第1話 真冬の早朝
汗だくで飛び起きた誠一は、肌に張り付く寝間着をたくし上げた。へその横にある派手な傷跡が、脈打つように熱を放っている。背中にある同じ傷からも熱を感じる。
「クソ鬱陶しい……」
誠一は鈍痛によって増幅された苛立ちを紛らすように、握った右手で傷跡を叩いた。
その傷はとっくに塞がっている、痛むはずのない傷だ。いつも通り、放っておけば数分後には収まるだろう。
誠一はベッド脇のテーブルに置いた携帯電話を手に取った。中学生の頃に使っていた青い折り畳み式携帯ではなく、二年落ちの黒いスマートフォンだ。
側面の電源ボタンを押し、ロック画面に「04:01」の表示を確かめた誠一は、カーテンも掛かっていない窓に目をやった。窓の外は闇に包まれていて、今がまだ朝にもならない時間帯であることを示していた。
たいていの人間は寝ている時間だ。
だが、誠一はベッドから起き上がった。暖房を付けていない部屋の温度は恐らく一桁台で、室内にもかかわらず吐いた息が白くなる。
汗で濡れた寝間着代わりの古い体操服が急速に冷えてゆく。
誠一は自室を出て階段を下り、洗面所の洗濯機に体操服を放り込んだ。そして、洗濯機の蓋の上に置いておいたトレーニングウエアに着替え、自宅の鍵と小銭だけウエアのポケットに突っ込んで家を出る。
小雨が降っていたが、誠一は多少の雨など気にせず、自宅前で準備運動をしてから走り出した。
まだ静寂に包まれている朝四時の住宅地を抜け、この三年間毎日走っているルートを今日もなぞっていく。
昼間の混雑が嘘のようにガラガラの幹線道路沿い、人っ子一人いない河川敷の遊歩道、ナトリウム灯のオレンジ色が照らす高速道路の陸橋。
小雨のせいで霞がかかったかのように見えるそれらの間を、一切ペースを落とさず、一度も立ち止まることなく、走り抜ける。
次第に思考が遠ざかっていき、意識のすべてが呼吸と両手両足の動きのみに向かっていく。
余計なことを考えずに無心で走ること一時間。誠一は近所の公園まで戻ってきた。
まだ空は真っ暗だったが、遠くから微かに聞こえてくる電車の発車ベルの音が、街が少しずつ眠りから覚め始めていることを教えてくれている。
誠一は荒れた息を数分かけて整え、公園に並んでいる鉄棒の中で最も高い鉄棒にぶら下がり、懸垂を始めた。最初は一度も出来なかった懸垂も、この三年間のトレーニングで、今や片腕でも出来るほどになった。
帰宅部の誠一には不要な筋肉と体力を鍛えるトレーニングは無駄でしかないが、早朝四時から登校までの三時間以上の間の時間を潰せて、さらに余計な思考を脳から追い出すことができる暇の潰し方を、誠一はこれ以外に知らなかった。
「朝っぱらからよくやるな」
懸垂を終えて着地した誠一に、後ろから声が掛けられた。気配に気づいていた誠一は特に驚くこともなく、「お久しぶりです、叔父さん」と言って振り返った。
「どうだ、調子は」
きっちりと折り目の着いたスーツを着た背の高い男が、そう言いながら五百ミリリットルのペットボトルを差し出してくる。
「ありがとうございます。いつも通りです」
誠一は叔父からペットボトルを受け取り、礼と返事を一度に言ってから、全部飲み干さんばかりの勢いでペットボトルの中身を胃に移し替えてゆく。
「じゃあ最悪ってことか」
「まあそうです。気分が良かったら、真冬の早朝――それも雨の降っている日に、用もなく出歩いたりなんかしませんよ」
叔父は、誠一の答えに苦笑いしながら「それもそうだな」と応じる。それきり、会話は途絶えた。
二人の間に気まずい沈黙が流れる。
「……今日の追悼式典、来るだろ?」
叔父が、数秒の沈黙を破った。それが本題だろうと、背後に叔父の気配を感じたときから予想はしていた。
「いえ……学校があるので」
誠一は叔父から目を逸らして言った。
