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第三章 明確

 新しい週が始まり、もちろん学校生活も再開する。すでに楓は、間宮先生に止められている記憶障害のステージを超えている状況。今までも、周りに気付かれないよう最善の注意を払っていたが…さらに限界を超えなきゃかもしれない。

 俺は朝起きて、いつも通り朝ご飯を食べて、いつも通り着替えて…


「あれ、喜一良義今日ちょっと出るの早くないかい?」

「…朝することがあって。」

「ふぅん…。まぁいってらっしゃい。急ぎ過ぎないでね。」

「わかってるよ。」


 ダイニングから出て、玄関に置いておいた鞄を背負い靴ひもを結ぶ。我が家は玄関と二階へと繋がる階段が同じ空間にあるから、後ろから誰かが降りてくる音が聞こえてきた。


「…もう行くの。」

「姉さん…おはよ。今日は早いんだね。」

「仕事だからな。…楓ちゃんによろしく言って…も意味ないか。」

「いや…言っておくよ、絶対に。」

「はは、強情な弟だ。いってらっしゃい。」

「うん。」


 姉に見送られるのは、珍しいな。と俺ははやる気持ちを抑えつつ、玄関の扉を開こうとした時、姉さんに呼び止められた。


「喜一良義。」

「何?」

「…急かしたくはないが、私はなんだか嫌な予感がする。」


 その言葉に、俺は笑って…


「俺もだ。いってきます。」


 傘を持って外へと出た。降水確率は、六十パーセントらしい。

 曇った空を見て、自分の心にも曇りが出てきていることに気付く。…昨日の時点ですでに姉さんを忘れかかっていた。いや、姉さんにはああいったが多分もう…。

 ダメだダメだ、悲観的になるな。今日はまだ、大丈夫かもしれない。


「六十パーセント、ね。当たるもんだ。」


 俺は傘を差して、けれど足の速さは変えなかった。降水確率、というのは今日と同じような空の日が過去に合って、そのうち雨が実際に降った日と降らなかった日を平均したものらしい。つまりは、今日のような曇り空が十日あったとして、雨が降ったのは六日、ということだ。


「俺の予想は、当たらないでほしいもんだな…。」


 俺は別に医者じゃないんだし、そこまで確率は高くないだろう。…しかし、降水確率と違って前例がない事だという事は承知だった。だから、今日は少し早く出たのだ。とは言っても二十分ほど。景色はなんだかいつもと違うように見えた。

 いつもはいる小学生の列がいないし、その小学生が安全に横断歩道を渡れるように管理する地域のおじさんたちもいない。車だけが雨を弾きながら道路を進んでいた。


 学校に着くと、いつもの人気はなく、今の天気に合った静けさだった。楓はいつもこのくらいの時間で、一人二人しか他に人のいない教室で勉強を…いや、しないか。する意味がない。となると…図書室で時間を過ごしているかもしれない。そもそもまだ学校に来てないとか。

 靴棚で靴を履き替えていると、見知った先生に話しかけられた。


「お?秦理じゃないか。こんな時間に珍しい。」

「三上先生。…ちょっと野暮用で。」

「はん、難しい言葉使いやがって。」


 …野暮用ってそんなに難しい言葉か?


「というか三上先生ってこんな朝早くからいるんですね。」

「私の事を教師だと思ってるのか?来るさそりゃ、教師は君たちが来るよりずっと早く来るのさ。」

「今日一番の驚きです。」

「おいおい、まだ始まったばかりだぞ?今日は。」

「そうでしたね。…楓見ました?」

「ん?あぁ見た。君のガールフレンドなら教室でいつも通り紫崎と話してたぞ。」

「紫崎…あぁ、桃実か。」


 いつも桃実呼びだから苗字で言われた途端誰かわからなくなるんだよな。


「てかアイツもこんな早くに…。」

「はは、少し朝早く来るだけで知らなかったことがいっぱいあることに気付いたか。私も若いころ一度興味本位で早起きしてみたことがある。」

「何時くらいですか?」

「…三時?」

「高齢者…。」

「留年させるぞ。」

「冗談ですって。じゃあ俺もう行くんで。」

「あぁ。それと木崎にプリント見せるのは良いが、見せた側の方が点数高くしろよ。損してるぞ。」

「知ってますよ…。対策を考え中です。」

「ふはは、秦理には頭の良いガールフレンドがいるだろ。じゃあな。」


 他人事のように…いやそうなんだけど。今どれだけ楓がその件に苦しんでいるのか、知っているのは俺だけなんだ。俺がちゃんとしなきゃ…。俺が。

 三階まで昇るのはやっぱきつい。しかし先生も昇っていると考えると、なんか負けたくなくなってきた。


「ふぅ…で、奥の教室…。もう二年も終わるけど、慣れないな。」


 三年生になったら教室がどこにあるかなんて考えたくねぇ…。

 …落ち着け、俺。今だけは、その遠い奥まである教室に感謝かもしれない。心の準備ができているから。さっきカミ先が桃実と話していたっていうなら、とりあえず桃実の事は忘れていないんだから。何を不安になることが…。

 いつもは騒がしい教室も、半分くらいの声量しか聞こえてこなかった。


「だからさ桃実。もう勉強会は良いんだって!」

「くう…昨日やっぱり参加しておけばよかった。」

「いや昨日は図書館に二人で行ってたぞ。」

「おぉ、喜一良義。おはよ…は?昨日勉強してないの?楓ちゃん~…?」

「あはは…ごめんって。きい君おはよ。」

「あぁ、おはよう。調子はどうだ?」

「何?楓ちゃん熱でも出したの?」

「んや大丈夫。元気いっぱいだよ!」


 いつもの日常は、まだあった。…よかった。


「ねぇ喜一良義聞いてよ!」

「なんだよ朝早くから…俺はお前の都合の良い相談相手じゃないぞ。」

「一年の頃散々楓ちゃんの好きなもの聞かせさせたよねー。自分で聞けばいいのにー。」

「おいお前それは口止めしただろ!」

「時効だもーん。」

「え、そうだったの。…きい君~。」

「やめろそのニマニマ顔。…で、なんだ桃実。」

「話のわかるやつ!さっき楓ちゃんと話してたんだけどさ、テスト来週じゃん?」

「そういやそうか…。とりあえず鞄だけ置かせてくれ。あと座らせて。」

「勝手にしなさいよそれくらい…」


 億劫な話なので聞き流したかったが、興味が無いわけではないのでとどめた。俺は鞄を置いて、楓の隣の席に座った。やっと休める…。いや今から話し聞くんだった。


「でさ、土日の勉強会私忙しくて参加できなかったの。」

「聞いたよ。それで?」

「まだもう一回土日挟むじゃん、そこで勉強会やろうって楓ちゃんに言ったんだけど。」

「もうしなくていい、私天才だからってドヤ顔で言われたか?」

「…すごいわよ、一言一句違わなかった。」

「なんか改めて聞いたら恥ずかしいんですけど。」

「当たり前だろ。俺は楓のこと知り尽くしてんだから。」

「それはそれで気持ち悪い。」

「うっ…。」

「あーバカップルバカップル。胸焼けするわ朝から。」


 誇張したけど!知り尽くしてるは流石に冗談だけど!

 …正しく言えば知り尽くしたい、っていったら本気で引かれそうだからやめておこ。


「まぁでも、俺ももういいかなそんな根詰めなくて。」

「ダメだよ、きい君は勉強して。」

「彼女に信じられてないダメ彼氏。」

「あん?やるかおめぇ。」

「女の子に手出せるの?」

「出せねぇ。」

「流石きい君。」

「なんなんだか…。てか今日あんた早くない来るの。」

「確かに。どうしたの?そんなに私に会いたかった?」

「そりゃ常に。」

「…私も早く彼氏つくろうかしら。」

「良いんじゃねぇの、木崎とか…

「んん~!?呼んだか!マイブラザー!」

「うわぁあ!?」


 気づいたらすぐ隣に木崎がいた。こいつ足音消すの癖だったりすんのか!?


