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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悪女殺人事件

作者: ダイニング

1


 2003年6月4日、水曜日の午前9時ごろだった。すでに私が住んでいた地域は梅雨入りしていたが、それを感じさせないほどの猛暑だった。就活が終わり、大学の講義もほとんどなかったので、友人たちと行く予定の卒業旅行とは別に、私はその日から2泊3日の一人旅を計画していた。


 大して多くもない荷物をリュックサックに詰め込んで、部屋の鍵をかけると折からの蒸し暑い空気に乗って、隣室から異臭が流れてきた。戸をノックしても応答がないため、異変を感じた私は即座にリュックを自分の部屋へ放り込み、大家の部屋へ異変を伝えにいった。


 大家は70歳ぐらいのおじいさんだった。同じアパートにおばあさんと二人で暮らしていた。そのため、すぐに駆け付けてくれ、異臭を感じると私と同じように戸をノックして何度か呼びかけた。やはり応答はない。大家が手を震わせながら鍵を差し込み、回した。


 部屋に入ると、異臭はますます強くなった。6月だというのに、まだこたつが残っていた。天板の上には黄色く変色したホールケーキが乗っている。隣で大家が息をのむ音が聞こえた。彼の視線の先には男の死体があった。異臭は彼から漂ってきていたものだった。


 慌てて彼の部屋にあった電話から警察に通報しようとした大家を「指紋を残さない方がいい」と止めると、彼はうなずき部屋を出ていった。自分の部屋から通報することにしたのだろう。


 その間に、私も指紋をつけないよう、天板の上に置かれていた一葉の写真をシャツ越しに手に取った。右下の日付を見ると、1999年12月4日に撮られたもののようだ。彼女の誕生日を祝ったのだと思う。


 彼女の誕生日と日付が1日ずれているのは、当日は2人のどちらかに何か用事があったからなのかもしれない。私も小さい頃、彼女の誕生日会に行ったことがあるが、そういうことはままあった。そして、写真と男の部屋の様子を見比べるうちに、私は奇妙な事実に思い当たった。


 写真の中の部屋の様子と男の部屋の様子が驚くほど正確に一致しているのである。


 それは、こたつに入り横たわっている男女のものだった。こたつ、ケーキ、さらに化粧台まで全て男の部屋にそろっている。さらに、男が死んでいる場所と、男が横たわっている場所も同じだった。写真の女性もこの場所で亡くなっていたのだろうか、と思いを巡らせる。


 彼女こそが、ちょうど3年前の6月4日に起きたOL殺人事件の被害者だった。


 臭いに慣れてしまったのか、先ほどまでより呼吸がしやすくなっている。彼とは隣人同士だったが、会えばあいさつをする程度でほとんど面識はなかった。彼が引っ越してきたときに、二言三言話したきりだった。職業も年齢も分からない。知っているのは彼の苗字が小野だということぐらいだ。


 写真をもとの位置に戻して部屋を見回すと、本棚が目に入った。ふと違和感を覚える。写真には本棚なんて……あった。化粧台の鏡に写っていたのだ。往時を再現するために場所も

細かく決められているのだろう。


 私は抜き足で化粧台の方へ進み、指紋をつけないよう同じ要領で引き出しの取っ手をつかみ、開けた。中に入っていた化粧ポーチのチャックも開いて調べてみる。


 さすがに化粧ポーチの中身は想像で再現したのだろう。その中には化粧水と口紅が入っているだけだった。私が引き出しをそっと閉めたとき、ちょうどドアが開く音がした。大家が戻ってきたのだ。


「これから現場に向かうから、部屋のものには極力触らないようにしろってよ。それよりも、あんたずっと中で待ってたのか。表にいた方がいいぞ。こんなところにいたらおかしくなる」


「ええ、はい。そうですね」


 口元にタオルを押し付けていたせいで、大家の声はくぐもって聞こえた。もちろん、ポーチは彼が部屋に入ってくるまでに引き出しへ戻してある。私は大家にいざなわれて部屋を出た。もしかしたら、中で部屋を物色していたことを気づかれたかもしれない。


 部屋を出て、何気なくドアを見る。105と書かれたプレートが貼り付けてあった。3年前にOL殺人事件が起こった部屋と番号が同じだ。もしや彼は今日のためにここに越してきたのではないかという考えが私の脳裏をよぎった。


2


 警察は、それからわずか数分でやってきた。パトカーから警官が2人下りてきて、とりあえずといった感じで大家に確認した。


「現場はこの部屋で合ってますね?」


「はあ」と大家が気の抜けた声を発してうなずくと、警官は白い手袋をつけてから、ドアを開けて室内へ入っていった。


 2人はすぐに部屋から戻ってきた。初老の警官が「こりゃ大変なことになったなあ」とつぶやきながら、パトカーの方へ歩いていった。もう1人、20代後半ぐらいの若い警官は胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、私たちにいくつか質問を投げかけてきた。


 私は部屋を出たあと異臭を感じてから警官がやってくるまでのことを概ね正直に話した。写真を見たり、化粧台を物色したりしたことは隠して。


「ご協力ありがとうございました」


 若い警官はメモ帳を胸ポケットにしまってそう言った。私は「いえ……」と軽く頭を下げ、すぐ自分の部屋に戻った。何もしていないときでも、警官を見かけるとついついその道を避けて通ってしまう私だったが、今回はさらに部屋を物色してしまったという引け目がある。これ以上は居た堪れなかった。


 今さら旅行という気分にはならなかったが、部屋にいるのも嫌だったので大学図書館へ向かうことにした。3年前の事件を取り扱った新聞の縮刷版があったはずだ。




 大学図書館内は程よくクーラーがきいていて、心地よかった。閲覧席に腰かけ、汗がひいていくのを感じながら先ほど見つけてきた縮刷版をめくっていく。


 数紙ほど見てみたが、どの新聞でもそれなりに大きく扱われていた。当時、この事件をとりわけ大きく扱っていた新聞の見出しには「止められなかった悲劇 OLストーカー殺人事件」と書かれていた。これらを突き合わせてみると、3年前に調べたきり忘れかけていた事件の全容を思い出すのにさほど苦労はいらなかった。


