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第四章 もう一度、何度でも

楓が入院を始めてからすでに四日経っていた。俺は学校を休んで、楓に会いに行く。病院までは流石に遠くて、誰かに送って行ってもらわなきゃだったのだが姉さんが立候補してくれた。仕事の日も送ってくれて、迷惑にならないかと聞いたら「仕事場に行くついでだから問題ねぇ」と笑顔で答えてくれた。姉さんは知らない、俺が姉さんの仕事場は病院から真反対にあることを知っている、事を。


楓に入院の経験なんてないので最初は戸惑っていたが、俺が朝に顔を出してから、夜に帰るまで少しのストレスも感じずに過ごしていたとは思う。そりゃ時に楓が不安になることもあった。里美さんの事を忘れたり、思い出したり。突然学校で会ったことを思いだして泣きたくなって…泣いたり。一番ひどかったのは、名井戸さんが来た時に、不審そうな顔を見せた時だった。両親の顔すら、うろ覚えになってきてるみたいで。泣くこともせず、ずっと視線を下げて…。俺はそんな楓から目を背けず安心できるような言葉をかけ続けた。楓の辛さなんて俺にはわからない。大切な自分の楽しい人生の思い出を、育ててくれていつも一緒にいた家族の顔を忘れていた悲しみは、楓本人にしかわからないだろう。だが支えてやるとすでに楓の前で言っている俺は、それでも傍に居続けた。男に二言はない。そりゃ一回折れかけたけど。


しかし昨日の夜、どんなに笑わせようとしても、話しかけても何も返してくれなくなってしまっていた。その夜は、名井戸さんを忘れかけてしまった日の夜だった。困ったが…すでに案は考えている。


「ん?また外出させろって?」

「はい、おはようござます。楓の気晴らしになるから良いでしょ。」

「あ、あぁおはよう。で…わかってるが…回数多くないか?昨日も…確か図書館に行ってなかったか?」

「俺がついてますから。大丈夫ですって。」

「…ま、そうだね。なんだか顔つきが変わった頼り強い彼氏が、楓ちゃんにはいてくれるからね。」

「そう思います?」

「うん。…あの夜は、本当にすまなかったね。ただでさえ心に来ていた君に…酷いことを。」

「間宮先生も疲れてたんでしょ。水に流しましょうよもう。」

「…ありがとう。じゃあいい旅を。」

「夜には帰ってきますから。」


部屋を出ようとして、俺は振り返り間宮先生の所へ戻る。


「まだ何か?あたしそろそろ行かなきゃなんだけど。」

「遊び行くんでお金ください。」

「あのなぁ…。親御さんからもらえよ…。」

「朝もらい忘れちゃってて。」

「まぁいいけどさ…はい。」

「ありがとうございまーす。」

「楽しんできなよ。」


俺は間宮先生から許可とお金をもらって、楓の部屋に戻った。さてどこに行こうかな。


「おはよう楓。」

「……あ、きい君。おはよ。今日は学校行かないの?」


この四日間、楓は毎朝この質問をしてきた。だから慣れた。


「うん、休みにしてもらったよ。」

「…そう。私のせい?」

「おかげ、かな。学校好きな人なんていないでしょ。」

「ふふっ…ダメなんだ、きい君。」

「不良にはならないから安心して。今日は何しようか。なんでもいいよ。」

「じゃあ…外に行きたいかも。なんか…気晴らしに行きたいんだ。…また何か、私は大切なことを、人を、忘れちゃったんだろうね。」


…今の楓は、なぜ自分の気持ちが暗く沈んでいるかすら、わからない。自分が記憶を完全に喪失し始めているという事実だけは、忘れずに。


「わかった。実はもう外出許可はもらってきてるから。」

「流石きい君。んー…どこ行こうかな。」

「今日も時間いっぱいあるから、どこでもいいよ。流石に外国とかは…無理しなきゃだけど。」

「あ、無理したら行けるんだ。」

「ごめんちょっと盛った。」

「ふふっ…嘘はダメだよ。そうだなぁ……あ、じゃあ一個行ってみたかった場所あるんだ!」

「いいよ、どこ?」

「水族館!」

「……わかった、行こう。着替えなきゃだよね楓は。待ってるよ。」

「やった!行きたかったんだよねぇ~。なんだかんだ、行ってないじゃん私達。」

「楓は魚食べちゃいそう。」

「いやさっき朝ご飯食べたばっかりだから!?じゃ待ってて。せっかくだし可愛い恰好になろっと。」

「期待してる。」


俺はそう言って楓の病室から一度でた。そこから窓があって、自動販売機などがある広い休憩スペースのような場所まで向かった。

青い空を見て、我慢できなくて…言ってしまった。


「…行ったんだよなぁ…水族館。」


少しそのままその場所で待っていると…楓がやってきた。

楓は笑顔だった。

服装はジーンズにTシャツ。その上にダウンを着てボーイッシュな格好だった。なんでも似合う楓はかっこいいより可愛いが勝つな。


「やっほ、きい君!」

「早かったな。…今日も可愛いことで。寒くない?大丈夫?」

「大丈夫だよ。じゃあ行こうか。場所どこか調べてくれた?」

「うん。流石に平日だから空いてると思うし、その場でチケット買っても大丈夫でしょ。さ、行こう。」

「行こう行こう!楽しみだなぁ、水族館!」

「何か見たいのでもあるの?」

「あるよ~?当ててみて。」

「そうだなぁ…。」


ペンギン。


「エイとか。」

「マイナー過ぎない…?ペンギンだよペンギン。帰りにぬいぐるみ買うから絶対。」

「はいはい。」


病院から一番近いバスに乗って、一度駅に行ってからそこから水族館に出ているバスの乗った。二人合わせても料金は千円超えるくらい。


「このバスで水族館?」

「そうだよ。お金は間宮先生が巻き上げ……くれたから気にしないで。」

「うわぁ可哀想…ちゃんと今度返しときなよ?」

「えぇ。」

「えぇ…。」


バスに揺られる間も、いつものように会話をする。昨日までのことは何事もなかったように。楓は忘れられる。俺にだけ、ここ最近の日常が記憶されていっていた。

朝起きて、適当に病院で遊んだり外に行ったりして。そこまでは良い。

だが外が暗くなるにつれて現実から目を背けられなくなってしまう。ほんの少しの、言い間違え、記憶違い。昨日仲良くなった女の子の患者さんに、『はじめまして』と言ってしまう、楓は自己嫌悪に陥って…泣くか、黙ってしまう。

