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第一章 解け始め

久々のなろうでの投稿、十万字程度のものとなります。

季節は、秋。けれどもう少しで冬が来る。それくらいの肌寒さを感じつつ、もう何度も見ている腕時計をもう一度見る。約束の時間は13時。現在時刻は…12時30分。着いたのはもう十五分前。誰が見ても早く来すぎである。


「はぁ…浮かれてたかな。俺。」


腕時計から目を離し、待ち合わせの場所で一人手を擦る俺、十七歳の、当たり前のように、けれど親に感謝しつつ高校に通っている秦理喜一良義はどうしてこんなに早く着いてしまったか、もう一度思い返すことにした。他にすることがないのだ。起きたのは7時。我が家では平日はもちろん、休日であろうが決まった時間に起きてきて、皆一緒に朝ご飯を食べるルールがある。誰か決めたわけではない。そういう体の仕組みになってしまったというか…なんというか。今朝は白米にお茶漬けをかけた。食べ終わり、まだまだ時間はあった。昨日から何をやるかは何となく考えておいたので行動は早かった。

まずは勉強。まさか、俺は普段からこんなに朝早く、しかもデートの前に勉強をするような人間ではない。単純にテストが近いのだ。高校二年生、三回目のテスト。なんだかんだ言ってこのあたりの成績は一番重要だと思っている。勉強に慣れ始め、最後ではない緊張感。ここで頑張れるかどうかが人間できているかどうかって。…テスト二週間前で勉強しだした俺が何を言ってんだか。集中力だけはある方なので、要領は悪くとも成績が悪いわけではなかった。二時間ほど勉強し、その日のノルマは達成。あとの勉強は明日からの俺に任せることにした。待ち合わせまで、残り三時間。一時間は移動+準備に使うとして…あと二時間。お昼ご飯は向かっている途中で済まそうとした。理由は簡単に、お昼も我が家独自のルールがあるから。十二時から呑気に食べてたら遅れてしまう。朝食と違って強制集合ではないから、別にいいだろう。

その二時間は、読書をして過ごすことにした。ゲームはしない派。彼女に絶対に眼鏡は似合わないから目を悪くしないように。とのこと。ちゃんと従ってしまうあたり、俺の内なる精神は気弱だな。

ここで、今日最初の誤算が起こった。本が面白過ぎたのだ。結果、二時間たっぷりと読む予定だったその289ページの本は、ぱらぱらと次の展開が気になる俺によってどんどんとその残りのページは減っていき、読み終わる頃、まだ一時間しか経っていなかった。淡々と午前のやりたいことリストが終わってしまったため、俺はやることもないので早めに待ち合わせ場所の駅に行くことにしたのだ。

残念ながらと言うべきか、良かったというべきか。髪のセットも今日着る服装もあまり悩むことはなく、たまに車が多く、歩道で歩く人もなんだかんだいる道中も今日に限ってまるで運命が俺の足を速めているように、何事もなく待ち合わせ場所についてしまった。運命と言えば聞こえはいいが、早く出過ぎてお昼時だっただけである。

そうして、今に至る。俺はそこまで振り返ってまた時計を見た。今朝からの事を思い出すことで先ほどより長針が五分進んでいた。考え事は最高の暇つぶしだな。相手はいらないし、時間はつぶれるし、過去を振り返ることは良いことだ。


「…しかし、あと二十五分と言う壁は変わらないな。」


この状況にも、手の悴み具合もそろそろ我慢できなくなってきたのでどこかで温かい飲み物でも買いに行こうとすると…。これまた残念ながらと言うべきか、嬉しいと思うべきか。

ニットのポンチョを羽織り、さらにそのうちに何枚も着込んで、ポケットにてをっっこんでいるやや行儀の悪い彼女がやってきた。寒さ対策ばっちりだな。


「え、早くない?私今日結構早めに出たつもりだったんですけど。」

「…楓は今日もお綺麗で。」

「何いきなり…。ありがとう。素直に受け取っておきます。寒そうな人。」


そう言って俺の手を強引に引っ張り、彼女、虹咲楓はその手を自分がさっきまで突っ込んでいたポケットに突っ込んだ。


「あったか。」

「君が寒すぎるんだよ…きい君。」


きい君、と言うのは俺の長すぎる名前を一々呼ぶのがめんどくさいという理由でそう呼ぶことにしたらしい。確かに、きいらぎ、と言う名前は自分でも長い気がする、てか長い。


「一応聞くけど、今着いたの?」

「もちろん、そうだよ。」

「この手の冷たさで?へぇ?」

「ニ十分前からです。」

「だよねぇ。私の前でわざわざ見栄張らんくて良いから。じゃ、ちょっと早いけどもう行こうか?」

「あ、その前にコーヒー買いたい。手が冷たい。」

「良いけど、お茶にしときなよ。トイレ早くなるよ。」

「それもそうだな。」


 楓と恋人関係になったのは、中学卒業の日である。最初はこっちの一目ぼれで、告白するまでもずっとこっちの一方的な恋だと思っていた。意気地のない俺は、最後の最後までその思いを伝えることをしなかった。断られるだろうと根拠のない決めつけからだ。第一、彼女はクラス問わずのムードメーカーだったのだ。そのうえ美人、けど可愛い所もあったわけで。要するに、高嶺の花。彼女が男子に呼び出されては、俺は生きた心地がしなかった。告白する気ないのに。しかし、そんな頑なな思いも卒業に近づいて徐々に崩れていった。まず、楓も同じ高校に行くのだと俺の彼女への思いを知っていた友達が教えてくれたから。その時の俺は「まだ受かるかもわからないんだぞ」とその茶化してくる友達に牽制したものの…確かにその日から勉強量を増やしたことは否定しない。

一番の決め手は、俺も、そして楓も同じ高校に合格した日だろう。その時の俺はなんの雰囲気に流されていたのか、これは告白するしかないと、断られた時その高校で後々気まずいことになるなんて、もちろん頭にはなかった。今思えば馬鹿だなぁと思う反面、よくやった、と自分を褒めたくもある。