 2000年6月4日、日曜日。私の部屋から10キロほど離れたアパートの105号室で、当時21歳のOL、河本明美の絞殺死体が見つかった。第一発見者は彼女の恋人だった。午後6時ごろ、彼女を訪ねたが、明かりがついているにもかかわらず応答がなかったため合鍵を使ってドアを開けたという。


 彼女の部屋にも、こたつとケーキがあった。当時、警察はケーキは友人か誰かの誕生日を祝うものだと考えていたらしい。また、6月にもかかわらずこたつが出されていたのは、単に彼女が重度の冷え性だったからではないか、と推測していたそうだ。


 現場に争った痕跡はなく、窓が開いていて玄関の鍵が閉まっていたため、犯人は窓から侵入したあと、眠っていた被害者を絞殺して逃走したと考えられた。現場から指紋が検出されたことで、まず第一発見者である彼女の恋人が重要参考人となったが、死亡推定時刻のアリバイが成立したため容疑者からは外れた。


 その後、河本明美が事件前年の7月ごろ、警察にストーカー被害の相談をしていたと判明したため、警察はその男について捜査していたが、結局今日まで男の足取りはつかめずじまいだった……。


 また、明美からの相談があった際に民事不介入の立場を貫き、彼女を助けようとしなかった警察にも批判が集まっていたのを覚えている。


 だが、あの現場を見た今では私にも、こたつやケーキがちょうど事件の半年前の彼女の誕生日祝いを模していたものだと分かる。だとしたら、あの男がストーカーだったとは思えない。


 2人は、彼女の部屋で一緒に死のうとしていたのかもしれない。しかし、男は彼女を殺したあとで急に死ぬのが怖くなり現場から逃走した。無理心中を図ったとき、最初に計画した者だけ生き残るという話はよくあることだ。


 もっとも、今回は現場に争った痕跡はなかったというから無理心中ではないのだろう。おそらく、彼女も同意の上だったに違いない。私にはその動機が分からなかった。男の方にはあったのかもしれないが、彼の思いは彼の遺骸とともに葬り去られてしまう。


3


 隣室で奇妙な事件が起こって以来、私たちのアパートは週刊誌の記者やマスコミで騒がしくなった。外出するたび誰かしらに捕まり質問をされるので、私を含めた住人たちはいら立っていた。騒動を避けて、ホテルに寝泊まりしている人もいたという。大家は、事故物件と化してしまったアパートの行く末を心配しているようだった。


 警察はすぐに、彼の自殺を3年前の事件と関連付けて捜査を進め、10日ほどで結論に至り、それが新聞やテレビで報道された。3年前の捜査資料が大きな役割を果たし、OL殺人事件の被疑者は私の隣室で自殺した27歳の男、小野誠とされた。彼の遺体からは、大量の睡眠薬が検出された。また、河本明美の部屋に残っていた犯人のものと思われる指紋と、彼のそれが一致したという。


 3年前の事件は2人の心中未遂と断定された。おそらく、あの写真が決定的な証拠となったのだろう。だが、動機は不明だという。2人のどちらにも心中を図るような理由がなかったのだ。


 その点、今年の事件の動機ははっきりしていた。3年前に恋人を殺した男の後追い自殺だという。当然ながら単なる後追いではない。小野は自分の部屋にあの事件現場を再現することで、3年前に失敗した心中を成功させようとしたのだ。


 加害者が死んだと判明した今、警察がこれ以上捜査をする理由はなかった。彼らは動機を重視しない。その一方で、世間はこの奇妙な事件を放っておかなかった。ワイドショーでは、胡散臭い専門家たちが連日のように益体も無い議論を繰り広げた。それは、さながら井戸端会議の録画を見ているかのようだった。


 さらに、マスコミの取材で彼女が事故で家族を亡くしていたこと、去年からホストクラブに通っていたこと、借金があったことが判明すると、彼らはすぐそれに飛びつき短絡的な結論に達した。


 そして、自身を取り巻く辛い現実に圧迫されてホストに熱を上げた結果、借金で首が回らなくなり、恋人を巻き込んで命を絶とうとしたというのが、世間一般の見解となった。結局、第一発見者のホストは彼女の浮気相手に過ぎず、本命の恋人が別にいたのだ。偉い専門家の方たちによると、小野がその人だったという。


 世の人々は彼の一途さを高く評価した。その一方で河本明美に対しては厳しい意見が相次いだ。相手を巻き込む神経が理解できない、弟を祖父母に押し付けてホスト通いで借金を作るとはどういう了見なのか、1人で死ねばよかったのに……。


 もちろん、マスコミが手に入れた情報は警察からのものだったから、彼らとて同様の動機は検討したはずである。当初、座視を決め込んでいた警察は、小野と被害者についての報道が過熱していくのを受けて、異例の対応をとった。以下の事実を挙げ、マスコミに自制を求めたのだ。


・被害者がホストクラブに通ったのは3度だけで、ホストに熱を上げていたわけではない。


・借金はあったが、それも数万円ほどだった。借りていた先もいわゆる闇金ではなかったため、生活苦とも考えにくい。


 それを受けて、テレビ番組や新聞、週刊誌のそれぞれで彼女についての報道が小さく訂正された。しかし、一度そうと決まってしまったものは簡単には覆らない。


 心中事件を大々的に報道することで自殺者が増えることを憂慮したのか、はたまたこの直後に起こった大学の不祥事へ世間の関心が移ったのか、以降この事件についての報道はほぼなくなり、結局男の美名と女の悪名だけが残った。


 私は最初から彼女の人となりについての報道に懐疑的だった。なるほど、専門家たちは私よりはるかに詳しいのかもしれない、犯罪心理学に造詣が深いのかもしれない、心中事件に精通しているのかもしれない、借金苦に通暁しているのかもしれない。だが、私より彼女について知っている人は画面の向こうにはいない。


4


 私がこの事件について独自に調査をしようと決めたのは、河本明美が悪女と呼ばれているのを聞いたからだった。


 事件についての報道が一段落し、世間の関心がすっかり大学の不祥事に向いたころだった。報道されている彼女の人物像と、私が彼女に抱いていた印象との違いにもやもやした気持ちを抱えて街をうろついていた。梅雨の切れ間に訪れた猛暑日だった。


