね。」

「残念だったな。」

「嬉しい誤算ですよーだ。…信じて、いいんだよね。」

「あぁ。…明後日、またもう一度告白してやるよ。」

「楽しみにしてる。けど約束はしないよ。」

「わかってるさ。…はっくしゅん!」

「あらら、流石にそろそろ帰ろうか。」

「そうしよう…ズズッ…。」


 病院に戻ってからは、特に会話もせず楓が寝る間でずっと近くにいた。何度か、もう帰ったらと楓に言われたが絶対に頷かなかった。わがままなヤツだと思われただろうか。思われただろうな。

 結局、楓が寝てから俺は姉さんを病院に呼んで家に帰った。流石に怒られるかなと思ったが、むしろ姉さんは「今日もよく一緒にいてあげたな」と褒めてくれた。それは俺の、今一番の生きがいなんだけども。



 翌日、楓の記憶が失われるまでの、最後の日。

 間宮先生が約三日がリミットと言っていたから、もしかしたら明日もまだ覚えてくれているかもしれないし、最悪今日すでに忘れられてるのかもしれない。けれど結局やることはかわらない。過去の彼女を忘れず、その瞬間の彼女の近くに居続ける。決意したその思いは変わらない。


 …けれど、俺は思い知る羽目になった。己の弱さに。


 いつも通り、朝起きて着替え、いつも通り姉さんに送ってもらって、いつも通り、楓のいる病室に足を踏み入れた。

 最後の一日に対する俺の感情は、寂しさにやっとかという開放感の混ざった複雑な気持ちだった。


「楓、おはよう。」

「……だれ、ですか?」


 その複雑な感情全てを吹き飛ばす、五文字の言葉。何事も準備が九割だとわかっていて、それでいて前から心の準備をしていたはずなのに、脳は足に動けという命令をやめていた。


「…そう…か。そうだよな。…予想で来ていた…ことだもんな。」

「なんですかぶつぶつと…。」

「名前はわかるか。自分の名前。」

「…わか、りません。私は…誰なんですか。」

「君は、虹咲楓。記憶喪失者だ。」

「私が記憶喪失…?…そんな。」

「ショックだろうけど…落ち着いて聞い…

「じゃああなたは。あなたは私の家族なんですか?」

「俺は…君の恋人だ。」


 自分で言うのはなんだか恥ずかしかったが、胸を張って行ってやった。大丈夫、ここからだ。ショックを受けている場合じゃない。何もわからない覚えていない楓を、俺は支えてやらなきゃ。


「恋人…?…すいません、覚えて…ません。私は本当に…貴方を愛していたんですか?」

「好いてくれていたよ。」

「…ごめんなさい。私は、貴方を好きだと思う感情が…ありません。」

「いやいいんだ。それが普通というか…当たり前だよ。むしろ初対面の男にこんなこと言われて混乱させたかな。こっちこそごめん。」

「本当にすいません。」


 …どの話をどう切り出せばいいかわからなくて、俺は椅子に座ってしまった。


「…あの、帰らないん…ですか?」

「え…あ、いや俺は…。」

「私の事が好きだった。私も…貴方の事が好きだったかもしれません。確かに、どうしてか貴方の事を完全に知らない人とは思えてないです。…きっとあなたの言っていることは正しい。けれど…私は、今の私は貴方に特別な感情なんて、ないんです。帰って…もらえませんか。」

「…っ。」

「はっきり言って…気持ち悪いです。酷いことを言っているという自覚はあります。でも…今は諦めてくれませんか。私にも貴方にも…時間が必要だと思うんです。」


 …正論だった。確かに、俺はここにいる理由がない。必要がない。俺は楓の家族でもないし、付いている医者でも看護師でもない。ただの…恋人。最後に覚えられていた…ただ、それだけ。彼女に必要なのは未来を指し示してくれる大人であって、未成年の…無力な俺ではない。支えるという名目で自らの空いた心の穴を埋めるだけの存在。彼女にとって俺は不必要な存在、邪魔な存在なのは明白だった。


「…ごめん。俺が…おかしかった。」

「…すいませんこっちこそ。朝起きてから…頭がまとまってなくて。」

「そうですよね。…俺は、もう来ません。すぐに来ても困らせるだけだと思いますので。」

「…そう、ですね。」

「いつかもしまた会えたらその時は…挨拶くらいは。」

「はい。…それじゃあ…。」


 楓は、いや…虹咲さんは精神的に疲れているだろうにわざわざ立ち上がって俺を見送ってくれた。


「…あの、名前だけ聞いてもいいですか。」

「秦理、喜一良義です。」

「喜一良義さん、ですね。それじゃあ…本当にすいませんでした。」

「こちらこそです。…じゃ。」


 喜一良義さん。その呼び方が、何の熱も籠ってないただ人を呼ぶだけの言葉が、するりと耳を通り全身を巡った。

 カタンと後ろでドアが閉まる音。


「何が…俺は一途だ、だよ。ただキモいだけじゃないか。何が…一人にさせないだ。彼女は別に…一人じゃない…。ダセェな…俺」


 部屋から出ても、まだ足は動かなかった。蹲り、涙をこらえていた。

 心の最終警告。目からこぼせば、俺は何かもを認めることになる。

 …まだ結論を出すには…時間があるはずだ。

 一度立ち上がって…無理矢理その足を動かした。

 ここにいても邪魔なだけだ。

 諦めるか、例え不審者だと言われようとも楓のそばにいるか。

 その答えを決めることを、俺は渋っているんだ。

 一階に降りて、外に出ようとした時だった。


「喜一良義君。」

「間宮先生…」

「……楓ちゃん。もう覚えてないんだね。」

「…はい。」

「…どうした。現実なら変えられるんだろう?」

「……現実は決まってるんですね。俺、知らなかったです。」

「…そうかい。」


 それ以上間宮先生は何も去っていく俺に言わなかった。言ってくれなかった。

 聞きたいことはあった。新しい海馬はしっかり機能しているのか。今後の彼女はどうなるのか。…しかし、どれも聞いたところで俺が何か関与するわけでも、ない。俺ができるのは、隣にいることだけ。それすら彼女が不必要だと拒絶するなら、俺がいる意味も、俺である意味も…ない。