「おはよう馬鹿。」

「え、桃実さんなんか今日冷たい。」

「今バカップルの熱受けていらだってる。」

「マジ?それはご愁傷様だわ。牛乳飲む?飲みかけだけど。」

「あんたの飲みかけじゃなかったらもらったかも。」

「きいらぎぃ…俺今日朝から散々。」

「おーよしよし。さて、今日の午後に出すプリントはやったのかな?」

「あ。」


 俺がそう言った瞬間に木崎は物凄いスピードで自分の机まで走っていった。机にかじりつくような勢いだったから隣の女子が驚いてたぞ。

 さっそく取り掛かろうとした木崎の元に、追い打ちがかかる。連続で。

 まずは授業開始のチャイム。


「何!?いや授業中にやるしか…。」

「はいおはようみんな。テスト近いから今日の数学はプリント配るぞー。これこの時間解けなかったら宿題な。」

「は…。」

「それと二時間目の国語の先生の子供が熱で空いたから二時間連続な。」

「…がはっ。ちょ、カミ…三上先生!」

「どうした?人のプリントを写すしか能のない木崎君。」

「…なんでもないです。」


 あれ頑張れば教育委員会に訴えられるのでは?と思ったが事前にやってない木崎が悪い。てか、あんなの日常に近いのでいつも通り成仏しかけている木崎にクラスメイトは無情にも笑顔を見せた。アイツ鋼のメンタルしてんなぁ…。

 木崎に念仏を唱えていたら、いつの間にかプリントが回ってきた。これまたまぁまぁ難し……解けるな。ちゃんと公式を覚えていれば難なく解けるものばかりだった。

 …そういえば楓にあの公式を貼りまくったプリント作るとき、字が汚すぎて何回も書き直したんだが…まさかこんな形で役に立つとは。楓には悪いが、得してしまった気持である。


「ねぇねぇ、きい君。」

「ん?あぁそうか、待ってくれ、今解くから。」


 楓は…もう公式なんて覚えてないから、答えだけ書かせて提出するしかないなと。

 問題に取り掛かろうとした俺の手は、楓の次の言葉でまるで重力が強くなったように、動かなくなった。


「さっきの、木崎…君?って、友達?桃実とも仲良さげで…。私にも教えてよ、仲間はずれ嫌なんだけど。」

「…は?」


 楓の様子は悪い冗談を言っているような、声のトーンでも表情でもなかった。

 もう、木崎の事すら…覚えてないのか?

 俺はまだ事の重大さを信じたくなくて、黙ってしまっていた。


「…ねぇ、きい君、聞いてるの?ね…ぇ……」


 自分でもどんな顔をしていたかわからなかった。少なくとも、楓に見せていい顔ではなかっただろう。…残酷にも、楓の地頭は良い。気づいたんだ。いや…気づかせてしまった。…自分の、言っていることに。


「あ、その……ごめ…。」

「謝らなくていい。三上先生ちょっと楓の様子が…

「…保健室の先生なら今いないぞ。私が付く。…秦理、お前もこい。」

「…はい。」

「あー…みんな聞けー。今朝楓が風邪拗らせてるって聞いてて、今具合悪化したっぽいからちょっと秦理と保健室行ってくる。ちゃんとプリント解いてくれよ。」

「待って喜一良義が良いなら私も行きたいんだけど。」

「何言ってる、辛い時は彼氏がいたほうがいいに決まってるだろ。知らないのか。」

「…ちっ…なんであの人先生できたんだろう。」

「じゃあ行ってくる。…虹咲、秦理。」

「うん…。」

「あぁ。」


 やけに話が早いな…。気味が悪いくらいだ。だが、こんだけ早く楓をあの空間から出させたのは良かったかもしれない。…突然、一人クラスから見放されたような感覚に、近いだろうから。


「虹咲、実は先生話を聞いてる。」

「…はは、じゃなきゃおかしい動きでしたよ。」

「余裕はありそうだな。顔真っ青だぞ。」

「三上先生、ちょっと。」

「おーこわい。…これでも私だって焦ってんだ。生徒の親御さんに嘘ついて、虹先の医者にも秘密で私が最終的な許可だして登校させてるんだぞ。ばれたら一発退職だ。」


 …こんな、自分優先そうな先生に見えるけど、実は誰よりも生徒の事を、その生徒自身より思っている、思い切りのある良い先生だ。

 すぐに保健室に着くと、確かにいつも優しそうな保健室の先生はいなかった。


「じゃあ虹咲。親呼ぶから。」

「…!待っ…

「ダメだ。」

「カミ先…!楓の時間は少ないんだ。…あと少しでいい、もう少しだけ。」

「…できない。これ以上は、虹先の精神状況が危ないんだ。事態は、君たちが思っているより…深刻であることに気づけ。」

「っ…。」

「…もういいよきい君。…わかりました、先生。お願いします。」

「あぁ。」


 カミ先は職員室まで戻って電話をかけに行った。

 …深刻な事態であることに気づけ、か。俺は改めて、さっきの出来事を思い返した。木崎は、楓にとって桃実と同じくらい仲のいい相手、という訳ではないがそれでもいつものメンバーの一人だ。その木崎を忘れてしまっていたという事は…。

 すでに、あの朝の時点で…あのクラスの中で楓の知っている人物は、桃実だけだった?その事実はあまりにも残酷で、ようやく、カウントダウンが耳に届いてきたようにも思えた。


「…きい君。私ちょっとトイレ行ってくる。」

「…行こうか。」

「良い。…見られたくない。」


 楓は足早にトイレへと向かった。…吐き気を、催すほどの衝撃。どういう感情だろう。知っているはずの人間が、知っている友達と仲良く話している、疎外感。疎外感という言葉ですら、今の楓の感情は説明できない気がした。

 少し冷静になってきた頃、先生が戻ってきた。


「…虹咲は。」

「トイレだそうです。」

「…そうか。そうだよな。」


 カミ先は重たそうにその腰を、いつも保健室の先生が座っている椅子に重たい溜息をついて、下ろした。俺もそれに合わせて、近くに合った二人掛けのソファに座った。やわらかい。

 カミ先はその後、何かを探すように服の胸ポケットをまさぐり、もう一度溜息をついた。


「…煙草、吸うんですか?」

「ん?…あぁ…はは。教師が吸うなんて、ってか。」

「いえ、趣味なら良いと思います。」

「趣味、ね。…とっくにやめたはずだけど、体は覚えてるもんだね。」


 …カミ先は落ち着きのない様子で、けれど自分を落ち着かせるようにその場に座っていた。…知らされていたと言っていたな、楓の事を。出なけれ普通、交通事故に合えばそりゃその担任にも連絡が行く。というか、医師が許した学校生活を裏で手を回す存在がいなきゃおかしい。しかもその上、楓がすでに止められているはずの記憶障害になっていたことも気づいて、隠してくれていたのか…。思っていた何倍もカミ先に助けられていたとは。


「ありがとうございます。」

「…何の話だか。…とりあえず、虹咲の父親の方が来るらしい。」


 あくまでも隠すらしい。姉と言いこの人と言い、ツンデレ多くない?

 俺はそんな様子のカミ先を見ていたら、落ち着いてきて。質問をした。


「さっき、俺達が思っているより深刻って。これ以上は楓の精神状況が危ないって言ってましたよね。」

「…あぁ。虹咲は、誰を忘れていた?」

「そこまで理解しないでこんなことしたんですか。」

「私は察しが良いんだよ。で、誰をだ。」

「…俺と、桃実以外です。」

「そうか…。木崎の事を忘れたか。」

「はい…。」

「ふぅ…最初、ってのがデカいんだろう。」

「え?」

「木崎と虹咲。友達の友達程度の仲のはずだ。二人きりの時に、会話が弾まない程度の仲。その程度の仲の一人を忘れただけで、あの様だ。いつも日常にいる誰かが消えた、忘れた。そのことに何も思えない自分。それに気づいてしまう…自分。…最初の事なら確かに衝撃だよな。」