 休憩がてらコーヒーチェーンに入り、注文したものを受け取って席につくと、先に入っていた2人組の女性の会話が聞こえてきた。彼女たちは私から離れた席にいたが、平日の15時ごろで店は空いていたので、声がよく通る。見た目から察するに私と同年代だろう。


「最近、彼氏が浮気してるっぽいんだよね。小野さんみたいに誠実で一途な人知らない?」


「そんなに誠実かなあ? 1回はあの女を殺したあと逃げてるわけでしょ」


「でも、わざわざ部屋の様子をぴったり合わせたりしてたわけだし、きっと逃げたのを後悔してたんだよ。あれには逃げ出したことを謝る意味合いもあったんじゃないのかな」


「ふーん。それなら簡単じゃないの?」


「え? そうなの?」


「うん。病気の弟をほっぽり出してホストと浮気しとけばそんな男すぐにできるってあの女が証明してる」


「わたしのことまで悪女にする気?」


「悪女ほどモテるもんだよ。世の中そういう風にできてるの」


 悪女。その言葉が私の心に刺さった。河本明美は弟を放り出して東京で男を作り、遊び惚けて最後は恋人を巻き込んで自殺したろくでもない人間だったというように報道されていたが、記憶の中の彼女は弟思いの姉だった。


 9年前に河本明美たちの家族が事故に巻き込まれるまで、私は彼女たちと家族ぐるみの付き合いがあった。2人は5歳違いの姉弟だった。明美の方は私の3歳上、弟の伸介の方は私の2歳下だった。


 母が言うには、物心がつく前から交流があったという。私が彼女たちに関して持っている最初の記憶は、明美の誕生日会のものだ。彼女は小学校低学年だったと思うが、やはり当時から友人は多かった。


 小学校に上がるか上がらないかの頃、私と伸介はよく彼女の遊びに連れていかれた。そこで出会った彼女の友人たちもいい人ばかりで、きっと彼女の性格がこういう人たちを呼び寄せるのだろうと子供心に思った。「類は友を呼ぶ」ということわざを知ったのはその後のことだ。


 引っ込み思案で休み時間は教室で1人本を読んでいた私は、大柄だが気の弱い伸介と特に気が合った。そんな弟とは裏腹に彼女は小柄で明るく、よく笑う性格だった。


 だが、彼女が泣くところを私は一度だけ見かけたことがある。私が3年生のころだった。借りていた本を返しに図書館へ行く途中、2人を見かけたのだが声はかけられなかった。彼女は涙を流しながら伸介に謝っていたからだ。2人はそのまま、私に気づかずに通り過ぎていった。


 後で彼から聞いた話によると、あのころ伸介はいじめられていたらしい。助けにきた明美が帰り道に「気づいてあげられなくてごめんね」と泣きながら謝りつづけていたという。


 そして、私が彼女たちに関して持っている最後の記憶は6年生の2学期末のものだ。あのとき、2人は私にお土産を楽しみにして待っているよう言ってきた。だが、私がそれを受け取ることはなかった。彼女たちの車が事故に巻き込まれたからだ。


 彼女が中学3年生のクリスマスイブ、家族と乗っていた車が高速道路で居眠り運転のトラックに追突されコントロールを失い、擁壁に激突した。この事故で両親が亡くなり、彼女と弟だけが生還した。幸いなことに彼女は数か所の骨折で済んだが、弟は大やけどを負った上に、半身不随の重い後遺症が残ったという。


 それから私は2人と会うことなく、父方の祖父母に引き取られていった。それから事件までの6年半、彼らがどこで何をしていたか私はほとんど知らない。でも私はこれだけはよく知っている。あの人は悪女なんかじゃない。


 私は自分でも気づかないうちに唇をかみしめていた。片付けを済ませて店を出る。目を大きく見開き、息は荒くなっていた。あのとき私の顔を見た人たちは、きっと異様な雰囲気を感じ取ったことだろう。


 胸になにかがつかえているようで、いくら息を吸っても苦しかった。やっと人心地がついたのは部屋に戻って鍵を閉めたときだった。つかえが取れると、今度は胸の中のものがあふれてじわりと広がった。大学生になってから、私は初めて泣いた。


5


「記者さん、まだあのこと調べてるんですか?」


 私の名刺を受け取った男は面倒そうな様子を隠さずに言った。インターネットに晒されていた住所を頼りに、私は小野という男が勤めていた配送業者にたどり着いた。午後5時半を回り営業所からぽつぽつと出てきた従業員たちに片っ端から声をかけて、やっと1人を捕まえたのだ。


「ええ、そうなんですよ。小野さんはどんな印象の人でした?」


 ズボンのポケットに入れたボイスレコーダーの電源を入れながら尋ねる。同じ職場に勤めていても、宅配ドライバーたちの間にはほとんど面識がないということを、私はここに来て初めて知った。偽の名刺を渡す前に何度も「知りません」と断られたからだ。


 しぶしぶといった様子だったが、初めて名刺を受け取ってくれたのがこの男だった。ここの社員たちはもう記者の対応には慣れているだろうから、うっかり私に調子を合わせてしまう不手際は犯さないはずだ。彼はおそらく小野について知っている。


「入りたての頃に先輩から仕事を習ったことがありましたけど、無口な人でしたよ。必要なこと以外はほとんど話してません」


「入りたての頃っていうのはいつです?」


「おととしですね。あとはやたらと几帳面なところがありました。週刊誌にはあの人の長所みたいな書かれ方してましたけど、そんなにいいことばっかりじゃないですよ」


「なるほど」


 確かに、週刊誌には彼の几帳面さを後追いと結びつける記事があった。小野はあのとき逃げてしまったことを強く後悔していた。だからこそ、月日だけでなく部屋までも3年前の事件と重ね合わせたのだ、とも書いてあった。


 だが長所というわけでもなかったのか。初めて紙面に載らなかった真実に触れられた。近いうちに明美の元職場も訪ねてみるべきかもしれない。


「積み込みのときには完全に荷物を置く順番が決まってて、1つ入れ替わっただけでも叱られました。よく気付くんですよ。台車のときもそうです、あと、うちの会社は午前中の用件が終わったあと1時間の休憩をめいめいにとるんですけど、タイマーで1時間を測ってました。それで帰りが遅くなるのもしばしばでした。こだわりが強いというか、やたらと細かいところを気にするというか、あの人はそんな感じの人でした」