そんな頭浮かれ状態だったから、どうせなら卒業式で、とまたもや青春スイッチオン。在校生の言葉も卒業生の言葉も先生からの言葉も、俺はなんて言って告白しようかと、その数十文字を考えていたから耳には残らなかった。

行事も終わり、各々が次の道へ進む中俺は楓を引き止めた。割と人がいる中で。この学校に丁度いい告白スポットは一つだけ。体育館の裏。でも正門より遠かったもんだから、そういうとこはめんどくさがった。


「あ、あの…!」

「…?なんですか。」


初対面、という訳ではない。同じクラスではあったから。けれどため口で話すほど仲が良かったわけでもなかった。本当に、玉砕のつもりで、俺は振り返った彼女に手を差し出した。


「俺と…付き合ってくれませんか。」

「え。」


当然、人目を集めた。けれどその光景にみんな見慣れていたというか、予想で来ていたというか。楓に最後に思いを伝えようとするやつはいるだろうと、俺は知らなかったが女子たちは裏で噂していたらしい。

誰もが断られる告白だろうと、けれどみんなもなんだかんだ卒業の雰囲気に流されていたから、もしかしたらなんて、俺の告白の結果を静かに見守ってくれていた。

一秒が十秒にも二十秒にも感じる緊迫した、一時。

俺の手に、確かに手を重ねてくれた感覚があった。驚いて顔を上げると…

赤面しつつも、確かに俺の手を握ってくれている彼女がいた。どうやら、両肩思いだったらしい。

嬉しくて、驚いて、周りの声は聞こえなくて。


それから春休みも会いたいと何度も顔を合わせ、高校生活が始まる頃にはお互い、もちろんため口で。高校での最初の一年は初めての事でいっぱいだったが、それ以上に彼女との思い出の方が多かった気がする。倦怠期、と言うのがカップルにはあると友達から聞いたが、俺の愛が大きすぎたのかその期間はなかった。まだ訪れていないのかもしれない。今の俺には考えられないけど。



「…?ねぇ、聞いてる?」

「あ。ごめんごめん。何の話だっけ。」

「今日行く水族館の話。チケット持ってる?」

「あぁ、ちゃんと持って来てるよ。」

「ま、そういうとことは信用してるよ。きい君忘れ物することないもんね。」

「そりゃ俺は楓の何十倍も楽しみなんだから。行く前に何十もチェックしたよ。」

「相変わらず私の彼氏は溺愛だなぁ。幸せものだよ。」

「そう言ってくれて嬉しいな。あ、バス来たよ。」

「ん。」


付き合ってから、楓に依存しすぎてないか、とか。少し構いすぎてないか、なんて友達から心配のメールが来た。正直、依存しまくってる。けど構いすぎることはしない。相手が嫌がる事はしないと、子供のころから親はよくしつけてくれていたから。今の俺があるのは子供の頃、ちゃんと約束を守っていたからなんだろう。案外、根本的な性格は幼いうちに決まるものだ。その後、自分でその形を変えたり、他人から色を塗られたりして人は変わっていく。俺の場合、楓に一気にピンク色にさせられたが。形は変えない。彼女が好きだと言ってくれた部分でもあるのだ。

眼をきらきらとさせながら、今日行く水族館のパンフレットを眺める彼女の横顔に、ドキッとさせられる。基本クールな印象だが、砕けたときに出る幼い子のような表情。二年経つ今でもドキドキさせられる。


「なんだかんだ言って水族館に遊びに行くの初めてじゃないか?」

「だね。デートって言ったら定番なのに。」

「取っておいた、と思うことにしよう。」

「悪くない、その思考。…あ、ペンギンいる!」

「そういえばペンギン好きだったね。今日のお土産は決まったかな…。」

「ぬいぐるみは必須。絶対買う。」

「はいはい…。あんまり大きいのはやめてくれよ。どうせ荷物持ち俺なんだから。」

「…ふっ。今おっきいペンギン持って前見えなくなるきい君想像したら…ふふっ。」

「愉快な頭してるな…。」

「ちゃんとお財布に相談したうえで、丁度いいサイズ買うから大丈夫だよ。なんならペアで買う?どう?」

「お、いいかもな。じゃ俺ピンクで。」

「逆でしょ!」

「青好きなくせに。」

「それもそうだ。」


すぐに納得する楓。単純に可愛いだけじゃなくて話している時も楽しいなんて、反則だと思わないか?

少し長い距離を走るはずのバスの道のりも、話していたらすぐに目的地に到着してしまう。もっと話していたいという心残りは、窓から見える、少し歩いた先にあった水族館へのわくわくでかき消えた。何気に、俺も楽しみだったりする。カメ見たい、カメ。


「とうちゃーく。さ、きい君!早く行こ!」

「魚は足生えてないから逃げないぞ。」

「足生えてるやつもいるでしょ?」

「ソイツ単体で見に来たわけじゃないだろ…。いや待て、ペンギン足あるか。」

「ペンギンは逃げないよ。ガラス張ってあって逃げられないし。」

「え、何。突然現実的になるじゃん。」

「ほら、何でもいいから。行こ。」


すでに温まった俺の手を、楓は握って、また自分のポケットに入れた。落ち着くらしい、こうしてると。

徒歩五分もかからず、目当ての水族館に到着した。休日だから混んでいるかなと思いきや、案外人は少なかった。寒くはあるが、まだ屋根のある施設を優先して遊ぶ場所に選ぶには、青空が綺麗だからだろうか。

ちゃんと持ってきたチケットをスタッフの人に渡した。回収されるわけではなく、かちりと器具で穴をあけてくれるタイプのチケット。


「良かった回収されなくて。このペンギンチケット絶対持ち帰りたかったから。」

「俺のこのウナギのチケットはいらないのか?」

「チンアナゴだったら考えた。…ってか一人で二枚持っててもなんかむなしくない?」

「確かに。それじゃあまず何見る?順番通り見てく?」

「あ、その前にお手洗い行ってくる。朝コーヒー飲んだの忘れてた。」

「飲んでたんかい。」


たまに抜けてるんだよな、楓。入って早々、またも待つことになる。先ほどバスに乗っていた人が、壁際に背中を預けている俺の横を過ぎていった。家族連れにご老人のまだまだ仲良さそうなお二人。俺たちのようにカップルも来ていた。やっぱり水族館って定番のはずなのに…なんで今まで来なかったんだろう。