「…何が言いたいんですか。」

「あぁ、気分を害したならすまん。どうも…私は人との会話が苦手でな。だが疑問には思わなかったのか?吐き気を催すほどか、って。」

「…俺は、あのクラスの中で知っている人が唐突に二人だけになった。でも元々知ってるはずなのに。…そうなったら脳が混乱して、立ってられなくなりそうですけどね。」

「ふむ?案外現実的な考えじゃないか。…あーまた…すまない。別に楽しんでいるわけじゃないんだ。この状況を。これ以上の会話はやめだな。」

「同意です。」

「激しくか。」

「カミ先…。」

「…いや今のは場を和ませようと。」

「ふふっ、不器用すぎますよ。先生。」

「…虹咲。」


 帰ってきた楓は、この一瞬で随分とやつれたように見えた。


「楓、大丈夫…じゃないよな。もう名井戸さんが来てくれてるらしいから。」

「そう。」

「虹咲、横になるか?」

「…きい君の隣にいたい。」


 そう言って楓はやわらかいソファに座っていた俺の隣に、くっつくように座ってきて…手を握ってきた。冷たい、手だった。


「…一応、聞いてもいいか。」

「なんですか。」

「いや秦理じゃない。虹先に。」

「…すいません、先生なんでしょうが…わかりません。」

「そうか。いいさ。涙は枯れてる。」

「三上先生…。」

「ん?はは、なんて顔してる。私は今まで何人もの生徒を送ってきているんだぞ。一人の女子生徒の別れくらい、どうということはない。」


 …しかし、三上先生は立ち上がって窓際まで移動し、曇る空を見上げた。さっきは降っていたのに…。


「楓…!」

「お父さん!」


 保健室の扉が勢いよく開き、名井戸さんが入ってきた。いつも楓を迎えに来るときも急いできてくれる名井戸さんだが、今日は明らかにそのいつもとは違った。


「大丈夫か?」

「…うん。もう落ち着いた。」

「とりあえず病院行こうか。…喜一良義君も来てくれないか。娘が安心するから。」


 俺は三上先生の方を見た。先生は黙って頷いてから…


「テスト、全教科追試にしておく。」

「…カミ先、あんた今までで最高の先生だよ。」

「は、そうかい。」


 俺はそれだけ伝えて、名井戸さんに行かせてくださいと伝えた。


「ありがとう。…それじゃあ行こうか。先生、ありがとうございます。」

「いえ、私は騙していたようなものなので。むしろ責められてもおかしくない立場ですから。」

「…娘に自由を、ありがとうございます。って意味です。」

「はは…。そうですか。…喜一良義。」


 先生が、名前で呼んでくれたことに驚いた。振り返ると、曇りのせいで、電気もついてないせいであまり顔は見えなかったが…


「最後まで、諦めるなよ。」

「…わかってます。」


 ーーー


 保健室


 教師が一人、途端に静かになった部屋の窓を開けて、身を乗り出して慣れたように、思い出したかのようにポケットから煙草を取り出し、咥えた。反対側のポケットからは、ライターを取り出して。