 男は一息で言うと、「じゃあ、もういいすか?」と尋ねてきた。私は頭を下げる。


「ありがとうございました」


 これ以上は何も出てこないような気がした。私はそそくさと営業所を離れた。小野について分かったのは、彼が記事に書かれている以上に真面目だったということだ。記者たちは彼に悪印象が向かないよう、証言を少し調整したのだろう。ちょうど3年を隔てて起こった2つの事件をドラマチックなものにしたかったのだ。


 営業からの帰り道、私はちょっとした達成感を感じつつネクタイを緩めた。事件は早くも風化しつつあった。今さら興味を惹かれている奇怪な人間は私以外にいないだろう。だからこそ、私があの日彼女の身に何が起こったのかはっきりさせてやらなくちゃいけない。そんな青臭い思いが確かに宿りはじめていた。


6


 アパートに戻ると、部屋の前に男が一人たたずんでいた。私が「その部屋の人に何か用があるんですか?」と尋ねると、男はこちらを見た。派手な髪型だった。ホストでもしているのだろうか。そこで私は気づいた。


「お、帰ってきたか」3年前の事件の第一発見者は歯を見せて笑った。「ちょっと付き合ってくれよ」


「何ですか?」


 私も相手に調子を合わせる。もしかしたら、彼からも何か聞き出せるかもしれない。


「これ、受け取ってくれな」


 男が差し出したのは名刺だった。だいぶ派手だ。黒地に金色の文字で「綱吉」と書かれている。源氏名だ。名刺に目を通して顔を上げると、男は笑みを浮かべて言った。


「俺、こう見えて犬が好きなんだよ」


「生類憐みの令ですか」


「おー、よく知ってんなあ」


 すぐに容疑が晴れたのと、もともと売り上げがよかったおかげで男は事件後も変わらずホストをできているらしい。むしろ、恋人を殺された悲劇のヒーローとして、人気も上がっていたようだった。彼は職業柄か、かなり話術に長けていた。背も高く、180cm以上あるように思える。身長も170cm前後で風采の上がらない私とは正反対だ。


 そして、彼と少し世間話をする中で、私は男もインターネットの情報をもとにここを突き止めたということを知った。


「まあ、俺が浮気相手だったっていうのでさ、姫たちは憐れんでくれるんだよ。俺が憐れまれちゃってんの。綱吉なのに」彼は笑って続ける。「その方がウケがいいから、仕事上は浮気相手だったことにしてるけど、俺的にはあんまり納得いってないんだよな。俺があいつの恋人だったことは、間違いないからさ」


「それで僕のところに来たんですか?」


「はっきり言うとそうだな。お前は第一発見者だったわけだし、警察が来る前に現場を見てたわけだ」彼は隣の105号室に視線を移した。「写真も見たんだろ?」


「まあ、見ました」


「日付は書いてあったか? たぶん土曜日なんじゃねえか? そして、恵美の誕生日とは1日ずれている」


 2000年の6月4日は日曜日だと分かっている。また、2000年がうるう年だったことも考慮に入れて計算してみると12月4日は確かに土曜日だった。私が調べた限りでは写真の日付までは報道されていなかった。おそらく明美と彼の間に、世間には知られていない事実があるのだ。それが男に自分は浮気相手ではなかったと確信させている。


「どうしてそう思うんですか?」


 明美の方に誕生日会をずらさないといけない理由はないはずだから、小野の方に外せない用事があったのだろう。もしかしたら仕事だったのかもしれない。恋人の誕生日を祝うのに会社を休むことはできないはずだ。


「これだ。見てみろ」私の質問に、男は一葉の写真を差し出すことで答えた。「ほら、ここに日付が書いてある。明美は俺と誕生日を祝うのを優先したんだ。あいつが明美と写真を撮ったのは俺の1日後だ。所詮、あいつはただの浮気相手だったんだよ」


 日付を見ると、確かにそれは1999年の12月3日に撮られた写真だった。当然ながら部屋の様子は隣室にあったものとほぼ変わっていない。


「本当だ。じゃあ、あの写真の日付が1日ずれてたのはあなたと誕生日を祝うためだったんですね」


「その通りだ」


 男はにんまりとしてうなずいた。


「仲がよかったんですね。いつからお付き合いを?」


 私は写真を返してから、なるべく自然に男へ尋ねた。頭に浮かんだ考えを確信に変えるためだった。


「おいおい、嫌味かよ。俺、浮気されてたんだぜ?」


「いえ、そんなつもりじゃ……」


「冗談だ。あんま真に受けんなよ」謝る私に、男は上機嫌な様子で言った。「初めて会ったのが6月で付き合い始めたのは8月頃だったな。明美が友達に連れられて俺のクラブに来たときに一目惚れしてな。それからはもう押しまくりよ。で、付き合ってからは毎週のようにデートしてたな」


 やっぱりだ。間違いない。私もはっきりとした手ごたえを感じた。「このことって、他の誰かに言うつもりはありますか?」


「いや。言わないよ。お前も心の中にしまっといてくれ。ホストが浮気されてたってことにしといたほうが、意外性もあるしウケがいいんだよ。だから、俺があいつの本当の恋人だったってことを知ってるのは俺とお前だけで十分だ」


 男は冗談めかして指先を上下に動かした。「あとは天と地か」


「四知ですか」


「んん?」彼は目を見開いた。「お前、ずいぶんと物知りだな。ホスト向いてるぞ。どんな話題にも対応できるのは高ポイントだ」


「そんなまさか」後漢王朝の名臣、楊震の話を振ってくる女性がどれほどいるというのか。


「へりくだることないと思うぜ?」男は軽く手を挙げて言った、「んじゃ、俺これから仕事あるから。お前と話すの意外と楽しかったぜ。ありがとな」駅の方へ歩いていく男の姿は、本当に舞い上がっているように見えた。自分が本命の恋人だったということを完璧に信じたのだろう。