少し考えてすぐにわかった。単純に遠かったんだ。意外と俺も楓も、足は重たかった。めんどくさがり屋なところが似ていると言われたっけ。


「お待たせ。今日はなんだかよく待たせるね。」

「そうだな。今日はなんだか待たせられる日だ。楓じゃなかったら不機嫌になってる。」

「私特権。最高だね。じゃ順番通りに行こうか。まずは…タコか。お腹空いちゃうなぁ。」

「その目線で水族館見るなよ…。」


パンフレットをずっと見ていたからか、楓は何も見ずに最初の展示がタコだと当てた。ぬいぐるみだと可愛く見える吸盤だが、あれに一度でも貼り付けられたらと想像すると…恐ろしく見える。


「きい君はどう思う?」

「何が?タコについてか?」

「うん。刺身で食べるか、焼くか。」

「お腹空いてるの?飴ちゃんいる?」

「わーい。」


どんな状況にも対応できるよう肩にかけている鞄にはある程度のものを入れておくようにしていたが、楓と付き合い始めてお菓子を多めに入るようにした。実はこいつ隠れ食いしん坊。

その後も色々な展示を見た。エイやサメ。カサゴにエビにカニ。楓に不評だったウナギ。


「ウナギだ…。」

「ウナギだよ。そんな感嘆の声あげるほどか?」

「ウナギはいつもお世話になってるからね。主に土曜に。」

「丑の日か。」


隣にいたのはクラゲだった。赤や青と言った色とりどりで悠々と泳いでいるクラゲを見ていると、テストとかに縛られない生活に少し羨ましく思った。


「クラゲって死なないんだっけ?」

「ベニクラゲってやつな。なんか死にそうになったら若いころに戻るらしい。」

「へぇ…。ちょっとうらやましいかも。」

「今十分若いじゃないか。」

「いや、何回でも人生楽しみたいじゃん。きい君と一緒に。」

「そう言ってもらえるのは嬉しいが…俺は人生ってのは一度きりだから素晴らしいんじゃないかと思うけど。」

「確かに。激しく同意だよそれは。」

「なら良かったです。」

「…次またここに来たとしてもさ、コイツとはまた出会えるってことだよね。」

「こいつベニクラゲなの?…あ、ベニだ。ならそうかもな。」

「じゃあまたね、ベニ。」


その次にはナマコやイソギンチャクと言った目のないやつにお出迎えされた。別にこいつらに目が無いわけではない。…今の言い方は少しわかりにくいな。


「何考えて生きてんだろうなこいつらって。」

「今日のご飯なんだろうなーとかじゃない?」

「楓じゃないんだから。」

「私の事なんだと思ってるの?こんなスリム保ってるんだから。そんな常にご飯の事考えてるわけじゃないもん。」

「…飴いる?」

「わーい。」


飴を口に入れて、すぐに頬を赤くしたことは気づかないふりをして、俺達は次の展示へ移動した。いわゆる、トンネル水槽と言う展示の場所に来た。


「わぁ…綺麗。あ、カメいるよ。きい君。」

「おぉ。カメだ。…俺もカメくらい生きられたらな。」

「君のカメ好きって寿命からだったんだ…。カメ何年生きるんだっけ?万年?」

「そりゃことわざだよ。種類にもよるけど…一番長生きするやつでも百年は生きるんじゃなかったかな。」

「そうなんだ。…私もきい君と百年まで生きていきたいものですなぁ。」

「まだ折り返しにすら到達してないけど。」

「願い事は最初が大切なの。…あ、次ペンギンじゃん!行こ行こ!」

「はいはい。」

「はいは一回!」

「はい。」


今日一番強く手を引っ張られ、けどちゃんと楓は歩く。そういうところ偉い。でもこれだとただただ俺の手が引っ張られるだけだから、痛い。

ようやくお目当てのペンギンコーナーに到着した。タイミングが良く、丁度餌やりの時間だった。

飼育員さんが、慣れた手つきでペンギンにエサを与えていく。食べさせるたびに楓が声をあげる。


「おー……おー………おー。」

「…可愛いか?」

「うん。ずっと見てられる。」

「写真撮っておこうか。」


この水族館は動画は禁止だが写真は撮れる。


「うん、取って。あとで送って。」

「はいよ。」


カメラを向けても楓はこちらを見なかった。どんだけ集中してるんだ餌やりに…。俺はなんとか餌をやっている飼育員さんとペンギンと、目がペンギンに釘付けの楓を画角に収めた。我ながら良い写真だと思う。アイコンにしたい。


「どう、上手く撮れた?」

「どうよ、才能を見てくれ。」

「おう。良いじゃん。アイコンにしたい。」

「え俺がしたいんだけど。」

「じゃーんけーん。」


突然のじゃんけん。最初は驚いたが楓はすぐにこれをしてくるのでさすがに慣れた。そしていつも通りチョキを出すことも。


「ぽん!勝った!!」

「かぁ…負けた。」


もちろんパーを出す。当たり前だ。


「ペンギン見飽きた。次行こう。」

「さっきずっと見てられるって言ってたよな?」

「次おやつあるよ。食べよ食べよ。」

「りょーかい…。」


ペンギンコーナーから進むと、完璧なタイミングでおやつゾーンが広がっていた。経営者め、その頭の良さに免じて買ってやろう。


「何食べよっかなぁ。あざらしドーナツ…。いるかクレープ。」

「動物の名前とスイーツを組み合わせただけじゃないなこれ。いるかクレープちゃんとイルカだぞ。」

「すごいねここ!」


お互いはしゃいで、選りすぐりの一つを頼んだ。見た目が可愛く惹かれ、味もちゃんと美味しい。さらには隣に楓が微笑ましくあざらしドーナツを食べている。三時のおやつを最初に言いだした人は最高だな。三重に重なる幸せ。くう…甘いぜ。