 目的もなく俺は歩いた。知らない町裏、路地裏。車の多い橋の下。

 来たこともなく名前も知らない公園。子供たちが遊んでいるのを見て、今日が休日であったことを思いだす。曜日間隔なんて狂ってたからな。

 空腹すらも俺の気を紛らわせることはできずに、すでに十二時を町は回っていた。


「…学校、行ってみるか。」


 家には帰りたくなかった。あの近くは…思い出が多い。それに部屋には彼女と言った様々な場所のお土産や写真がある。今それを見てしまえば…きっと捨ててしまうだろうから。

 休日ならば学校に行ってもほとんど人はいないはず。学校にも彼女との思い出は多いが…今は最善の落ち着ける、人の少ない場所が思いつかなかった。

 少し歩くが、今の俺には歩く時間が欲しかった。寒さに少しずつ悴んでいく体。自分の体を大切にしないことで、痛みと寒さで心の穴を埋めようとしていた。

 十五分ほど歩いただろうか、ようやく前まで通っていた学校にたどり着いた。


「…明日から通えんのかな。」


 休日だが学校というものは空いていて。部活動で生徒がくれば、その引率として教師もいるわけで。人の少ないだろうという予想は外れてしまった。

 けれど無意識に俺は人がいることをなんとなく気づいていて、気づかないふりをしていたように思えた。

 誰かと話したかったんだろうか。


「ドア開いてんじゃん。」


 不法侵入の気分。生徒だけど。

 怯える気持ちとは裏腹に足はずんずんと校舎に入って行った。病院じゃ、まるで麻酔を打たれたように動かなかったのに。

 廊下に出た辺りで…名前を呼ばれた。怒られるかと、ドキッとしたのもつかの間。名を呼んだ人は一番信頼できる教師だった。


「あん?秦理か?」

「…なんだカミ先か。」

「なんだとはなんだ…。久しぶりに面見せたと思ったらなんて顔してやが……」


 カミ先はそこまで言って、言葉を止めてから考えるような顔つきになった。

 そしてポケットを叩いて何かを確認してから俺の腕を掴み…


「なるほど。ま、ついてきな。」

「どこへ行くんです?」

「良いから、こいこい。」


 カミ先はきっと今の俺の表情とは対となる、嘘偽りない笑顔でだった。しかし馬鹿にしているような笑顔ではない。心にそっと寄り添うような、優しい笑顔。

 何が何だかわからないまま、俺はカミ先の行く先について行った。

 階段を昇り、昇って…また昇って。昇って昇って昇って。


「よっ…と。開いた開いた。」

「…屋上って禁止されてませんでしたか?」

「教師が開けたんだから良いんだよ。」


 連れてこられたのは屋上だった。明るくて、町中が見渡せた。上から見下ろすだけで人間というのはその全てが自分のもののように錯覚する。

 悲しいかな、俺はこの広い街のたった一人に縛られてるんだから。


「私はこの町の出身じゃないんだ。」

「どうしたんですかいきなり。」

「黙って聞け。ここらに住み始めて五年は立つが…行ったことない場所がごまんとある。秦理はここの生まれだったよな?」

「そうですけど。」

「つまりは十七年はこの町にいるわけだ。けど、知らない場所なんて沢山あるよな?」

「…。」


 そう言われて、町をもう一度眺めてみれば確かに知らない建物や公園、施設が多くあるように思えた。


「まぁ…はい。十七年とは言え、ほとんど同じ道を歩きますから。」

「学生ってのはそうだな。そういうもんだ。私は大人になって移動手段も行く理由も増えたから、いろんな場所に行ったがそれでもこの世界にはまだまだ楽しい場所、つまらない場所、綺麗な場所、辛くなる場所。たくさんあるだろう。」

「…カミ先、あんたさっきから何を。」

「要するに、何かに固執する必要はないんじゃないかってことだよ、秦理。世界は広いんだから。…大方虹咲に忘れられて、自分の立場に気付いたんだろう?」

「先生は察しが良すぎますよ、本当に…。」

「私の取り柄でもありダメなところでもあるがな。言ってしまうところが特に。」

「確かに。」

「秦理、お前にとって虹咲は欠け外のない、大切な存在。あいつがいなきゃお前は死んだような気持ちになる。違うか?」

「じゃなきゃ今頃落ち込んでません。」


 少しオーバーな言い方だなと思ったが、なるほど。確かにこうして屋上にいると…そういった感情も湧かなくはない。


「だよな。だが人間ってのは生まれながら、これがなければ生きていけないと決めつけたものほど、代用できるもんだと私は思う。あー言いたいことはわかってる。水も空気も代用できるようなもんじゃないだろって。」

「…いや別に言いたいとは。」


 思ったけど。


「けど普通、『私空気が無きゃいけていけないわー』だとか『俺にとって水は欠け外のない物だー』なんて、言わないよな。海に溺れた奴か砂漠で遭難してるような特例以外じゃそうだろう?」

「そりゃまぁ…はい。」


 いるかもしれないが、確かに普通ではないなと納得した。

 さっきからカミ先が何を言おうとしているかはわかっていたが最後まで話を聞くことにした。俺に用意されている片方の選択肢を、カミ先は説明してくれている。


「現実的に考えよう。『俺はギャンブルが無きゃ死ぬ!』とか『私は仕事をしなきゃ生きていけない。生きがいだわ。』ってやつがいるとしよう。一つの対象の物がまるで自分の命のように扱うやつがな。」

「それが人間なんじゃないですか?」

「そうさ。どちらも人間なんだ。仕事が生きがいだとしても、リストラされた瞬間死ぬわけじゃない、ギャンブルで生きていけるかもしれない。仕事をせずにも生きていく手段が0ではないんだ。逆にギャンブルが無きゃ死ぬってやつは…言わなくてもわかるだろ?働けよって話さ。つまりな、秦理。何かこれがなければいけない、なんて事ありえないのさ。…虹咲がいない人生だからって、幕が下りただけなんだ。辛い顔して次があるかもわからない開演を待つ必要はない。隣の劇を見に行けばいい。断然早いし、気持ち的にラクだ。」

「…やるせないですよ。」

「確かに…な。プライドって友達さえいなきゃ私たちはスマートな生き方ができる。だがその友達が、友達じゃなくなった瞬間身を滅ぼしていったやつを何人も見た。この眼じゃなくとも紙面でも。秦理喜一良義、お前の人生はまだ…終わってないぞ。」

「先生は楓を…諦めろって言ってるのか。」

「諦めて次に目を向けろって意味だ。自分の顔、今一度見てみろ。…私がそう言った理由、わかるぞ。」


 所々、否定できる箇所はあれど今カミ先が行ったことは正しいように思えた。実際楓の事を忘れのびのびと生きていけば…逃げればラクなのは確かだ。この先、運命の相手の二人目が来る可能性だって0じゃない。その人を幸せにすることと、楓の隣になんとか居続けられた幸せ。同じ四文字であることに変わりはなかった。

 一途、決意の意地。なんだか薄っぺらく見えた。


「…行きますね、俺もう。」

「そうか。悩む時間は、あるからな。結論が出て私に何かできることがあれば言うと良い。力は貸そう。」

「ありがとうございます。少し…考えがまとまりました。」

「あぁ。…あと帰ってきたら大量の追試が待ってるからな。」

「カミ先はそういうところですよ…。」


 作り笑いだったか素の心から出た笑顔だったか、曖昧になる笑顔を浮かべ俺はカミ先のそばから去った。

 顔を見てみろと言われたのでトイレの鏡を見てみると…


「はは…酷い顔だ。」


 生気のない顔。加えて青白い。死人だなこりゃ。

 鏡の奥で、用を足していた男子生徒が俺の後ろを横切っていった。人がいたのか。

 そいつは俺の隣で手を洗い、ぱっぱと手を振る。ハンカチねぇのかよ…。

 ふと気づいたように、そいつはこっちを見た。


「……喜一良義!?」

「お前…木崎か?」

「おぉ我が友よ!そんな顔してどうした!?誰にやられたんだ!?」

「だーうるせぇ変わらねぇやつだなお前は…。てめその手で触んなよ!?」

「あ、すまん。」


 騒がしいやつとトイレで会話はちょっと情報量と人への迷惑が甚大なので外に出た。


「最近どうしたんだ?もうテスト終わったぞ?俺の結果か?水平線だ。」

「意味わから……まさか全教科赤点すれすれ?」

「ふっふっふ…全教科赤点+一点だ。」

「才能だなもはや。」

「今回ばかりは俺の勝ちだな喜一良義!」

「言い返せねぇ。」

「ふははは!ま、喜一良義には楓さんがいるからだいじょ…ってそういや楓さんも結構前から来てなかったんだっけか。二人して旅行かとか噂されてたぜ。桃実のやつとか泣いてたぞ。」