 私はさきほど、男の「ホストが浮気されるっていうのは意外性がある」という言葉を聞いたときに、ふとこう思った。


 ホストがストーカーというのはもっと意外性があるのではないか。




 去年の7月に明美が警察に相談していたのは彼のことだったのではないかと思う。それが相手にされなかったため、彼女は自分でストーカーに対処せざるを得なくなった。その方法が、相手に自分と付き合っていると誤解させることだった。合鍵を渡したのも、一緒に誕生日を祝ったのも、きっと彼女が編み出した対処法の一環だったのだろう。


 ストーカーの被害にあったとき、最も大切なのは相手の感情を逆なでしないことである。明美はこのことを何かしらのきっかけで知り、そのような無謀にも見える方法に出たのだと思う。


 しかし、先ほど彼と話した様子だと、実際に効果は出ているように思えた。あの男は明美を憎んでいるようには見えなかったからだ。もっとも、自分に付きまとう相手と恋人のように過ごすことで彼女がどれだけ苦しんだのかは想像に難くない。


「可愛さ余って憎さ100倍」という言葉があるように、愛憎は紙一重だというのはよく知られている。彼女がもしあの方法を取っていなければ、もっと早くに殺されてしまっていたのかもしれないと私は思う。


 私はどこかで色恋営業という言葉を聞いたことがあった。ホストが客に対して恋人のように接することで売り上げを稼ぐことだが、この場合は逆だった。客がホストに対して色恋営業をしていたのだ。




 ただ、いつ彼がストーカーである可能性に思い至ったかと言うと、それはついさっきのことだった。彼が写真を見せてきたときのことだ。直前まで彼が明美の恋人だったと思い込んでいた私は写真の日付を見て訝しんだ。


 彼女の誕生日は12月5日なのだ。


 あの男は彼女の誕生日が12月3日だと勘違いしているようだった。つまり、彼女は最初から自分の誕生日が12月3日だと教えていたことになる。なぜそうしたか。答えは単純だ。明美が一緒に誕生日を祝いたい人は、別に存在したのだ。


 彼女は彼と誕生日を祝うために嘘をついたのだろう。本当のことを言うと、それがかなわなくなると分かっていたからだ。普通は交際相手に「当日は家族と誕生日を祝いたい」と言われたら許してしまうものだろうが、彼はそうでなかったのだと思う。


 まず、私は最初に男が束縛の強い恋人だったのではないかと考えた。しかし、そう考えると不自然な点がある。彼が最初から騙されていた、という点だ。相手の束縛が強いことは、付き合ったあとしばらくしてから気になってくるものだ。一方で、相手の誕生日は付き合う前から知っているはずだろう。


 つまり、男と明美が恋人同士だったとすると、彼女は付き合いだして相手の束縛が強いということを知ってから、誕生日をごまかしたという妙なことになる。交際相手の行動に厳しい男が、付き合うまで彼女の誕生日を知ろうとしなかったとは考えにくい。


 やはり、明美は彼と付き合う前に嘘の誕生日を教えていたのだろう。この場合、明美は相手は自分の行動を縛ってくるタイプの男だと知っていて付き合ったということになる。これも妙なことだが、最初の仮説よりはまだ違和感が少ない。


 ここで思い浮かんだ考えが、彼女はあの男と付き合わざるを得なかったのではないか、というものだった。2人が出会った時期を聞いてみると、案の定7月よりも前だった。


 とすると、彼女は小野にも嘘をついていたのではないかという可能性が浮上してくる。あれは本当に心中未遂だったのだろうか。


 私は部屋の受話器を取り、実家に連絡した。私は彼女たちの転居先を聞きそびれてしまっていたが、母なら、もしかしたら知っているかもしれない。


7


 母の声を聞くのは正月に実家へ帰って以来のことだった。50歳を迎えようとしている普通の専業主婦だが、子供のことになると妙に鋭くなる。もっとも、どこの家でもそうだろうが。


「何の用? お金ならないけど」


「いや、明美姉のおじいさんの住所知らないかなって」


「なんでそんなこと聞くの?」


 案の定、母は反問してきた。ここが正念場だ。私は受話器を握りなおして、ぺらぺらと言い訳を並べ立てた。


「お墓参りをしたいんだ。今、明美姉のことが色々ニュースになってるだろ。それであることないこと言われて、あの人もあっちで困ってるんじゃないかな。それに、昔お世話になったし、俺も就活が終わってゆとりがあるしさ、今行っておいた方がいいんじゃないかと思ってさ」


「あることないことって」母は私の言葉を鼻で笑った。あきれた声が受話器を伝ってくる。「あることなんて一つもないわよ。まさかあんたまでテレビだの新聞だのに踊らされてるの? いくらお勉強だけできたって、そんなんじゃだめよ。人としてね」


「……そうだよね」


 私は声を詰まらせた。母も明美のことを信じているのだ。よく考えてみればあまりいいことではないのかもしれないが、私は今自分のしていることに少しだけ自信を持てた気がした。


「でも、相手方に断られたらすぐ帰るのよ。自分の孫をあんな風に言われたあの人たちが一番辛いだろうから」


「もちろん、分かってるよ」


「あとは事件のことを根掘り葉掘り聞くのもだめよ。できるだけ遠回しに、さりげなくね」


「そんなつもりはないよ。線香を上げてくるだけだから」


 私の目的がもうばれているのは分かっていたが、ささやかな抵抗をしてみた。すぐに「嘘おっしゃい」と母の声が飛んでくる。


「あんただって分かってるんでしょ? 明美ちゃんを助けてあげられるのが自分しかいないって」


 私は受話器を持ったままうなずいたが、すぐにそれでは向こうに伝わらないことに気づき、慌てて「まあ……」と答えた。やはり母は強かった。


「で、住所はどこなの? あと連絡先も分かる?」


「えーとそれは……ちょっと待ってて。探してくるから……いや、分かったら後でこっちからかけ直すよ」


「あー、そうだよね。うん、分かった」


 電話を切って、ため息をついた。私は3年前の彼女の葬式に行っていない。葬式があったのは1年生の7月だったが、その頃はテストが近づいていて忙しかったのだ。さらに、その時点で私は彼女たちと6年間会っていなかったというのもある。今となっては9年間だ。


 それなのに今更彼女の実家を訪ねて、事件についてあれこれと聞くのは虫が良すぎるのではないかという思いがくすぶっていた。ただ、それと同時に私でなければ彼女が心中を図った動機を解き明かせないのではないかという自負心もどこかにあった。