「ふぅ…食べた食べた。」

「はや。」

「君が遅いの。飲み物あるけど。」

「もらう。」

「どーぞ。」


間接キスで今更ドキドキする仲ではないので遠慮なく飲み物をいただいた。初めてでのあのドキドキをもう味わえないと思うと、少し残念だ。だから、これからも始めての経験をいっぱい作ろうと思うのだろう。

楓に続き、俺もそう長い時間かからずおやつタイムを終えた。


「食べた?」

「あぁ。そろそろ行くか。」

「うん!」


お腹いっぱいで元気になったのだろう。テンションマックス状態で水族館をまためぐり始めた。

後半でも水族館と言う場所は飽きることなく見回れた。そもそも隣に楓がいて飽きることなんてないんだけど。

ついに楽しい時間も終わりに近づき、最後のイルカコーナーへ。

今日最後のイルカショーまで少し時間があった。


「ん、んー…。」


流石に疲れたのか、楓が背伸びをして体をほぐした。午後はずっとはしゃいでいたからな…。


「はぁ…。きい君。」

「どうした。」

「また幸せの絶頂を更新しました。」

「そりゃ今日のデート考えた俺としてはとても嬉しいです。けど水族館で終わりじゃないよ今日。」

「わかってるよ。ゲーセンと…あと本屋だっけ?参考書買うんでしょ。」

「そう。本屋は付き合ってくれなくても良いんだけど…。」

「やだ。最後の最後まで、一緒に居よ。」

「あぁ。」

「…それとも今日お泊りしちゃう?」

「明日学校だぞ…。」

「じゃなかったら良いんだ。」

「まぁな。ほら、イルカショー始まるよ。」


水族館の締めくくりであるイルカのショーは、確かに最後を締めくくるには最高のもので。短い時間だったが、ペンギンを見ていた楓のように見入ってしまった。なんどもこの瞬間を体験するたびに思う。この一瞬がずっと続けばいいのに、と。

けどすぐに考え直す。未来でもっと幸せなことがあるはずだと。この一瞬は、一瞬だからそう思えるのだと。


「みなさんありがとうございましたー!今日はこれでイルカのショーは終わりです!」


見入っていたので、スタッフのお兄さんの声で現実に戻された気分だった。

実は今日のスケジュールまぁまぁきつきつなのでこれが終わり次第すぐにお土産コーナーに移動しなければいけないのだが…楓はもうイルカのいない水場を眺めて動かなかった。


「楓、ペンギンのぬいぐるみ見に行くぞ。………楓?」

「…また来ようね。ちょっと、今日楽しすぎた。」

「あぁ。そうだな。次は別の水族館行こうか。」

「うん…!」


その笑顔のためなら、俺はいくらでも悩んでデートのスケジュールを考えられてしまいそうだ。


お土産コーナーにて、丁度みんな帰る頃だからか少し混雑していた。手を握るほどではないのだが、楓が手を放してくれなかった。


「んー…悩む。」

「ウナギのぬいぐるみか?」

「ウナギは実物でいいよ。これ。ペンギンのぬいぐるみ。ピンクと青と…黄色もあるんだよ。」

「あれ、ほんとだ。ピンクと青だけじゃなかったな。…でも何を悩んでるんだ?」

「どうせ二つ買うなら黄色も一緒にしたいじゃん。けどあげる相手が思いつかなくて…。」

「桃実にでもあげたらどうだ。」


桃実、と言うのは高校での楓の一番の友達だ。よく俺を敵対視する。楓が俺にぞっこんだから。


「んー…いいや、やっぱり。変に連れていっちゃう方が可哀想だもんね。黄色ペンはちゃんと大切にしてくれる人に買われるんですよ。」


そう言って楓はピンクと青のペンギンを手に取って、他のグッズに視線を向けた。


「あ、きい君。カメの服あるよ。」

「なんだカメの服って。…背中に甲羅がプリントされてんのね。」

「買う?」

「これを彼氏が来ていていいのなら。」

「…多分なんでも似合うけど、いきなり赤い帽子被ってるおじさんに踏まれたらいやだな。」

「だな。やめよう。」

「うん。他見よう。きい君はぬいぐるみ良いの?」

「俺は寝てるときにほっぽりだしちゃうからな。大切にしてやれん。」

「それもそうだね。きい君寝相悪いから。」

「寝相に関しては楓も酷いだろ。」

「私はぬいぐるみより先に自分が落ちるから。まだマシ。」

「毎回どういう原理なんだか…。落ちるたびに戻す俺の手間を考えてくれ。」

「軽いから良いでしょ。」

「軽いけど暴れるじゃん。なんど蹴られたか…。」

「えへ。」


その後もいくつか面白いやつや一目ぼれしたぬいぐるみを買って、水族館を後にした。

帰りのバスの中、名残惜しそうにペンギンの写真が乗っているチケットと、さっき買ったぬいぐるみを交互に楓は眺めていた。どこか遠出した後のデートの終わりは、いつも楓はこんな感じで余韻に浸る。こんなになるまで楽しいと思ってくれたのなら、本当に俺としては彼氏冥利に尽きる。あの絶対フラれると思ってた告白の手を取られた、卒業式の日の夜に、絶対楓を飽きさせないようにしようと決意したのだ。


バスから降りると、時刻は17時過ぎ。一瞬だな…本当に時間が過ぎるのが。彼女と過ごしていると人生は随分早く終わるように感じそうだ。


「ふぅ…疲れた。」

「どうする?今日はもう解散にするか?」

「最後まで一緒って言ったでしょ。ほらゲーセンいこ。取ってほしいぬいぐるみあるの。」

「それが目的だろ。」

「へへ、そだよ。」


悪びれもせず、しかし従ってしまうのが俺の悪い所。甘やかしすぎか?いやこんなことできるのも今だけかもしれないし、いいだろう。


クレーンゲームの場所まで来ると、楓はすぐに欲しかったらしいぬいぐるみを見つけた。手のひらサイズのおにぎりのキーホルダーだった。袋に入っていて、一応クレーンで取れやすいようになっていた。


