6 伯爵の妻
別邸で過ごして十二日目、寝る準備が整ったフェリシアの元に明日は本邸に移動すると連絡が入った。大した荷物はないにせよ急な連絡だったが、準備ができ次第でいいとのことだったので、その日はそのまま眠り、翌日準備に取り掛かることにした。
カバン二つしか荷物のない第二夫人(仮)は、お昼に近い時間に荷物と一緒に馬車に乗り、本邸に向かった。
本邸はそれはそれは大きかった。シード伯爵家の比ではない。
王都にあって家が五軒は建ちそうな庭があり、馬車が三台は停められそうな玄関前ポーチ。伯爵があれだけ馬車を連ねて旅立ちながら、車庫には馬車がまだ三台あり、人が住めそうな馬小屋もある。
別邸とは別の執事がいて、控えている侍女や侍従も洗練されている。
「お帰りなさいませ」
初めて来た家でお帰りと言われ、戸惑いながらも愛想笑いしていると、二階に案内された。
真新しい家具。クローゼットの半分は既に服が入っている。誰の? と思ったが、どうやら自分のものらしい。家で使っていた化粧品がひとそろい以上にあり、いつ運ばれたのか、実家に置いてきた小物がいくつか置かれている。
「旦那様がお呼びです」
もう旅から帰って来たのかと思い、執事について案内された部屋に行くと、そこには年若い男がいた。
見覚えのある顔。
「じゃ、じゃじゃ、ジャスティン?」
身なりは違うが、そこにいたのはレオナルド商会のジャスティンだった。
もしかしたら、そっくりさんか、双子か…?
戸惑うフェリシアにジャスティンはいつもとは違う穏やかな笑みを見せた。
「ずいぶん待たせたね。なかなかこっちが片付かなくてね、悪趣味な内装を取っ払うのに時間がかかって」
「どういう、こと? あなたはジャスティン・レオナルド、よね?」
「そうだったんだけど、諸事情で一ヶ月前からジャスティン・オークウッドに戻ったんだ」
「戻った?」
「レオナルドは母の旧姓だ。じいさんの養子になって、もうこの家には戻らないつもりだったんだけど、兄夫婦があれこれやらかしてくれたもんで…」
と殊勝そうに言っていたその顔がニヤッと悪々な顔に変わった。
「領の収益を五分の四に減らした奇才の無能には退場いただくことになってね。家の金を食いつぶしていた兄嫁は離縁。とは言っても兄嫁の連れ子が何とかいう伯爵家に嫁に行くことになったようだから、そっちで面倒見てもらうつもりらしいけど? まあうちが知ったことではないな」
兄夫婦=伯爵家嫡男の領経営失敗、兄嫁の離縁、兄嫁の連れ子…伯爵家に嫁に行くとなると、おそらくはエレナのことか。
もうエレナはこの家にいない??
それだけで安心して力が抜けていった。
「兄の無能の証拠集めに協力したら、兄の息子が一人前になるまでつなぎで家にいるよう言われたから、君をこの家に引き取ることを条件に応じることにしたんだ」
「わ、私を?」
「レオナルド商会会頭の命令でもあったし。お得意様のご機嫌を損ねないよう、お嬢様には良縁を見繕えってね」
お得意様。父のご機嫌を損ねないために、その娘を…。
あくまでこれは父のため。落ち込む気持ちを奥歯をかみしめてこらえると、両手で頬を挟まれた。
「勘違いしてそうだなぁ。結構惚れ込んでるんだけど?」
顔を引き上げられ、目と目が合うと、そこにあるのは極上の笑顔だった。
「エレナがバカにしながら聞かせてくれる話が面白くてね。草刈り鎌なんかを王都で売る代理店を探してるとか。ギャレット領の農機具がちょっとした話題になっているのは知ってたから、すぐに食らいついたよ。その後も新種のオレンジだとか、ヴィンテージ確実のワインの予約だとか、おいしい情報をベラベラしゃべりまくってはバカにして笑ってる。こっちが笑ったよ。そこにある商機も見えてないなんて。それが恋人の婚約者から聞きつけたって聞いて、口が軽く頭の悪い男に、ずいぶん親切なバカ婚約者だと、初めはそう思ってたんだよなぁ」
親切なバカ婚約者。それが自分に対する評価なのだとフェリシアにはすぐにわかった。
婚約者の役に立てればと父から得た情報を伝えても少しも評価されず、むしろさかしいと鬱陶しがられていた。本当にバカだ。
「それが、本人を見てると健気でかわいく見えるから不思議だ。色々勉強して婚約者を支えようとしてるのに報われず、ようやくあんな阿呆と縁が切れ、祝うところなのに泣かれたりしたらさすがにほっとけない。婚約破棄されたのが汚名ならちょうどいい、平民落ちしてもらおうと思ってたのに、君の父上は実に頑固で許しをもらえなかった。それじゃこっちも権力をふりかざすしかない」
話だけ聞いていると、まるでフェリシアを手に入れるために、権力を、伯爵家の名を手に入れたように聞こえる。
勘違いしちゃダメ!