しかし朝起きたらけろっとしてて、「今日は何する?きい君。」と君は言うんだ。

そんな状況を日常と思い始めている自分がいる。麻痺しているんだ。楓の、今に。


「着いたよ、きい君。」

「え…あぁごめん。ぼーっとしてた。」

「眠い?」

「早く寝たし、早く起きたよ。大丈夫。…行こう。」


バスから降りて、俺は楓の手を繋いで水族館へと向かった。

すると、楓がこっちを驚いたように見てくる。


「…どうした?」

「いや…きい君から握ってくるの珍しいなって。」

「そうか?…なんか握りたくて。」

「変なの。」


水族館に着くと、俺は二人分のチケットを買った。読み通り、平日で混んでいないからか普通に買えた。人気もそこまで多くないし、落ち着いて展示が見れそうだ。


「楓、チケット。」

「ありがと。これは…カメだね。そっちはチケット何の魚だった?」

「…ペンギンだ。」

「え、ほんと!?私そっち!」

「ん。俺はカメ好きだからラッキーだったな。」

「だねだね。…あ、でも回収されちゃうかな、入ったら。」

「大丈夫じゃないか?」


俺と楓は今さっき買ったチケットを、スタッフの人に渡した。かちりと音を立てて、チケットに穴をあけたスタッフの人は、その紙を返してくれた。


「良かった回収されなくて。思い出だもんね、持ち帰りたい。」

「…どうせお土産買うんだから思い出まだまだちゃんと残るんじゃないか?」

「思い出は質もだけど数も必要なの!それじゃあさっそく周ろ!」

「おう。」


そうして俺は水族館を、ちゃんと順序通りに見始めようとして…繋いでいた手に引っ張られた。


「あ、パンフレットあるよ。持ってこ。」

「おぉ、そうだな。…けど何が次に展示されてるかわかんないほうが楽しくないか?」

「…確かに?それは一理ある。ここはきい君さんに従ってあげましょう。」

「誰目線?」

「えへへ。」


俺達はパンフレットを結局取らないで、進むことにした。

…最初は、タコ。


「うわぁ…足いっぱいあるよ、きい君。」

「靴履くとき大変そうだよな。」

「いや履かないでしょタコは…。でも、いっぱいあるって良いよね。」

「…それはいっぱい食べれるからとかそういう…。」

「な、なんで分かったの…。」


楓は顔を赤らめて無言で次の展示に行こうと促してきた。

可愛いやつだな。

その先には…エイやサメ。カサゴにエビにカニ。楓はエビやカニなど基本食べるものにはあからさまに食いついた。根本は変わらないな。

その後、俺達を出迎えてくれたのは…


「あ、ウナギだ。」

「だな。ぬるぬるしてそうに見えないんだよな、水槽だと。」

「…じゅる。」

「楓さん、よだれ。」

「は!私としたことが…。」

「飴舐める?」

「わーい!きい君優しい~。そこに痺れる憧れる!」

「どっかで聞いたなその言葉。」

「あ、お隣クラゲさんだ!」

「これでウナギがデンキだったら随分殺意高いなここ…。」


隣にいたのは、もちろんクラゲだった。赤色や青色で、気ままに泳いでいるクラゲたち。


「…元気そうだねぇ。」

「クラゲの顔色ってわかんなくない?」

「そうだけど!…あ、みてきい君。このクラゲ、ベニクラゲって言って…死なないの!?」

「何一人で驚いてるの?…死にそうになったら、若いころに戻るのか。」

「…へぇ、ちょっとうらやましいかも。」

「今も楓は十分若いじゃん。」

「いや、何回でも人生は楽しみたいでしょ。…もちろん、きい君と一緒にね。じゃなきゃ意味ない…こともない?」

「うわ、ひどい。」

「あはは、冗談だよ。でも考えられないな、やっぱり。君が隣にいない、人生って。」

「…そう言ってくれるのは嬉しいけど、人生は一度きりだから良いんじゃないの。」

「ロマンチストだね、きい君。確かにそうかも。激しく同意だよそれは。」

「良かったです。」

「…次さ、ここに来たらコイツとはまた会えるんだよね。」

「まぁ…ほぼ死なないし。」

「それじゃあまたね、だね。コイツとは。」

「…だな。」

「あ、でも…。」

「楓…?」

「うぅん…なんでもない。次行こうか。」


そう言って楓は、二回目のまたねをベニクラゲにしてから次のコーナーへと向かった。俺の目には、ベニクラゲが不思議そうにしているように見えた。

…顔色なんて、わからないのに。

次に会ったのはナマコやイソギンチャク。


「やわらかそう。」

「触りたくはない…。」

「それはそう。綺麗な色してるけど、もしかしたらめちゃくちゃ汚い色してるやつもいるのかな?」

「いるんじゃね、人間みたいに。」

「多様性だねぇ。」

「ほら、次の展示はトンネル水槽だよ。行こう。」

「え!一回通ってみたかったやつ!」


楓は目をキラキラさせて、俺の手を引っ張った。


「わぁ…綺麗。あ、カメいるよ、きい君。」

「…カメだ。」

「なんか嬉しそうじゃないね?」

「そんなことない。今にも嬉しくて踊りたくてたまらないさ。」

「恥ずかしいからやめてね。」

「冗談だ。」

「…カメって何年

「お、楓、次ペンギンみたいだぞ。」

「え、ほんと!行こう行こう!」


…思ったより辛いな。同じような…会話ってのは。もうあの、最初に水族館に来た時の楓は…いないんだな。