「これ。」

「良いけど…お腹空かない?これつけてたら。」

「盲点だ。…いやでも欲しい。」

「いえっさー。」


クレーンゲームは苦手じゃないので、四百円ほどで見事におにぎりをころりんして取ることができた。


「はいどーぞ。」

「やったやった。ね、つけて。鞄。」

「はいよ。ちょっと荷物持ってて。」

「うん。」


さっき買った荷物も場所を取るが重くはないので楓に渡した。キーホルダーをつける間楓は驚くほど動かないので時間はかからず鞄に着けることができた。


「これも。」

「ん?あぁ、さっきの。」


渡された青いペンギンも、俺はおにぎりに被らないよう別の場所につけてやった。


「よし、つけたぞ。」

「ありがとーう。はい荷物。」

「ん、ありがと。」

「あ、ピンクつけてあげようか?」

「いいよ、自分で着ける。」

「もー。まぁ良いけど。私もう用事ないけどまだとる?」

「あぁ、姉に欲しいフィギュアあったから取って来いって頼まれてたから。」

「しずくさんフィギュア好きだもんね…。最初お姉さんの部屋は行ったときは驚いたな。」

「家ではオタクなのに外じゃ清純保ってるからよくわからない姉だよ、我ながら。」


俺には三年ほど年の離れた姉がいる。秦理雫。もう就職してめちゃくちゃ疲れながら毎日帰ってくる。収入をほとんどフィギュアにつぎ込む、ある意味羨ましい姉だ。たまに俺の相談にも乗ってくれる。


「でもクレーンゲーム下手なんだよね、確か。」

「あぁ。俺がその才能取っちゃったからな。」

「良いんじゃない。姉弟って手を取り合うもんでしょ。」

「ま、そうなんだけど。」


実際。姉と言う存在には随分助けられている。一番の相談相手はもちろん楓だが、楓関連の悩みとなると姉を頼らざるを得ない。毎度フィギュアをひとつ持って行かなければいけないのは癪だが。

いつも通り、一回で取ろうとはせず三回ほどで見事にフィギュアを取ることができた。これで満足だろう。


「おっけ。」

「やっぱ上手だよね…。憧れる。」

「楓のゲームセンスはオセロから最悪だからな。」

「うるさいな。私だって全力でやってるつもりなんだから!」

「三回連続で盤面一色になる相手もなかなかいないんだけど。」

「うぅ…。…ほ、ほら。次本屋でしょ。行くよ。」

「オセロ必勝法の本でも買うか?」

「それ以上言ったらこうだよ、こう。」


そう言ってつないでいた手を放す楓。はたから見ればそれがどうした、という感じだが俺にとっては致命傷だ。


「すいませんでした。」

「わかったらいい。」


すぐに手をつなぎ直す楓。致命傷なのは俺だけではないことを、知っている。

ゲーセンから少し歩くと、おなじみの本屋さんに到着する。ここには受験シーズンにも助けられたっけ。


「私ちょっと漫画見てくる。」

「はいよ。」


楓はわざわざ参考書買う必要ないくらい、授業で勉強は十分という人である。学校の友達からは楓は天才肌だねと言われているけど、俺は裏で実は自分で取ったノートや最初に配られるワークなどを何周もしているのを知っている。俺みたいに工夫しなければいけないほど頭が悪いわけではないが、それでも努力はしているのだ。

楓はその努力を隠している。そう言われた方が嬉しいらしい。俺も最初は思う事があったが、楓がそれ満足しているなら…いいだろう。


欲しかった参考書を手に取り、俺は漫画の棚にいるであろう楓の元へと向かった。

アニメよりマンガ好きなのは、気が合う所の一つだ。自分のペースで物語を進めたいという気持ちは、とてもわかったから。それに最初、勉強とか女子と話してばかりの楓がまさか漫画好きだと思わなくて、知った時は嬉しかったな。


「あ、きい君。新刊出てたよ、これ。」

「おぉ、『しんらつ』もう出てたのか。」


『しんらつ』と言うのは『死んでも来月には金が入る』という疲れ切った社会人を描いた漫画である。俺は元々戦闘多めのアクション漫画ばかり読んでいたが、楓からそういう日常系の漫画をお勧めされてハマったのだ。なんかたまに共感できるところが合ったり、理想の生活をしているわけではないけれど、なかなかできない日頃の贅沢を描かれると思わす焦がれてしまう。


「探してた参考書見つかった?」

「あぁ。それも一緒に買うからくれ。」

「ありがと。お金返すよあとで。」

「じゃあいつも通り半分でいい。俺も読む。」

「りょ。」


レジまで二冊の本を持って行き、お会計。バイトをしているのでお金には困っていない。強いて言えばバイトの時間に楓に会えない方が困っているが、今日のように学生が遠くまで遊びに行くにはどうしてもお金が必要なのだ。仕方ない。

買い終わって待っていた楓の所へと向かう。


「お金今度でいい?」

「あぁ。先読んでいいか?これ。」

「そりゃもちろん。今はお金払ったのきい君だからね。今度家遊びに行った時持ってくよ。」

「わかった。んじゃあ今日は解散だな。」

「だね。楽しかった。また…あぁ、そろそろテストか。当分は遊び行けないね。」

「でもテスト終わったら冬休みだろ。いっぱい遊べるじゃん。」

「それを楽しみにテスト乗り越えますかねー。あ、来週勉強一緒にする?」

「恒例のな。桃実も他のやつらも読んで。」

「そうそう。あれ始めてからクラスの平均上がったよね。」

「まさかあんなに影響力あるとは思わなかったわ…。」

「だよね。…きい君歩いて帰る?」

「だな。もしかしたら姉呼べるかもしれないが…最近忙しそうだから。やめておく。」

「わかった。気を付けてね。」

「そっちもな。ほんとは家まで送りたいんだが…。」


残念ながら家は反対方向。引っ越してやろうかな。無理な願望だけど。


「じゃあまた明日。学校で。」

「うん、ばいばーい。」


やはり、何度でも別れは辛いものだな。明日またすぐに会えるというのに。名残惜しさが倍増する。しかしあんまり甘えて困らせてはいけない。男ならば去り際には何も残さない物なのだ。