「楓はちょっとな…でも、桃実は泣くわ、確かに。ははっ。」

「ぬはは!」


 男同士の友情は単純である。久しぶりに話してもわだかまりなく楽しいのだから。カミ先の言った通り、欠け外のないものに縛られなくても…良いのかもな。

 楓が一人じゃなかったように、俺も一人じゃない。


「…そういやお前今日休日なのにどうして学校にいるんだ?」

「部活と補習だ。」

「部活と…補習?赤点じゃなかったんだろ?」

「お前がカミ先だとして、俺のような成績のやつを野晴らしにさせると思うか?」

「…思わん。今がなんとなっても来年度死ぬ。」

「だろ。俺も最初はめんどくせぇ赤点じゃなかったのにって思ったがカミ先結構的を得た事言いやがるもんだから…頷いちまったよ。」

「どうせ休みの間やることもないだろ。」

「うわ、言ってくれるじゃねぇか。喜一良義も的を得れるんだな!」

「赤子でもできるわお前になら。」

「はははっ!」

「…え、あ、ちょ…喜一良義!?」


 木崎と今の話をしていると、聞き覚えのある女子生徒の大きな声が廊下に響き渡った。うるさ。


「桃実か。」

「何してんのこんなところで…てか顔!ひどいわよ。そんな顔してりゃ楓ちゃんにふられて……まさかふられた?」

「んまぁ…そう言えなくもないのかもしれん。」

「おいおいおいおいおいおいお

「うっさい木崎補習してこい!」

「うぅ…俺とも久しぶりの再会のはずなのに…。」

「金曜に会ったでしょ。というか喜一良義どういうこと。一、二週間、あんたも楓ちゃんも学校、あの日から来なかったけど…。説明して。」

「…理由はない。無暗に他人に話すことじゃない。」

「他人…だって?私と、あんたが?私と楓ちゃんが他人?そりゃ木崎は違うかもしれないけど私はあんたも楓ちゃんも友達だと…親友だと思ってた!なのにいきなり連絡もせず来なくなって…私がどれだけ…心配したか…。」

「…桃実。」

「ねぇ俺への流れ弾、ねぇねぇ。」

「うっさい!」

「ごへっ!!」


 木崎は泣きかけてる桃実に吹き飛ばされた。すごいな、人って人飛ばせたんだ。

 俺の意思はすでにぶれかかっていて、その上の桃実の一撃。…というか、言ってもいいか。俺にとって友達、楓にとっては親友だ。

 俺は楓に起きていたことをできるだけ短くわかりやすくかみ砕いて説明した。

 記憶障害で、様々なことを忘れてしまったことを。

 朝、起きた出来事を。いつもは騒がしい桃実も木崎も俺が話している間は文句も言わず何度かそのあたりをうろちょろしながらも、静かに聞いてくれた。


「えぇええええ!?楓さんが記憶喪失!?」

「木崎お前どっかにボリューム調整機能ついてないのか?」

「ない。」

「そっか…やっぱりそうなんだ。」

「俺の声のボリュームがない事か?」

「違うシャラップ」

「はい。」

「桃実は気づいてたか。」

「少しね。まさかとは思ってたけど。なんか普段は絶対あの子がやらない変なミスしてたし、同じような会話も何回かしてきたし…。おかしいなとは思ってた。でも…記憶喪失…ね。」


 桃実はそう言って、俺に近づき…少し背が低いから腕を伸ばして俺の頭に手のひらを乗せて、撫でてくれた。温かい手だった。

 木崎がすんごい顔してる。


「…あんた辛かったね。」

「…!」

「我慢してたんじゃない?楓ちゃんの前じゃ弱音吐けないもんね。」

「…折れかけたよ、何度も。何度も。でも立ち直った。立ち直れたんだ、アイツの顔を見れば。なんとかなると思ってた。記憶を失っても…楓のそばに入れると思った。だけど…現実は、辛かった…な。確かによ。」

「私だって今、泣きそうだもん。もう楓ちゃんと前みたいに話せないと思うとさ。」

「喜一良義…桃実…。」

「ぐすっ、何よ木崎。あんたは気にしないのね!」

「何を…俺だって辛い!もう楓さんと喜一良義が…仲良く会話しているあの朝に二度と登校できないんだ。俺はな、喜一良義。お前がそんな顔でいることに居ても立っても居られねぇよ!二人して楽しそうに笑ってた…あの頃が……。」

「…木崎。」

「ごめん木崎、私悪い事言ったわ。」

「良い…。一人欠け外のない人がいなくなったようなもんだぞ。みんな辛い。そりゃな。」


 欠け外のない人…か。

 桃実は自分が満足したのか、俺の頭から手を放した。泣きそうな顔のまま…いや半分泣いているような顔だったが桃実はいつもの調子で話し始めた。


「で、どうするのよあんたは。」

「え?」

「記憶を失っちゃってから拒絶されたのは…確かに辛いわ。でもあんたそれでわざわざのこのこ帰ってきてはいおしまいって訳じゃないわよね?」

「さっきカミ先と話して…それが良いと俺は思った。」

「…理由を聞こうじゃない。」

「今の楓にとって、俺は必要な存在じゃない。むしろ付きまとう気味の悪い人物だ。過去の恋人だか関係ない。それは昔の話だ。邪魔になるのなら…もうあいつの前には現れないことにする。」

「それは…あんたにとってもラクだもんね。逃げたらラクよ。」

「あぁ。だからまぁ…すまないがもう楓には会えないし、会わないよ。このままこの学校に帰ってくるはずもないし、色々整ったら別の学校に…

「ばっっっかじゃないの!あんた!!!!」


 俺の頬は、さっきまで頭の上に乗せられていた温かいものに叩かれた。熱い。

 …桃実に、ビンタされたのか。

 横を向いた顔を前に向けると、桃実は泣きながら叩いた手を、もう片方の手で包んでいた。痛かったのかもしれない。


「も、桃実。お前喜一良義に何を…。」

「木崎はおかしいと思わないの?!喜一良義、あんたおかしいわよ!」

「…」

「楓ちゃんは唯一無二の存在でしょ、あんたにとって。それをどうして一度の挫折で…いや何度挫折しても諦める理由にはならないはずよ!今にも死にそうな顔して…馬鹿じゃないの?」

「死にそう…なんだよ。辛いんだよ。もう…楓の前に立つことが。…許してくれ。」

「許すですって…。あんたの罪は、まだ未遂よ?その罪を認めるには早すぎる。楓ちゃんがどう変わったって、あの子の人生にあなたは不可欠よ。」

「どうして…どうして言い切れるんだよ!」

「あの子を任せられるからよ!私が!」

「っ…!?」

「私、楓ちゃんといる時間。幸せに近いわ。天に上るレベル。」

「…それ盛ってね?」

「うっさい木崎黙ってて。」

「はい。」

「楓ちゃんと話すのは楽しいし、最高の友達だと思う。あんないい子見たことないから。でも…違うのよ。あんたに見せる笑顔とは。私と話す時とは明らかにね。」


 気にしたことがなかった。多分楓は俺と桃実に笑顔を意識的に分けたわけじゃない。そんなことする理由がない。自分に向けられる笑顔だけでいっぱいで、他の人への笑顔なんて…男にだったら嫉妬するくらい。