 母から連絡があったのは、私が電話をかけてから3時間がたったころだった。それまでぼんやりとゴールデンタイムのテレビを眺めていた私は、しばらく着信音に気づかず慌てて電話に出た。


 母は「住所は――。電話番号は――。おやすみ」とだけ言い、すぐに電話を切ってしまった。殴り書きしたメモを頼りに、私は明美の祖父の家へ向かうことを決めた。


8


 翌日、夕方頃に連絡を入れた。電話に出たのは明美の祖父だった。不審そうな様子だったが、母から連絡先を聞いたことや生前の明美との関係を話すと態度が軟化した。都合がよければ日曜日に来てほしいとのことだったので、私は彼の言葉に従うことにした。


 当日は10時ごろに家を出て、14時過ぎごろ明美の祖父の家に着いた。家からお墓までは距離があるそうなので、祖父が車で送ってくれるという。黒の軽自動車の助手席に乗った私に、彼は往時の明美のことを根掘り葉掘り尋ねてきた。彼女について知ろうとしていたのは私だけではなかったことに、このとき初めて気づいた。


「そうか……。あんな事故に遭ったっていうのに全然変わってない。不思議なくらいだ……」


 私が小さい頃、明美に連れられて彼女の友達と遊んだりしたことやいじめられていた伸介に泣きながら謝っていたことを話すと、彼女の祖父はぽつりとそんなつぶやきを漏らした。


「明美さんからはお聞きにならなかったんですか?」


「ああ。私たちで引き取ってからは昔のことを聞かないようにしてたんだ。あまり事故のことを思い出させたくなかったからね。あの子が死んでから初めて教えてもらったよ。皮肉なことだけどね」


「それはそうですよね。大変な事故だったみたいですから」私は相槌を打った。「ところで、こちらに来てからのお孫さんはどんな様子でした?」


「たぶん、君の想像している通りだよ。活発で笑顔を絶やさない子だった。弟思いでね。明美の友達もいい子たちばかりだった。明美が殺されたときは私たちの代わりにマスコミからの質問に答えてくれたんだ。老いさらばえて遠出もままならなくなった私たちのために明美の職場に聞き込みに行ったりまでして、あの子が東京に行ってからの歩みを教えてくれた」


 まっすぐ前を見ながら話す彼の声はあくまでも淡々としていた。感情を抑えているのではなく、感情が抜け落ちてしまったかのようだった。


「河本さんもご自分で調べたりなさったんですか?」


「テレビだとか新聞を時たま見る程度でね。東京まで行く気力なんてなかったよ。もう年だからね。それに調べたところで、警察も分からないことが私たちに分かるはずないんだ」彼はそう言うと、車を止めシートベルトを外した。いつの間にか、寺に着いていた。「ここだよ。2人の墓があるのは」


 私たちは寺の裏手に回った。山を切り開いたところに墓地があり、河本家の墓はその中腹にあった。


「ここに、私の息子夫婦たちがいる」


 新しくてきれいな墓だった。縦長の御影石に「河本家之墓」と刻まれている。隣の墓誌にふと目をやると、明美の隣に伸介の名があった。先ほど聞いた「2人の墓」という言葉は私の聞き間違いではなかったようだ。


「伸介さんはどうして……」


 命日は2000年の3月7日となっていた。あの事件が起こる3か月ほど前である。


「食事をのどに詰まらせたんだ。伸介は事故の後遺症で体が上手く動かなくて、車いす生活だったからそのままね……」


「……すみません。嫌なことをお聞きしてしまいました」


「いいんだ。気にしないでくれ」


 私は彼から線香を受けとり、ライターで火をつけた。金網の上に乗せると、空へ煙が立ち上っていった。彼女は向こうでどうしているだろうか、弟には会えただろうか。そんなことが何となく心に浮かんだ。……今、私はかなり真相に近いところに立っているような気がする。


 私は紙袋からクッキーの入った箱を取り出し、明美たちの墓前に供えた。墓石の前に屈みこみ、手を合わせて彼女たち家族の冥福を祈った。




 墓参りを終えたあと、私は彼の家へ案内された。事故に遭う前の明美たちについて、私からもっと聞き出したいのだろう。私も機を見て、こちらに来てからの彼女たちの様子を知っておくつもりだ。


 瓦葺の大きな家だった。漆喰で塗り固められた2階建ての威容は老舗の旅館を思わせた。明美の祖父について室内へ入り、三和土で靴を脱ぎそろえた。居間の隅には仏壇があり、4人の遺影が飾られていた。写真の中の明美は制服を着ており、伸介の写真は小学生の頃のものだった。


「わざわざあの子たちのお墓参りに来てくれてありがとうね。こんな田舎まで来るの、大変だったでしょう」


 明美の祖母がテーブルの上に湯呑みを置きながら言った。私は「いえ」とかぶりを振る。


「私こそ明美さんや伸介君とはしばらく会っていなかったというのに、いきなりお墓参りをしたいだなんていうわがままを聞いて下さりありがとうございます」


「そんな。明美たちが事故に遭う前は仲良くしてくださっていたんだから、何年会っていなかろうが、あなたが来てくれてあの子たちもきっと喜んでるわ」


「そうでしたら、私も嬉しいです」


 私は愛想笑いを浮かべながら、湯呑みを手元に引き寄せた。私の向かいにあぐらをかいている明美の祖父が口を開いた。


「明美は、事故に遭う前も誕生日会をやっていたのか?」


「ええ。学校の友達を呼んだりして。私も毎年のように呼ばれてました。毎年10人ぐらいだったと思います。彼女が中心にいて、すごく華やかな会でした」


 私がそう答えると明美の祖父はうなずき、私にもお茶をすすめながら自分の湯呑みに手を伸ばした。彼がお茶を飲み終えるのを見計らって、今度は私の方から尋ねる。


「明美さんが亡くなる前の年ですけど、やはり誕生日はこちらで祝われたんですか?」


「ああ、わざわざ当日に帰ってきてね。4人で小さいケーキを分けて食べたんだ。ささやかなものだったけど……」


 彼女の祖父は目頭を拭った。明美と小野の写った写真の日付が12月4日だったのは、彼女の都合が合わなかったからなのだ。きっと、彼女は家族と誕生日を祝うために、あのホストと男に自分の誕生日が12月3日、4日であると嘘をついたのだろう。