その後、楓のお目当てのペンギンコーナーにたどり着いた。今日は餌をやっている飼育員さんはいなかった。


「可愛い…。あんなにいるなら一匹くらい持ち帰ってもバレないんじゃないかな!?」

「やめろやめろ。飼育員さん案外わかるかもだぞ、誰がいなくなったかって。」

「た、確かに…。名前とかつけるもんね。じゃあダメか…。」

「じゃなくてもダメだけどな。…将来は水族館で働いたらどうだ。」

「うーん…私泳げないから。」

「あぁそう…。写真撮る?ペンギンと。」

「撮る!」


俺は携帯を取り出して、楓とペンギンの写真を撮った。結構上手く撮れた気がする。


「どう、うまく撮れた?」

「ちゃんと可愛く撮ったよ。」

「ありがときい君!あとで送っといてよ。」

「…わかった。アイコンにでもするのか?」

「そうしようかなぁ。……あ。」

「ん?」

「い、いや。なんでもないよ。…なんか良い匂いする!」

「どんな嗅覚してんだよ…。」

「行こ行こ!おなかすいた。」

「はいはい。」


楓にまた手を引っ張られつつも、俺はさっき撮った写真を楓に送ろうとして…気づいた。楓の、今のアイコンが何かに。


「…馬鹿か俺は。」

「ん?何か言った?」

「…何も言ってないよ。…ってホントにあるじゃんおやつの場所。」

「ふふん。私の鼻、舐めない方が良いよ!」


楓は看板に書かれたメニューに目が釘付けになっていた。


「何食べよっかなぁ。あざらしドーナツに…うなぎクレープ。」

「うなぎクレープ、うなぎの味しそう。」

「しないでしょ。」

「お、ペンギンアイスあるぞ。」

「それ。決定で。」

「りょーかい。俺は…あざらしドーナツかな。」


お互い、見た目の可愛いスイーツを買って近くのベンチに座った。周りにはほとんど人がいなくて、おじいちゃんやおばあちゃんが多かった。平日のこの時間で、この時期は俺達と同じくらいの年齢は学校に行くから、そりゃそうだよな…。


「ん、甘い!」

「ペンギンアイスって何味なの?青いけど。」

「これは…なんだろ。食べてみて。」

「ん。」


目の前に差し出されたのは、楓が使っていたスプーン。何も考えず口に入れた。


「あーんしちゃった。どう、何味?」

「うまい。」

「いや何味か聞いてるんだけども…。あざらしドーナツはシュガーって感じだね。」

「甘い。」

「でしょうよ。…んー、何の味だろ。」


…正直、味がしなかったのは楓には口が裂けても言えないな。

さっきの自分の失態が、どうにも忘れられなかったから。写真なんて…一番ダメだろ。


「ふぅ…食べた食べた。」

「お茶いる?」

「わぉ、気が利くねきい君。」

「どーぞ。」

「どーも。」


鞄からお茶を取り出して、楓に渡した。


「ふぅ…あれこれ飲みかけだ。」

「さっき楓がエビに夢中だったときに、自販機あったから買ったんだよ。」

「ふぅん…。あ、別にあのエビが美味しそうだなぁとかそういう意味で夢中だったわけじゃないから!!」

「なんにも言ってないよ…。」

「は、早く食べちゃってよきい君。次行こ。」

「あぁ、ごめん。」


少しかけて、俺も楓も食べ終わったからその場を後にした。

楓はお腹が膨れたのか、元気そうにスキップして前に進んだ。


「ふんふふ~ん♪次は何かなぁ。」

「なんだろうね。」

「でも結構オールスター見た感じしない?」

「そうかな。」

「そうだよ。タコもカニもエビも見ちゃったし。」

「そうだったね。」

「…あ、ラッコ!今日は人がいないから独り占めできる!」

「俺にも見せてくれよ…。」

「わかってるよ!二人占めだね。」

「なんだそりゃ。」


後半も、何事もなく水族館を見回ることができた。一度聞いた質問、会話を、少し違う返答をする。たまには、こっちからも話題を振って。

どうしても、時間が過ぎるのが長く感じた。

最後にイルカのショーを見ようと提案されたのだが、次の時間までかなり空いていて。


「待つの辛くない?」

「むー…確かに。じゃあ…残念だけどここらで帰ろうか。」

「そうしよっか。…まだ時間はあるから、どこかほかのところに行く?」

「んー…じゃあショッピングセンター行きたい。服とか見る!」

「いいね。そうしよっか。」

「あ、でもお土産見てからに…。」

「んやいいかな。」

「そうか?別にお金なら…。」

「良いってば。もう行こ。」

「わ、わかったよ…。」


なんだか煮え切らないまま、俺と楓は水族館を後にして、一度バスで駅に戻った。お昼を食べていなかったから駅で適当に済まして楓ご所望のショッピングセンターにまた違うバスに乗って向かった。がらがらだったが、楓はちゃんと一番後ろの広い席に座る。俺ももちろんついて行った。


「んやぁ…水族館楽しかったね。」

「それは良かった。間宮先生にお金借りてきてよかったよ。」

「ふふっ、ありがとね。きい君。…きい君は、楽しかった?」

「もちろん。楓が可愛かった。」

「楽しいかどうか聞いてるの!まったくもう…。」


そこで会話が途切れたと思ったが、楓は、別の話に切り替えてきた。


「…二回目、なんでしょ。」

「え?」


突然、そんなことを聞かれてしまったから、なんと返せばいいのかわからなかった。正直に言えばいいのか…嘘を、つけばいいのか。

ん?好きな人に?嘘をつく?