「あぁ、一番は私じゃないなってその時負けた気がしたわよ。あの子は喜一良義、あんたの事が大好きなの。それなのに記憶を失ったくらいで忘れるわけないじゃない。」

「桃実さーん…今矛盾したこと言ってるぜー?」

「何よ。私の言ってることはほとんど正しいのよ。」

「わあ、絶対王政な思考回路」

「とにかく一番の親友が言ってるんだから間違いないわ、喜一良義。明日また…いえ今日すぐ行きなさい。あの子の元に。何回も何回も…思い出させるまでね。」

「それはあまりにも…なんというか。わがままを言っているような気がするんだが。困らせるだけだ、楓を。なんと言おうが、あの頃の事はもうなかったことになったんだよ。楓にとっては…。」

「良いから行きなさい!義務よ、もはや。」

「そういう話しじゃねぇんだっての。」

「はぁ…わかったわかった。それなら喜一良義、あんたに鎖巻いてあげる。」

「は?」

「あの子の隣にあんた以外が立つなんてことがあった時には私、死ぬから。」

「またまたぁ、冗談言って。」

「ついでにこれも。」

「なんで俺も!?」

「逆にあんたの隣に別の女が立つのなら、同様に私とおまけが死ぬわ。」

「何冗談言ってんだよ、そんなん意味がな…


 桃実は勢いよく俺の胸倉をつかみ、顔を寄せてきた。

 そして物凄い剣幕で…当たり前のような雰囲気で吐き捨てた。


「本気よ!私は。冗談でもなんでもない!命をかけるほど、私は楓ちゃんの事を思ってる!!逆にあんたはないの!?あるでしょ!あの子に命を…人生をかけるほどの、愛が!!じゃなきゃ今頃あんた…そんな顔、してないわ!!」

「それ…は…。」

「嫌いなの?好きでしょ?楓ちゃんの事。ねぇ。…なんとか言ってみなさいよ。」


 嫌いかだって?そんなわけないだろ。好きかだと?そんなん…


「大好きだよ、好きだ。」

「わかってんじゃない。…その感情一つでいいの、やることもわかった?」

「だけどな…わかってないのはお前だよ、桃実。好きだから…大切に思っているからこそ、俺が楓にとって邪魔だから、もう目の前から去るんだよ。それが楓にできる、俺の最善なんだよ。悩んださ。悩んでるさ、今でも。結論なんて出てない。ただあの子の前に俺がいても意味がない。それだけはわかってるんだ。だから…。」

「もういいわ…。失望した。それは現実的な逃げよ、喜一良義。元々用意された綺麗な現実に納得してるだけ。それをあんたが望むのなら…いいわよ。もう。私が勝手に野垂れ死んだ時、後悔すればいいわ。…じゃあね。」

「…。」

「桃実…。」


 桃実は部活だったのか、ラケットを手に持って背を向け、歩いて行ってしまった。背を向く前の最後の顔は、まだ泣いていた。…ように、見えた。


「くそっ…俺だって…。」

「喜一良義…」

「考えてんだ…ずっと…。でも何しても…。」

「喜一良義!!」

「…木崎。」

「俺は桃実みたいにガツンと言えねぇ。…うまく今伝えたいことを伝えられるようなキャラじゃねぇからな。でも一つだけ、言わせてくれ。」

「…なんだ。」

「俺と楓さんは、別に仲がいいわけじゃない。だけど時たま、二人きりになる時も合ったりした。授業中だとか、お前を待ってるときとかな。その時絶対に、お前の話しかしないんだよ。共通の話題がそれしかないからってのもあるが…どんだけ違う話から入っても最終的に楓さんはお前の話に持ってくる。何の悪意もなくな。」

「そうだったのか…。」

「あぁ。もちろん俺もまたお前たちが隣り合って笑ってくれることを望んでる。けど俺は、お前のやりたいようにやっていいと思うぞ。どんなお前でも、俺は笑って話してやらぁ。…じゃあ、俺もそろそろ行くぜ。」

「…良いやつだよほんとに。お前も、桃実も。」

「人の事言えねぇだろっての!また学校でな!」

「おう。」


 木崎は角を曲がって見えなくなる最後まで、こっちをみて笑顔で手を振り続けてくれた。俺も最後まで、手を振ってやった。


「…帰るか、家に。」


 人気の少ない、部活動での生徒の掛け声を背中に受けながら俺は学校を後にした。家に帰ると言ったものの、かなりの遠回りをして帰ることにした。家に帰ったってやることがない。

 学校で、ぼやけていた選択肢がはっきりとした。

 カミ先は、楓の事をすっきり忘れて、また新しい未来を歩んでいけばいいと言ってくれた。

 桃実は、楓の事が好きなのなら信じて何度でも会いに行ってまた隣に立てと。醜くしがみつけば死ぬと言ってくれた。木崎ごと。

 その木崎は好きにしていいと…少しでも俺に足を進ませてくれた。

 二つの選択、逃げるか立ち向かうか。

 どちらも正解で、どちらも辛いことに変わりはない。

 悩み事が解決することはなくむしろ俺の頭はさらに紐が結ばれた気がした。


「どうしてこんなに…人生を平等に作ったんだ、神様はよ。」


 誰もいない道でそう嘆くと、空から白いものが降ってきた。


「…雪、か。」


 そういえば寒いな。…考えることにいっぱいで体の方を気にしてなかった。雪を見ると嫌でも思い出してしまう。楓と寒いねと言い合って手を握ったこと。お互いがお互いを思って手袋を買ったこと。俺のダウンのポケットに、まだ思い出が二つそろって入っていたが付けようとは思わなかった。


 遠回りしたとはいえ、流石に雪が強くなってくるとあれなので想定より早めに家に到着した。夕方ごろの帰宅。これでもいつもよりは早かった。


「ただいま。」

「おかえり、喜一良義。」

「姉さん…。今日は仕事じゃないんだね。」

「おう。なんなら寒かったから先に風呂入ったぜ。我が弟も入りな。」

「…うん。」


 こういう時に限って姉さんは何も言わない。一番大切なことは教えない。自分で気づくから大切だから。

 早めの風呂に入って、まだできていない食卓に座った。


「あら喜一良義帰ってたの。…いつの間にかお風呂にも。」

「うん。姉さんが入れって。」

「雫は寒がりだからね。でも今日は雪が降ったから私も入りたいわ。」

「ご飯食べたら入れば?」

「そうするわ。もう少し待っててね。」


 母さんは、最近俺が学校に行ってないことを黙認してくれていた。ダメなことはダメという母さんだが、大切なことに走っている息子を止めはしない、という事だろうか。父さんはむしろ学校に行くなって言ってくるレベルで楓のそばに俺をいさせたからな。今日の話したら…なんて言われるだろうか。父さんは寡黙な人だが根は桃実と同じだからな。楓のそばにがむしゃらにでも居ろと言ってくれるんだろうな。