「学校は何時までだ?」
叔父は誠一の言い逃れを見越していたかのように、食い気味に追及してくる。
「遅くなるなら、車で迎えに行ってやってもいい。覆面パトカーだが、クラウンに乗れるぞ」
叔父は、自分が言った冗談で全く面白くなさそうに笑ってから、誠一を見やる。
誠一は目を伏せた。
「学校は何時までなんだ?」
叔父が改めて同じ質問をしてくる。再度の質問を無視することはできず、誠一は「十五時です」と絞り出した。
「式典は十七時からだ。平山高校は隣駅だろ。なんなら飯食ってからでも間に合うはずだ」
叔父の追及に、誠一は無言で応じる。
拒絶の態度を明確にした誠一に、叔父は溜息を吐いた。
「『あれ』からもう三年だ。そろそろ踏ん切りをつけてもいい頃だろう。いつまでも引き摺って、この先まだ長い人生をふいにするつもりか? そんなこと、ご両親と楓ちゃんが望んでいると思うのか?」
諭すように言う叔父に、誠一は「……簡単に言わないでくださいよ」と唸るように返すのがやっとだった。
「とにかく、今日の追悼式の後、今後について話し合おう。……もし来なければ、誠一君の一人暮らしを許可したことについても考え直さなければならなくなる。君がいつまでも過去に囚われているのを、保護者である私が黙って見ていることはできない。例えそれが書類上であっても、だ」
誠一は顔を上げ、叔父を見た。半ば脅すように言ってきた叔父だったが、向けてくるその目は心配の色を帯びていた。
「分かりました。十七時ですね。これから学校があるので、失礼します」
誠一は感情の乗らない声で一方的に言うと、叔父に背を向けた。
早朝の空はまだ暗く、朝練もない帰宅部のくせに「これから学校」などという下手な嘘で警察官の叔父を騙せるとは思っていなかったが、誠一はこれ以上この話を続けたくなかった。
「今年もダメか……」
水銀灯の緑がかった白い光に照らされた公園を出て行く誠一を見送った叔父は、一人そう呟いた。
*
コンビニで朝食の惣菜パンを買って家に戻った誠一は、シャワーで汗と雨水を洗い流して高校の制服に着替え、ソファに腰を下ろした。
テレビの電源を入れると、数秒のタイムラグの後、四十インチの液晶が眩い光を放ち始める。家の外から差し込む街灯の薄明りだけに照らされていたリビングが、液晶画面が放つ青白い光の中に浮かび上がる。
高校生の一人暮らしには広すぎるリビングは、テレビとその前のテーブル付近しか使用しておらず、残りのエリアは三年前からほぼ変わらぬ姿を保っていた。
窓際の棚の上に置かれた卓上カレンダーは三年前の二月から捲られることなく、薄らと埃を被っている。
その隣に置かれた写真立ては伏せられ、L判写真用紙の中で楽しそうに笑い合う幸せそのものの四人家族は、棚の天板と向き合ったまま三年の月日を過ごすことを余儀なくされていた。
誠一は、テレビとソファの間のローテーブルに置きっぱなしにされていたコップを手に取り、底のほうに少し残っていたウイスキーを飲み干した。
喉が焼けるような感覚にもとうに慣れ、同じく置きっぱなしにしていたペットボトルに直接口をつけ、すっかり気の抜けた炭酸水で口の中に残る安いウイスキーの匂い――臭いといったほうが適切か――を洗い流す。
ローテーブルの上を埋めつくしている酒の空き瓶のうちの何本かを床に降ろし、空いたスペースに、総菜パンと緑茶の入ったレジ袋を放り投げる。
空のカップ酒が弾き飛ばされて床に転げ落ちたが、ガラスの割れる音がしなかったので、誠一は拾おうともしなかった。
毎晩寝る前に睡眠薬代わりに飲んでいる酒の空き瓶は、近所の目があるので瓶の回収日に家の前に出すわけにもいかず、増える一方だった。