徒歩十五分ほどで、俺は家に着いた。家に着いた時刻は…丁度18時半だった。平日なら家にいるのは母さんくらいだが、今日は休日なので父さんもいる。残念ながら、姉はいないから家族が全員集合してはいないのだけど。姉が働いている場所は別にブラックという訳ではない。変な日程をしているだけだ。最初の頃はその変な仕事のスケジュールに慣れなかったらしいが、今じゃその生活を抜け出せないほど満足しているらしい。住めば都…とは少し意味が違うが、まぁそんなもんなのだろう。


「ただいまー。」

「おかえり。またいっぱい買ってきたのね。」

「楓がなんでもお揃いにしたがるからな。」

「あら微笑ましい。もう夕ご飯できてるわよ。すぐに食べる?」

「あぁ。荷物片づけたら食べるよ。夕飯何?」

「シチューよ。今日寒かったからね。」

「最高だな。」

「はいはい。」


二階にある自分の部屋へ、その日の荷物を持って行った。ちなみに反対の方の部屋は姉のである。未だに家から離れないのは、就職先が実家からめちゃくちゃ近いから。合理的なので俺はなんとも言えないが、父さんは独り立ちしてほしかったらしい。確かに、二十歳が未だに親に養われている状況ではあるが、仕送りも手渡しどころかその日の食卓に出せて楽なんだし、やっぱり姉の判断は合理的だと思う。

今日のデートを思い返しながら、買ってきた物を片付ける。ぬいぐるみやらペンやら、お菓子やら。お菓子はお土産だからこれはあとで母さんに渡さなきゃだな。参考書は棚にしまって…。一通り片付け終わると、俺は一階に降りてダイニングに足を運んだ。


「おぉ、喜一良義。おかえり。」

「ただいま。父さん。」

「虹咲さんをちゃんと楽しませたか?」

「もちろん。俺はそう決めたんだから。」

「なら良い。さぁ食べよう。今日はシチューらしいぞ。」

「さっき母さんから聞いた。聞いてからお腹が空いて空いて仕方ないよ。」

「俺もだ。」


俺の父さんは正直な人で、行動も迷いなくまっすぐだ。毎食できる限り一緒にご飯を食べようというのも、父さんの提案からだった。家族らしさ、なんてわからないが食卓を囲むのが一番手っ取り早い、と言って。俺はそんな父さんの思い切りと言うか、根拠なんてかなぐり捨てるような直線的な考え方が、かっこいいと思ってる。


「雫は帰ってこないか、今日も。」

「いえ、すぐ帰ってくるらしいですよ。さっきお腹が空いたってメールが。」

「そうか。俺もお腹が空いたからもう待てない。食べよう。」

「お父さんさっきつまみ食いしたの、わかってますからね。」

「うっ…。すまん。」

「いえ。喜一良義、もう手は洗った?」

「うん。大丈夫だよ。」


箸やコップの準備をして、俺は自分の席についた。隣は姉の席だが、もちろん空席。俺の前は母さんで、となりは父さんだ。


「じゃいただきまーす。」

「はい、いただきます。」


目の前に広がるおいしそうな料理。これに手をつけないようなやつはどれくらいのお金を積まれているのだろうか。

テストなんて忘れ、俺は今日と言う一日を目いっぱい楽しむためにシチューを口に入れた。くぅ…最高。


そんな時、家の固定電話が鳴り響いた。電話担当は母さんだ。理由は単純、母さんは電話をもらう友達が多いから。


「誰かしら。」


箸をおいてカチャりと受話器を取り外し、席を外した。よくあるわけではないが。見慣れた光景ではあったので俺は特に気にせずに食を進めた。父も同様に。

するとすぐに、明らかに様子のおかしい母さんが食卓に戻ってきた。

その瞬間、俺は何だが嫌な予感というか、体がぞわぞわするような感覚に襲われた。今日の今までの幸せが、全部吹っ飛んでいきそうな。ひっくり返って真っ黒になるような、そんな予感。


「き、喜一良義!大変!か、楓ちゃんが…楓ちゃんが交通事故にあったって!」


信じられなかった。母さんがそんな嘘をつくわけないのに。聞き間違えるほど、母さんの耳は遠くないのに。


「母さん落ち着け。誰からなんだ?」

「奈津さん。楓ちゃんのお母さんから今…夜道に交通事故にあって…すぐに病院に…東の、東の方の病院に、運ばれたけど意識不明って…。」

「そうか、わかった。すまないが母さん、夕食にラップをしておいてくれ。おい喜一良義。行くんだろ、病院。」


俺が父さんをかっこいいと、尊敬していると思う点はもう一つある。誰よりも冷静で、考えをまとめていて、そして時に誰よりも、俺よりも、俺の事を考えてくれている点である。


「あぁ、ごめん母さん行ってくる。」

「うん…奈津さんも心細いだろうから行ってあげて!」


それから、俺はまた今日昼時の、早く出過ぎた時と同じようにコートを着て父さんの車に乗り込んだ。足取りの重さが、ここまで変わるなんて、思わなかった。知りたくなかった。

すぐに父さんは車を出してくれて、移動中俺たちはなんの会話も交えなかった。父さんは知らないが、俺の方はまだ頭が整理できていなくて。…馬鹿なことを考えるな。今日楓を誘わなきゃよかったなんて。俺にはどうしようもない事だろ…。でも…考えてしまう。深く深く穴の開いた心に、目を向けてしまう。


「喜一良義、お前は前を見るんだぞ。」

「…!…うん。」


それだけしか、病院への道のりで会話はしなかった。それだけで、十分だった。

夜の病院は案外静かで、中に入って父さんが受付の人に事情を話した。すると、奈津さん…楓のお母さんはすでに話を通してくれていたらしくすぐに向かうことができた。家族ぐるみの関係でよかったと思う。

