第7話 RUN HIDE FIGHT
誠一と一ノ瀬の二人は、特別教室棟四階の調理室で息を潜めていた。
銃器で武装した男たちが駐車場に停まったトラックの荷台からぞろぞろと下りてきて、その直前に射殺した杉山先生の死体を跨いで正面玄関に向かうところを目撃した二人は、当然警察に通報しようとした。
しかし二人のスマホは、どちらも圏外で電話もインターネットも通じなかった。
そうこうしているうちに、二人は下の階から半ば雨に掻き消された銃声が響いてくるのを聞いて、たまたま鍵の開いていた調理室に逃げ込んだ。そして、一斉に響いてきた壮絶な銃声の連続と生徒たちの悲鳴を聞き、さらに走って校舎から逃げ出した生徒たちが教室棟三階の窓から銃撃されて皆殺しにされるのを見て、この都立平山高校が正体不明の武装集団の手に落ちたことを理解した。
「やっぱりダメね。電話もSNSも無理。校内Wi‐Fiらしいのは飛んでるけど、パスワードが掛かってて入れない」
自分のスマホを一心不乱に操作していた一ノ瀬が、諦めの表情でスマホをブレザーのポケットに戻した。とっくに諦めていた誠一は「固定電話なら通報出来るかもな」と適当に応じる。
「固定電話なんてどこにあるのよ」
「職員室にはあるんじゃないか」
「じゃあ行ってみる?」
「冗談じゃない。連中がどこにいるのかも分からないのに校舎内をうろつくなんて、自殺行為だ」
襲撃者たちが、今日唯一登校している二年生の教室がある教室棟三階にいるのは分かっているが、全員がそこに固まっているかは分からない。校舎内のどこに敵がいるかも分からないのに、わざわざ見つかるリスクを冒して移動する気にはなれなかった。
調理室のある特別教室棟四階に敵の気配がないのは不幸中の幸いではあったが、八方塞がりの現状を再確認し、調理台の影で二人は項垂れた。
「そもそも、あいつら何なんだ。学校なんか襲って何になる――」
誠一がぼやくように呟き、一ノ瀬が膝の間に埋めていた顔を上げる。だがその直後、女性の悲鳴が、暖房も付いていない調理室の冷たく湿った空気を震わせた。
「やめて、お願い殺さないで!」
命乞いの金切り声は、すぐに銃声に掻き消された。音の大きさと反響の具合から、かなり近く――ここ調理室があるのと同じ特別教室棟四階から聞こえてきたものと思われた。
三階までを制圧し終えたであろう襲撃者たちが、残る四階だけ放置することなどあり得ないのは少し考えれば分かることだった。
ガラガラと扉を開ける音と、固い靴底がリノリウムの床を踏みつける微かな音が聞こえてくる。
恐らく、二つ隣の美術室か被服室からだ。
間もなくして聞こえてきた、机を動かしたり収納を開けたりする物音は、誠一たちのように隠れてやり過ごそうとしている者を見つけ出そうとしているかのようだった。さっきの悲鳴を上げた女性は、見つかって始末されたのだろう。
「こうなったら、やるしかない」
隠れ場所を求めて調理台の収納を開け、中にぎっしり詰まっていた調理器具類に絶望した誠一は、一ノ瀬の呟きに振り返った。
一ノ瀬は、長さ五十センチ程度の湾曲した細長い板や何かの部品らしき物などをスクールバッグから取り出し、組み立て始めた。
「何だそれ」という誠一の当然の疑問には、「弓よ」という短い答えが返ってきた。
「何でそんなもん持ってるんだよ」
「私、アーチェリー部だから」
「ああ、なるほど……」
「机の下に隠れてたって、どうせ見つかって殺される。私にはやることがある。ここで死ぬわけにはいかない」
一ノ瀬は手を動かしながら言う。そして、「だから殺される前に殺す」と続けた一ノ瀬の声には覚悟の響きがあった。