近所の住民は未成年の誠一がこの家で一人暮らししていることを知っているので、酒の空き瓶など普通に出したら、下手をすれば警察を呼ばれてしまう。そうなれば当然、誠一が酒を飲んでやっと眠りに着いていることが保護者である叔父の耳に入り、めでたく誠一の一人暮らしは終焉を迎えることになる。
その後はカウンセリング通いか、あるいは病院にでも入れられるかもしれない。
『肝臓が気になりだしたそこのあなた! ハッピーサプリから朗報です! 信頼の国内工場で、この一粒にウコンとしじみをギュッと詰め込んだ――』
誠一はリモコンを取り、朝から健康食品のテレビ通販を流していたBSの民放から、地上波の公営放送にチャンネルを変えた。けばけばしい色使いの通販番組から打って変わって、男性アナウンサーの上半身とシンプルなテロップだけで構成された生真面目な映像が画面に映し出される。
『――次のニュースです。百六十七名が犠牲になり四百人以上が重軽傷を負った、日本市民解放機構による「高見沢駅爆破事件」から、今日で三年が経ちます。本日十七時より帝都高速鉄道高見沢駅で行われる追悼式典には、野上総理をはじめとする閣僚や、爆破事件の被害者および遺族など関係者が参列し、事件の発生時刻である十八時二十七分には黙祷が行われる予定です――――』
『事件の首謀者として逮捕された過激派組織「日本市民解放機構」の元指導者、清水敏文議長ら十五名には二審でも死刑判決が下されましたが、全員が控訴しています。また、地下に潜った解放機構残党および逃亡中の一部の幹部らが、収監されている清水敏文らの奪回を目指して第二のテロを企てている恐れがあるとして、警察は警戒を強めています――――』
『こちらは解放機構幹部らが収監されている東京拘置所前です。まだ日の出前の早朝にもかかわらず、既に数十人の解放機構支持者らが集合し、「不当逮捕断固反対」などとシュプレヒコールを上げています。一部の支持者が警察官の制止を振り切って建物に侵入しようとし、現行犯逮捕される小競り合いも生じており、今後さらに支持者の数は増えると見込まれるため、先ほど機動隊のバスと放水車が拘置所前に到着し、拘置所前のものものしい雰囲気に拍車をかけています――――』
テレビ画面に、紺色の出動服とヘルメットに身を固め、透明な大盾を持って横一列に並んでいる機動隊員らと、マスクで顔を隠し横断幕や旗を持って怒声を張り上げる「解放機構シンパ」の集団が映し出された。
誠一は画面の中のシンパらを、殺意と憎悪の籠った視線で睨みつける。
だがそれも一瞬のことで、次の瞬間には誠一の目はいつも通りの無気力なものへと戻っていた。
脳が締め付けられるような感覚とともに瞬時に湧き上がった怒りは、湧き上がるのに掛かったのと同じ時間をかけて急速冷却され、後には誠一の心を蝕み続けている病的な虚脱感と深い悲しみだけが残された。
怒りという強い負の感情を維持するにはそれなりの気力が必要だが、誠一にはもはや、そのような気力すら残されていなかった。
誠一はテレビを消して、目を閉じた。
家族を奪った「高見沢駅爆破事件」から三年。
事件と無関係な一般の人々からすれば、事件は歴史の一部になりつつある。たまに開かれる高見沢駅爆破事件関連の裁判などがニュースになれば、「そういえばそんなこともあったな」と思い出し、そのすぐ後には忘れる程度の歴史だ。
大多数の人々からすれば事件はもう終わった話であり、死刑が決まり切っている首謀者らの裁判などという時間の無駄よりも、来週発売の新型スマートフォンに追加される新機能や人気歌手の不倫疑惑のほうがよほど重要な関心ごとだった。
事件直後は日本中が緊張感に包まれていた。街の至る所で警官を見かけるようになり、反対に自販機の横やコンビニの前にあったごみ箱はテロ対策で軒並み姿を消した。