案内された場所は病室だった。まさか手術室に運ばれないよなとドキドキしていたが予想が外れてよかった。

中に入ると奈津さん。そして病室のベットの上で…さっきまで元気そうに笑っていた楓が寝ていた。


「楓…!」

「あ、喜一良義君…!秦理さん!」

「虹咲さん。楓ちゃんの容態は…。」

「一時は危なかったんですけど…もう大丈夫みたいで。」


なんだ…よかった…。口に出してしまいそうになるくらい安心した。しかしすぐに、楓は大丈夫だと言った奈津さんの表情がまだ暗いことに気付いた。

俺の嫌な予感はすぐによみがえる。


「ですが…すいません。一度外でお話しても大丈夫ですか?」

「それはもちろんですが…。」

「私も喜一良義もどちらもいていいですか?その話と言うのは。」

「あ…はい、大丈夫です。」


俺と父さんはは立ち上がった奈津さんについて行った。行きたくなかったが…知りたかった。知りたくないのに知りたがるなんて矛盾した感情を持てるほど、人間は複雑なんだなと妙に納得してしまう。

病室から出て、奈津さんは話しだした。


「交通事故…楓は別に体全身でぶつかったわけではなくて。ギリギリ当たってしまってそれで飛ばされちゃったみたいで…。どちらかと言えば地面にたたきつけられた方が問題みたいで。」

「…はい。」

「ケガをしてはいるんですが、骨折とかはしていなく一週間もかからず体の方は元気になるとお医者さんが言っていて。」


…体の方は、


「ですが…頭の…脳の方に結構衝撃を受けちゃったみたいで。お医者さんが調べてだした見解だと…。」


一番聞きたかった言葉を、奈津さんは躊躇った。言い淀んでいるのだ。それだけ…重大で、俺に伝えるには辛辣な内容だという事だろう。だが…


「大丈夫です、教えてください。」

「…わかったわ、喜一良義君。実はね、その…もしかしたら楓が…記憶喪失になっているかもしれないって。」

「え…。そ、それは…一時的なものとかじゃなくて?」

「まだ詳しいことはわからないらしくて。本人が目を覚まし次第もう一度ちゃんとした精密検査をして、そこでちゃんとわかるらしいんだけど…。とりあえずなんらかの記憶障害は起きている可能性がある…って。」


そんな…そんなことがあるのか?まだ何もかもが決まったわけではない。一時的なものかもしれないし、断片的に抜け落ちているだけかもしれない。絶望するにはまだ早いのだが…少ない情報であればあるほど、最悪な想像をしてしまう。

目覚めた楓に…『誰ですか』と言われる、最悪な想像。考えたくもないはずなのに、どうしても考えてしまう。

青ざめている俺に気付いた父さんは、肩に手を置いてくれて


「一度外の空気を吸うか?」

「…いや、楓のそばにいたい。良いですか、奈津さん。」

「えぇ…。私も一度家に帰らなきゃだし…三十分もかからないだろうから、いてくれるかしら。誰かが近くにいたほうが安心するだろうし…。」

「ありがとうございます…。」

「喜一良義、俺は一回母さんに電話してくる。病院の中じゃあれだから…外にいる。あと雫にも一応な。一人で大丈夫か?」

「うん…俺は父さんの子だよ。すぐ冷静に…なれるから。」

「流石だ。それじゃあ。」

「喜一良義君、楓の手を握ってあげて。あの子…手を握られるの好きだから。」

「はい。」


奈津さんと父さんとその場で一度離れた。俺は心をちゃんと落ち着けてから…もう一度病室に入った。すると…


「…かえ…で?」

「…。」


楓が起きていた。起き上がって、月の綺麗な夜空を眺めている。俺の声に気付いていないのか…?


「楓…?」

「………。」


心臓がうるさい。…言われたくない。あなたは誰だって。初対面のような顔を、されたくない。俺が呼んだことで、楓は振り返った。

その表情は…


笑顔だった。


「あ、きい君。…こんばんは?」

「………はぁぁあああ…。」

「おおめちゃデカ溜息。」

「心配したぞ…本当に。」


…いやまだ安心するには早いが、とりあえず俺の事を覚えておいてくれたことに安堵した。どれだけ記憶があるか確認…いや、その前に状況を教えた方が良いか。今一番落ち着かなきゃなのは俺だ。しっかりしろ。


「楓、どこまで覚えてる?」

「えっとね…きい君が鞄につけてくれたペンギン見てて、そしたら前から車が来て…。そこから覚えてないや。」

「…でも楓ならなんとなくわかるんじゃないか?」

「まぁね。大方はねられ…たわけじゃなそうだね。体動くし。痛いけど。」

「おぉあんまり動くな。」

「大丈夫だって。……体に異常はないみたい。地面にたたきつけられたくらいで済んだのかな?」

「流石だな。俺も奈津さんに聞いたが、もろに車にはねられたわけじゃなくて吹き飛んで地面に、らしいぞ。」

「そうかお母さん来てたのか。そりゃそうだ。今はお母さんは?」

「家に戻って色々取りに戻ったらしい。俺は奈津さんの電話聞いて父さんと駆け付けた。」

「あれま。今頃だと…ご飯食べてたりしてた?ごめんね心配かけちゃって。」

「いやいいさ…。楓が無事なら。」


とりあえず、今のところは記憶に問題なさそうだな。少し俺も落ち着いてきたし、楓もなんか元気そうだから質問してみるか。


「なぁ、今日何したか覚えてるか?」

「へ?…お昼時に水族館行って…ペンギンとかイルカとか見て。で帰ってクレーンゲームやって本屋行った。で解散して事故った。」

「能天気だな。」

「なんか現実味ないというか…あんまりケガしてないからかな?えーと後なんかあったっけな…。あ、ウナギ見て美味しそうだなって。」

「変わらずでよかったよ。とりあえず。」


本人がこうして何事もなかったかのように話しているのは、なんだか楓らしい。

とりあえずあとは、医者の精密検査とやらに任せよう。俺が安心するだけの質問はこんなもんでいい。

その後は、とりあえず楓が楽しめそうな会話を続けた。俺も流石にここにずっといるわけにはいかないからできる限り寂しくないように。


「きい君今日なんの魚が一番印象残った?」

「そうだな…。やっぱカメかな。好きだから。」

「長生きしたいんだもんね。私危なかったな。」

「おう冗談にならないぞそれ。」

「そだねごめんごめん。確かクラゲも見て…イルカ最後に見たんだっけ。可愛かっ

た!」

「イルカは頭いいなぁくらいしか覚えてないな。」

「淡白だなぁ。その後お土産コーナー行って…そういえば、黄色とピンクのペンギンも買ったよね!」

「そうだったな。」


ピンクと…黄色…だったか?