逃げることも隠れることもできなければ、最後には戦うしかない。自明ではある。
誠一は、自分より二回りは小柄な一ノ瀬が見せた決断力と胆力に驚いたが、すぐにそれが最善手であることを認め、同じく覚悟を決めた。
敵がもう隣の部屋まで来ている気配を確かめて、誠一は足音を立てないように壁際の棚まで移動する。そして、「包丁」のラベルが貼ってある引き出しをゆっくり開けた。
クラス全員に行き渡るだけの果物ナイフや三徳包丁が整然と押し込まれた引き出しの隅に、分厚く大きな刃をもつ出刃包丁の姿を確認し、迷わずそれを手に取る。
ずっしりと重い出刃包丁を手に、入口の引き戸の真横で壁に背を当てて動きを止める。
引き戸の上半分は曇りガラスになっている。調理室の前の廊下には窓があるので、外に人が来れば分かる。逆に、電気の点いていない調理室内は廊下より暗いので、廊下から中の様子を窺い知ることは難しいはずだ。
隣の美術室から足音が出てくる。
引き返してくれという誠一の願いは届かず、足音はゆっくりと近づいてきて、ついに曇りガラスに黒い人影が映った。目だけ動かして一ノ瀬を見れば、一ノ瀬は弓に弦を張ろうとしているところだった。
間に合わない。
誠一は、曇りガラスの外から見えないよう、左手で「隠れろ」とジェスチャを送る。一ノ瀬は、組み立て中の弓ごと調理台の影に消えた。
右手の出刃包丁を、ゆっくりと顔の横で構える。
鍵束の擦れるジャラジャラという音に続いて、外の鍵穴にキーが挿し込まれる金属音がやけに大きく聞こえた。
ガチャリというひときわ大きな音がして、鍵が開いた。
引き戸がガラガラと音を立てて開き、黒い戦闘服の男が調理室へと一歩足を踏み入れてくる。片手で持った短機関銃を斜め下に向けたまま、無警戒にもう一歩踏み出そうとした男は、まさか真横に敵が潜んでいるとは考えもしていなかった。
男は、何かが凄まじい速度で動くのを視界の隅で捉えたが、短機関銃を構えることはおろか、指一本動かすこともできず、首筋に衝撃を受けることになった。
ありったけの力を込めて振りぬかれた出刃包丁が男の首に突き刺さり、深々と食い込んでいく。
その様子を、誠一はスローモーションで動く視界の中で見ていた。首の肉を豆腐か何かのように易々と切り裂き、気管や食道といった器官を断ち切りつつ邁進していた出刃包丁は、ゴッという音と感触とともに急停止した。頚椎にぶつかったらしい。
男の手から滑り落ちた短機関銃が重い金属音を響かせる。
男の見開かれた目と、誠一の目が合った。男は、切断された気管に空気を取り込もうと必死に口を開きながら、手を伸ばしてくる。
誠一は包丁の柄から手を離した。
支えを失った男は、誠一に触れることも叶わず、前のめりに倒れる。倒れた男の身体の下から真っ赤な鮮血が溢れ出し、薄灰色のリノリウムの上に広がっていく。
誠一は言葉もなく、その場にへたり込んだ。人肉を切り裂く感覚が、まだ右手に残っていた。
誠一は呆けたように、今しがた自分が殺した男に目を向ける。
身に着けている大小複数のポケットが縫い付けられたベストは、民兵や軍人が着ているような軍用品に見える。傍らに落ちているT字定規のような形の銃はUZI短機関銃だろうか。
いや、今は銃の種類なんかどうでもいい。銃を持っているということは、いま殺した男はこの学校を襲撃した犯人の一味だったということだ。つまり、こうしていなければ、この銃は自分と一ノ瀬に向けられていたということだ。だから、そうなる前に殺した。正当防衛だ。
だが、殺していなければ殺されていただろうと理屈では分かっていても、人生初の殺人という大罪を犯したことで、誠一の思考はフリーズしかけていた。