「ふぅぅ…。こりゃあとで怒られるな。教師が保健室で…煙草。」


 しかし吸わずにはいられなかった。

 かすれたはずの心に残る、「わかりません」の言葉。

 その言葉を隠すように、教師は煙草を吸った。煙で、隠すように。

 しかしそれと同時に、また別の意味で心に残っていた言葉があった。


「………今までで、最高の先生…ね。良い事言ってくれるじゃない。」


 少しして、煙草を持つ教師の手に、雫が落ちてきた。


 まだ雨は、降っていない。


 ーーー


 そうして、俺たちは玄関まで向かった。名井戸さんは俺たちの荷物を取ってきてくれるらしい。俺は楓を見ていてほしいと。


「…きい君。」

「どうした。」

「…なんでもない。」


 何を言いたいのか、俺はわからなかった。…呼びたかっただけかもしれない。


「…先外行ってる。」

「大丈夫か?」

「雨降ってないし。」

「そうだな…。」


 名井戸さんを待っていると、階段から降りてきて、その隣に荷物を持ってきた見知ったクラスメイトがいた。


「…あ、いた。」

「桃実。…荷物まとめてくれてたのか。」

「うん。…帰るんでしょ。楓ちゃんなんか辛そうだったもん。」


 楓本人は、待ってくれていた桃実に目もくれず、少し先まで歩いていて。曇った空に何を考えているのか、上を見上げていた。

 桃実も何か察したのか、楓を呼ぶことはなく俺に荷物を渡してくれた。


「重症?」

「…だな。すぐ病院に行かなくちゃいけない。」

「え、それやばくない?」

「すまないね、楓は今…ちょっと疲れてるみたいで。」

「いえ、誰にでもありますよそういうことは。というか楓ちゃんのお父さん来てくれてよかったです。流石に鞄二つは重かったんで。助かりました。」

「いやいや、助かったのはこっちさ。どうもありがとう。…あれ、雨また降り出したな。」


 そうつぶやいた名井戸さんに釣れられて外を見ると、確かに雨が降っていた。

 楓は…ちゃっかりもう玄関の屋根のあるところまで移動していた。その顔は先ほどとは違く、下を向いている。


「じゃあ僕は車を玄関まで寄せるよ。濡れちゃうからね。」

「お願いします。」

「うん。」


 名井戸さんは玄関先の楓に何か言ってから、鞄を持たせ雨の中走っていった。


「桃実、ありがとうな。」

「何いきなり…きしょい。」


 …もし、あの朝桃実のことまで楓が忘れていたとしたと思うと、ぞっとする。俺が行くまで、会話してくれていて…本当に助かった。


「喜一良義。」

「…どうした。」

「最近さ、楓ちゃん…………ううん、やっぱりなんでもない。」

「そうか。」


 …両親と俺の次に、一番近くにいた存在だ。気づくだろう。けど、話を合わせてくれていたんだ。


「…お前良いやつだな。」

「さっきからなんなの!?もう私行くから!楓ちゃんのお父さんもう車持って来てくれてるみたいだし!」

「良いのか?楓と話さないで。」

「…あんたがついてるでしょ。私はここでお役御免よ、じゃあね!」


 そう言って桃実は走り去っていった。…感情を押し殺していたんだろう。もしかしたらもう親友に会えないかもしれない、なんてなんとなく察していたのかもな。

 俺は桃実が言っていたように、名井戸さんが持ってきてくれた車に近づいた。


「楓、乗るぞ。」

「うん。ねぇ、きい君。さっき話してた女の子、誰?」

「……荷物持ってきてくれた親切な子。」

「ふぅん…。」


 感情を押し殺しているのは、俺もだった。

 会話のない車内とは裏腹に、雨の強さは先ほどと変わって音を立てるほど強くなっていった。


「…すごい雨だね。」

「…そうだね。」


 親子の会話。こんなに暗い会話があるかだろうか。

 病院に着いて、俺たちは間宮先生を呼ぶことにしたのだが…


「喜一良義君、本当にすまないんだが…僕すぐに仕事に戻らなくちゃいけないんだ。」

「…そうですよね。わかってましたよなんとなく。」

「えぇ、お父さん行っちゃうの?」

「いや普通なら絶対行かないよ?うん。愛する娘の為だからね。でもついてあげてくれる人は、もういるだろう?」

「…きい君ということでよろしく。じゃあねお父さん。」

「あ、淡白なのは変わらないのね…。ちょっと安心。」

「はいはい…。楓、間宮先生呼んできて。」

「わかった。間宮先生だね。」


 離れていった楓。その隙にと言わんばかりに、名井戸さんが小声で話しかけてきた。


「…多分、先生から今後は病院か、自宅かって聞かれると思うんだけどさ。病院で入院ってことにしておいてくれないかな。」

「…家族がいたほうがいいんじゃないですか。」

「母さんがね…怖がって。いつ忘れるか…って。」

「……わかりました。」

「それじゃあ…よろしく頼むよ。僕の見込んだ男。」

「ははっ…大船に乗った気でいてくださいよ。」

「おう!頼もしいねぇ!」


 名井戸さんは豪快な笑顔で病院を出ていった。強い大人だ。…あの人は別に、楓に関心がなくて俺に任せたんじゃないって事は言葉で説明されなくても十分わかる。

 見守るべきお姫様が、すでにいるんだ、名井戸さんには。


「きいくーん。間宮先生って人、あの診察室来てくれって。わかる?」

「そうか。今日は案内ないんだな。」

「手が離せないんだってさ。看護師さんが内線でちょっと切れ気味でそう話してたよ…。色々適当な人なのかな。」

「いや、優秀なお医者さんさ。」

「そうなの?前になんかお世話になって……るのは、私か。」

「…まぁ、今は考えるなよ。何も。」

「……うん。」


 俺は楓の手を引っ張って、あの診察室へと向かった。楓も俺も、何も話さなかった。

 一応ドアをノックすると…


「どうぞ。」


 ちゃんと丁寧に返ってきた。何かに没頭してて返ってこないかと思ったんだけど…。


「やぁ、カップルお二人さん。…元気…ではなさそうだね。」

「…いや、なんだかもう一周回って…なんも感じなくなってきました。」

「その年齢でそれは危ないねぇ。…まぁほら、座って座って。」


 俺はすんなりと、楓は恐る恐る椅子に座った。


「それじゃあ改めて。虹咲楓さん。あたしが担当の…

「間宮…先生。」

「おや?知っていたのかい?」

「さっき、きい君が言っていたので。」

「そうかそうか。自己紹介の手間が省けたね。」

「え、自己紹介名前だけ?」

「それ以外何を言うってのさ。好きな食べ物?関係ないよねぇ。」

「ふふっ、面白い先生ですね。」

「そう言ってもらえてうれしいよ。」


 今日は少し、子供じみたように感じる間宮先生。楓の為に、できるだけ緩やかなしゃべり方をしてくれているのだろうか。


「本題に入る前に一応。あたしの事、覚えてる?」

「…すいません。覚えてないです。今日初対面のような気がしてて…。でも、違うんですよね。私…会ってるんですよね、間宮先生に。」

「そう、会ってるし、合ってる。これから会うたびに、自己紹介だけど安心してよ。あたしの自己紹介は短いから。」

「…間宮先生。」

「うん、そろそろ本題に入ろうか。それじゃ虹咲さん、これ頭に着けて、寝転がって。ここに。」

「え、なんですかこの機械…。なんか抜き取られちゃいません?魂とか。」

「はっはっは、表現力豊かでいいことだ。大丈夫。抜き取られないよ魂は。」

「なら良かった…。ねぇ、きい君。手をつないでてほしい。」

「おーっと、ごめんね。ちょっと喜一良義君借りるよ。」

「むぅ…。」

「大丈夫だ、廊下にいるだけ。俺と先生が話してたら落ち着かないだろ?」

「…それもそうだ。いってらっしゃい。…私は寝てるだけでいいんですか?」

「あぁ。全部自動だから。それじゃ喜一良義君、外に。」

「はい。」


 心配そうな顔をしつつも、ちゃんと静かに寝転んでいる楓を置いて、部屋の外に先生と出た。

 出た瞬間に、先生はため息を…


「…はぁ…うわ、幸せ逃げちゃう。吸わなきゃ。」

「間宮先生元気ですね。」

「いや、溜息の数だけ幸せが逃げるって言うじゃんか。……さっきの、あの魂抜けちゃうんじゃないかって話。二回目だよ。」

「…ですよね。」

「あぁ。…想像より早いね。あと二週間は行ける予想だったけど…これじゃ持って一週間半…もしかしたら今週末には。」

「あの機械でわかるんですよね、それは。」

「大体ね。まぁ二週間は行けるって考えたのも、あの機械で確信ついたつもりだったから何とも言えないんだけど。」

「あの機械なんなんです?」

「どうせ教えたってわからないよ。…それよりいつもの、状況報告。」

「……多分もう楓の両親と、俺以外覚えてないです。楓は。」

「そうか…。学校の先生も、友達もかい?」

「はい。…朝、ぎりぎり覚えている、最後の楓の親友がいて。その子のおかげで朝は…耐えられてたみたいなんですけど。」

「もう忘れてた、と。…だから早めに学校に行くのやめさせる約束だったんだけどね。ま、青春の方が大切って気持ちも、わからなくはないけど…。」

「すでに楓の精神状況は…ぼろぼろなんですかね。」

「さっき話した感じだと大丈夫そうだったけど。なんか吐き気とか、頭痛いとか、言ってた?」

「吐き気はあったみたいです。」

「なるほど。脳みそそのものは問題ないけど、気持ちが追い付いてないのって感じかな。…いや追いつかないよねぇ、普通。」

「ここからが辛い感じですか、楓。」

「うん。辛い。忘れて、忘れたことに気付いて、その繰り返しだから。きっとあたしたちが想像できないほどの恐怖を体験することになる。何も思い返せなくなった時…それは死に近いから。自分が自分だと、わからないってのはさ。…そろそろ戻ろうか。多分もう大丈夫だと思…


 その時だった。

 ガシャァアアン!と部屋から大きな物音が聞こえてきて、俺と先生は顔も見合わせずに部屋の中に入った。


「かえで!」

「はぁ…!はぁ…!」

「落ち着け!楓!」

「あーこれはこれは…。」


 楓は頭につけていた器具を放り投げて、ベットの上で丸くなっていた。過呼吸のような、状態で。


「喜一良義君ちょっとどいて。……虹咲…いや楓ちゃん。聞こえてる?声、わかる?深呼吸して。ゆっくり。ゆっくり。」

「はぁ……はぁ……。」

「そうだ。うん、ゆっくりね。喜一良義君、手握ってあげて。」

「はい…!」


 俺が楓の手を握ると、少し痛いくらい強く握り返してきた。


「ちょっとしたパニックに陥ったかな。」

「楓、大丈夫か?」

「…私…私。桃実の事…忘れて…た?」

「思い出して…?」

「待ってでも…ももみって…誰?…いやわかる…親友…だった…いや…でも……ねぇ…きい君。わかんない。わかん…ないよ。」

「…楓、俺の目を見て。」

「…ん。」

「それを夢だって…誤魔化してあげられない…。でもその現実を見るのは、楓だけじゃない。そりゃ、俺には本質を見ることはできないけど…。」

「一緒には…いてくれる。」

「あぁ、そうだ。だから、一回落ち着こう。吸って。」

「…すーっ。」

「はいて。」

「…ふぅ……うん、落ち着いた。…ごめん間宮先生。」

「ん?いや別に大丈夫さ。あたしの部屋じゃないし。」

「え、そうだったんですか!?」

「まぁまぁ、虹咲さんは気にせず、ほら水。数少ない無事だった水。飲んで、落ち着いてて。でも、話はちゃんと聞いて。」

「…はい。ありがとうございます。…楓でいいですよ、もう。」

「わかった、楓ちゃん。…色々話したいことが、医者としても人としてもあるんだけどさ、とりあえず今後を決めよう。喜一良義君、楓ちゃんの両親から聞いてる?自宅療養か、入院かって。」

「入院にしてほしいと。」

「わかった。準備には…流石に時間かかるかな。夜くらいかも、準備できるの。それまではあたしの部屋に居なよ。…壊さないでね。」

「も、もうしませんって!」

「はは、わかってるよ。じゃあ手続きとか、ここの片づけとかあるから…。うん、したくないけど。あたしの部屋で待ってて。看護師の誰かに聞けばわかるから。」

「わかりました。…じゃあまた。」

「すぐ行くよ。楓ちゃんもまた後で。」

「部屋壊してすいません…。」

「いいってば。律儀な子だね…。」


 その後、俺と楓は間宮先生と診察室の前でわかれた。


「さて…夜までに楓、荷物とか持ってこなきゃなんじゃないか?」

「あ、そうだね。…一旦家に帰らなきゃ。」


 呟いたように言った楓の顔は暗かった。


「…どうした?」

「その、あんまり家に帰りたくなくて。」

「それは…奈津さんの事?」

「うん。お母さん怯えちゃってて…私に忘れられる瞬間を。朝ご飯とかは作ってくれるんだよ。でも…目も合わせてくれないし、なんなら最近見てもない、お母さんの事。」

「…今は仕事に行ってていないんじゃない。奈津さん。」

「それも…そうか。あぁでも、車出してくれる人いないから無理かな、やっぱり。今度取りに行くよ、着替えとかは。」

「姉さんも今日は仕事だからなぁ…。なんかごめん。」

「んやきい君が謝る事じゃないよ。いてくれるだけで嬉しい。……あのさ、ちょっと探検しない?病院。迷惑にならないくらいに。気持ち切り替えたくて…。」

「もちろん、行こうか。」


 楓の気を晴らすことがないかと考えていたが、探検は最善な気がした。

 これから楓がお世話になる病院の中を、久しぶりに他愛のない会話をして一緒に歩いた。きっと楓は今、色々とため込んでいるはずだ。その心の中に。桃実の事も、今後の事も、不安を吐き出してほしいと俺も思っている。ただ、俺は知っていたから、無理に聞くことも吐き出させることもやめた。楓は俺に、弱みを見せたがらない。