「いや待て、かえ…

「楓!起きたの!?」

「あぁお母さん!ごめん心配かけて…。」

「良いよ私は楓が目を覚ますなら…。ごめんね今日迎えに行けなくて…。」

「いや私が遊びに行ったんだからこれは私の責任だから。ね。ほら。きい君が困ってるでしょ。」

「そうだね…。ありがとう、喜一良義君。」

「…いえ、俺は何もしてないですよ。」


…ただの言い間違え?だよな…。多分。


「お、楓ちゃん起きたか。医者呼びますか?」

「そうですね。呼んできます。」

「それじゃあ私たちはもう帰りますよ。喜一良義、もう大丈夫か?」

「大丈夫だ。じゃあな楓。明日無理してくるなよ。」

「わかったー!きい君のお父さんもわざわざありがとうございます。」

「いや、息子の為だ。いつも世話になってるから。じゃあ奈津さんまた。」

「はい。喜一良義君もまた明日病院来てくれていいからね。」

「ありがとうございます。」


父さんの車で運ばれ家に帰る頃にはすでに二十時を過ぎ、二十一時になろうとしていた。まだこんな時間には眠くならないはずなのに、どうしてか眠くなる。よほど疲れたのだろう。体も、心も。


「ただいま。」

「ただいまー…。」

「お、喜一良義。おかえり。」

「姉さん。」

「話は聞いたよ。…災難だったな。」

「いや、もう元気そうだったよ。楓があんな元気なら、俺も元気出さなきゃ…。」

「…無理すんなよ。まぁなんか困ったらお姉ちゃんに頼れ。」


どうも、毎回の如く姉は俺の心を見透かしてくる。姉弟というのはそういう者名だろうか。


「喜一良義、それにお父さんも。お帰りなさい。楓ちゃん、どうだった?」

「もう起きていたよ。元気そうだった。」

「はぁぁ…よかったわ。でもまだ流石に動けないでしょう?」

「そうみたいだな。奈津さんが医者に聞いた話だと体に異常はほとんどないらしい。」

「そう…。私も心配しちゃって、ご飯喉通らなかったわよ。」

「はは、そうだな。夕飯再開だ。雫はもう食ったのか?」

「まだー。一緒に食べるんでしょ。」


正直もう疲れに疲れて、姉との会話以降口から言葉がでなかった。何度も地獄と天国を行き来している気分だ…。夕食も食べ終えてお風呂にも入り、寝る準備万端になった頃、時刻は二十二時。ここまでくるとむしろ目が覚めてきた。しかし買ってきた参考書にも、 『しんらつ』の漫画にも手をつけられない。

ずっとあの楓の言葉が耳に残っていた。


「…黄色と、ピンク。」


買ったのは確かに青とピンクだ。俺の記憶がおかしいわけではないはずなんだが…

その時、勢いよく俺の部屋の扉が開かれた。


「おーっすどうした我が弟よ。」

「姉さんもう少し夜中に配慮した扉の開け方してくれない?」


ノックしろとかはこの人に言っても意味がない。だってそれ以前の問題だから。


「で、どうした弟。ピンクと黄色がなんだって?パンツの色かい?」

「どうなってんだよその地獄耳…。もっと生かせよその聴力。」

「なんだよ、元気じゃん。てっきり楓ちゃんが事故にあってふさぎ込んじゃったのかと。」

「さっきも言ったけど俺が元気じゃなきゃ楓が心配するだろ…。」

「流石だね、色男。……それで、何を悩んでるの?」


…言わなくてもわかるのが俺の姉さんだ。プライバシーなんてものはないが、それでも何度も姉さんには救われてきた。この人の話を聞いてくれる能力は今まで出会ってきた人の中でも群を抜いている。信頼も信用もしている相手は、家族と楓だけだ。

あまり部外者にこういった話はしてはいけないのだろうが、姉さんになら大丈夫だとわかっている。それに楓もきっと言っていいと言ってくれるだろうし。

俺は奈津さんがもしかしたら楓は記憶に関する何らかの障害がある可能性の話。そしてペンギンの色について楓が話したことについて、姉さんに伝えた。入ってくるときも、悩みの聞き始めもそりゃ酷いもんだが人の話を聞いている瞬間の姉さんはまるで別人になる。


「なるほどな。…確かに、大分不安になるね、その一言は。」

「…。」

「今メールして聞いてみたらどう?あれは言い間違えかって。」

「もう夜中だし…楓も疲れてるだろうから聞けないよ。」

「なら今あんたができるのはよく寝て、明日学校行ってすぐ帰ってきて楓ちゃんの所に行くことなんじゃないの?」


…確かにその通りだ。俺は何を悩んでいたんだ?居ても経ってもいられなかっただけだ。それだけなのに。


「…やっぱ姉さんは大人だな。」

「そりゃ成人だし。とは言え喜一良義もすぐに十八で成人じゃないか。」

「そういう意味で言ったんじゃない。精神的に大人だなって行ったんだ。」

「あんまいい事でもないけどね。…大人になれば手を引いちまうから。色々なことにな。」

「…だから彼氏未だにできないってこと?」

「うるせい。あーあ。涙目な弟をからかいに来たのに、やだやだこんな弟。」


俺の姉はツンデレだと思う。バレバレなツンデレ。


「姉さん。」

「ん?」

「ありがとう。おやすみ。」

「ん、おやすみ。」


電気を消してすぐに布団に入った。最初はぐるぐるぐるぐると思考が回りに周ったが疲れていたから気づけば眠りに落ちていた。


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