無理だな。


「ごめん、実はそうなんだ。…もう俺たちは一回、水族館に行ってる。」

「ふふっ…この正直者め。…そうだよね。私の今の、携帯のアイコン。…前に行った時のやつでしょ。」

「あぁ。…隠して、悪かった。」

「でも、嘘はついてないよ。だから許してあげちゃう。むしろ、ごめんね。辛い事させたかな。」

「そんなことは……まぁ、ちょっとだけ。」

「知らないように、同じような会話されるのは…嫌だよね。」

「楽しくなかった、わけじゃないんだが。」

「それならまぁ…よかったのかな?」

「それに、違う服装だったから。」

「ど、どういうこと?」

「俺は魚とかカメより…楓の事しか見てませんのよ。」

「…ふっ、ふふっ。あはは。ごめんツボ入った…。へへ…えへへへ。」

「そんな笑う事?」

「ふふっ…だって、最後、のよ。って。ちょっとそれ言うの恥ずかしくて変に言ったんでしょ。」

「うっ…。」

「照れ隠しがあからさまで…ふへへ。」

「笑いすぎだろ!」

「ごめんって…ふふっ。はぁ…笑った笑った。」

「全く…」


こんなに笑う楓を久々に見た気がした


「ね…きい君、こっち見て。」

「んだよ次は……っ!?」


横にいた楓を見たら、目の前に楓の顔があって。口を、奪われていた。

別に初めてじゃない。ただ、なんの前触れもなかったもんだから。


「…?!ちょ、か、楓さん?」

「ふふっ、したくなったから。」

「事前に言ってよ…。」

「事前に打ち合わせたキスなんて、つまらないでしょ。」


本当に…つくづく、楓には一歩遅れているような気がする。

その後バスはすぐに目的地に着いた。この辺りじゃ一番大きいショッピングセンターだ。服もあるし本屋だって。小さいがゲーセンもあったはず。


「なんか久しぶりにきたな。」

「そう?私は…ってかわかんないじゃん!」

「楓はよく言ってた気がする。…そういえばデートの一日前によく行ってたな楓は。」

「それは多分…可愛い服で行きたかったから。気づかなかったの?私の事ばかり見てるってさっき言ってたくせに。」

「俺の語彙は可愛いしかないんだよ、褒め言葉。」

「本読みなよ。なんなら買ってあげようか?」

「おすすめあるのか?」

「あるよー。服買ってからね。」

「ほいほい。」


ショッピングセンターに入ろうとして、無意識に楓の手に自分の手を伸ばしていた。すると…


「あてっ。」

「手ぶつかった?…今もしかして同時に…。」

「してた…。」

「ふ…ふふっ。私達、仲良すぎ。」

「素晴らしいことだな。」

「もぉ…はい、手。ちょうだい。」

「どーぞ。」

「どーも!」


服を買うってことで来たが、それ以外にも目移りする店が多すぎて、結局二階まであるショッピングセンターの全部を見回ることになってしまった。時間はあったから、困りはしなかったけど。


服屋では、楓による俺の為のファッションショーが始まってしまった。


「どうこれ!」

「可愛い。」


白のワンピース。今の時期にはあってないんじゃないかと思うほど足が出ていたけど、可愛いから良いことにした。


「次はどう!」

「最高。」


今度は逆にもふもふそうな、暑そうにすら見えるほど着込む楓さん。抱きしめたくなった。ぬいぐるみみたい。


「これは?」

「隣に居たい。」

「…案外語彙あるね?」

「俺も自分で驚いた。」

「全部買っちゃおうかな…。」

「お財布と相談しろよ。」

「わかってらーい。」


結局、楓は俺最初に可愛いと言った白のワンピースだけ買った。俺が、それは今着るのは寒いんじゃない?、と聞いたら、春になったら着るの。と返してきたからちょっとびっくりした。

未来の事を、考えていると思わなかったから。


その後は本屋に行って楓がおススメだと言っていた本を探した。


「結構マイナーなの?」

「うん、でも置いてはいると思う。」

「なんて本?」

「『暮れる頃に咲く花の正体』ってやつ。面白いよ。」

「探すか。」

「だね。」


手分けして探そうかと言おうとして、やめた。止めたのは自分自身。なんだか手を放したくなかった。楓も同じことを思ってくれたのだろうか。彼女も手分けしようとは言ってこなかった。

十五分ほど本屋をぐるぐるして、ようやくその『暮れる頃に咲く花の正体』という本を見つけられた。おススメしたんだから私が買う!と全く譲ってくれ無そうだったので仕方なく買ってもらった。