目を閉じてうつむくフェリシアの顎に手が添えられ、軽く持ち上げられると唇に何かが触れた。
それがジャスティンの唇だったと気がついて、真っ赤になって声なき悲鳴を上げたフェリシアに、ジャスティンは満足げに笑って見せた。
「せっかく軌道に乗せたレオナルド商会をもう一人の兄に譲り、平民生活をあきらめてでも君を手に入れることにした。とはいってもこの家にいるのは期間限定だけどね。ま、君となら今まで以上に領を盛り立てていけるだろうし、一緒に平民になってもやっていけるよね。俺は有能な妻が働くのは大歓迎だ」
「つ、つま…?」
「当然。君はオークウッド伯爵夫人になる約束だ。この俺、現オークウッド伯爵のね」
父に強権を突きつけ、婚約を強いた伯爵は、実はこの男…。
お得意様のご機嫌を取るとか言いながら、父は泣いていた。
何という男だ。
「父はようやく引退できると喜んで、しばらく母とのんびり旅行を楽しむそうだ。…羨ましいなぁ」
「わ、わざと、誤解させるように、した? 前伯爵様の第二夫人っぽく」
「当たり前だよ。父の要望と言えば誰もが黙る。父のものを横取りしようとする奴はいないからね。牽制にはもってこいだ」
「私の父には…」
「君が聞いたそのままさ。俺との平民落ちを認めなかったんだ。ちょっとは驚けばいい。ははは」
笑ってる。笑ってるけど、それは後が怖い。腰の低い出入りの業者が娘をかっさらって行ったと知れば、…。結果オーライで済むだろうか。
すぐに父に知らせなければ。しかし何をどこから書けばいいか、フェリシアは手紙の文面が思いつかなかった。
「名前が変わったことだし、新しいハンカチが欲しいなぁ」
ジャスティンはポケットからフェリシアが刺繍したハンカチを取り出し、刺繍のしてある面をフェリシアに向けて嬉しげに左右に振った。あの不出来なあれを持ち歩いているなんて、驚く以上に恥ずかしい。
「えー…。…いいけど、…条件があるわ」
「何?」
「刺繍が下手でも笑わないこと!」
「いやぁ、そこは笑わせてもらいたい」
「え? ダメ?」
「ダメー」
じゃ、作らない、と言いかけたのに、笑顔に負けてしまう。
こんな条件さえ受け入れてくれないけれど、この人となら楽しい人生が待っている、そんな予感がした。
若いやり手の伯爵と婚約し、既に同居中。学校へは馬車で送迎、時には伯爵自身が迎えに来る。溺愛されていると噂が立ち、学校でも社交界でもフェリシアを悪く言う者はおらず、フェリシアは思ったより平穏(?)な学校生活を送ることができた。
フェリシアの卒業パーティにはジャスティンが同行し、友人だろうと他の男共がフェリシアに手を触れることさえ許さなかった。もちろん祝いの席で断罪のような無粋なことをする非常識な者などいる訳がない。
そして学校を卒業すると同時にフェリシアとジャスティンは結婚した。
長兄の息子が一人前になるまで、の約束だった伯爵位はその後も続き、いつか爵位を譲る時のためにと始めた商会経営で伯爵家はさらに財を成していくのだった。
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