『おい、こっちは全部終わったぞ。さっさと終わらせて戻って来い』
しかし、間近から聞こえてきた男の声が、誠一の心臓を跳ね上げさせると同時に、強制的に思考を再開させた。
声は、殺した男の下から聞こえてきていた。
誠一は、血溜まりに沈む男の肩を掴んでひっくり返す。ナイフや弾倉といった物騒な小物で膨らんだベストには、カラビナで小型の無線機がぶら下がっていた。
『おい、聞こえてるか。返事しろ』
トランシーバが再び苛立った男の声を発する。当然だが、殺した男には仲間がいたようだった。
人殺しがどうのとか、あれこれ考えている場合ではない。さっさとここを離れないと、敵が応答しない仲間を探しに来てしまう。
敵が、首に包丁を突き立てられて死んでいる仲間と血まみれの手の誠一を見たときに何が起こるかなど、考えなくとも分かる。
一刻も早くここを出なければならない。
誠一は、一ノ瀬に「逃げるぞ」と言おうとした。しかし、トランシーバからではなく廊下から聞こえてきた「無線の電源は落とすなってあれほど言っただろうが!」という怒鳴り声に、言葉を失った。
軍用ブーツの固い足音が急激に近づいてくる。
もはや逃げる時間など残されていなかった。
誠一は、さっき殺した敵が落としたUZI短機関銃を拾い上げ、出入口から最も近い調理台の後ろに転がり込んだ。そして、頭と銃だけ調理台の上に出して、開いたままの出入口に向ける。
直後、「返事くらいしろ!」という怒鳴り声とともに、殺した男と同じ戦闘服とベストに身を包んだ男が戸口に現れた。
「おいどうなってやがる!?」
男は、血溜まりに沈む仲間の姿を見て目を見開き、驚愕の声を上げた。
だらりと下に向けていた散弾銃の銃口を慌てて上げ、構えなおそうとする。
しかし、見計らったようなタイミングで、細長い棒が風切り音とともに飛来し、男の右目に突き刺さった。
短い悲鳴が、反射的に引鉄を引かれた散弾銃の銃声に掻き消される。
狙いも付けずに発射された散弾は、しかし誠一から数十センチしか離れていない床を抉り飛ばし、首を竦めるようにした誠一もほぼ反射的に短機関銃の引鉄を引き絞っていた。
強烈な爆竹のような炸裂音を連続させて、短機関銃が誠一の手の中で暴れる。
銃床を肩に当てることもせずにフルオートで発射された九ミリ弾の群れは、標的の男だけでなく、その後ろの壁や窓にも突き刺さった。
男が、着弾の衝撃で奇怪なダンスを踊るような動きをしながら崩れ落ちる。その上に、割れた窓ガラスの破片が降り注ぐ。
引鉄を引いていたのは一秒か二秒か。誠一は引鉄にかけた人差し指から力を抜き、発砲をやめた。
背中で壁に描いた血の跡の下に、男が仰向けに倒れている。
身体中に穿たれた銃創から溢れ出た鮮血が、吹き込んでくる雨と混じり合いながら、廊下の床に広がっていく。ぴくりとも動かないことを確かめるまでもなく、もはや生きてはいないだろう。
銃口から薄く硝煙をたなびかせる短機関銃をゆっくりと下ろす。
凄まじい反動で痺れた手と激しい耳鳴りが、誠一の五感を刺激し続けていた。それに加えて、紛れもない本物の銃で人を撃ち殺した衝撃が、少し前に包丁で男を刺殺したことと合わせて誠一の精神を揺さぶっていた。
この数分の間に、二人も殺したのだ。
自分を守るため、襲ってくる敵と戦う覚悟をつい数分前に決めたとはいえ、誠一は訓練された軍人でも警察官でもなく、ただの高校生だ。
殺したのが銃器で武装した正体不明のテロリストで、やらなければ自分が殺されていたのだと頭では分かっていても、そう簡単に割り切れるものではなかった。
放心状態で座り込む誠一の横を、何事もなかったかのように確かな足取りの一ノ瀬が通り過ぎた。