「はいどーぞ。」

「俺が買うって言ったのに…。」

「良いから良いから。今日夜読んで明日の朝感想お願いします。」

「はや!?ゆっくり読ませてくれよ。」

「待てよ…私内容覚えてない。」

「ダメじゃん。」

「明日一緒に読もうよ。」

「だな。」


その後はゲームセンターに寄っていった。荷物がまぁまぁあったが、重しには思わなかった。久しぶりに楽しいと、心から思えたからかもしれない。


「初めてクレーンゲームででっかいお菓子取ったよ…きい君。」

「どんだけ感動してんだ…。でも中身はあれだろ、あんまり入ってなかったり。」

「ちょっと待ってね見てみる。……きい君見て。」

「えめちゃくちゃ入ってるやん。」

「入ってるやんだよ!」

「何言ってんだ、ははっ。」

「えへへ、あ、エアホッケーあるよ。」

「久々に勝負しますか。」

「しちゃいますか。せっかくだしなんか賭けない?」

「いいぜ。何賭ける。」

「そうだなぁ…相手に好きな命令一つ!」

「乗った。」


エアホッケーの台の隣に、俺は荷物を置いた。楓がさっき取ったデカいお菓子も隣に。しゃがんだそのまま、俺は百円を入れる。

楓が立っている方から、かしゃんと音がした。


「お、来た来た。いざ!」

「来い!」


五分ほど、そのパックを弾き合って、結果は…


「引き分けかー…賭けたの意味ないじゃん。」

「ちなみに何やらせようとしたの?」

「え…。」


普通なことを聞いたと思ったのに、楓は少し顔を赤らめて言い淀んだ。


「まさかR18的なこと…?!」

「違う違う!!その…今日…病院…泊って行って…くれない…かな~…と。」


少しずつ言葉を紡いでいくのにつれて、さらに赤くなってく楓のその様子に思わず笑ってしまう。


「ふっ…はっはっは!」

「へ、ちょ、笑わないでよ!」

「いやすまん…。可愛くて。」

「情緒どうなってんの…。あーあ。でも引き分けだからダメだったなぁ。」

「良いんじゃないか?お互いがお互いの命令聞けば。頑張ったんだしどっちも。」

「え、じゃあ…。」

「今から母さんに言っとくよ。泊まるって。間宮先生も許してくれるでしょ。」

「かぁ~…最高の一日だぜきい君。」

「喜び方がおっさんくさいんだけども。」

「ふふふ。嬉しい。…ん?てことは私もきい君の命令聞かなきゃじゃん。」

「そうだな。」

「何々?私に何させちゃうの?…R18的なことはダメだよ。」

「…えー。」

「えぇ!?…ま、まぁ…ちょっとくらいなら…」

「冗談だよ。」

「〜〜〜!!きい君!」

「ごめんごめん、痛いから殴らないで!?」

「もう…」

「そうだなぁ…何を頼もうか。」


一つだった。そんなの。忘れないでほしい。困らせることだってわかりきってるから、もちろん言わないが。


「ないな。悩んだけど。」

「えぇ…なんかそれだと申し訳ないんだけども。」

「まぁ今度思いついたら頼むよ。」

「…それじゃ遅いよ。」

「……なら、今日のあの楓の水族館の写真、俺のアイコンにしていい?」

「そんなのでいいの?全然いいけど…。」

「ありがと。もういい時間だね。…そろそろ帰ろうか?」

「え、あ、ほんとじゃん。もう十八時…早いなぁ。」

「な。…ちょっとトイレ行ってくるから荷物見ててくれないか?」

「はいよー。」


近くの椅子を見つけて、俺は荷物と、楓をそこに置いて行ってトイレに行った。昼に食べ終わった後コーヒー飲んだからな…。


「ふぅ…さてと、楓はちゃんと待ってる……ん?」


楓が座っていた場所を見ると、二人の男たちと何か喋っているのが見えた。知らない…やつだな。嫌な予感がして俺は走ってその場に戻った。


「その待ってる…きい君?ってのは置いてってちょっと遊ぼうよ。」

「俺達友達じゃーん。」

「え…でも…友達…なんですか?ほんとに?」

「そうそう。荷物も持って行ってあげるから。」

「いやだから…友達…なら良いんですけど。きい君来てからで…。」

「だからさー大丈夫だって。もう言っておいてるから。」

「聞いてないが、てか誰だお前ら。」

「きい君!」


こいつら…事情を知らないからって最悪な近づき方してきやがったな…。


「あん?キミがきい君?」

「その呼び方で呼ぶなよ。…ほら、行こう楓。」

「ちょっとちょっと!…俺ら、諦め悪いからさ。」

「良いよ、別に。君も来てくれて。ほらほら、お金出してあげるから。」

「だから…しつこい。俺たちはもう帰るとこなんだよ。」

「つれないなぁ。良いからさ、ほら。ちょっとだけ。」


どう振り切ってやろうかと考えていた、その時だった。


「警備員さーん。純粋なカップルたちに迷惑をかける悪い人たちがいまーす。」

「はっ?ちょ、おい。」

「ちっ、行くぞ。」


その突然の助け舟が、めちゃくちゃに大きな声だったもんだから、面倒くさい輩たちはそそくさとどこかへ行ってしまった。

…ってか今の声。


「やぁ少年少女。大丈夫だったかい?」

「ねえさ…


呼ぼうとして、口を塞がれてしまった。代わりに姉さんはへたくそなウインクを一つ。


「あ、あの。ありがとうごさいます。」

「いいのいいの。お嬢ちゃん、もっと大きな声だしていいよ?あーゆうのは気許したら面倒くさいんだから。」

「で、でもその…きい君…私の彼氏の…友達だって行ってて。」

「あーそれはアイツらが悪いね。どうしようもないわ。うんうん。おい彼氏、もっとはっきり助けてやんなさいよ。」

「…そうっすね。見習いますわ。」

「生意気なガキめ。…あ、私そろそろマッサージに行かなきゃだ。じゃあね少年少女。」

「ほんとにありがとうございました!」

「いいっていいって。ばいばい。」


そう言って、かっこいい女性はノールックで手を振りながらいなくなっていった。

…どこまでも最善を狙い撃ちにする人だな、ほんと。


「あのお姉さん優しかったけどなんかきい君に強くなかった?当たりが。」

「そうか?パンクなお姉さんなんだろ。…てか大丈夫か。ごめんな。」

「全然、元気だよ!」

「…嘘。」

「え……ま、まぁその…ちょっと…。」


そう言って楓は少しずつ、俺に近づてきて、その顔を俺の胸にうずめた。

ほんの少し、泣いているような気がした。

周りの視線は…痛かったけども。

少しして顔を上げてくれた楓の目元はやっぱり赤かった。


「…私一人で外出できないやもう。友達かどうかって…忘れちゃってるから。」

「俺が楓の隣にいないことは、ないから。安心してくれ。」

「うん…帰る。」

「そうだな。そろそろ帰らないと美里さんも間宮先生も心配する。」


楓は俺の手を強く、強く握ってついてくる形でとぼとぼと歩き出した。

はぁ…もう少しだけ気張れよ、俺。こんな終わりじゃダメだろ。

昨日までと、同じだ。

ショッピングセンターの出口で、俺は立ち止まった。


「楓、ちょっと。」

「ん、え?そっち?まだ買うの…?」

「まぁまぁ。」


詳しくは説明せずに、楓を引っ張ってエスカレーターに乗った。

その間、俺は一言も発しなかった。楓も雰囲気に流されたのか、同じように。


着いた場所は…


「わぁ…綺麗。」

「前に来た時、夜だったから覚えてたんだよ。ここの屋上からの景色結構良いんだ。」


駐車場である屋上にはほとんど車は止まっていなくて、広い地面と広い空の、目を見張るほどの綺麗な空間があった。


「すごいね…。あの小さな光の…一つ一つが、人。」

「考えられないな。」

「…こんな綺麗な景色をさ、きい君と見た事…。忘れちゃうんだね。」

「俺は、忘れない。…独り占めだな。思い出。」

「…きい君、誰かとの思い出は、一緒に浸るためにあるんだよ。」

「そう…だな。」


その後、五分、十分ほど夜景を眺めた。もしかしたら二十分以上経ってたかもしれない。ふと、楓が呟いた。


「…写真。」

「え?」

「写真を取って……いや、やめた。帰ろ。」

「…いや取ろう。取らせてくれ。」

「…わかった。」


そうして俺たちは夜景をバックに、かしゃりと音を鳴らしてから病院へと帰った。

結構多めな荷物を持ち帰ったせいで、病院の入り口でばったりであってしまった間宮先生に文句を言われてしまったが。


「全く…ちゃんと家に持ち帰ってくれよ?楓ちゃん。」

「わかってますよ。今日お父さん夜来るみたいなんで。その時に。」

「おや、そうだったのかい?」

「あ、間宮先生。今日俺泊っても良いですか。」

「私とかい?」

「…。」

「何か言ってくれよ…冗談なんだから。良いよ。あとで里美君に布団を用意しておいてもらうから。」

「あざす。」

「ついに三文字になったね感謝が。…まぁ言ってくれてるだけマシか。」

「それじゃあきい君を私の部屋に招待してあげちゃいます!」

「ありがとうございます。」

「…愛の差か。」


その後、寝る準備まで一気にした。服は代わりを持ってきていなかったのだが、楓が「きい君でも着れるやつ、貸してあげる」と言って貸してくれたので問題はなかった。いや問題なかったというのは違うな。問題は確かにあった。借りたパジャマの真ん中に、可愛らしい動物が。