 すぐにできた食卓を囲んでから、もうお風呂には入ったので部屋に戻った。もしかしたらもう家から出られないかも、と一瞬考えたが自分はそういうタイプじゃないかと変に納得した。悩み事は散歩して向き合うタイプだから。

 勉強をする気も本を読む気も起きず、ただ淡々と雪が降る窓の外を眺めていた。

 夜でも、雲はある。


 どれくらい眺めていただろう、ドアのノックされる音で俺は現実に意識が戻った。さて、誰だろうか。以前なら姉さんはドアをノックしないからまず除外されていたのだが今は違う。あの人はちゃんとドアのノックの仕方を知っていた。なので誰がそのドアを叩いた者かの予想は困難だった。何も考えず扉を開くと…。


「父さん。」

「こんな夜遅くすまないね。入ってもいいかい?」

「もちろん。」


 珍しいお客さんだ。大体この部屋に入ってくる家族自体、姉さんくらいなのだから。

 父さんは俺のベットの上に座った。隣に座るのもなんだかなぁと思い俺は勉強机の椅子に座ることにした。


「それで、何の用?」

「雫に我が弟が落ち込んでるって言われてね。とは言えそれだけじゃ何もできなからとりあえず来てみた。」

「後先考えないね父さんは…。」

「楓ちゃん、もう覚えてないんだろう?喜一良義の事を。」

「…大人は察しが良いね。」

「喜一良義がわかりやすいんだよ。それは良い事だと私は思うけどね。人に助けを求めることが難しい子だから。周りが気づきやすいのはとても良い事だ。」


 褒めてるんだか馬鹿にしてるんだか…。父さん素で話すから多分純粋に褒めてくれてるんだろうな。


「私はね、喜一良義。このことに関しては私達大人が口を出すにはあまりに無粋だと思うんだ。だから、喜一良義を魔法のような言葉で今のその落ち込み具合から救う事もしない。」

「うん…それがこっちも助かるかな。俺も一人でなんとかしなきゃいけない問題だってわかってる。」

「なら、私からは一つだけ。後悔だけはしないように。後悔は時に成長に繋がるが死へと誘う諸刃の剣だ。気を付ける事。」

「はい。」

「それと…これは姉さんから。自分で言えばいいのに、一度話したら全部言ってしまいそうでやめとくだと。弟の事を大切に思う良い姉だよ。」

「姉さんはそんな人だよ。尊敬してる。…それで、姉さんはなんて?」

「『どんな選択も無意味だぞ』…と。私には意図が分からないし、なんなら酷い言葉のように聞こえるが…喜一良義は意味がわかるか?」

「…わからん。」


 なんでわざわざそんなこと言ってきたんだ?なんかこう…もっと頑張れよ的な感じじゃないのか。頼らないと言いつつも、少し残念だった。


「それじゃあ私はもう出ていくよ。悩んでいて眠れないだろうが…早く寝るように。明日遅く起きて、手遅れになる前にね。」

「うん、ありがとう。おやすみ。」

「おやすみ。」


 父さんは短い言葉を残して去っていった。大人の言葉は的確で、頼りたくなってしまう。だからほとんど会話してこなかったんだろう。俺が甘えてしまう前に。


「寝るか。三文の為に。」


 俺は電気を消してすぐにベットの中に入った。正直眠くないし、寝れないけど目を閉じて悩んだ方がまだマシだろう。

 明日どうするか。決めたくないものだな。とりあえず朝早く起きてから考えよう。その時の気分に任す。…どうせ今悩んでも決められないんだから。


「……どんな選択も無意味…か。」


 俺が何をしても…無意味。

 そう考えて、飛び起きてしまった。姉さんの言葉を思い出したから。


「…正解なんて元からない。何したって…意味がない…。」


 姉さんは俺が何しても意味がないんだから、好きにしろと…。


 その日が終わる、二時間前。俺の目はその日一番冴えていたと思う。

 眠れたのは日付が変わる…十分前。



 ーーー



 私は目が覚めると…時刻は…六時半。いつも通りの…朝…?


「私…なんで…病院に。」


 見渡すと、想像の病室とは違う雰囲気。だけど…確かにここは病院だ。アルコールの匂いがそうだと裏付けてくる。


「…雪降ってる。」


 どうしてここにいるのか、自分の名前も…思い出せないまま。脳はフリーズする。人間って情報量がパンクしたらフリーズするけど、逆でもするんだな。

 なので窓を見ることにした。外から情報が何か得れないかと、そう思ったから。

 外の明るさから流石に午前の五時だということはわかった。いつも通りの時刻だと。けど…六時半に起きる理由があったような気がする。それを思い出せない。


「……雪の日は……手袋…を。」


 つける。…それは、そうなんだけど。その手袋はただ…寒いからつけるだけじゃなかったような。

 にしてもなんだか頭にかかった靄が一気に晴れている感覚だ。心機一転という感じ。


「けど…穴が開いたような、そんな気持ち。」


 口に出してもその疑問は解決しなかった。どうしてだろう?ふと、隣にある棚の上の間接照明を見る。ついていない明かり、その近くに…紙?


「なんだろ。えーと……手紙だ。誰への…ん??読め…ない。何て読むんだろ。き…いち…よ?…きいちよ…かず?」


 誰かの手紙なのは確かだが、私はその名前に心当たりどころか読むこともできなかった。なら関係ない人…。なんだか猛烈に頭が反対してきた。理由はわからない。

 その手紙を私は棚の上に戻そうとして…裏面に何やら付箋が貼ってあることに気付いた。そこには、こう書かれていた。


『これを見た私に。もし喜一良義と名乗る男の子が来たらこの手紙をわたしてあげてください。』


 …だから読めないんだってば。


「文面的に…書いたのは私。でも…書いた覚えがない。…ってか昨日、何してた…?」


 そこまで来てようやくなんとなく自分の立場に気付いた気がした瞬間、病室の扉が勢いよく開いた。驚いて咄嗟にその手紙を毛布の中に隠してしまった。


「おはよう。あたしは君の担当医、間宮加奈子だ。」

「おはよう…ございます。間宮さん…?」

「さっぱり何もわからないって様子だね。大丈夫、今から説明するから。一応聞くけど、私の事はわかるかな。」

「え、あ…記憶違いでなければ…初めましてだと思うんですが。」


 その記憶が今曖昧だから何とも言えぬ…。間宮さん、早く私に正解を!


「うん…自分の名前は?」

「…も、わかんない。です。」

「うんうん。じゃあ、はっきり言うけど君は…

「記憶喪失…ですか?」

「そう。流石に地頭は変わらずいいみたいだね。虹咲楓さん。」

「にじさき…かえで?」

「そうだよ。それが君の名前。漢字わかる?」

「七色の虹に…花が咲く、の咲。かえでは…もみじですか?あの…木の隣に風がある。」

「あってるよ。頭は回ってるみたいだ。よしよし。とりあえず…お腹空いてない?」


 間宮さんにそう言われたその時、まるで思い出したかのように、返事するようにお腹が鳴った。


「うっ…す、空いてます…。」

「なら色々話したり、調べたりする前に朝ご飯にしようか。ここに持ってくるのも…食堂で食べれもするけど、どうする?」

「んー…ちょっと歩きたいので、食堂行きたいです。」

「わかった。あたしも朝ご飯まだだから案内がてら一緒に行こう。」

「ありがとうございます!」


 私は立ち上がって、不思議に思った。頭を強く打ったりして忘れたのなら…別の場所にも傷とかあると思ったが、無傷だな…。それに頭に包帯とかがあるわけじゃない。これは…普通の記憶喪失じゃないのかな?