「あとは明美たちと遊んだときのことも、覚えてる範囲でいいから教えてくれないか?」


「ええ、もちろん」


 私の記憶の中ではほとんどの場合、明美は伸介とともにいたので、明美について話すことは伸介の思い出を語ることでもあった。


 細かい質問も挟んで、私たちは1時間近く話しつづけた。話題の切れ間に、彼は立ち上がって奥の部屋へと引っ込んでいった。とりあえず私がそのまま待っていると、明美の祖父はメモ帳とファンデーションを持ってきた。


 彼は再び座布団の上にあぐらをかくと、メモ帳を開いて私に尋ねてきた。「君はこっちに来てからの明美のことを聞きにきたんだろう?」


 私が曖昧にうなずくと、彼は続けた。


「これは明美の友人たちが調査したことのまあ、言ってしまえば報告書のようなものだ。彼女たちが私にくれたんだ。役立ててくださいって。でもね、明美がどうして心中なんてしようと思ったかを推しはかるには、私たちじゃ少し辛いものがあるんだ。主に体力的にね」


「なるほど……」


「だから、君に託したいんだ。君も最初からそのつもりできたんだろう?」


 私は何も言えなかった。まさにその通りだったからだ。それを肯定と受け取ったのか、彼は私の方へメモ帳を差し出してきた。私はそれを両手で受け取り尋ねた。


「そちらは?」


「これは明美の遺品だ。警察が引き上げたあと、私たちが部屋の整理をしていたら本棚の裏から見つけてね。警察に相談したら、さして重要なものとも思われなかったのか、そのまま持って帰ってもいいことになった。よく分からないけど、これにはあの子の思いが詰まっているように思えるんだ……」


 明美の祖父はファンデーションを大事そうに手のひらに乗せ、そこに視線を落としながら答えた。私はあのときの部屋の様子を思い出す。化粧ポーチに入っていたのは口紅と化粧水だけだった。そのときは写真にない部分は想像で補完したのだろうとしか思わなかったが、今、男の意図がやっと分かった。


 あれは、ファンデーションが無くなっていたことを再現していたのだ。そして、口紅と化粧水が入っていたということは、化粧ポーチが空ではなかったということなのだろう。


 おそらく、明美がファンデーションだけを本棚の裏に隠したのだろう。警察の現場検証では発見されずに残っていたものを、私の目の前にいる彼が見つけたのだ。明美はなぜそんなことをしたのだろうか? そして、小野はどうして化粧ポーチの中などを見たのだろうか?


 あと少しだ。あと少しなのだが、もう一押しが足りない。答えは濃いもやの中に覆い隠されている。あと数歩だけ進むことができれば触れることができるのに……。


 霧の向こうに制服を着た彼女の影が見えたような気がした。


9


 気づくと、土曜日になっていた。彼女の祖父の家から戻ってきて1週間が経とうとしている。最近は気を抜くとファンデーションの謎について考えているようになってしまった。


 誰かに協力を求めるなどということは考えられなかった。彼女はどうして殺されなければならなかったのか、私が明らかにしないといけないという義務感や責任感があったのだと思う。私は彼女の家族と友人の思いが詰まったメモ帳を託されているのだ。


 あれからというもの自分の部屋にこもり、私は彼から受け取ったメモ帳を何度も読み返していた。3年以上前のものとあって、入学時に買ったポケット六法と変わらないぐらい、メモ帳の側面は手垢で黒ずみ、紙はよれてしまっている。


 胸ポケットに収まるほどのサイズの紙面には、関係者の証言だけでなく明美の友人たちの推論など様々な情報がびっしりと埋められていた。


「大人しくて、仕事熱心な、まあ、いい子でしたよ。男性たちからの人気は高かったけど、社外に恋人がいたみたいです。会社ではプライベートの話なんてほとんどしなかったんじゃないかな。でも、病気の弟さんがいたというのは聞いたことがあります。彼の話をしているときは本当に楽しそうで、息子の自慢話をする母親みたいな様子だったのが印象に残ってます」


「私、あの子にストーカーがいるって相談されたことがありました。いつだったかな……。確か11月ぐらいだったと思いますよ。警察に相談したらって言ったんですけど、ちょっと話を聞いて欲しかっただけだって。でも、こんなことになるんだったら無理にでも警察に連れていけばよかった」


 私は彼女の元同僚たちの証言が書かれたページをことさらに読み返していた。このページだけ少し開きやすくなっていたからだと思う。明美の祖父母が読んだのだろう、涙の跡が残っているページも多かった。


 そして、証言に出てきたストーカーの正体はすでに分かっている。小野だ。彼女の言っていた恋人の正体も分かっている。小野とあのホストだ。


 彼女にはストーカーが2人いたのだと思う。1人目がホストの男で、2人目が小野だ。明美は7月に、1度警察に相談して無下な扱いを受けていた。それで、小野にも1人目と同じ対応をとったのだろう。


 だが、もちろんそんな生活をいつまでも続けられるはずもなかった。きっと、平日は仕事でつぶれ、土日はストーカー2人とのデートでつぶれていただろうから。


 そしてある日、限界を感じた彼女が頼った相手が、ストーカーの証言をしている同僚だったのだろう。おかげで少しだけ肩の荷が下りた彼女は、12月5日の自身の誕生日まで頑張ることができた。最愛の弟に会うために。


 外の風に当たりたくなって、私は1度ノートを閉じて立ち上がった。玄関で靴を履きおえたとき、ちょうど電話が鳴った。受話器をとると、友人の声が聞こえた。


「あーやっぱり家にいたか。お前、今日俺んちで卒業旅行の打ち合わせするの忘れてただろ。佐藤はもう来てるぞ。振られて籠りがちになるのはわかるけど、たまには外に出てみるのもいいぜ?」