「…クマ。」

「そう、クマ。可愛いでしょ?」

「…ウン。」


楓の部屋に行くと、隣に布団がしかれていた。なんだか今日は俺の人生の中でもかなり珍しい体験をしそうだな。


「私も可愛いと思うわよ、そのパジャマ。」

「里美さん…。ここ来るまで何人のおばあさんおじいさんから温かい視線をいただいたか、わかりますか?」

「似合ってるって!」

「…ウン。」

「ふふっ、喜一良義君の弱点は楓ちゃんね。」

「自分でもそう思います。」

「それじゃあ、私はお邪魔みたいだからお暇するわ。二人とも、おやすみなさい。」

「布団、ありがとうございます。」

「おやすみなさい!里美さん!」


里美さんは最後までこっちをみて笑顔で部屋を出ていった。…クマ。


「そういえば今日、名井戸さん来るんだっけ?」

「名井戸さん…あぁ、うん。来るよ。」


この格好で会いたくないなぁと思っていると…ノックが。

クソ…諦めるか。

楓はもうベットに足を入れて出れないよ~アピールしてきたから俺がそのノックされた扉を開いた。


「…!奈津…さん?」

「あら…喜一良義君、久しぶり。」

「僕もいるよ!」

「あ、名井戸さん。」


まさかの両親お二人そろってのご登場。出迎えたのは娘の寝巻をきた男。

ごめんなさい。

久しぶりにみた奈津さんは、随分とやせたように見えた。


「まさかお二人来るとは。」

「母さんが…決心したんだ。」

「ごめんなさいね、喜一良義君。楓の…そばにいてくれて。」

「それが俺の役目ですから。出ていきますね、とりあえず俺は。家族水入らずの方がいいでしょう」

「喜一良義君もいずれ家族だ!」

「名井戸さんここ病院だから静かにしてくださいよ…。…それじゃ楓、あとで。」

「うん。」


俺はその部屋を出て…行く場所に困った。

この服で間宮先生の部屋に行ったら絶対馬鹿にされるだろうなぁと思ったから。


「行くとこねぇし行くか…。」


仕方なく納得して、階段を下りた。その自分の足音が後ろから聞こえてきた大きな音でかき消えた。

ドアが、勢いよく開く音。


「奈津!」

「…!」


振り返ると奈津さんが廊下を走って行って…名井戸さんが追いかけていった。一体何が…?


「…嘘だろ。」


俺はすぐに楓の部屋まで走って戻っていく。


「楓…!」

「…きい…君。」


そこにはぼろぼろと涙を流す、楓がいた。……まさかもう…。


「ぐすっ……私…私……忘れ…てる。あの女の人を…お母さんだって……思えて…ない。……ううっ…。」

「…ふぅ。」


冷静に、なれ。俺はゆっくり楓の元に近づいて、右手で頭を撫でてやって、左手で楓の両手をまとめて握ってやった。

きっと…どちらさまですか、と…実の親に言ってしまったんだろう。

しかし、俺の想像はあまりにも現実より浅はかだった。


「雰囲気で…わかったんだよ。あぁ、このお父さんの隣にいるのが…お母さんだって。」

「そう…なのか。」

「合わせようと思った。この人が私のお母さんなんだって、初めて見た女性の人をそう思い込んで会話したんだよ。…でも、親子なんだね本当に。一言、お母さんって言ったあとに…元気?って聞いたら…わかったみたい。私がもう…覚えてない事。」

「そうか…。」


どうやら、名井戸さんの事は覚えてるようだ。…よくよく考えればそうかもしれない。奈津さんは楓を恐れてここ最近ほとんど顔を出さなかったと聞いた。逆に名井戸さんは仕事が終わって、行ける日はどんなに短くても顔を出していた。だからか。


「…今日、寝てさ。」

「…。」

「明日…多分、お父さんの事…も。ぐすっ。」


その先を楓は口に出さなかった。



背後から足音が聞こえてきて、俺は振り返った。入ってきたのは…奈津さんだった。


「奈津さん…。」

「……て。」

「え…?」

「どう…して、あんたの事は覚えてるのよ!楓は!」


それは、至極まっとうな疑問。誰も言わなかった、当然の事。


「どうして私じゃないの!母親よ!?なんで…あんたが…!」

「奈津!そこまでにしろ!」

「だって…あなた…。あなたの事も、明日には忘れられてるかもしれないのよ!?楓に!」

「…少し落ち着こう。ほら。」

「なんで…どうして!?あなたは楓の事どうでもいいの!?」

「そういう訳じゃない。ただ僕たちは大人だ。大人の対応を…。」

「何が…大人よ。あんな、楓と会ってまだ二年しか経ってないようなやつに楓の何がわかるっての!?」


…今日、泊るのやめよう。帰って…家で寝ようと。俺が受け止めるべき言葉はあまりにも重くて、立っていられなくて…。そう考えていた時だった。


「やめてよ、きい君の事を…!」

「…は?」


楓が立ち上がって…実の母親から、俺を守るように立った。


「楓、何を…。」

「あなたがお母さんなのはわかってるよ?!でもだからって…きい君に酷いことを言わないでよ!私が全部悪いんだから…きい君は何も…悪くない!」

「…そう。私はもう…あなたの母親じゃ…なくなっちゃてるのね。」


今の楓の言葉が、何かのトリガーになったのか、奈津さんは声を荒げることをやめて、どこかに行ってしまった。名井戸さんは俺に申し訳なさそうな顔をしてから、奈津さんを追いかけていった。


