1.麻梨菜とレジーナ
麻梨菜の朝は早い。空がようやく白み始めているものの、周囲はまだ若干薄暗い、そんな早朝の時間帯にひっそりと移動を開始する。
「あら神子姫様おはようございます」
「神子姫様起きれたー?」
神殿に暮らす巫女たちは老いも若きも夜明けとともに起き出してすでに活動を開始しており、お前らのせいで目が覚めたんだよと言いたいのをこらえて麻梨菜は先を急いだ。せっかく朝早く目が覚めたのだから、かねてより温めていたあの計画を実行しない手はない。
訂正。麻梨菜の朝は「今日は」早い。
「あーっ、神子姫様。また朝のおつとめサボり?」
「ずるーい」
「どこいくの?」
いつも建物の外周を掃除しているのは、まだ年端も行かない見習い巫女の少女たちだ。子供らしい遠慮のない詮索に、
「うるさい。極秘任務であるぞ」
重々しく告げれば、不審そうな顔つきのままではあるがそれ以上引き止められることはなかった。神子姫様たる麻梨菜は、神殿内でも一、二を争う……とまではいかないが、まあ、五十、六十を争うほどには上のほうの地位にあるはず。本来であれば、あんな小娘たちが気軽に声をかけていい人物ではないのだ。
それから……。
建物の裏手に回った麻梨菜は、ぎゅっと手を握ってさらにその奥を見据えた。
それから、いつまで経っても失礼な態度をとるあの小麦色の毛皮。今日こそあの癪に障る犬っころをぎゃふんと言わせてやるのだ。
神殿の敷地の奥には森が迫っており、鎮守の森といって神が住まう神聖な森とされている。しかしまだ日が昇り切らない早朝には、そこは真っ黒な壁みたいに見えて人間の侵入を拒んでいるかのようだ。幸いにも麻梨菜の目的はその手前、鎮守の森と敷地を接している神獣たちの住処にあった。
高い柵で覆われた広い敷地には、神獣騎士団の神獣たちが住んでいる。馬のように繋がれてはおらず、みんな放し飼いだ。人間の軽く三倍はあろうかという巨大な狼たちが、おおむね寝床らしい一所に固まって丸くなっている。まだ明るくなる前ということもあり、どの毛皮もすっかりと寝入っているようだった。麻梨菜は内心しめしめとほくそ笑みながら彼らに近づいていく。
柵をそっと開いて中に侵入すると、きい、というわずかな音に気付いたのか、バウバウと犬みたいな吠え声をあげてたちまち神獣の子供たちが駆け寄ってきた。
「わっ、しーっ、しーっ!」
麻梨菜が遊びに来たと勘違いしたらしい。まだ子供なのにすでに人間より大きい子狼たちにもみくちゃにされながら、静かにしろと必死で訴える。アホ面で飛び跳ねまわる子供たちは、どこかから大人の狼に寝ぼけたような声でうるさいというように吠えられてようやく諦めたのか、麻梨菜を離れて追いかけっこを始めた。
「ふう」
思わぬ妨害に一息つく。すると麻梨菜の目の前で、点々と寝転がっている大人の狼たちの中から一匹がむくりと起き上がった。小麦色の毛皮にあのこちらを小ばかにしたような瞳。間違いない、あいつが麻梨菜の天敵、にっくき不遜の女王、レジーナだ。
レジーナは緩慢に立ち上がり、こちらを上目遣いに見上げたまま見せつけるようにゆっくりぐぐっと伸びをした。その様子は仕方がないから相手にしてあげてもよくってよと言っているようで、その高慢ちきなところが鼻につく。
子狼たちが騒いだせいで寝込みを襲ってぎゃふんと言わせる計画は大幅に狂ってしまったが、まあいい。今ここには、いつもレジーナのことを溺愛して甘やかしている飼い主のジーノスはいない。邪魔が入らない、女二人のガチンコ勝負をしてやろうじゃないか。
気迫たっぷりに近寄ると、向こうも麻梨菜の意図を感じ取ったようだった。ぐるる、と喉の奥に引っかかるようなうなり声を出して鼻先にしわを寄せた。
来るなら来い。今日こそなんやかんやでどうにかして勝利して、ひっくり返してそのお腹を丸見えにする恥ずかしいポーズを取らせてやる。
わずかなにらみ合いの間に両者の闘志が膨れ上がると、鼻のしわを深くしたレジーナは、己の力を誇示するように歯をむき出しにしてバウバウと重く吠えた。その大きな口と声量には、腕自慢の大男だってひるんでしまうことは確実だ。しかし麻梨菜は、すでに幾度となくこいつと相対してきた。しょせん、ただ大きいだけの犬っころ。その程度の脅しなど、もはや通用しないのだ。
「やーい、バーカ!ジーノスがいないとなんにもできないくせに!!」
バウバウバウ。
「悔しかったら正々堂々勝負しろー!」
バウバウバウ。
二人して言い合いに夢中になっていたので気づかなかった。次第に他の狼たちも次々とうるさそうに顔を上げ、父さんどうにかしてくださいよというふうにとある一匹に視線を集中させていたことを。
「ノミ・ダニ共学校舎のくせに!!」
バウバウバウ。
二人とも気づいていなかった。その視線を受けたひときわ大きい狼が、怒りに震えてのっしのっしと近づいてきていることを。
「抜け毛大魔神のハゲ――、」
グルア――!!!
そして横合いから突然怒鳴りこんできた大きな口がつばを撒き散らしながら地面を揺るがす大咆哮をして、その衝撃に思わず二人ともひっくり返ってしまった。