「すまん、普通に忘れてたわ」私が謝ると、友人は怒るよりもほっとした様子で「具合悪いわけじゃないんだろ? さっさと来いよ」と言った。


「了解」私は短く答え、こう続けた。「あと、自慢じゃないが俺は今までの人生で一度も振られたことがない」


 彼が鼻で笑う声を聞き、私は電話を切った。




 アパートに着きチャイムを鳴らすと、中から「開いてるぞ」と声が聞こえてきた。玄関には数足の靴が適当に脱ぎ捨てられている。さっき電話をかけてきた男がこの部屋の主である。彼は井伊といった。下の名前は良と書いてりょうと読む。自己紹介のときは毎回ふざけて「いい いいです」というのがお決まりだった。


 私が部屋に入ると、彼は首筋をさすりつつ、ふすまから座布団を引っ張り出し乱雑に床へ投げ出しているところだった。「座れ」と言って、自分も座布団へ腰を下ろした。


 男子大学生のご多分に漏れず、井伊の部屋は片付いているとは言い難かった。


「お前、そろそろ部屋の整理したほうがいいんじゃないか?」と私が何気なく口に出すと、もう1人の友人、佐藤が井伊の代わりに私へ教えてくれた。金髪にピアスという派手な出で立ちとは裏腹に、生真面目な性格だった。彼の部屋はいつ行ってもきれいに整頓されている。


「こいつ、昨日彼女が来るからって片付けたばっかりらしいぜ」


「それでこれかよ」


「るせーな。山田、お前も人のこと言えるほど部屋はきれいにしてねえだろ」


「ま、確かにな。で、お前、さっきから首どうしたんだよ」


 井伊は黙って首から手を離した。唇の形のあざがついている。


「洗っても落ちねえから不思議に思ってたんだけど、キスマークって口紅じゃないんだな」


 その瞬間、霧が晴れた。私は素早く立ち上がると、「どこに行くんだ」と言う2人を無視して井伊の家を飛び出した。


10


 小野には心中の動機はなかったのだと思う。だが、明美と一緒になら死んでも構わないと思っていた。彼はそれぐらいには彼女を愛していたはずだ。一方で、明美にも彼と心中する動機はなかった。


 彼女の目的は、自分だけが死ぬという形で心中を失敗させることだったのだと思う。彼女は3月に亡くなった弟の後を追おうとしていた。だが、単にそうするわけにはいかなかった。明美は小野が自分の後を追ってくることを強く恐れていたからだ。


 目的を達成するために、彼女がやらなければならないことがいくつかあった。まず1つ目が、ファンデーションを簡単には見つからない場所に隠すことである。どうしてそんなことをしなければならなかったのか、遺品を明美の祖父に見せてもらって以来ずっと考えていたが、今日になってはじめてその理由が分かった。


 3年前、明美は自宅アパートで絞殺死体となって発見された。そのとき首元にはおそらく紐が巻きつけられたことによる痕が残っていたのではないか。彼女はそれを隠せないようにしたのだ。


 明美が小野に自分を紐か何かで殺すように頼んだのだろう。そして、彼は言われた通りに実行した。小野が彼女の首に痕が残ることを事前に予期していたかは定かではない。ただ、どちらであっても彼が化粧台の引き出しを確認したのは間違いないだろう。


 小野が12月4日と6月4日の部屋の様子を見比べたとき、決定的に違っているところが2つあったからだ。1つは明美が死んでいることだが、これは小野も受け入れていたと思う。死なずに心中するのは至難の業だ。


 彼が引き出しをのぞいたのは、2つ目の問題に対処するためだった。部屋の中が半年前の誕生日会と完全に一致していたせいで、明美の遺体に残った首の痕が異常に存在感を放っていたのだ。だがあるときまで、これも大した問題ではないはずだった。ファンデーションで上から覆い隠してしまえばいいのだから。


 明美が女性である以上、化粧道具を持っていないはずがないのでそんなものはすぐに見つかるはずだったが、予想に反してそれだけが見つからなかった。そのままの状態で後を追うこともできただろうが、彼は細かいところをやけに気にする人間だった。明美は彼のそんな性分まで利用したのだ。


 結局、どこをいくら探してもファンデーションやそれに類するものは見つからず、小野は部屋を後にするほかなかった。彼は玄関から入り窓から出ていったのだ。写真と凶器の紐を持って。


 恐らく、ファンデーションが隠されていたことで、小野も明美が自分を愛していなかったどころか、彼女が自分を嫌っていたことに気がついたのではないだろうか。明美の言葉がファンデーションを借りて男に伝わったのだ。「もうついてこないで!」


 その瞬間、彼の愛情は一転して憎悪となった。


 小野は死んだ彼女への復讐のために、わざわざ105号室へ引っ越し、3年をかけて当時の部屋の様子を再現したのだ。その復讐というのが、世間に2人の死が恋人同士による心中だったと思わせることだった。そして、それは成功している。現時点では。


 確かに、ストーカーと自分が恋人だったかのように噂されるのは誰しも嫌だろう。だが、この場合はあまりいい方法だったとは言えない。


 わざわざ明美が部屋にケーキやこたつを用意して、半年前の誕生日会に見立てたのは小野にすぐ後を追わせないための工作だったからだ。現に彼は復讐のために3年をかけていた。この仕掛けを生かすために、彼女は6月4日にあの事件を起こしたのだ。1日早くても1日遅くてもいけなかった。


 きっと、弟が死んだときに彼女は生きる気力を完全に阻喪したのだと思う。それから、このために3か月をかけて前年12月の誕生日会の様子を部屋に再現していった。明美がしていたという数万円の借金は、その計画で少し足が出てしまったことが原因だろう。


 この奇妙な事件は彼女の「後追い他殺」であり「計画的自殺」であり、彼の死者に対する復讐だった。


 彼女が本当に愛していたのはホストでも、配達員でもない。不慮の事故で大やけどを負い、後遺症を患っていた弟だったのだ。明美は最後までずっと弟思いの姉だったのだと私は思う。


 そして、彼女は家族に、友人に愛されていた。それだけに、最後に1つだけ疑問が残った……いや、答えを求めてなどいないし、答えられる存在があるとも思えない。言うなれば、それは単なる私の慨嘆だった。


 どうして、彼女のような聖女があんなに陰惨な人生を歩まなければならなかったのでしょうか……。


後味の悪い話でごめんなさい。次はもっと気持ちのいいものを書けるように頑張ります。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 3年後の小野の自殺の動機がセンセーショナルでした。ある意味で純愛である意味で復讐で、人間の狂気を感じます。
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