「……楓。」

「私…きっと間違ったこと言ってるんだろうね。…ごめん。」

「誰が…悪いとかじゃないさ。この問題は…。」

「…ありがと。」


…この顔の楓をすでに俺は見ている。自分への嫌悪が貯まって、泣いた後に限界を超えた後に見せる、生気を失ったような顔。こうなってしまえば…俺は何もできない。

楓の笑顔を見ることはできないのだ。明日に、なるまで。

そんな顔を隠すこともなく、楓はベットに寝転がって毛布で顔を隠した。


「…やっぱ無意味だな。何しても。」


窓の外に見える月が、俺を励ましてくれているように思えた。そうと思わなければ、どうにかなってしまうような気がして。

寝れないな…これ。

かと言って外に出て奈津さんと会ってしまえば…それは最悪だな。

どうしようか悩んで…悩んでいると。


「病院ではお静かに、だぞ。」

「…間宮先生。」


疲れ気な間宮先生が全開になっていた扉から現れた。


「ん?案外しょぼくれてないな。」

「もう折れないですから。…今ちょっと軋んでます。」

「はは。相変わらず強い男だな君は。部屋に来て少し話すかい?…大丈夫、もう変な話はしないから。」

「…そうさせてもらいます。寝れなさそうなんで。…楓、ちょっと行ってくる。」

「…………私…も行く。」

「え?」


楓はもぞもぞと、ベットから起き上がってきた。毛布持ったまま。

まさかここで立ち上がってくるとは思わなかったので俺は間宮先生と顔を見合わせた。

立ち上がった楓の顔は…今までの、あの俺にはどうしようもない顔ではなかった。

運命に抗うような、強気な…泣き顔。


俺と楓は間宮先生の部屋にお邪魔させてもらった。

部屋に入って、座ってからも楓は何も言わず黙り続けていた。この空気に、なんという言葉をぶつければ次のステップに進めるのか、俺と間宮先生…先生の方は、わからないけれど、とにかく言葉を探していて。


「…。」

「あー…ココア、飲むか。」

「…もらいます。」

「…私は、コーヒー。」

「この時間に飲んだら寝れなくなるぞ。」

「…いい。寝たくない。寝たら…忘れちゃうから。」


小さな声なのに、低く、誰に聞かせるわけでもないような、声なのに。俺の耳には楓の声がはっきりと聞こえた。間宮先生はしぶしぶと言った感じにココアと、コーヒーを二つ作り始めた。なんだかんだ言って先生も飲むんじゃないか…。」

作ってくれてもらっている間も、会話することはなかった。けれど動きはあって。楓の手が毛布から少しずつ、少しずつでてきて…俺の手を掴みに来た。…なんだか、俺は途端にいじわるをしたくなって。そのゆっくりと近づいてくる手から、こっちも合わせてゆっくりと遠ざけてみた。すると楓はその泣きはらした顔でこっちをみて、口を膨らませる。


「むぅ…きい君キライ。」

「がはっ…だ、大ダメージだ。」

「…ふふっ。…黙って手出して。」

「はいはい。」

「なんだ?もう元気になったのか?若者ってのはわかんないねぇ。…はいココア。と、楓ちゃんはコーヒー。」

「きい君、コーヒー飲んで。」

「だと思いましたよ。普通飲まないもん楓。ん、ココア。」

「わーい。ありがと。」

「ふぅ…記憶が無くなりかけてても、君たちの熱はコーヒー以上だね…。さて…そろそろ落ち着いたかい?楓ちゃん。…と、喜一良義君。」

「俺も?」

「そうさ。…さっき起きたことの全てを見たわけじゃないが、それでもいつかは起きる出来事だ。両親を忘れる。…何度想定していたことか。おかげでその惨状を垣間見るだけで何が起きたか、わかったよ。喜一良義君、楓ちゃんのお母さんに…何か酷いことを言われたんじゃないかい?」


言われた、が。この心に空いた大きな穴はきっとその酷い事によってできた事ではない気がしていた。それは…楓が俺をかばって、奈津さんを退けた事。その事実がなんだかとても、楓を楓じゃなくしているように思えて。ショックだった。だけど…それを言ってしまえば、隣でココアを飲んでいる楓に何かしらの嫌な感情を与えてしまう可能性を危惧して…言うのはやめた。


「言われました。…でも当たり前のことだと思います。自分の娘から忘れられて、隣の男の事を覚えていて。…十年間を二年間に押しつぶされるのは、辛いですよ。」

「…それでも…あれは言い過ぎだと思ったよ、私は。きい君の事をあんな…邪魔者扱い。今頃君がいなかったら、私…多分立ってられなかったと思う。」

「まぁ…この問題に成否はないだろうね。あたしも同じ立場で、お母さんの立場、楓ちゃんの立場だったら…迷って感情をぶつけることしかできないだろうから。」

「先生…感情とか言うんですね。」

「楓ちゃんは遠慮も忘れたのかな?」

「あ、いや…すいません。」

「はっはは…話している限りじゃ、普通の女の子なのに…。そういえば、楓ちゃんはわざわざ起きて来てくれたけど、どうしたかな。喜一良義君を呼んだのは多分寝れないだろうから雑談でもしてあげようと思ってなんだけど。」

「間宮先生、イケメン。」

「む、浮気はダメだよ。」

「誰がするか。」

「そろって配慮のないカップルめ…。それで?楓ちゃんはなんで?」

「一つ…確認しておきたいことがあって。私がっていうよりどちらかといえばきい君に。私は聞いても…忘れちゃうだろうから。」

「その確認っていうのは…正確にあと何日くらいで、記憶の消滅が終わるかってことかな。」

「そうです。きい君に心の準備をしてもらってほしいから。」

「それは…確かに聞いておきたいかもな。」

「わかった。説明しようか。情報はそろってるからね。このところ毎日、あの頭につける装置を壊されないように恐る恐る楓ちゃんにつけてもらってるから。」

「…もう壊しませんってば。」

「万が一、さ。あたしは医者だから。で、はっきり言っちゃうけど楓ちゃん。君は後約七十五時間がリミット。最後に忘れる記憶、喜一良義君の事を忘れるまでの制限時間だ。」

「…三日くらい?」

「そう。明日から三日かな。それより長いかもしれないし、短いかもしれない。薬で誤魔化したのは確かに楓ちゃんの忘れるまでの間隔を伸ばしたいという目的を達成させてくれたけど…正確な消滅時間がわからなくなったのはデメリットだったね。それに想定よりも間隔、伸びなかったし…。ごめんね。」

「いえ、間宮先生のせいじゃないですよ。…後三日か…。」


楓は、手のひらをパーにしてから指を一本ずつ折り畳んでいき、三本目で止めた。その自分の手のひらを、ずっと楓は見続けた。

なんだか現実的な時間になってきているのに、後三日でこの日常がなくなってしまうことを、受け入れる準備ができていなかった。


「間宮先生、俺一個気になってることがあるんですけど。」

「はい、喜一良義君。」

「前話してくれたじゃないですか、楓の記憶消滅には海馬ってのがどんどん新しくなって行ってるのが関わってるって。」

「言ったね。」

「ってことは…記憶の混濁や消滅が起き始めた、約二週間前からの事柄は覚えてるんじゃないかなって思ったんですけど…。」


というか最初説明を受けてから考えて、もしかして?と気になっていたのだが…。楓はその二週間で姉さんを二度見ているはずなのに、あのショッピングセンターで助けてくれたときには姉さんだと覚えていなかった。