 また会話をしていたら、ダムの決壊のように漏れ出すだろう。それが一番楽だと思うから。


「病院食って美味しいのかな。」

「あんまりいい話は聞いたことないけど…楓はどこでもご飯のことしか考えてないの?」

「ちょっと心外なんですけどそれ。ちゃんときい君の事も考えてるよ。」

「…た、食べ物として?」

「私をなんだと思ってるの…。あ、リハビリルームだって。」


 楓の視線の方向を見ると確かにそう書かれた部屋があった。窓がなく。中の様子はわからなかった。


「きい君って骨折とかしたことあったっけ?」

「ないな。あんまり。」

「私もないや。…事故した時もなんとか避けたし。」

「触れずらい話題だなそれ。」

「確かに。…あ、その事故した運転手さんになんかちょっかいとかかけないでね。あれは仕方ない事故だったんだから。」

「楓こそ俺をなんだと思ってんだ…。」

「へへ、お返し。」


 久しぶりに笑顔を見れた気がして今さらなんか心のつっかかりが少し取れた気がした。姉さんは常に楓を笑わせられてたからな…。この先、楓を支えてられるのは俺だけなんだ。なんとかしなきゃな、ユーモアのセンス。

 笑ってられる間は忘れられると思うから。


 その後も、物珍しい部屋を見つけては思ったことを話しあって。今朝あったことを忘れられることは、できなかったけど。


「…あ、きい君ちょっと。」

「どうした?…あ。」


 楓が見つけたその部屋には、事務局長室と書かれる名札があり、隣にはその事務局長であろう人の名前が書かれていた。…そういえばなんか間宮先生にあたしの部屋で待っててとか言われてた気がする。


「間宮加奈子。…もしかしてこれ間宮先生?」

「かもな。今はいないんじゃ…

「なーんか聞き覚えあるお二人さんの声が聞こえたぞー?」

「いるじゃん。」


 扉の前で話していたからか、中にいた間宮先生が扉を開けて顔を出してきた。本当にあの部屋間宮先生の部屋じゃなかったのか…。


「いるじゃんって…なんか雑じゃない?てかなんで君たちあたしの部屋いないの?待っててって言ってたよね?」

「あ、忘れてた…。」

「俺もだ。」

「楓ちゃんは責めにくいけどさ、ねぇ?喜一良義君?キミがしっかりしてくれないとさ、わかる?」

「わかりましたから頭なでないでください怖いですから!」

「わかったならいいよ。ほら、ココアとチョコ用意しといたから入りな。」

「わーいチョコ!」

「コーヒーないんですか?」

「贅沢な子だね…。」


 なんだかんだ言って間宮先生はコーヒーを作ってくれた。ミルクいっぱいの。流石に冗談半分で言ったから申し訳なくなってしまった。


「これいいチョコじゃないですか。」

「お、いいねわかるの。あたし貧乏舌だから全部同じようにしか感じないんだよ。うらやましい。」

「てことはこのチョコ貰い物ですか?」

「うん。あたし一応事務局長…って言ってもわかりにくいか。とりあえず、慕われてるんだから。もらえちゃうの。」

「…でも間宮先生呼ぶように、受付の人に聞いたとき怒鳴られてませんでした?」

「……あれはその、楓ちゃん以外は帰してって言ったら患者さんは平等に対応してくださいって怒られて。」

「…私でよかったですね。」

「ほんとだよ。全く、冗談のつもりだったのにあんなに怒鳴らなくても良いと思わない?」

「そういえば、楓の部屋はどうなったんですか?」

「完全に無視だね。良いけど。集中治療室って言う普通の病室とは違う、まぁ本当は別用途で使う部屋があるんだけどさ。そこは患者さん一人に一部屋って言うVIP部屋で。楓ちゃんにはそこを用意しておいたよ。…一人より、他に人がいた方が安心できるなら普通の病室にもできるけど。」

「あー…いや、その集中治療室でお願いします。…多分他の患者さんと仲良くなっても、忘れちゃうと思うんで。」

「…だね、やめておこう。ところでお二人さん、実はもうお昼時近いって知ってた?」

「え、ほんとじゃん。」

「いつの間に…そういえば本がいっぱいあるところあったからそこで楓と一瞬本読んだけど…。」

「まさかそんなに時間が過ぎてたなんて…。私達、勤勉だなぁ。」

「ほんと何してたのお二人とも…。で、お腹空いてる?」

「人間だもの。」

「楓ちゃんが元気になってるみたいで何よりだよ。はいこれ。」


 そう言って間宮先生が渡してきたのは二枚のカードだった。特別食堂利用者用、と書かれている。


「この病院、食堂があるんですか?」

「あるよ。場所は…説明めんどくさいから地図見てなんとかして。このカードあったら好きなだけ頼めるから。タダで。楓ちゃんはもうここの病院に入院する手続き自体は済んでるからそのカード返さなくていいよ。…喜一良義君は返してね。」

「大丈夫です。楓ほど食い意地張ってませんから。」

「間宮先生どう思います私の彼氏。酷くないですか?」

「なんだい君たち元気だね?なんか変に心配しちゃったよあたし。」


 …俺はから元気だ。楓は…どうだろう。同じだろうか。


「ずっと暗くても…意味ないじゃないですか。薬飲んでまで、記憶を忘れる期間を延ばしたのはできるだけ、きい君に私との楽しい思い出を作ってもらうためなんですから。」

「…そういえばそんなこと言ってたね。」

「何言ってんだ。俺は楓が記憶を失っても、いなくならないよ。」

「ありがと。」

「…。ほら、お二人とももう行きなよ食堂。食べ終わったら戻ってきな。あたしは仕事まだ終わってないからかまってあげられないけど、この部屋なら遊び道具多いから。」

「え、なんで?仕事部屋じゃないんですか?」

「楓ちゃん、細かいことは気にしないの。良いから行った行った。」


 そうして俺と楓は半ば無理矢理、追い出されるように部屋から出された。


「仕事部屋をまるで自室のように扱ってんのかあの人は。」

「いいんじゃない、実際自室ではあるんだし。」

「結局最後まで食堂の場所教えてくれなかったぞあの人。」

「それは良くない。」


 地図を見ろ、とか言っておいて全くそれらしきものを見つけられる気がしなかった俺たちはすぐに通りかかった看護師さんに食堂の場所を聞いてたどり着くことができた。食堂は想像より広く、思ったより人は少なかった。食堂まで来れない患者さんもいるんだろうし、部屋に病院食を頼めるんだからわざわざ来る人は少ないのかもしれない。


「ラーメンある。」

「病院食のイメージ変わるなぁ…。」


 楓と俺は各々好きなものを頼んで、向かい合わせて席に座った。普通に美味しかった。…いつも平日のお昼時は楓は桃実とお弁当を他クラスに食べに行くので、一緒にお昼ご飯を食べるのがなんだか新鮮に感じた。


「あら、可愛い子が今日はいるのね。」

「ふ!はひへはひへ!」

「楓、口の中空にしてから話せ。…すいません。えっと、あなたは?」

「私はここの看護師、轟里美よ。」

「とどろき…車が三つのですか。すごい苗字ですね。」

「よく言われるわ。看護師もこの食堂を使えて、毎日私はここで食べるのだけど、今日はいつもみない子がいたから話しかけちゃったわ。よろしくね。虹咲楓ちゃんと秦理喜一良義君。」

「…?ふぁんへわたひたひのなまへ…。」

「食えっての。もしかして間宮先生に?」

「そうよ。楓ちゃん専用の看護師に任命されちゃった。」

「えそんなことできるんですか?」

「……もぐもぐ。」


 楓はようやく学んでとりあえず噛んで飲み込むことを優先することにしたようだ。全力で食べてる。


「楓ちゃんが特別なのよ。事情は前々から聞いてから。…忘れちゃうんでしょう、記憶。それなら、毎日違う人が来るより同じ看護師なら少しは印象に残ってぎりぎり覚えてくれるんじゃないかってね。間宮先生の配慮よ。私も賛同したわ。」