誰かが待合室のベンチに忘れた鞄に爆弾処理班が出動し、電車が数時間運転を見合わせるような騒ぎも毎日のように起こっていた。
テレビは高見沢駅爆破事件のニュースを連日報じ、指名手配された解放機構幹部の顔を国民に刷り込んでいった。
同時に、マスコミは「かわいそうな被害者と遺族たち」の取材に余念がなく、どこから嗅ぎつけるのか、爆破事件の生存者や被害者遺族の家を訪れては同情を誘えそうな話を引き出そうと躍起になっていた。
家族を全員失い、自身も腹部に大怪我を負った当時中学二年生の誠一も、退院して帰ってきた家の前で容赦なくカメラとマイクを向けられることになった。
日本中が非日常に浮ついていたのは、しかし事件から十数日ほどのことだった。
警戒されていた「第二の爆破事件」は起こらず、事件から僅か二十日後には最高指導者であった清水敏文が逮捕された。そこら中に貼られていた指名手配ポスターの顔写真には、次々と「逮捕」と書かれた紙が貼られていき、日本中を覆っていた解放機構への恐怖や緊張感は急速に下火になっていった。
自粛ムードは、冬が終わり桜が咲き始めるころには影も形もなくなり、高見沢駅爆破事件についてテレビで言及される頻度も加速度的に減っていった。
社会は何事もなかったかのようにまた回り始め、日常が戻ってきた。
だが、誠一は戻れなかった。
爆破事件の翌日に病院で目を覚まし、両親と妹が死亡したことを叔父に告げられた瞬間から、誠一の時間は止まったままだ。
三年もの月日が経っても、誠一は未だに家族の死と向き合うことが出来ずにいる。
家族の眠る墓には一度も行っていないし、事件以来アルバムを開いたこともない。いい加減けじめをつけなければならないことくらい頭では分かっているのだが、どうしも出来ないのだ。
別に、三人が死んだことを認めたくないなどと思っているわけではない。
だが、三人の死に正面から向き合おうとすると、悲しみ、怒り、喪失感、その他がない交ぜになったような言語化不可能な暗い感情が溢れてきて、咄嗟に目を逸らさないと気が触れてしまいそうになる。
中三から高二までの間にあったはずの高校受験や入学といったイベントを他人事のようにやり過ごし、三年間を虚無で埋め続けてきた誠一に対しても、周囲を流れる時間は容赦なく過ぎ去っていった。
誠一は、一ヶ月半後には高校三年生になる。
進学か就職か考える時期はとっくに過ぎていて、担任からは進路希望調査票を提出するように再三に渡って催促されている。
だが、三年前のあの日から一歩も前に進んでいない誠一には「進路」などというものは遠い世界の話で、自分が働いている姿も、或いは大学に通って何らかの勉強をしている姿も、想像すらつかなかった。
携帯の震える音に、誠一は目を開けた。
知らぬ間に眠っていたらしく、窓の外は明るくなっていた。テーブルの上で震える携帯の液晶には「07:10」と大きく表示されている。
毎日鳴るようにセットしている目覚ましのアラームだ。鳴った瞬間に止めるのが日課と化しているアラームだったが、役に立ったのは久しぶりのことだった。
誠一はトレーニングの帰りにコンビニで買った惣菜パンをさっさと食べ終え、同じコンビニの弁当の空き容器でいっぱいのゴミ袋に包装を放り込んだ。テレビの消えたリビングでは、冷蔵庫の低い動作音がやけに大きく感じられた。
誠一は筆箱とクリアファイルくらいしか入っていない通学カバンを持ち、リビングを出る。
ビニール傘を持って玄関ドアを開けると、湿り気を帯びた冷たい空気が肌に突き刺さった。冬服のズボンとブレザーを容易く貫通してきた冷気は、早朝から全く温度が上がっていない気がする。
分厚い灰色の雲に覆われた空から降り注ぐ雨粒は、あと少し気温が低ければ雪になれただろう。
二月の冷たい雨が降りしきる中、誠一はポケットに手を突っ込んで、俯き気味に歩き出した。