 そこまで考えて疑問まみれの頭は空腹に負けた。すぐに間宮さんに付いてかなきゃ。

 食堂に向かう間も、間宮さんは自分から話を振ってくれた。私に遠慮させないため、だったらいい人だ、このお医者さん。


「虹咲さんは記憶を失う前から食い意地が張ってる子だったよ。」

「うぇ!?…それは…恥ずかしい…。間宮さんが知ってるってことは…私はそんなにお世話になっていたんですか?」

「んー…教えてもらったっていう方が正解かな。」

「へぇ…家族、とかですか?私の。」

「それに近い人だよ。」

「ふぅん…変に誤魔化しますね?」

「はは、まぁ気にしないでくれ。匿名の約束だから。」

「それなら詮索はしないです。」

「うん、ありがとう。」

「それで、私の家族って何人構成ですか?」

「お母さんと、お父さん。虹咲さんを含めて三人。」

「そうですか。不思議ですね、ほんとに覚えてないんです。両親がいるなんて…。」

「肝が据わってるね?あたしは虹咲さんが落ち込んだりするかと思ったけど。」

「覚えてませんから!落ち込んでても仕方ないですよ!それと、私の事は楓でいいですよ、間宮…先生!」

「そうかい。楓ちゃん。」

「はい!」


 そのあたりで、私たちは食堂とやらに着いた。朝食を取る人でいっぱいかなと思った食堂にはあまり人がいなかった。さっき部屋に運ぶとかも言ってたし…そもそも病院にいる人たちは動けない人も多いのか。


「あたしは…モーニングセットにしようかな。」

「私もそれで!」

「わかった。」


 間宮先生はそのモーニングセットとやらを二人分頼んで、私に水二つと、席の確保を任せてきた。このくらいなら朝飯前ですよ!

 少し席で待っているとすぐに朝ご飯が目の前に。


「わぁ…病院食のイメージ払拭です。」

「まぁこれはあたしたち関係者用でもあるから。ささ、食べよう。」

「いただきます!」


 記憶喪失でもちゃんといただきますが言える子でよかったと感謝しつつ朝ご飯をいただいた。美味しかった。特に目玉焼き。


「あれ、楓ちゃん醤油派?」

「…ま、まさか間宮先生ソース派…?」

「あたしはそのまま派。」

「通ですね!」

「良く知ってるねそんな言葉。記憶喪失とは言え根本的な忘却はされてないのか…。」

「ふーん…。うまうま。」

「…ふふっ。やめだ。美味しい朝ご飯中に仕事の話はやめよう。」

「それ私に関することですよね…まぁいいですけど。」


 …なんか、こうやって誰かと…この場所でご飯、食べなかったっけ?記憶をなくす前から間宮先生と食べてたのかも。だとしたらなんだか申し訳ないな…。間宮先生はきっと私とせっかく仲良くなってくれたのに。


「…?」

「どうしたんだい?お気に召さなかった?」

「んや美味しいです。なんでもない…です。」

「そうか…?」


 それから朝ご飯を食べ終わって、歯を磨いて、私は間宮先生と部屋に戻ってきた。


「さて、それじゃあ今から楓ちゃんについての詳細を話していくよ。」

「はい、お願いします。…それとその前に、すいません。」

「いきなりどうしたんだい?」

「多分ですけど、間宮先生仲良くしてくれてたんですよね。以前の、私と。それなのに忘れちゃって…。」


 私がそう言うと間宮先生は優しい顔で答えてくれた。


「あたしは何とも思ってないさ。一人の患者さんとして、接していただけだから。」

「…なんかそれはそれで嫌ですね。私の事大切に思ってないのかーって。」

「めんどくさい子だね…変わらず。」

「変わらないんだ…。あ、話遮っちゃいましたね。そんじゃお願いします。」


 頭をちゃんと下げて、お願いするとなんか間宮先生が小声で何かを言った気がした。


「…そもそもあたし以上に君を大切にしてくれてた人がいたからね。」

「…今なんて言いました?」

「なんでもない。さ、話していこうか。最初から。」


 間宮先生は私について、そしてどうして記憶喪失になったかを教えてくれた。まず、私は普通に高校に通う十七歳の、虹咲楓という事。お母さんは虹咲奈津。お父さんは虹咲名井戸というらしい。お父さんの名前かっこよ。

 ある日遊びに行った帰りに交通事故にあって、体のケガはほとんどなかったけど頭に強い衝撃を受けてしまったらしい。


「へぇ…事故に。私どんくさかったんですかね。」

「夜道だったから仕方ないんじゃないかな。」


 というか…ある日?ここ最近の出来事ってわけじゃないのか。


「で、ここからが重要なんだけど。その衝撃によって楓ちゃんはいきなり全部の記憶を喪失したわけじゃなくて、徐々に失ってく記憶障害になってしまったんだ。」

「記憶障害…ですか。」

「うん。日々覚えて置ける記憶量は減って、記憶されていたことも徐々に忘れていってしまった。」

「…で、今日は完全に0からの始まり。ってことですか。」

「そういうことになるね。私の予測通りではあったよ。止めることは…できなかった。すまない。」

「いえいえ、仕方ないですよ。全力を尽くしてはくれたんですよね。」

「あぁ、そのつもりだ。」

「だったら間宮先生に責任はないですよ。私自身…なんにも思ってませんし。」


 …少し、嘘をついた。私はきっと何か大切な人を忘れてしまっている。でなければこんなにぽっかりと…心に穴は空いていない。


「ならいいか、とはならないんだけどね…。事の経緯はこんなところだよ。」

「全く身に覚えないですね。」

「それはそうさ。でも、まだ全部が終わったわけじゃないんだ。」

「そうなんですか?」

「あぁ。今回の記憶障害は海馬って言う人間が何かを覚えるうえで一番大切な場所がまっさら新しくなる症状なんだ。その海馬が上手く機能していないと新しいことを覚えられないんだけど…。」

「…先生の名前は、間宮加奈子先生。」

「話してる限りじゃ問題なさそうだね…。一応午後に精密検査させてもらうよ。今はまだ混乱してるだろうから。」

「はい!混乱してます!」

「…してなさそうに見えるけどある意味混乱してるか。」


 確かに正直今置かれている状況を完全には飲み込めてないけど…それでも頭ははっきりしていることは確かだった。


「親御さんには今から伝えるから…午後には来てくれるんじゃないかな。」

「お母さんとお父さん…悲しませちゃいますよね、きっと。」

「まぁ大人だから…多分大丈夫だよ。さて、他に聞きたいことはあるかい?なんでもいいよ。」

「そうですね…。今すぐ聞きたいことはないですかね。ちょっと…やっぱ考えたいことがいっぱいで。」

「そうだろうさ。じゃああたしは一旦出ていくよ。何かあったら看護師さんに頼ってくれていい。お昼時まではゆっくりしていてくれ。」

「わかりました。ありがとうございます。」

「ん、またね。」


 間宮先生は出ていく直前まで私に手を振ってくれて、部屋から去っていった。

 さて…何から整理しようかと考えたけど、結局私は高校生で遊びに行った帰りにドジで事故ってこうなった…と簡潔にまとめられるくらいしか情報がないことに気付いた。


「待てよ…遊びに行ったってことは友達がいるのか。…そのお友達も悲しませちゃったのかな。」


 なんだか謝ることがいっぱいの先の事。少し億劫だ。

 それともう一つ、まだわかってないこと。

 毛布の中にあの放り投げた手紙…これは誰宛てなんだろ?その友達?