「…ごっくん。ありがとうございます!」

「いいのよ。…私も当てられちゃったから。楓ちゃんはすごいわよ。そんな状況で…前を見てられているなんて。私ならふさぎ込んじゃうわ…。」

「私にはきい君がいるから。ね、きい君!…ってもう食べ終わってるの?!」

「楓が遅いんだよ。」

「ふふふっ…微笑ましいわね。そうだ楓ちゃん。病室の話はもう聞いたかしら?」

「聞きました。集中治療室ですよね。」

「そう。夜の…そうね、十九時くらいには準備終わると思うからそのくらいになったら来てくれるかしら。場所は二階だから、そこの看護師か誰かに詳しい場所を聞いてくれるかしら。」

「はい、わかりました。そしてきい君、食べ終わりました。」

「え、今の間に?どうなってんだ…。」

「若いわね…。それじゃあ可愛らしいお二人さん、また後でね。」

「お世話になります!」

「お願いします。」


 お盆に乗せた皿を返して、帰り際に手を振ってくれた里美さんに手を振り返した。

 今度は忘れずに、間宮先生の部屋へと戻ると…扉の前に張り紙があった。


「ん?…『いないけど勝手に入っていいよ。』だって。」

「じゃ遠慮なく。」


 カギはかかっておらず、本当に部屋には誰もいなかった。


「忙しいんだね。」

「口だけかと思ってたけど、そうらしいな。」

「…なんか基本ぼんやりしてるような人だからあんまり信用してない、私。」

「それ本人の前で言うなよ…。」

「わかってるよ。遊び道具があるって言ってたけど…書類しかないや。」

「そうだな…。」


 俺は机の上にあった一枚の書類を何気なく見てしまった。『細胞消滅の不治の病に対する個人的見解』というレポート。書いたのは間宮先生の様だった。


「細胞消滅…?」

「あ、オセロあった。…いや違うなこれ。将棋もチェスもできるやつだ。」

「多分それだな。まずなにやる?」

「駒崩し。」

「なんでそんなマイナーな…。」


 駒崩しというのは、将棋の駒で山を作り、人差し指だけでその駒の山を交互に少しずつ崩していくゲームである。音が鳴ってしまったらそこで交代。

 これを思いついた人は多分めちゃくちゃ暇な将棋好きなんだろう。

 そんな普通通りの遊び方から遊び始めるもんだから、この一つの盤だけで十分に時間を潰すことができた。遊びってのは内容より誰とやるか、だよな。


「…飛車がない。」

「楓は飛車への圧倒的な信頼どうにかならないの?」

「最強じゃん飛車。」

「角忘れてやるなよ…。」


 ちゃんと将棋を指し始めた頃、楓は突然、その話題を持ってきた。


「…きい君。」

「どうした?」

「……桃実…さんって。どんな人。」

「…そうだなぁ。」


 なんでいきなりそのことを聞いてきたのか、考えるのはやめた。変に刺激させてまたパニックに陥ってしまったら…間宮先生の部屋が危ないからな。

 細心の注意をしつつも、楓が変に気を使わないくらいの丁度いい塩梅で俺は返事をした。


「とりあえず俺の事敵視してたな。」

「えなんかしたのきい君…。」

「いや…それだけ楓の事を大切に思ってたんだ。」

「あぁ…でも私がきい君大好きだから。」

「そういうこと。」

「そうなんだ…。私の為に、そこまで思ってくれる友達を…私は忘れちゃったんだね…。」


 ぽつりと呟いた楓は、カタンと俺の角の前に歩を歩めてきた。


「…思い出したじゃないか、それでも。」

「どうかな。…よくわからないんだ。桃実って、その三文字だけが呪いみたいに頭にあるの。逆に…それ以外は、なんにもない。どんな人で、どんな顔をして、どんな感じに笑うのかも。いつ仲良くなったとかなんて当たり前だけど…わからない。何もかも抜け落ちちゃってる。」

「…そうか。」


 その角を逃がしたかったのだが別の戦場で俺の飛車が危ないことに気付いていた。…なんだか飛車を取られると調子に乗りそうだから、俺は角を逃がした。

 楓は容赦なく俺の飛車を搔っ攫っていった。


「でもね、今朝の事は、まだなんとなく記憶にあるの。思い出したのか、覚えてたのか…はちょっとわかんないや。」

「そうなのか?」

「うん。…きい君がその桃実さんに、私の好きなこと、聞かせたって話とか。」

「なんでその忘れてほしい事だけ覚えてんだ…。」

「えへへ…。嬉しかったのかも、すごく。」

「恥ずい…。」

「それと…きい君が登校してくる前の、話も。」


 その話は初耳だったから、俺の意識はより将棋から離れていった。


「朝、私いつも一番乗りなんだ。学校。」

「…知らなかった。そりゃどれだけ早く行っても先にいるはずだよ。」

「家ですることないからね。そしたら、知らない先生に話しかけられたんだ。虹咲、調子はどうだって。すっごい気軽に話してくる先生だなぁって思ったからこっちも、元気いっぱい!って友達と話すように返したんだ。」


 …カミ先だろうな、その先生は。


「そしたらその先生、一瞬だけ泣きそうな顔をして…けどすぐに笑ったの。その後何の会話をしたのかは、覚えてない。多分、他愛のない…愉快な会話だと思う。あの先生は…私達の担任?」

「あぁ。三上先生。独身。」

「独身なんだ。…一年から?」

「そうだよ。良い先生だ。」

「それはわかる。一目見て思ったもん。」

「あの先生のおかげで楓は事故してもすぐに学校通えたんだぞ。」

「そうだったの…?!恩人じゃん大恩人。」

「今度会ったらお礼言っとくよ。」


 きっと次楓がカミ先に会えたとしても、感謝の気持ちは忘れてしまっているだろうから。楓の大切な感情は俺が覚えておけばいい。それで問題ない。

 今さら角を逃がしてその先に合った歩を俺は取った。


「その後、教室に行って…勉強しようとしたのかな。覚えてるのは何かを諦めた感情だけ。意味ないもんね、やっても。次に覚えてるのは…元気な女の子が元気に挨拶してくれたこと。その瞬間朝からあった変な思い気持ちが晴れたんだ。それはよく印象に残ってる。」


 …桃実の事をなんとか覚えていられた、感動による印象か。俺と同じような不安を持っていたんだな、楓も。朝、誰も覚えてなかったらどうしよう…って。

 楓は黙ってさっき俺から取った飛車を王の目の前に召喚した。後先考えねぇな…。


「他に…思い出せる事は?」

「ごめん、ないや。」

「謝る必要はない。」

「…あ、でもきい君と話したことは覚えてる。流石、最後に残る大切な人。」


 素直に喜ぶことはできなかった。当然だ。残るだけで、居続けられるわけじゃないんだから。君の記憶の中に。


「あ!チェックメイト!」

「それチェスだぞ。……ってホントに詰んでる!?」

「ふふん!なめすぎ。」

「くぅ…他のやろうぜ、他の。」

「逃げたね~?」

「うるせ。」


 その後も様々な遊びで楓との闘いを繰り広げた。書類の山で隠れている時計をふと見ると、すでに十九時半を過ぎようとしていた。


「王手!」

「楓、もうそろそろ行っても良いんじゃないか?部屋。」

「逃げるのかい?きい君。」

「…今やってるのオセロなんだけど。」

「掛け声いいやつ思いつかなかったの。ってホントに十九時過ぎてるじゃん。行こ行こ。ちょっと楽しみ。」

「そんな楽しみにするようなもんじゃないと思うがな…。」


 …そういえば間宮先生帰ってこなかったな。夜勤って言ってたが…こんな時間から忙しいのか?