一ノ瀬は、首から包丁を生やして倒れ伏す男を跨いで調理室を出て、ついさっき誠一が射殺した男を見下ろす。
「……やっぱり。こいつ、解放機構の手配犯よ」
絶対零度の声が、吹き込む雨音と収まってきた耳鳴りの中でもはっきり聞こえた。
心臓が跳ね、誠一の頭の中を真っ白にしていた靄が僅かに晴れる。
誠一はよろよろと立ち上がり、廊下に出る。一ノ瀬の横に立って射殺した男を見下ろすと、右目に矢が刺さっていること以外は特に損傷のない顔には確かに見覚えがあった。
「桐山悟。昭和五十五年生まれ、か。写真より痩せたみたいだな」
誠一は、今でもコンビニや駅に掲示してある指名手配ポスターを思い出しながら呟く。
一ノ瀬が一瞬だけ驚いたような顔を向けてきたが、誠一が見返すより前に、彼女は男――桐山に視線を戻していた。
誠一は横目に一ノ瀬の様子を窺い、桐山を見下ろす彼女の目に宿る憎悪の色にどこか親近感を覚えた。そういえば、屋上の階段で遭遇したときにも、同じようなことを思ったなと誠一は思い出す。
それが何なのか探ろうと口を開きかけた誠一だったが、それより早く事態が動いた。
「ゴフッ」という咳き込むような音とともに、死んだと思っていた桐山が突然身じろぎした。
誠一は余計な思考を頭から追い出し、咄嗟に短機関銃を構える。
桐山が、矢の刺さっていない左目だけで二人を見上げ、「た、助けてくれ」と弱々しく呻いた。
両親と妹を含む百六十七名が死んだ高見沢駅爆破事件の首謀者の一人でありながら、三年もの間コソコソと逃げ続けていた男の命乞いに、誠一は脳みそが沸騰するような感覚を味わった。三年前、たまたまあの時刻に高見沢駅にいた百六十七名は、命乞いをする機会を与えられることもなく爆殺されたのだ。
湧き上がってきた怒りの感情が、誠一の思考に掛かっていた靄を押し流していく。
引鉄に掛けた指に力が入りそうになるのをどうにか堪える誠一の横で、一ノ瀬が落ちていたポンプアクション散弾銃をおもむろに拾い上げる。
そして、一切躊躇うことなく桐山に銃口を向けて引鉄を引いた。桐山が「ヒッ」と情けない声を出す。
しかし、カチッという音がしただけで、銃口から散弾が発射されることはなかった。
「頼む、殺さないで」
同情を誘おうとしているかのようなか細い声音で、桐山が精一杯命乞いする。だが、誠一はそんな桐山を見てすらいなかった。
突然殺意を剥き出しにした一ノ瀬に驚いて、その顔をまじまじと見ていたのだ。
一ノ瀬の顔には、去年同じ教室にいたときの彼女からは想像もつかないような、壮絶な憎悪と怒りが貼り付いていた。愛嬌のある垂れ目は怒りに細められ、去年クラスメイト相手に笑っていた口元はきつく結ばれている。
一ノ瀬の手を離れた散弾銃が床に落ちて、重たい金属音を立てる。若干ほっとしたような顔を浮かべた桐山に舌打ちした一ノ瀬は、「それ貸して」と言って、誠一の手から返事も待たずに短機関銃を奪い取った。
「ま、待て。やめ――」
表情を一転させた桐山が喋り終わるのを待たず、一ノ瀬は右手だけで把持したUZI短機関銃の引鉄を引いた。
銃声が連続し、反動で跳ね上がった銃口からばら撒かれた銃弾が桐山の腹から頭まで舐めるように着弾する。
たっぷり十発は撃ち込んでから、一ノ瀬は引金を引くのをやめた。桐山は顔の一部を吹き飛ばされ、今度こそ確実に死体と化していた。
「私行くから。それじゃ」
一ノ瀬は、今しがた殺した桐山にはもう興味ないと言わんばかりの様子で言って、誠一を一瞥することもなく歩き始める。
「……え? いや、待って。行くってどこへ」
一瞬何が何だか分からなくなっていた誠一は、ひとまず散弾銃だけ拾って、慌てて一ノ瀬の背中を追い掛けた。