 さっそく、その手紙を開けちゃおうか透かして中身を見ようかと悩んでいた時だった。病室の扉が開かれ、間宮先生がまたすぐに戻ってきた。


「あれ?先生早いですね。おかえりなさい。」

「…今全力で悩んでるからちょっとタンマ。」

「ん?は、はい…。」


 第一印象が冷静沈着だけど隙も見せる魅力ある大人。そんな間宮先生が本当に頭に手を当てて考えてる。どうしたんだろ。


「…まぁいいか。あたしには止める権利ないしな。」

「え?」

「楓ちゃん、君に会いたいって人がいるんだけど、どうする?」


 そう言われた瞬間、ドキッとしてしまった。間宮先生以外の、記憶喪失から二人目の…多分、知り合いか友達。一瞬で緊張してしまう。


「え、その…えーと…。」

「まだ整理できてないうちに過去の知り合いと会えばパニックになるかもしれない。…どうする?」


 …いやまぁ…


「午前中することないんで…良いですよ。会わせてくださいその…私に会いたいって人に。」

「わかった。じゃあ…ほら、入りな。きいらぎ君。」


 間宮先生は開けっ放しだった扉の奥にいるであろうその人を、部屋に招いた。

 入ってきたのは、男の子。私はその日、あぁ、あれってあったんだ。フィクションの話じゃなかったんだと、自覚した。


「…はじめ…まして。俺は…

「あ、あの!!」


 思わずベットから降りて前のめりみにその男の子の前まで行って。


「わ…私と…付き合ってく…れ…ま………。」


 そこまで言ってようやく自分の行動の突飛さ、羞恥さに気付いた。

 初対面の人に何を…でもだって確かに…この胸の高鳴りは止まらない。

 顔がイケメンだからとかじゃない、性格だって声色だってほとんどわからない。

 だからこそ、一目惚れ。


「…」

「あ、その…はじめましててで何言ってんだって感じかもしれないんですけど。でもその…一目惚れ、で。すいませんほんとにあの……ど、どうして泣いてるんですか!?」


 相手の顔なんて恥ずかしくて見れたもんじゃなかったが、あまりにも相手が黙っていたので少しずつ顔を上げてみてみると、その人は呆けた顔をしながら…目から涙をながしていた。なんだかこの人の涙は…レアな気がした。


「……あ、その…ごめん、俺……。」

「あー…そ、そうですよね。初対面にいきなり…告白とか、気持ち悪いですよね。」

「ち、違う!そうじゃない!」


 感情のジェットコースター状態の私の手を、その人は半ば強引に取って。

 ちょ、いきなり手!?


「こっちこそ、お願いします。俺も…君の事が、楓の事が、大好きだ。」

「~~~~!?!?」


 こんな…こんな嬉しいことがある?目覚めて何も覚えてなくて…そんな中、半日も経たず運命の赤い糸はとんでもない勢いで引き寄せられた。まるで、元々用意されていたかのように。


「…あー、お二人さん。特にきいらぎ君。」

「あ、すいませんほったらかして…。ってかこれどういうことですか。なんで楓は…。」

「うん、今からこの先の私の仕事全部ほったらかして説明してあげるから、まぁ座りなよ。」

「お願いしますよ…。俺もう死ぬ勢いでここ来てたのにいきなり夢みたいな…。ドッキリですか?」

「冷静になれ。まぁでもある意味ドッキリだな。」


 私にはさっぱりなことだが…きいらぎ君は元々私の知り合い……え、待ってもしかしてこいび…。そこまで考えて頭がパンクした。からっぽな脳に妄想が膨れ、いっぱいいっぱいになってしまったから。と、とにかく…話を聞こう。私にとっても大切な話だろうから。

 どこに座ろうかとあたふたして、とりあえず自分のベットに座った。間宮先生も隣にあった丸椅子を持ってきて座る。きいらぎ君はぶつぶつと「なんなんだか…」と言いながら私の隣に座った。…隣に。


「ちょ、え…ち、近くない?」

「?…あ、あぁそうかそうか。いつも通りにしてたよごめん。」


 いつもどお…り?もはや確証であるこの言葉。でもそんな…もう密着レベルだったんだけど。きいらぎ君は申し訳なさそうに私から少し離れて…悩んでた。


「あ、座ってもらっていいから。でもその…あんまり近づかれると…。」

「ありがとう。全然知らない人が隣に座られると嫌だもんね。」

「違います、心臓の高鳴りが酷くて話聞けない気がするんです。あなたが隣にいると。」

「…淡々というね。」

「あー…もう話していい?」

「あ、すいません。」

「さーせん。」

「きいらぎ君から謝罪を感じないけど、とりあえず話すよ。昨日の…君が楓ちゃんから逃げた後の話。」

「に、逃げた…?」

「…どういうことですか。」


 間宮先生は少し笑いながら話し出した。私の知らない、私の話を。



 ーーー


 一日前、喜一良義が楓の病室がいなくなった後。

 あたしは君にかける言葉が咄嗟に見つからなくて…足止めることもできなかった。あたしもわかんなかったんだ。自分がきいらぎ君の立場の時、どうするだろうってね。

 とりあえず担当医として、患者の病状に大きな変化があればそりゃ確認しなきゃいけない。すぐに楓ちゃんの病室に行ったんだ。そしたら…


「あ、間宮先生。おはよ。」

「……なんであたしの事…。」

「え、だってほら。朝里美さんに教えてもらってるから…。」

「あ、そ、そうか…。」


 楓ちゃんには里見君から毎朝、君が記憶喪失のなりかけである事とあたしの事、浅見君自身の事を一応伝えるように言ってあるから、この状況はおかしくない。おかしくないのだが……様子がおかしい。というかもし記憶を完全に失っていたら里美君が伝えてくれるはずだ。つまりは…


「待って、楓ちゃん。君記憶がまだ…。」

「はい、ありますよ。明日らしいですね。完全に…忘れるの。」

「ならどうして…喜一良義君の事はもう覚えてないのかい?」

「…最後の最後まで、最愛の人は忘れませんよ。」

「と…いうことだと…君は…記憶を…失ったふりをして喜一良義君を?」

「はい。まぁ…そうなりますね。」

「どうしてそんなことを…。さっき喜一良義君と会ったが、酷い顔をしていたぞ。」

「酷い事言いましたからね。…間宮先生、今から話すこときい君には言わないでくれませんか。」

「わかった。」


 正直この後すぐに会議があったりしたんだけど…目の前の二人の物語の真相にあたしは離れたくなかった。


「私が記憶喪失になってきい君の事忘れても、あの人絶対私に会いに来るって言ってたじゃないですか。」

「言ってたね。強い意思で。」

「そう、恥ずかしいくらい。それで多分、私単純だからきい君の事なんにも知らないまま見ても、恋しちゃうと思うんですよね。そもそも一目惚れだったし。それで…二人が付き合うじゃないですか。」