 あまり気にせずに俺たちは二階まで階段を昇った、間宮先生の部屋は一階にある。


「よし、もうわかんないから聞こうか。きい君。」

「右に同じく。」

「…左にいちじく?」

「何言ってんだ。」

「いやほんと何の会話してるの君たち。」

「うぉ…間宮先生。」

「やぁ。間宮先生だよ。」


 少し薄暗くなってきてたから普通に心臓飛び出るかと思った。変に身長高いからビビるんだよな…。


「丁度いいところで会えたね。病室行こうか、楓ちゃんの。着替えとかはもうもらってきてるから、ほら。」

「わ、ほんとだ!」


 やけに遅かったのはそれか。俺たちは楓の荷物を持って道案内してくれる間宮先生について行った。


「もう里美君には会ったかい?」

「会いましたよ!リハビリ室前で。」

「…。」

「そっかそっか、良かった。もう聞いたと思うけど、楓ちゃん専用の看護師だから。困ったことが合ったら里美君に聞くんだよ。」

「わかりました。…というか、そんな専用にできるだけの権限あるくらい間宮先生、やっぱすごいんですね。」

「強制させた訳じゃないから。楓ちゃんの話をしたら喜んで受けてくれたよ。ほら、楓ちゃん忘れやすいだろう?それなら同じ看護師の方が覚えてられるかなって思ったんだけど。」

「あ、そういうことだったんですか!間宮先生の配慮嬉しいです。」

「それは良かった。……喜一良義君どうかした?」

「…え、あ、あぁ…ちょっと眠くて。」

「きい君今日病院泊ってく?」

「流石に帰ろうかな。母さんたち心配させちゃうし。」

「それもそうだね…。ちなみになんだけど、私ってきい君のお母さんに会ってたり…。」

「…するけど、結構前じゃないかな。」

「そっか…。ごめん、どんな人かわかんない。」

「いいよ、大丈夫。」

「…もう相当だね。ほら、ここだよ。少し入り組んでるから忘れたらすぐ聞くんだよ。」

「素で忘れそうです。」

「俺が覚えておく。」

「頼りになるぜ私の彼氏。」


 事前に言われていた通り、集中治療室と書かれた部屋に案内してもらえた。部屋の中に入ると里美さんがベットを綺麗にしているところだった。


「あら、楓ちゃんたち。来たのね。もう完璧よ。使ってもらって構わないわ。」

「ほんとありがとうございます…。私別に体に異常があるわけじゃないのに。」

「何言ってるの、心の病も十分重要なのよ。もうすぐ寝る?」

「寝たいです。流石に…疲れました。」

「わかったわ。お風呂案内するから。」

「寝るのか。…そんじゃあ…俺は帰るかなここらへんで。」

「えぇ!…えーぇええ…。」

「こらこら、楓ちゃん。喜一良義君にだって休憩は必要なんだから。」

「寝るまで隣にいてほしかっただけです。」

「素直な子だな…。」

「じゃあ寝るときに電話かけてきてくれ。楓が寝むくなるまで話そう。」

「…!うん、わかった!」

「それじゃあな、楓。明日朝またすぐに来るから。」

「約束だよ、明日朝ね!」


 なんか幼稚園に子供預けた感覚だな…。俺は名残惜しくも、部屋から出て父さんに病院まで迎えに来てほしいとメールを打つ。

 …そりゃ俺だってできる限り、この残りの時間、一緒にいてやりたい。しかし気づいてもいた。自身のストレスに。最愛の人が少しずつ…おかしくなっていくことに。俺は気持ち悪さを感じていた。


「…少し、離れなきゃ。」

「誰からだい?」

「うわぁあ!?」

「病院ではお静かにお願いしますよ、喜一良義君。」

「間宮先生…。」


 なんか音もなく隣に人いること多いな…。俺耳悪かったっけ?


「何の用ですか…。もう迎えは呼びました。」

「なに、食堂のカード返してもらってないの思い出したのさ。」


 …そういえばそうだった。俺はポケットに入っていたカードを先生に返した。


「ん、ありがとう。…迎えが来るまで、少し話さないかい?」

「そりゃ…良いですけど。」

「それじゃああたしの部屋に行こうか。」


 断る理由もないので、俺は間宮先生の部屋へと招かれた。


「ふぅ…よっこっらしょっと…。…ん?座らないの?」

「あぁいえ…すぐに来てくれると思うんで立ってます。」


 今座ったら寝てしまいそうな気がした。相当の疲れがたまってる。


「そう。…あれ、これでしか遊んでないの?」


 間宮先生が机の上の、さっきまで楓と遊んでいたボードを手に取ってそう言った。


「はい。他に何かあったんですか?」

「そういえば場所言ってなかったからこれしか見つけられなかったのか。ごめんごめん。」

「…間宮先生なんか抜けてるとこ多々ありますよね。」

「君たちの前だけさ。それに今は疲れてるから。」

「それは…信用してくれている、ってことですか?」

「もちろん。信用されるにはまずこっちが信用しなきゃ。そうでしょ?」

「まぁ、確かに。けどなんだか特別扱い過ぎる気がして。」

「あー…それはね、あたしの友達の医者がいるんだけど。最近ちょっとふさぎ込んじゃってるんだ。ある一件で。その状況が…根本的には違うんだけど君たちに似ててね。無意識に重ねてるのかもしれない。」

「同情、ですか。」

「言葉を選ばないのなら、そうだよ。だって悲しいじゃないか、報われないじゃないか。あんまりにも。君たち付き合い始めて何年だっけ?」

「二年です、もう少しで。」

「二年、高校生の二年はでかいよ。ううん、もう人生の全てがそうだと言えちゃうくらいだって思う。あたしは。」


 そんなことを言われても、自覚はなかった。青春の大切さに気付くのは大人になってからだってわかっていても。そりゃ…今までの、楓との思い出が全部なかったことになってしまうなんて死ぬほどつらい。だが…


「別に…死ぬわけじゃないんです。俺も楓も。忘れてしまうだけで。諦めてませんよ、俺はまだ。」

「強がりかい?酷なことを言うが…どうする。もし君の事を忘れてしまった楓ちゃんに、拒絶されたら。」

「それは…。」


 何食わぬ顔で、初対面の対応をされる状況を思い浮かべた。生き地獄。そんなように思える。地獄って印象なんだから、現実味がない。心をえぐられるような感覚なんだろう。


「君は『誰ですか』『知らないです、帰ってください』なんてパニックになっている楓ちゃんに拒絶され、泣かれて…部屋に閉め出される。その時君はまだ諦めないなんて…

「黙ってください…!」


 無意識に俺は机を強く叩いていた。間宮先生は何も言わないで、一口、近くに会ったペットボトル飲料を含んだ。持ち上げたペットボトルを俺とは対照的に音もなくまた机に戻した。


「…それが現実だ。」

「なら、いくらでも変えれます。」

「…。」

「この世界が、結果の決まったフィクションの物語なら、夢の世界なんだったら、俺の思う用には世界は動きませんよそりゃ。けど現実なんです。それだったら…いくらでも変えてやりますよ。結果なんて。」

「強い意思…だね。すまない、いじわるなことをしたね。お詫びに…一個お話をしてげるよ。迎えが来る前に終わるかはわからないけど。」

「…何の話ですか?」

「さっきの、あたしの友達の医者が担当した患者の話だ。その患者は、友達の甥で。もう一人診る患者がいて。女の子でね。その二人は同じような病気だった。不治の病で…どうしようもなくて。」

「…。」

「二人とも絶望を待つだけの存在。女の子は病気が治る前に寿命が先に。甥は治せるが後遺症で…。そんな時、二つの選択肢が甥の方に降ってきた。」

「二つの…。」

「そう。一つは、病気を治す方法だ。完治できる方法をギリギリであたしの友達は編み出したんだ。普通に尊敬するよ。あたしなら…諦めるだろうから。」


 間宮先生今のこの…暗い、大人のような表情が素なのだろう。楓の前では常に笑顔で、お茶らけた感じなのに。俺はそんな先生が、誰かに似ているように感じた。


「もう一つは…?」

「…自分の命を捨てて、女の子を治す方法が、あったんだ。」

「え…。」

「あたしの友達はその方法を、言う気はなかったらしい。だけど…その甥は恋してたんだよ、その女の子にね。助けたくてたまらなくて。どうにかできないかとあたしの友達に頼み込んだらしい。あまりにも必死に言うから教えちゃったんだってさ。甘いよね。」

「そんなこと…言わないでくださいよ。甘いなんて。苦渋の決断だったんじゃないですか?間宮先生の友達さんにとっては。」

「わかってるさ。…そうだね、今の言い方は悪かった。話を戻そうか。その男の子はその方法を二つ返事でOKしたらしい。かっこいいよね。あとはもう…運命通りに。女の子は助かって男の子は…うん。」