「…それね。最後に話そうと思ってたんだ。楓ちゃんの記憶が無くなってから、ね。」

「どうしてですか?」

「…ショックで、残り時間を楽しめないかと思って。楓ちゃんの両親には伝えてるよ。ちなみに。私にはその義務がある。もちろん楓ちゃんにも伝えなきゃんだけど…意味ないから。」

「忘れちゃいますからね。」


楓の目はまだ赤かったが、もうすでに冷静になっているようだった。ここまでで精神が強くなっているのか、すでに先ほどの出来事を忘れたか…。確認したくはなかった。…流石に前者か。


「さて喜一良義君。聞く?どうする?」

「聞きます。」

「…即答だね。」

「楓の事は全部知りたいんですよ。」

「…うちの彼氏、本人の隣で言うんですよ。どうおもいます?」

「私には眩しいよ。…後で後悔しないでよね。」

「しません。」

「じゃあ、少し難しい話になっちゃうけどできるだけ簡潔に。確かに私は最初君たちに説明するとき海馬が新しくなって行っている。元々の部分の記憶が減って行っているっていったね。」

「はい。」

「それ自体は間違いなかった。けどその新しくなって行っている部分が、まだ機能していなかったんだ。違うな、まだ、と言ったが…もしかしたらそのまま機能しない可能性だってあるんだよ。楓ちゃんが、新しい楓ちゃんとしてリスタートできないかもしれない。」


無意識に、楓と握っていた手が強くなる。それはつまり…新しいことを覚えられなくなるってことで…。毎日毎日、はじめましての連続。そうなってしまえばきっと壊れてしまうのは楓だけじゃない。…俺もだろう。


「…。」

「そして…喜一良義君、大丈夫かい?」

「あ…はい。いやその…大丈夫では…ないかもですね。」

「…ん。」

「…ありがとう。」


楓は俺に、当事者の楓が、毛布をはたから見ているだけの俺にかけたくれた。なんだかとっても…情けなかった。どうして楓はこの話を聞いても…そんなに冷静でいられるんだろうか。さっきもそうだ。奈津さんの事を忘れても…すぐに立ち上がって。明日には忘れるから気にしなくていい、なんて人では彼女はないことを、俺は知っているから尚更に。


「続きを話してもいいかい?」

「大丈夫です。」

「まぁこの先の話は最終確認みたいなものので、喜一良義君の疑問に直結している話ではないんだが。楓ちゃんの今生きている海馬の面積が少なくなって行っている、つまり覚えていられる記憶の容量が減ってるって事。

で、記憶には潜在記憶と顕在記憶の二種類がある。前者は無意識に記憶すること。後者は意識的に記憶し、それを自発的に思い出せる記憶の事だ。ここまでは大丈夫かな?」

「わかり…ます!」

「こういう時のきい君はわかってないので私がわかりやすく教えます。」

「…お願いします。」

「潜在記憶は、例えばだけどきい君。君なんかわからないうちにゲームのモンスターの名前とか技の名前。一回で覚えちゃったりしない?語呂が良いとかで。多分それが潜在記憶なんじゃないかな。」

「なるほど?めちゃくちゃわかりやすい。逆に顕在記憶はあれか、勉強での暗記か。」

「うん。でしょ?間宮先生。」

「そうだよ。流石楓ちゃん。頭良いね。」

「えへへ…。」

「どっちが支えてんだかわかんなくなるわ…。」

「私だって、君を支えたいんだよ。」

「楓…。」


健気にそういう楓の目を、俺は見つめた。


「いちゃいちゃするんじゃない。…全く、油断も隙もないな君たちは。続き話すよ良いね?…潜在記憶の方の消滅は今この瞬間にも行われている。さらに顕在記憶の方に影響すら与えている。それが記憶の混濁だね。で、顕在記憶の消滅は、一日単位…睡眠がトリガーになっていると私は思っている。そうでない時もあるかもしれないね。この二種類の記憶の消滅。それが楓ちゃんの症状の詳細だ。」

「わかりました、なんとなくですけど。」

「それは良かった。…で、最初の方の話に戻るけど、楓ちゃんは四日後に海馬が完全に新しくなる。その瞬間、機能しだすかはわからない。もしかしたらずっとしないかもしれない。ってことだけは覚えておいてほしい。」

「了解です。…ふわぁ…。」

「ふっ、頭を使ったから眠くなったのか?そろそろ寝ると良いさ、今日は泊っていくんだろう。その可愛いパジャマで。」

「あ!」


忘れてた…。

眠くなったのは事実だったので、間宮先生に感謝を伝えてから楓と部屋に戻った。さっきの間宮先生の話を完全に理解したわけではない。ただ一つ念入りに言われたことだけは覚えている。例え、記憶を完全に消滅してしまったとしても、それが地獄の終わりではなく始まりの可能性があるという事。正直、今さら感がある。だって俺は…


「きい君。」

「どうした?」


すでに部屋の電気は消して、俺は布団に。楓はベットに入っていた。カーテンも、もう閉め切っているのに月明かりが少し明るく部屋の中は完全な暗闇ではなかった。


「先生がさ…記憶を失った後の私は、新しいことを覚えられないって言ったじゃん?」

「言ってたな。」

「それってさ、喜一良義君の事を、覚えられないんだよね。…何度好きって思いを伝えてくれても私は、悩んでいるうちに忘れちゃう。」

「そうなったとしても、俺はもう一度…いや何度でも、告白するよ。毎日、毎日。」

「それ、辛いでしょ。」

「辛いさ。きっと。でも君のいない生活よりは…辛くない。」

「…きい君ってさ、たまに思うけど私の事好きすぎだよね?」

「そりゃ中学で初めて楓見てから一目ぼれだったからな。叶わぬ恋だって思って卒業式告白して…深まるだろ、それでOK出されたら。」

「ふぅん…そうだったんだ。」

「何を一人納得してるんだ。…もう寝るよ、俺は。」

「もうちょっと話そうよ。」

「…ん。何話す?」

「なんかきい君ばっかり好き好き言ってズルいから私がきい君の好きなところ百個言う。」

「えぇ…。」


夜はまだまだ始まったばかりで、話しているうちに俺の眠気の方が先に勝ってしまい寝てしまった。と思う。いまいち覚えてない。

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