「あぁ。」

「そしたら二人はまた、めんどくさがりだからこの町のあたりでしかデートしないんですよ当分。すると…きい君には前の私と、目の前の私とで重なっちゃって…混乱しちゃうでしょうね。そのまま関係を深めれば多分きい君には私との思い出と新しい私との思い出。その二つが頭に残ってごっちゃになると思うんです。そうなれば…どうなると思います?」

「…記憶の、混濁。」

「予測ですけどね。……記憶の混濁って、辛いんですよ。まっさらと忘れるならまだマシです。相手の事を一瞬…忘れる。そのことを自覚する。その時の、相手の心底悲しそうな、辛そうな顔。それを見る瞬間、はっきり言って死にたくなります。しかも多分私中途半端に優しくしそうで…。」

「楓ちゃん…。」

「夢に見るんですよ、私に忘れられかけた…私の大切な人たちの顔。誰かはわかりません。それが実際にこの眼で見たものなのかもわかりません。でも…辛いことに変わりはないんです。そして、私を困らせないために…過去の私を忘れようとしても忘れられないんですよどうせきい君は。」

「まぁ…そうだろうな。だから君は喜一良義君の未来のためにはっきりと拒絶した。」

「はい。彼がきっぱり忘れて…立ち止まらないといいんですけど。」

「その意思が伝わってると良いね。」


 そう私が促すと、楓ちゃんはとっても悲しそうな笑顔のまま、少し


「…泣きかけて、堪えて…もう来ないって言わせましたから。多分もう来ませんよ。きい君は。」

「そうか…。」


 彼女もまた強い意思でそう決めたんだったら、あたしが何か横やりを入れるのはルール違反だ。そのまま、彼女をこの部屋に一人にしてあげようと、明日の彼女のために色々準備しておこうと外に出ようとしたところで、あたしは一つの可能性を彼女に提示した。


「…もし、それでも喜一良義君がまた楓ちゃんの目の前に来たらどうするんだい?」

「来ません。」

「いやわからないじゃん…。」

「…そうですね。来るかもしれませんが…まぁその時は私の負けですよ。愛の大きさで負けです。そうなったらじゃあ伝えてくれません?」

「何かは知らないけど手紙かなんか書いて伝えなよ…。その伝言、あたしが背負うには重い気がするんだけど。」

「ふむ、それもそうですね。じゃあ書いときます。間宮先生が覚えてられるか不安ですしね。」

「明日の君が少しは丸くなってあたしへの尊敬が増えていることを願うよ。」

「ふふっ…尊敬もしてますし感謝もしてますよ、間宮先生。…あ、それと間宮先生。」

「なんだい?」

「私が、喜一良義君にもう来ないように言った理由、もう一個あるんです。」

「ほう。」


 気になったから部屋にまた少し戻ると、君は悪そうな顔してこう言ったんだよ。


「嫌じゃないですか。例え私でも、喜一良義君が取られるの。」

「…もしかしてそれが本音?」

「全部本音ですよ、えへへ。」



 ーーー


「って、ことがありましたとさ。」

「なんだよ…そういうことだったのかよ…。」


 俺はもう話の半ばくらいで意図が読めて緊張の紐も解けここまで重たい足を何とか持ってきたのにいきなり重りが外されて。一気に気が抜けたような気がした。


「どうだ、喜一良義君。勝ちの味は。」

「…最高です。」

「というか、よく来れたな。ここに。昨日の楓ちゃんはもう来ないって言いきってたのに。」


 俺だって実のところもう来る気はなく、楓の言う通りになりかけていたのだが…昨夜気が変わったのだ。


「どんな選択をしても、未来ってそんな簡単に変わらないんで。とりあえず今日だけでもって気持ちで来たんですよ。」

「ははっ…良いじゃないか、未成年。」

「待って待って…私今情報量過多。」

「確かに、楓にとってはそうだな。」

「えっとその…とりあえず一個だけ確認しておきたいんだけど。私って元々きいらぎ君の…か、彼女だったの!?」

「あ、そうか…。そうだよ。信じられないかもだけど。」

「夢なら呪うレベルで最高。……あ、そういえばその手紙って…。」


 楓は毛布の中から一枚の手紙を俺に渡してくれた。ピンク色の便箋だ。


「これかな。」

「多分そうだね…。読んでいい?」

「…これきいらぎって読むんだ。」

「ふっ…あっはっは!最初の頃と全く一緒のリアクションだ。」

「な、なんか恥ずかしい…。」

「ごめん。じゃあ、読むから。」

「あたしはもういなくなっていいか?説明終わったし。この空間耐えられないし。」

「ほんとありがとうございます。間宮先生のおかげですよ。」

「あたしは何にもしてないよ。それじゃあね。」


 間宮先生は優しい笑顔で部屋から出ていった。最初楓の担当医が間宮先生になった時も、あの先生でよかったと思えたが…今はその何倍もそう思う。


「わ、私も読まなきゃかな…。」

「んー…それっぽいとこあったら見せるよ。」

「ん、わかった。じゃ私黙ってるから。」

「…その、手だけ繋いでいい?」


 この状況が夢じゃないか、君のぬくもりで確かめたかった。あと単純に手が繋ぎたかったのもある。


「ん!?……ど、どうぞ。」

「どうも。」

 恐る恐る差し出されたその手を、ゆっくり俺は握った。するとまた恐る恐る手を、彼女は握り返してきてくれた。

 さて…読むか。

 俺は封を開けて、中に入ってある手紙を、読んだ。すると思ったより言葉は少なく、そこにはこう書かれていた。


 〈きい君へ


 これ読んでるってことは来たんだね。全く…せっかく私がきい君の為に無理矢理会わせないようにしたのに…もう知らないから。この先の事!困っても自業自得だから!


 それと、そこまで私を好きでいてくれたお礼に。後の私には悪いけど、心も体も、全部君にあげるよ。負けたから。私はそれしか君にあげられない。不満言わないでね。


 それじゃばいばい。私の、大好きな人。


 楓より〉


 読み終わって、俺は思わず天井を見上げてしまった。いろんな感情が爆発してショート状態になってしまう…。


「ど、どしたの。」

「…楓も読んだ方が良いよ。はい。」

「わかった…。」


 読み終わった君は顔を赤らめながら手紙を返してくれた。


「なに…?私君に全部あげなきゃなの?過去の私め…。」

「嫌だったら別に。」

「そんなことないから。あげるよもう!仕方ないな!」


 怒ってるんだか照れてるんだか喜んでるんだか…これもはや一種のパニックだな。

 その素振りも様子も、感情表現も性格も顔も何もかも君であることに変わりはない。確かにあの楓ではないのだ。…唐突に、喪失感が襲ってくる。君が言う通りこの先俺は辛い思いの連続をして、させてもしてしまうだろう。でも隣に確かに、君はいる。俺を忘れず、好きでいてくれる。それならどんな逆境も軽々と乗り越えられるだろうと思って、口に出すこともこれ以上浸ることもやめた。


 今の隣にいる君も、楓であることに変わりはないのだから。


「楓、こっち見て。」

「今度はなっ……


 もう二度と、忘れられないよう。俺は楓の海馬に強烈な記憶を覚えさせた。

 窓から見える景色は、快晴だった。


ハッピーエンド。バッドエンドか悩んだのですが…キャラに情が沸きました。悪役の気分を知れた。

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