 自分を犠牲に好きな人を助けたって事か…。

 そうか、それなら俺だって…できるかもしれない。


「それが…お詫びの話ですか?」

「あぁ。自分と同じような境遇の子がいたって元気になるかなって思ったんだけど…ごめんなんかあたしが話したかっただけかも。愚痴だね。」

「いえ…俺は楓の記憶を戻そうなんて考えてもなかったんで。聞けて良かったです。」

「…まさか今さらなんとかなるかもなんて思ったのかい?はっきり言うけど、無駄だよ。そんなことに時間を使うなら楓ちゃんと一緒にいた方が良い。」

「行動しなきゃ何にもならないじゃないですか。」

「わからず屋だね。君はあたしより医学について、脳について知っているのかい?例え付け焼刃で知恵を手に入れてもなんとかできる問題じゃないんだよ!」

「……。」


 何も言い返せなかった。正論に対して、俺は無駄なあがきをするだけの気力がなかったんだ。

 その時、ポケットに入っていた携帯が震える。


「…迎えが来たみたいです。」

「そうか。……悪かったね、振り回しちゃって。なんか。」

「間宮先生は悪くないですよ。俺の意思が…ぶれてるだけなんで。」


 楓のそばにいてやろうとか、解決策を考えようだとか、決まった意思のない俺に、間宮先生を責める資格はなかった。自分でも不思議なほどだ。現実なら変えられるなんて言っていたのに、間宮先生の友達の話一つですぐにその意思を崩して、別の形にしてしまっていた。こんな…こんな俺をどうして楓は好いてくれたんだろう。

 …ダメだ。今は何も考えたくない、とりあえず帰って…寝よう。


「それじゃあ…また明日。」

「…あぁ。」


 変な空気のまま、俺はその場を後にした。さっきの間宮先生の会話でよくわかった。俺の意思は、外面だけだって。


 病院の外を出ると、見覚えのある車が止まってはいた。


「姉さんが来てくれたの?」

「よ、お疲れさんマイブラザー。…ははっ、なんて顔してる。」

「…疲れた。」

「だろうよ。帰ろう帰ろう。今日はカレーだよ。」

「…わーい。」

「よほどだな!…飯食って風呂入ったら話聞いてやる。」

「今じゃないんだ…。」

「お腹空いたまましても自分を傷つけながら言葉を吐いちまうだけだ。綺麗に、愚痴だけ吐いた方が楽だろ?」


 姉さんのよくわからない理論に、よくわからないまま救われた気がした。

 家に帰る間、姉さんは楓にしたように、他愛のない俺を笑わせてくれる話をいくつもしてくれた。思わず、笑ってしまうんだから姉さんの才能に驚く。

 家に帰ると、確かにカレーがあって、食べると泣きそうになった。

 お風呂の入ると、姉さんが乱入してきそうになったけど流石に止めた。この年齢で今更入れるかよ…。

 寝巻に着替えたあたりで、楓から電話が来ることを思いだした。


「……はは。」


 その瞬間、思わず乾いた笑いが出てしまう。

 今何を思った、俺は。楓からの電話に…億劫だななんて思ったのか?

 好きな人からの電話なんて、居ても立っても居られないくらい嬉しいはずなのに。

 今の俺は苦痛だと…。また同じ会話をしてくるかもしれない、恐怖。最後まで付き合ってやれると…思ってたのに。

 自室に入ると、すでに姉さんがベットで寝転んでいた。


「重症だな、喜一良義。」

「自分でもそう思うよ。」

「ほら、姉さんの胸の中で泣いても良いんだぜ。」

「汚い。」

「それ私のセリフなんだけど。…で、どうした?なんかあって病院に楓ちゃんと行ったってことしか聞いてないけど…。でも今日一日中楓ちゃんといたんだろ?それなのにそんな顔して。」

「…朝、楓がもう…俺と奈津さん、名井戸さんしか覚えてなかったんだ。それで…これ以上は楓の精神状況が危なくて…。」

「そう…それから?」

「それから…楓は入院することになって。準備が終わるまで楓といたんだ。」

「ふぅん…そっかそっか…。それは辛かったね。楓ちゃんも、あんたも。」

「俺は…辛くないよ。辛いのは楓で。俺はなんとも…。」

「ならどうしてそんな顔をしてるのさ。…言ってみな。」


 口に出したくなかった。だけど俺はもう言葉を心にとどめておくほどの、理性を保てていなかった。土砂崩れのように、溜まっていた言葉が吐き出される。間宮先生の前で言ったような、自分を騙すような強情な言葉ではなく、本音が。


「…耐え…られない。いつか忘れられるんだ。そんなの…そんなことってあるのかよ!?俺はアイツの事が誰よりも好きなんだ!アイツも…こんな俺を好いてくれている。なのに、どうして…なかったことになる?!理不尽じゃないか。俺達が何をしたって言うんだ…。あぁ…くそっ…忘れられたくない…。またはじめましてからなんて…そんなの辛すぎる。死にたくなる。…あぁぁ…。」

「…。」


 姉さんは黙って、立ち尽くし涙を流していた俺の事を抱いてくれた。風呂に入ったばっかりで、体は温まっているはずなのに俺の体はようやく温もりを感じれた気がした。


「…ごめんよ喜一良義。私は…当事者じゃない。所詮第三者だから共感をしようと思っても、想像でしかできない。喜一良義の苦痛を全て、百%は理解できない。ごめんね。」

「…誰も…わからないのなら、姉さんでもわからないのなら。俺が思い悩んでること全てぶつけても…意味がないじゃないか。」

「意味のある事なんて…案外少ないものよ。勝手にこれは意味があるって思いこんで人間やってることばっかりなんだから。どんな偉業も根本は私、自己満足のためだって思ってる。」


 …それはなんだかあまりにも暴論なのに、妙にすんなりと理解できてしまった。


「じゃあ、俺が楓の為に何を思っても、どう接してあげれば一番気が楽かも、考える意味はないってことか?」

「違うわ、んや合ってるけど。」

「…?」

「捉え方が違う。何をしても意味はないのなら、喜一良義の好きにしていいんだよ。何が正解で、何が間違ってるのかなんて関係ない。逃げても良いんじゃない、楓ちゃんの前から。明日から病院に行かなきゃいい。何事もなかったように高校生活を再開したって。」

「それは…嫌だ。」

「そう思うなら楓ちゃんに会いに行けばいい。現実に耐えられないのはわかる。意思がぶれちゃうのもね。」

「なら…どうしたら。俺はどうしたらこの先、楓にまっすぐ接せる?今のままじゃ…きっと悲しませるだけだ。」

「そこまでわかってるのならもう答えは一つじゃない?」

「…。」


 俺はそう言われて、一度冷静に考え直すことにしてみた。

 …最愛の人がどんどん、壊れていくのを見てられない自分が嫌になった。その状況自体にも嫌気をさしている自分。しかし逃げようとはせずただその様子を見守っているだけ。逃げられず、かといってその状況の打破もできない。運命は決まっていると間宮先生は教えてくれた。

 それなら俺はどうすればいい。こうやって悩んだときは、自分に素直になるのが一番な気がしたから、一旦何も考えず、今何をしたいか考えてみた。


「…楓と、意味のない、なんでもない会話をして笑いたい。お互いが好きだってわかってる、あの状況にいたい。」

「つまり。」

「楓が…記憶喪失だろうがなんだろうが関係なく、居続けてやればいい。あいつのそばに。まるで、俺はそんなこと知らないように。隣にいてやればいい。」

「それが最善なら、そうしなよ。正解なんて元からない。何したって…意味がないんだから。」

「…ありがとう姉さん。まだなんとなく…この先、何を思って楓と話したらいいか…わかんないけど。楓の隣にはいたい。手を握ってやりたい。」

「すっきりした?」

「うん。…自信ないけど。」

「すっきりしたことに自信がないってなんじゃい。…まぁさっきより顔色は良くなったね。それじゃあ私は部屋に戻ろうかな。」

「…おやすみ姉さん。」

「おう、おやすみ。また…いや大丈夫だろう。私の弟なら。」


 ノールックで手を振りながら姉さんは部屋を出ていった。


「…寝るか。」


 溜まっていた愚痴を全て吐き出せたのか、その日はいつもよりすんなりと寝ることができた。

 ようするに、気づいていなかったんだ。

 楓の辛さに気をとられてばかりで、自分が廃れていっていることに。気づけた今なら、きっとなんのわだかまりもなく、楓と話せるはずだ。



 その夜、楓からの電話は、なかった。

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